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雅久はまるで何事もなかったようにいつもの状態だった。清方も義勝も首を捻るばかりだ。それでも義勝は9年間共に生きて来た彼が戻って来たのが、医師にあるまじきと思いながらも嬉しいと思ってしまう。
昔の雅久は深い苦しみの中にいた。全ての記憶を失って彼は本当に幸せに生きて来た。家族に包まれていた。武と夕麿の秘書を選択した時は驚いたが、毎日を多忙に動いている事が、舞にも深みと厚みを与えているのは確かだった。
「義勝…あの…」
二人だけになって、雅久は不安そうに口を開いた。
「どうした?」
「その…武君の声がしたような…」
「ああ…」
雅久の状態を確認している間にいつの間にか、武が病室から姿を消していた。義勝には理由が容易にわかってしまった。武が人間関係に臆病なのは今では夕麿が、全面的にフォローしているので目立たなくはなっている。しかし本当は今でも人見知りが激しく、時としてその場所から逃げ出すところがある。
「お前が一時的に過去を思い出していた話をしただろう?」
「はい」
「武がまだ生徒会に加わったばかりで、しかも夕麿が武を避けていた頃の状態だったんだ」
「私は何を?」
救いを求めるように雅久は義勝の白衣を掴んだ。
「退院したお前を武は喜んだ。だがお前は……兄と呼ばれる事を拒否をして距離を取ったんだ……」
「距離を……取る?」
「お前は御園生邸を…家を出たいと」
その行為がどれだけ武を傷付けたのか。病院に勤務する義勝にはわからない。舞楽の事を頼みに来た日まで武との接触はなかったのだ。
「ああ…何という事を…」
武は小夜子とずっと二人きりで成長した。出生の秘密もあってさほど親しい相手を作れずに。御園生の養子になった日、武がどんなに喜んでくれたか…雅久ははっきりと記憶している。身分の低い自分を『兄』と呼んでくれて本当に慕ってくれた。記憶がない雅久にとってどれだけ救いになっただろう。
「武はまた、お前に拒否されるのが怖かったのだろう」
傷付けてしまった。その事自体を覚えてはいなくても、繊細で優しい武を傷付けた事実は消せない。きっと…今回の事故自体を自分の責任だと思っている筈だ。申し訳なさに胸が詰まる。
「今頃はきっと夕麿が取り成してくれている」
「でも…」
「大丈夫だ。今は自分の事を気にしてろ」
彼の異母兄が振るった暴力で、雅久は頬に打撲傷と右手首の捻挫を負っていた。顔も手首も内出血が残らないように既に血液を抽出してある。それでもどちらも腫れが酷く、きちんと完治させる為にしばらくは入院が必要だった。
「この怪我はあの事故のものではないのでしょう?」
「別の事故のだ」
「別の事故?」
「駐車場で…突然、 動いた車に接触して倒れたんだ」
本当は嘘は吐きたくない。だが雅久の二人の異母兄という存在自体が、彼にどのような影響を与えるかわからないのだ。ましてや暴力を振るわれた事で雅久は死にかけた。危険を回避する為の処置として、今回の怪我は接触事故によるものとする決定がされた。今頃は清方や周を通じて全員に伝わっている筈だ。
「記憶の混乱を防ぐ為、当分の間は面会謝絶の指示が出てる。いろいろと気にはなるだろうが今は治療に専念しろ」
そう言うと義勝は椅子から立ち上がった。
「どこへ?」
とっさに白衣を掴んで引き留めてしまった。
「雅久?」
「あ…ごめんなさい…」
義勝はその手をそっと握って口付けをした。
「今日の勤務はとっくに終わってる。更衣室で着替えて来るだけだ」
優しく言った彼を見送って、雅久は今しがたの自分の行動に戸惑いを感じていた。義勝がここを出て行って戻っては来ない気がしたのだ。
何故、そんな事を思ったのかわからない。だが胸が詰まって痛い。側にいて欲しい。抱き締めて欲しい。不安で不安で…呼吸すら苦しい。涙が溢れて来た。心の中は悲しみでいっぱいだった。
病室に時計はない。仕事以外では腕時計はしないから、当然ながら時間の流れはわからなかった。義勝が出て行ったのはつい先程のような気がするし、随分時間が経過したようにも感じる。早く戻って来て欲しい。自分を置いて何処かに行かないで。
夕麿が武を失っては生きてはいけないと言う気持ちが今の雅久には痛い程わかった。義勝がいなくなってしまったら、この先の人生をどう歩いて良いのかわからない。真闇の中に一人で投げ出されるようなものだ。紫霄の附属病院で目覚めたあの日から、義勝はずっと側にいてくれた。アメリカから帰国して選択した職業こそ違えども住む部屋は一緒だった。それは何も変わってはいない。
なのに何故にこんなにも不安なのだろう。原因がわからない事が一層、雅久の気持ちを不安に駆り立てた。
義勝は足早に特別病棟へと歩いていた。職員用更衣室とは別に、一階の奥に義勝たち御園生家関係者の部屋がある。到着してまず清方に雅久の状態を報告した。今でも雅久の主治医は清方に依頼している。ずっと彼が主治医だった事と義勝にはまだ自分の感情を制御して、雅久の治療に向かえる自信がなかったのだ。
その後、急いで白衣をクリーニングのカートに入れて着替え、人気のなくなった受付の前を歩いていた。すると内科医が自分の担当患者の事で義勝に声を掛けて来た。質問に幾つか答えて、改めて明日の午後に患者のカウンセリングを行う約束をした。内科医がいなくなって腕時計を見ると30分余りの時間が経過している。精神的に不安定になっている雅久を今、一人きりでいさせるのは良くない。今夜は同じベッドで眠って、少しでも安心させるつもりであった。
それなのに……こんな時に限って呼び止められ時間を取られてしまう。急ぎ足で進みながら御園生邸に電話を掛けた。小夜子に明日の午後に雅久の見舞いを依頼する。
「すみません…お義母さん。お忙しいのはわかっているのですが、午後の回診をしなければならないので」
義勝は現在、外来は担当していない。週に3日、病棟を回診して入院患者と会話する事。手術前後の患者や家族のカウンセリング。癌患者のカウンセリングなどを含めた、心のケアを必要とする患者が彼の担当だった。明日の午後はその回診の日で、それだけは勤務しなければならなかった。
だが雅久を一人には出来ない。彼を思い遣り愛情で包んでくれる存在は小夜子しかいなかった。小夜子は義勝の依頼を快く承諾してくれ、取り敢えずホッと胸を撫で下ろした。
清方は言った。不安定と昔の記憶を取り戻していた時の義勝の雅久に対する迷いは、恐らくは深い部分で繋がっていると。記憶を失う前の雅久には、いつかは義勝との別れが来るという想いがあったのではないか。
紫霄学院から出られなかった、義勝。
性的虐待を繰り返す異母兄たちに、最後は殺されてしまうのではないかという恐怖。
義勝の戸惑いは雅久が元から、持っていた不安を増長させてしまった。そのピークが異母兄たちの出現と暴力だったとしたら……御園生への養子入りも彼らには通じてはいなかった。義勝に見捨てられ再び戸次家に連れ戻されれば、今度こそ生命は失われてしまうかもしれない。9年前の夏の想いと重なっていた可能性を電話の向こうで清方は示唆した。
もしも…武を傷付けた上に御園生邸から出てしまった事が、自分が捨てられる不安を煽っているのであれば……雅久の側にいなければならない。
部屋へ戻ると雅久は一人で泣いていた。
「どうした?頭が痛むのか?それとも怪我が?」
慌てて駆け寄ると雅久はまだ点滴の針が刺さったままに腕を差し出した。
「義…勝…胸が…痛いのです…」
「胸!?」
とっさに思い浮かんだのは、不整脈を起こして生命の危険が心配された事だった。差し出された左手首の脈をとる。幾分弱くはあるが乱れは感じられない。
「脈拍に乱れはないが…心電図を…周さんはまだ院内にいたかな?」
内科の簡単な診察は出来るが心電図を診るまでは出来ない。雅久がまたあんな状態になったら…… 恐怖が競り上がって来る。
「義勝…義勝…お願いです。私の話を聞いてください」
手を掴んでひき止めた。
「違うのです…具合が悪いじゃありません。あなたが…いないのが不安で…怖くて…」
見上げて来る雅久の瞳は、恐怖と怯えの色に染まっていた。義勝はそっと雅久を抱き起こした。
「すまない…途中で内科医に捕まってな。それで遅くなったんだ。一人にして悪かった」
「義勝…お願いです…私を…捨てないで…」
義勝は息を呑んだ。事故からこっちそういう意味で雅久には触れていない。記憶が戻った雅久は今の義勝には、遠い記憶の中の別人だった。頭では受け入れていても、身体と心の何処かが受け入れられなかったのだ。表面的には優しくされても、自分は拒否されている。過去の辛い記憶の中の雅久には、既にギリギリだったのだろう。記憶はまた脳の何処かに封印されても不安や辛さからわき起こる恐怖が表面に残されたままだった。
「俺とお前は夫婦だ。生涯を誓っただろう?」
そう言って義勝は治療の為に外した、雅久の結婚指輪を彼の左手の薬指に戻した。事故でここに搬送された時に、外して預かったままになっていたのだ。記憶が戻っていた雅久に、御園生への養子入りと結婚の話はした。だが義勝はたった今の今まで、指輪の事をすっかり失念していたのだ。それだけ事態に対応出来ていなかった訳だが雅久にはわからなかった筈だ。
「お前に返すのを忘れていた」
それでもなお雅久の眼差しは不安に揺れていた。
義勝はほぼ終わりの点滴の針を抜いて、ガーゼで止血してから雅久をベッドサイドに立たせた。着せられていた治療衣を剥ぎ取る。代わりに雅久の夜着を肩に掛けた。
「武が持って来てくれたらしい」
厚く固い布地の治療衣では……と考えてくれたらしい。治療衣の下には何も着ていない。集中治療室では通常の衣類は邪魔なのだ。
雅久は慌てて前を合わせた。すると義勝がニヤリと笑った。次いで胸元に手を差し入れ、左側を少々強く掴んだ。
「あッ…!」
思わず仰け反って甘い声をあげてしまう。
「もう一つ忘れ物だ」
ポケットから出したボディピアスを側にあるアルコール綿で、綺麗に消毒して雅久の目の前に差し出した。
「ぁあ…」
それだけで全身が熱くなり震え出す。
「ああ、こっちも消毒しないとな」
義勝はそう言うとおもむろに、胸元を開いて乳首にむしゃぶり付いた。
「ひッ…ヤ…ああ…」
ゾクゾクと快感が胸から広がり、身体の中心へと集中していく。もう立っていられない……と思った瞬間、唇が離れた。指が乳首を掴み、冷たい金属が触れた。パチリ…とピアスが止められた。
「義勝…」
悦びが込み上げてくる。雅久にとって結婚指輪は愛を誓った証であり、胸のピアスは愛しい人の愛情に繋がれた証。双方が揃わなければ意味をなさない。
「抱いて…ください」
すがり付いて請う。
「いつものようにはここでは出来ないぞ?」
「それでも…構いません…」
愛しい人の熱が欲しい……雅久の願いはそれだけだった。
美しい恋人にすがって請われてどうして抗う事が出来るだろう。義勝はそのほっそりとした身体を抱き上げて、壊れ物をあつかうかのようにそっと横たえ、自らもシャツを脱ぎ捨てる。
「義勝…義勝…」
喘ぐように呼ばれて、一気に欲情の炎が燃え上がった。脚を大きく開かせて間に割り込む。荒々しく唇を貪り、首や胸元に口付けをする。右側の乳首を含んで思う存分嬌声をあげさせ、左側はたった今、付けたばかりのピアスを噛んで引っ張った。
「ぁひィ…ダメぇ…」
悲鳴をあげながらも雅久は腰を揺らす。
「イヤ…ああッ…痛い…」
雅久は激しく首を振って嫌がる。長い髪がシーツに舞い乱れる。壮絶なまでの妖艶な美しさに、見慣れている筈の義勝が息を呑んだ。ようやく苦痛から解放されて、雅久は大きく息を吐いた。
我に返った義勝はゆっくりと身体をずらせた。やおらに蜜液を溢れさせている、雅久のモノを握った。美しい者は全身の造形もまた、美しく神が創ったとしか思えない。
「痛がっているわりにはこっちはビンビンだな?」
「ああ…許して…」
「淫らな奴にはお仕置きが必要だろう?違うか?」
怪我に影響がでない形で、雅久の望みを叶えてやりたいと思う。
「…お仕置きを…してください」
いたぶられる期待に声が震える。苦痛が快感になる自分の身体を忌まわしくは思う。だが義勝はいつもその望みを叶えてくれる。彼は先程まで着けていたネクタイを手に取った。
同時にもう一つ幅が広い包帯を手にし、見せ付けるようにしてネクタイを欲望に震えているモノに、巻き付けてしっかりと縛り上げた。
「ああッ痛い…イヤや…堪忍して…」
身悶えする雅久を煽るように、ソレを口に咥えて舐めしゃぶる。
「ひぁ…ン…ああッ…」
塞き止められた欲望が体内で渦巻く。与えられない絶頂を請うように、腰を浮かして更なる刺激を求め押し付けるように動く。
「ああ…ンぁ…ふ…あン…」
もっと…もっと、と身体は渇望する。
義勝はその様子をたっぷりと楽しんで、おもむろに口を放した。
「あッ…イヤや…止んといて…」
イかしてはもらえないのはわかってはいるが、それでも途中で投げ出された焦燥感は変わらない。
そんな雅久に対して満足げな笑みを浮かべた。手にした包帯で目隠しをする。これは所謂いわゆるソフトSMと言われるものだ。道具もなく雅久は怪我人でも常の二人の愛し合い方に近付ける為に、義勝の精一杯の知恵だった。
愛する人が求めるならば……
全ては愛する人の為に……
義勝の愛はそれが原点だった。
「雅久、愛してる…俺はお前だけを愛している。 一緒に生きて行こう…」
耳許に囁いた。
「私も…私も…義勝、あなただけを愛しています」
紅の唇から紡がれる言葉も…熱く甘い吐息も全てが愛惜しい。 その想いを全てぶつけるように、口付けて口腔の甘さを味わった。
「ふ…ン…ぁふ…」
その間も切なげに腰を揺らし、縛められたモノを擦り付けて来る。
「ああ…義勝…もう、ください。あなたが欲しい…」
愛しい人の熱を身体の奥深くで感じたかった。愛されているともっと実感したいから、彼のモノを受け入れて一つになりたい。
義勝は夜着と一緒に入っていたジェルを手にした。念入りに塗り込めてから、様子を見ながら指を差し挿れていく。
「はぁ…ンふッ…あああ…」
蕾は待ち構えていたように開き、中は誘うように収縮して絡み付く。
「凄いな…指に吸い付いて来るようだ。悪い奴だな…お仕置きされて悦んで」
「ごめんなさい…」
目隠しされて見えない事がかえって、羞恥心を扇ぎ感覚が増す。
「ああ…あン…あはぁ…義勝…ぅン…」
最も敏感な部分を敢えてそらされて、もどかしさにどうにかしようとして腰を突き上げる。 義勝はわかっていて当たらないように動かす。 動かせる左手で枕を掴んで、雅久は悶え狂う。 身悶えする様をずっと眺めていたい気もするが、今度は義勝が耐えきれなくなって来た。
あの事故からずっと雅久には触れていない。自分でどうにかする気にもなれず完全な禁欲生活だった。雅久以外を欲しいとは思わないのだ。
「やァ…!」
指を引き抜かれると、奪われた刺激を求めて悲鳴が漏れる………が、すぐに確かな熱を帯びたモノがあてられた。全身が期待に戦慄き、蕾が招くように収縮する。
「ひィィィィ…!!」
無言で一気に貫いた。引き裂かれるような苦痛に、白い四肢がガクガクと痙攣する。無論、十分に解してある。傷を付けるような真似はしない。苦痛を雅久の身体は快感に直結させてしまう。
「ひィ…ああッ…あああ…!!」
身体の奥深くを貫かれたまま、雅久はシーツの上で快楽にのたうちまわる。
「くッ…」
中が絡み付いてうねって、思わず引き込まれそうになる。 義勝は歯を喰い縛って耐えた。耳朶を甘噛みすると、甘い声をあげてすがって来る。
「ああッ…ンぁ…や…はァン…」
強く抱き締めると嬌声が耳をくすぐる。 夢中になって腰を打ち付けるように、激しく抽挿を繰り返す。
「義勝…もう…イかせて…」
両脚を絡めて縛められたモノを擦り付けて強請る。 義勝は胸のピアスを引っ張りながら答えた。
「俺が一度イってからな」
「そんな…」
紅の唇からは戸惑ったような肥が漏れた。しかし言葉とは裏腹に、中は更に収縮してとらえたモノを放さない。義勝はピアスをもっと強く引っ張って意地悪く告げた。
「本当に嫌なのか?その割には凄い締め付けだぞ?」
そう言って腰を引いた。
「イヤや…抜かんといて…」
「ならば我慢出来るな?」
「ああ……堪忍して……もう…許して」
「何を許して欲しいんだ?」
言葉の隙を突いて羞恥心を煽ると雅久は息を呑んで唇を噛み締めた。それを見た義勝は返事を促すように、浅い部分で軽い抽挿をする。
「あッ…イヤ…そないなとこ…」
もどかしさに腰が刺激を得ようと揺れる。 するともっと腰を引いてはぐらかす。
「義勝…義勝…」
啜り泣くような声で呼ばれて、義勝は唇を軽く重ねて更に問い掛けた。
「淫らだな、雅久。 俺はお前にお仕置きしているんだぞ?」
「ああ…堪忍や…許して…」
「何を許して欲しい?」
「み…淫らで…浅ましい…私をどうか…罰してください」
羞恥と期待の双方に、雅久の声は震えていた。
「お仕置きをして欲しいんだな?」
ピアスを引っ張って催促をすると、雅久はゆっくりと絡めていた脚を開いた。義勝はわざと自分のモノを引き抜くと雅久の行動を眺める。 両脚を大きく開いて、左手で蕾が見えるように開いた。
「どうぞ私の淫らな身体を…使こうてください。私は…あ、あなたが満足しはるまで…罰を…受けます…」
「お前が俺を満足させてくれるのか?」
「………へえ……」
雅久は消え入りそうな声で答えて起き上がった。代わりに義勝が横たわる。 無論、目隠しはしたままだ。手探りで位置を確かめ跨がった。 義勝のモノをあてがい、腰を落としてゆっくりと呑み込んでいく。
「ひァ…大きい…ああ…来る…奥まで…凄いのが…挿って来る…」
少し頭をもたげて見ている義勝からは、彼の太股は痙攣しているのがわかった。両手を伸ばして腰を掴み、一気に引き下ろした。
「きゃぁあああ…!!」
衝撃に悲鳴をあげて仰け反った。 縛められていなければ吐精していたかもしれない。 義勝のモノを締め付けたまま、身体を震わせている雅久の尻を平手打ちした。
「ひィッ…」
痛みに雅久が我に返った。
「お前だけ感じてるな」
「堪忍……堪忍して……」
「ちゃんと俺をイかせないと、いつまでもコレを解いてやらないぞ?」
うっかり解いてしまわないように気を付けて、縛めているネクタイを引っ張った。
「ああッ…ちゃ、ちゃんとするさかい……」
容赦がなければない程、雅久の官能は高まり、最後には強い快感を得る。
「ぐずぐずしていた罰だ俺が二度イくまでこれは解かない。 ほら、早く解いて欲しいなら頑張るんだな」
腰を突き上げて催促する。
「へ、へえ…」
右手が使えない雅久の為、義勝は細腰に手を当てて倒れないように軽く支えた。舞踊家である雅久は基本的に足腰が強い。本当はこれくらいで倒れたりはしない。だからこれは彼の愛情の現れだった。
そろそろと腰を持ち上げ下ろす。
「ンぁ…ああ…ふァ…ああ…」
義勝を満足させる。 悦楽に次第に陶酔して、夢中で腰を上下して悶える。 封じられた絶頂を求めるように、中が熱を帯びて絞るように激しく収縮する。
「ぁあ…イイ…もっと…もっと…」
快感に溺れて腰を振る姿に義勝も、次第に追い上げられていく。 雅久の動きに合わせて突き上げ、欲情が加速する。
「雅久…イくぞ…」
「ああ…来て…私ん中に…ぎょうさん出して…」
体内のモノが更に脹れあがり、ますます快感が強まる。
「くぅッ…!!」
「ああッ…熱い…熱いのが…中に…」
体内に迸る熱にイけない苦しみが増す。
もう一度イかせないと、自分はイかせてはもらえない。でも身体は既に限界で…体内の熱にジクジクと熟れた官能が疼く。 ジッとしていられない。自然に腰が揺れて来る。
「ああ…ふ…ンぁ…」
頬の湿布と包帯の目隠し。 顔の半分以上が被われているというのに、雅久の妖艶なまでの美しさは損なわれるどころか、益々色香を強めて来る。長い髪が宙を舞い、白い肌の上をのたうつ。
興奮して桜色に染まった肌は焚き染めた伽羅のような、濃厚で絡み付くような甘さを持ち、それでいて清楚で清々しい香りを放っていた。
義勝は身を起こすとしっかりと抱き締めて、繋がったまま体勢を入れ換えた。 官能に喘ぐ雅久をシーツに横たえ、貪るように唇を重ねた。
「ンン…ふ…あ…」
「ッ…」
強過ぎる感覚を示すように、雅久の爪が背中を抉るように引っ掻いた。体内の収縮のうねりは激しく、今し方イったばかりだというのに、義勝を更なる欲情へと引き摺り込む。 唇を放すと、容赦なく腰を打ち付けるような抽挿を始めた。
「ああッ…あああ…ンぁあ…ひ…」
雅久の嬌声も最早、悲鳴と呼んだ方がよい状態だった。本来ならば絶頂を迎えている程の感覚が、出口を求めて更なる高みへと押し上げていく。
「ぁはぁ…ふァン…ひィッ…」
大きく仰け反ったまま、身体は激しく戦慄いている。義勝も二度目が近い。体内から熱が今にも噴き出してしまいそうだった。
雅久のモノを縛めているネクタイを解いて投げ捨てると、更に激しく収縮する中を抉るように抽挿を続けた。
「ああッ…イヤ…凄い…ダメ…あああ…イく…も…イく…あああ…イくぅッ!!」
絶叫と共に昇り詰めた雅久は、大量に激しく吐精した。義勝も後を追うように、二度目の熱を愛しい人の対内に放出した。雅久の絶頂の痙攣はしばらく収まらず、義勝は抱き締めながら口付けたり言葉を紡いで、落ち着くのをゆっくりと満ち足りた気持ちで待った。
目隠しをしていた包帯は、強過ぎる官能に溢れた涙でぐっしょりと濡れていた。
数日後、数々の検査を終え、顔の腫れが引いたのを確認して雅久は退院を迎えた。入院中にマンションの荷物は全て、御園生邸の二人の部屋に戻された。
義勝が退院する雅久の為に用意したのはあの日の着物だった。武が織った布を仕立てて、前回の退院の時に初めて袖を通した、あの着物を敢えて用意したのだ。無論、その事は雅久にきちんと話してある。
御園生家からの迎えの車を降りて、雅久は我が家の玄関に立った。義勝は病院を離れられない状態で、代わりに小夜子が一緒だった。
「雅久さま、おかえりなさいませ」
文月が変わりなく出迎えてくれる。
「ご退院をお慶び申し上げます」
「ありがとうございます」
履き物を脱ぎ玄関ホールに上がると、とても懐かしい気持ちと安心感で胸がいっぱいになった。一時的に過去の記憶の中にいた自分は、此処という帰るべき場所を捨てて、何処に安らぎを求めようとしたのだろう。
「ただいま…」
ホールに生命でも宿っているかのように、雅久は吹き抜けの天井に向かって呟いた。
「おかえりなさい、雅久さん」
優しい声に振り返ると、小夜子が笑顔で立っていた。
「ただいま…お義母さま」
待っていてもらえた事が嬉しい。
「さあ、居間へ。 夕麿さんは不在だけど、武と希が待ってるわ」
「はい」
返事をして小夜子の後を歩き出したが雅久は内心不安だった。武はきっと喜んではくれる。 けれど傷付けてしまった事は、武には大きなストレスになった筈だ。どんな顔をして会えばよいのか。 なんと言って詫びれば良いのだろう。
襟元を握って考えながら歩いていると、居間に着いてしまった。すかさず文月がドアを開いた。
「雅久さまがお帰りになられました」
いつもと変わらないにこやかな声で告げる。 ソファから武が立ち上がった。よく見ると希も立ち上がったが、少し怯えたように武の腕を掴んで、半ば背後に隠れるようにしてこちらをうかがっていた。
「ただいま戻りました」
緊張で声が震えていた。
「武君…心配をかけてごめんなさい」
一瞬、臣として今の記憶が消えていた時の非礼を、伏して謝罪しそうになった。けれども彼が自分に求めているのは、兄としての姿なのだと気付いたのだ。途端に武の顔が満面の笑みに包まれた。
「おかえりなさい、雅久兄さん」
そう言って武は少し甘えるように縋って来た。雅久は以前と変わらずに袖で包み込むように、彼の華奢な身体を抱き締めた。
「武兄さま、ずる~い!」
すぐ横で希の声がした。
「あ…」
「おや」
同時に噴き出して雅久は希を抱き上げた。
「雅久兄さま、ご退院おめでとう」
「ありがとう、希君」
希を抱き上げたままソファに座り彼を横に座らせた。
希は過去の記憶を取り戻していた雅久に、完全に無視されていたのだ。普段の優しい彼が好きな希は、懸命に注意を引こうとして鋭い眼差しで睨みつけられていた。自分のよく知っている雅久なのかどうか希は、半信半疑の様子でお茶を飲んでいる最中も時々、見上げて様子を見ていた。
「希君、ごめんなさい…どうやらあなたにも何かをしたみたいですね」
希の様子に自分がどのような状態だったのか、何となく予想が着いてしまう。
「雅久兄さま…」
見上げた眼に涙が浮かんでいた。
「希、やめろ」
武の口から鋭い声が飛んで希は慌てて俯いた。やはり兄としての謝罪で済ませて良かった。
臣としての謝罪は夕麿に…… 雅久は希の手を握ってそう思った。
「武君、あの…御厨君は?」
事故に巻き込まれた事がきっかけだった。ならば責任感の強い貴之は、強く責任を感じている筈だ。だから敦紀に謝罪したかった。
「あ…貴之先輩と二人で昨日からいない」
「旅行ですか?」
「いや、そこまでの時間と移動許可が出なくて…ホテルに宿泊してる」
「そう…ですか」
二人が宿泊しているホテルとは、年間を通じて夕麿が押さえている部屋だ。 元々は武と完全に二人きりになる為の部屋で、武のストレスを少しでも緩和する配慮だった。だが使用していない時は、希望があればいつでも夕麿が手配してくれる。
夜景の美しい最上階のインペリアル・スイート。カップルには癒しとムードの双方を与える絶好の条件の部屋だった。
「さて…続きにかかるかな」
「組紐ですか?」
「うん。」
「出来たら見せてくださいね」
「O.K.」
帰って来た当たり前を喜ぶように、武は上機嫌で居間から出て行った。
その夜、雅久は帰宅した夕麿の足元に平伏して、武を傷付けた上に、臣としてあるまじき言動をした事を謝罪した。 夕麿は雅久の罪ではないと答え、彼の退院を喜んだ。
夕麿が心配していたのはあのままの雅久だと、様々な方面での人員の調整を行わなければならなくなる事と…武が発作を起こした時の心配だった。
発作時の武が夕麿の次に警戒しないのが雅久と小夜子なのだ。特に雅久の作る林檎のすり下ろしは、他の食物を受け付けない時でも食べる。
それに…なんと言っても親友である義勝が心配だった。この9年間に育んで来たものが全て、消えてしまうところだったのだから。
その日の夕食は賑やかだった。武はよく笑いよく喋った。雅久は家族に愛されている事を痛感し、この幸せを天に感謝した。
そして思った。今の自分の記憶に失った記憶が合わさっても、此処にいる自分はいなくなってしまったのではないかと。何故そうなのかは自分でも説明が出来ない。けれども感じるのだ。
昔は失ったものを取り戻したいと願っていた。でも今は此処にいる幸せこそが、大切な真実であると思っている。 家族と共に在る事が続いて行く事を天に願いたいと思った。
義勝と共に自分たちの部屋へ入って、雅久は安堵の溜息を吐いた。此処が自分の本当の栖。 此処以外に住む場所はないし住みたいとも思わない。胸にそっと手をあてて、此処にいる事の幸せを噛み締め……感謝した。
こんな想いが沸き上がって来るのは、恐ろしい事故に巻き込まれたからだろうか。 それとも一時的に今の自分でなかった自分が、何かしらの哀しみや孤独を感じていたからだろうか。
(私は一人ではありません…愛する家族がいます…愛する人がいます。 そして…愛されています。 私の中でまた眠ったもう一人の私…どうか、哀しまないで。 苦しまないで……)
胸を満たす悲哀が彼のものであるならば、どうかこの幸せが届いて欲しいと願う。
過去の自分に何があったのか。
何故、記憶を失ったのか。
その本当の理由を雅久は教えられていない。激しい頭痛などの拒否反応を呼ぶ事は理解している。
もう一人の自分が何かを恐れている。でもそれは此処には存在していない。雅久は自分の中のもう一人に、穏やかに微笑んだ。
義勝は部屋へ入って、一人で物思いをする雅久を黙って見詰めていた。再び消えた過去の彼が何かの置き土産をしている事は、清方と気付いて相談していた。今の雅久がそれをゆっくりと受け入れて、自らの想いに繋いでいると判断出来ていた。
見守っていく。このまま生きて行くとしても、もう一人の自分の哀しみに気付いた雅久はきっと、共に歩いて行く道を選ぶだろう。
今の雅久が微笑むように、過去の彼にも微笑む日が来て欲しい。幸せを感じて欲しい。二度と彼が目を覚まさなくても、今の雅久と一緒に愛して行こう。
二人の雅久。そのどちらも愛している。一緒に抱き締めて生きて行く。
義勝が心にそう強く誓った時だった。 雅久がゆっくりと振り返った。その顔は穏やかな笑みを浮かべて美しかった。
昔の雅久は深い苦しみの中にいた。全ての記憶を失って彼は本当に幸せに生きて来た。家族に包まれていた。武と夕麿の秘書を選択した時は驚いたが、毎日を多忙に動いている事が、舞にも深みと厚みを与えているのは確かだった。
「義勝…あの…」
二人だけになって、雅久は不安そうに口を開いた。
「どうした?」
「その…武君の声がしたような…」
「ああ…」
雅久の状態を確認している間にいつの間にか、武が病室から姿を消していた。義勝には理由が容易にわかってしまった。武が人間関係に臆病なのは今では夕麿が、全面的にフォローしているので目立たなくはなっている。しかし本当は今でも人見知りが激しく、時としてその場所から逃げ出すところがある。
「お前が一時的に過去を思い出していた話をしただろう?」
「はい」
「武がまだ生徒会に加わったばかりで、しかも夕麿が武を避けていた頃の状態だったんだ」
「私は何を?」
救いを求めるように雅久は義勝の白衣を掴んだ。
「退院したお前を武は喜んだ。だがお前は……兄と呼ばれる事を拒否をして距離を取ったんだ……」
「距離を……取る?」
「お前は御園生邸を…家を出たいと」
その行為がどれだけ武を傷付けたのか。病院に勤務する義勝にはわからない。舞楽の事を頼みに来た日まで武との接触はなかったのだ。
「ああ…何という事を…」
武は小夜子とずっと二人きりで成長した。出生の秘密もあってさほど親しい相手を作れずに。御園生の養子になった日、武がどんなに喜んでくれたか…雅久ははっきりと記憶している。身分の低い自分を『兄』と呼んでくれて本当に慕ってくれた。記憶がない雅久にとってどれだけ救いになっただろう。
「武はまた、お前に拒否されるのが怖かったのだろう」
傷付けてしまった。その事自体を覚えてはいなくても、繊細で優しい武を傷付けた事実は消せない。きっと…今回の事故自体を自分の責任だと思っている筈だ。申し訳なさに胸が詰まる。
「今頃はきっと夕麿が取り成してくれている」
「でも…」
「大丈夫だ。今は自分の事を気にしてろ」
彼の異母兄が振るった暴力で、雅久は頬に打撲傷と右手首の捻挫を負っていた。顔も手首も内出血が残らないように既に血液を抽出してある。それでもどちらも腫れが酷く、きちんと完治させる為にしばらくは入院が必要だった。
「この怪我はあの事故のものではないのでしょう?」
「別の事故のだ」
「別の事故?」
「駐車場で…突然、 動いた車に接触して倒れたんだ」
本当は嘘は吐きたくない。だが雅久の二人の異母兄という存在自体が、彼にどのような影響を与えるかわからないのだ。ましてや暴力を振るわれた事で雅久は死にかけた。危険を回避する為の処置として、今回の怪我は接触事故によるものとする決定がされた。今頃は清方や周を通じて全員に伝わっている筈だ。
「記憶の混乱を防ぐ為、当分の間は面会謝絶の指示が出てる。いろいろと気にはなるだろうが今は治療に専念しろ」
そう言うと義勝は椅子から立ち上がった。
「どこへ?」
とっさに白衣を掴んで引き留めてしまった。
「雅久?」
「あ…ごめんなさい…」
義勝はその手をそっと握って口付けをした。
「今日の勤務はとっくに終わってる。更衣室で着替えて来るだけだ」
優しく言った彼を見送って、雅久は今しがたの自分の行動に戸惑いを感じていた。義勝がここを出て行って戻っては来ない気がしたのだ。
何故、そんな事を思ったのかわからない。だが胸が詰まって痛い。側にいて欲しい。抱き締めて欲しい。不安で不安で…呼吸すら苦しい。涙が溢れて来た。心の中は悲しみでいっぱいだった。
病室に時計はない。仕事以外では腕時計はしないから、当然ながら時間の流れはわからなかった。義勝が出て行ったのはつい先程のような気がするし、随分時間が経過したようにも感じる。早く戻って来て欲しい。自分を置いて何処かに行かないで。
夕麿が武を失っては生きてはいけないと言う気持ちが今の雅久には痛い程わかった。義勝がいなくなってしまったら、この先の人生をどう歩いて良いのかわからない。真闇の中に一人で投げ出されるようなものだ。紫霄の附属病院で目覚めたあの日から、義勝はずっと側にいてくれた。アメリカから帰国して選択した職業こそ違えども住む部屋は一緒だった。それは何も変わってはいない。
なのに何故にこんなにも不安なのだろう。原因がわからない事が一層、雅久の気持ちを不安に駆り立てた。
義勝は足早に特別病棟へと歩いていた。職員用更衣室とは別に、一階の奥に義勝たち御園生家関係者の部屋がある。到着してまず清方に雅久の状態を報告した。今でも雅久の主治医は清方に依頼している。ずっと彼が主治医だった事と義勝にはまだ自分の感情を制御して、雅久の治療に向かえる自信がなかったのだ。
その後、急いで白衣をクリーニングのカートに入れて着替え、人気のなくなった受付の前を歩いていた。すると内科医が自分の担当患者の事で義勝に声を掛けて来た。質問に幾つか答えて、改めて明日の午後に患者のカウンセリングを行う約束をした。内科医がいなくなって腕時計を見ると30分余りの時間が経過している。精神的に不安定になっている雅久を今、一人きりでいさせるのは良くない。今夜は同じベッドで眠って、少しでも安心させるつもりであった。
それなのに……こんな時に限って呼び止められ時間を取られてしまう。急ぎ足で進みながら御園生邸に電話を掛けた。小夜子に明日の午後に雅久の見舞いを依頼する。
「すみません…お義母さん。お忙しいのはわかっているのですが、午後の回診をしなければならないので」
義勝は現在、外来は担当していない。週に3日、病棟を回診して入院患者と会話する事。手術前後の患者や家族のカウンセリング。癌患者のカウンセリングなどを含めた、心のケアを必要とする患者が彼の担当だった。明日の午後はその回診の日で、それだけは勤務しなければならなかった。
だが雅久を一人には出来ない。彼を思い遣り愛情で包んでくれる存在は小夜子しかいなかった。小夜子は義勝の依頼を快く承諾してくれ、取り敢えずホッと胸を撫で下ろした。
清方は言った。不安定と昔の記憶を取り戻していた時の義勝の雅久に対する迷いは、恐らくは深い部分で繋がっていると。記憶を失う前の雅久には、いつかは義勝との別れが来るという想いがあったのではないか。
紫霄学院から出られなかった、義勝。
性的虐待を繰り返す異母兄たちに、最後は殺されてしまうのではないかという恐怖。
義勝の戸惑いは雅久が元から、持っていた不安を増長させてしまった。そのピークが異母兄たちの出現と暴力だったとしたら……御園生への養子入りも彼らには通じてはいなかった。義勝に見捨てられ再び戸次家に連れ戻されれば、今度こそ生命は失われてしまうかもしれない。9年前の夏の想いと重なっていた可能性を電話の向こうで清方は示唆した。
もしも…武を傷付けた上に御園生邸から出てしまった事が、自分が捨てられる不安を煽っているのであれば……雅久の側にいなければならない。
部屋へ戻ると雅久は一人で泣いていた。
「どうした?頭が痛むのか?それとも怪我が?」
慌てて駆け寄ると雅久はまだ点滴の針が刺さったままに腕を差し出した。
「義…勝…胸が…痛いのです…」
「胸!?」
とっさに思い浮かんだのは、不整脈を起こして生命の危険が心配された事だった。差し出された左手首の脈をとる。幾分弱くはあるが乱れは感じられない。
「脈拍に乱れはないが…心電図を…周さんはまだ院内にいたかな?」
内科の簡単な診察は出来るが心電図を診るまでは出来ない。雅久がまたあんな状態になったら…… 恐怖が競り上がって来る。
「義勝…義勝…お願いです。私の話を聞いてください」
手を掴んでひき止めた。
「違うのです…具合が悪いじゃありません。あなたが…いないのが不安で…怖くて…」
見上げて来る雅久の瞳は、恐怖と怯えの色に染まっていた。義勝はそっと雅久を抱き起こした。
「すまない…途中で内科医に捕まってな。それで遅くなったんだ。一人にして悪かった」
「義勝…お願いです…私を…捨てないで…」
義勝は息を呑んだ。事故からこっちそういう意味で雅久には触れていない。記憶が戻った雅久は今の義勝には、遠い記憶の中の別人だった。頭では受け入れていても、身体と心の何処かが受け入れられなかったのだ。表面的には優しくされても、自分は拒否されている。過去の辛い記憶の中の雅久には、既にギリギリだったのだろう。記憶はまた脳の何処かに封印されても不安や辛さからわき起こる恐怖が表面に残されたままだった。
「俺とお前は夫婦だ。生涯を誓っただろう?」
そう言って義勝は治療の為に外した、雅久の結婚指輪を彼の左手の薬指に戻した。事故でここに搬送された時に、外して預かったままになっていたのだ。記憶が戻っていた雅久に、御園生への養子入りと結婚の話はした。だが義勝はたった今の今まで、指輪の事をすっかり失念していたのだ。それだけ事態に対応出来ていなかった訳だが雅久にはわからなかった筈だ。
「お前に返すのを忘れていた」
それでもなお雅久の眼差しは不安に揺れていた。
義勝はほぼ終わりの点滴の針を抜いて、ガーゼで止血してから雅久をベッドサイドに立たせた。着せられていた治療衣を剥ぎ取る。代わりに雅久の夜着を肩に掛けた。
「武が持って来てくれたらしい」
厚く固い布地の治療衣では……と考えてくれたらしい。治療衣の下には何も着ていない。集中治療室では通常の衣類は邪魔なのだ。
雅久は慌てて前を合わせた。すると義勝がニヤリと笑った。次いで胸元に手を差し入れ、左側を少々強く掴んだ。
「あッ…!」
思わず仰け反って甘い声をあげてしまう。
「もう一つ忘れ物だ」
ポケットから出したボディピアスを側にあるアルコール綿で、綺麗に消毒して雅久の目の前に差し出した。
「ぁあ…」
それだけで全身が熱くなり震え出す。
「ああ、こっちも消毒しないとな」
義勝はそう言うとおもむろに、胸元を開いて乳首にむしゃぶり付いた。
「ひッ…ヤ…ああ…」
ゾクゾクと快感が胸から広がり、身体の中心へと集中していく。もう立っていられない……と思った瞬間、唇が離れた。指が乳首を掴み、冷たい金属が触れた。パチリ…とピアスが止められた。
「義勝…」
悦びが込み上げてくる。雅久にとって結婚指輪は愛を誓った証であり、胸のピアスは愛しい人の愛情に繋がれた証。双方が揃わなければ意味をなさない。
「抱いて…ください」
すがり付いて請う。
「いつものようにはここでは出来ないぞ?」
「それでも…構いません…」
愛しい人の熱が欲しい……雅久の願いはそれだけだった。
美しい恋人にすがって請われてどうして抗う事が出来るだろう。義勝はそのほっそりとした身体を抱き上げて、壊れ物をあつかうかのようにそっと横たえ、自らもシャツを脱ぎ捨てる。
「義勝…義勝…」
喘ぐように呼ばれて、一気に欲情の炎が燃え上がった。脚を大きく開かせて間に割り込む。荒々しく唇を貪り、首や胸元に口付けをする。右側の乳首を含んで思う存分嬌声をあげさせ、左側はたった今、付けたばかりのピアスを噛んで引っ張った。
「ぁひィ…ダメぇ…」
悲鳴をあげながらも雅久は腰を揺らす。
「イヤ…ああッ…痛い…」
雅久は激しく首を振って嫌がる。長い髪がシーツに舞い乱れる。壮絶なまでの妖艶な美しさに、見慣れている筈の義勝が息を呑んだ。ようやく苦痛から解放されて、雅久は大きく息を吐いた。
我に返った義勝はゆっくりと身体をずらせた。やおらに蜜液を溢れさせている、雅久のモノを握った。美しい者は全身の造形もまた、美しく神が創ったとしか思えない。
「痛がっているわりにはこっちはビンビンだな?」
「ああ…許して…」
「淫らな奴にはお仕置きが必要だろう?違うか?」
怪我に影響がでない形で、雅久の望みを叶えてやりたいと思う。
「…お仕置きを…してください」
いたぶられる期待に声が震える。苦痛が快感になる自分の身体を忌まわしくは思う。だが義勝はいつもその望みを叶えてくれる。彼は先程まで着けていたネクタイを手に取った。
同時にもう一つ幅が広い包帯を手にし、見せ付けるようにしてネクタイを欲望に震えているモノに、巻き付けてしっかりと縛り上げた。
「ああッ痛い…イヤや…堪忍して…」
身悶えする雅久を煽るように、ソレを口に咥えて舐めしゃぶる。
「ひぁ…ン…ああッ…」
塞き止められた欲望が体内で渦巻く。与えられない絶頂を請うように、腰を浮かして更なる刺激を求め押し付けるように動く。
「ああ…ンぁ…ふ…あン…」
もっと…もっと、と身体は渇望する。
義勝はその様子をたっぷりと楽しんで、おもむろに口を放した。
「あッ…イヤや…止んといて…」
イかしてはもらえないのはわかってはいるが、それでも途中で投げ出された焦燥感は変わらない。
そんな雅久に対して満足げな笑みを浮かべた。手にした包帯で目隠しをする。これは所謂いわゆるソフトSMと言われるものだ。道具もなく雅久は怪我人でも常の二人の愛し合い方に近付ける為に、義勝の精一杯の知恵だった。
愛する人が求めるならば……
全ては愛する人の為に……
義勝の愛はそれが原点だった。
「雅久、愛してる…俺はお前だけを愛している。 一緒に生きて行こう…」
耳許に囁いた。
「私も…私も…義勝、あなただけを愛しています」
紅の唇から紡がれる言葉も…熱く甘い吐息も全てが愛惜しい。 その想いを全てぶつけるように、口付けて口腔の甘さを味わった。
「ふ…ン…ぁふ…」
その間も切なげに腰を揺らし、縛められたモノを擦り付けて来る。
「ああ…義勝…もう、ください。あなたが欲しい…」
愛しい人の熱を身体の奥深くで感じたかった。愛されているともっと実感したいから、彼のモノを受け入れて一つになりたい。
義勝は夜着と一緒に入っていたジェルを手にした。念入りに塗り込めてから、様子を見ながら指を差し挿れていく。
「はぁ…ンふッ…あああ…」
蕾は待ち構えていたように開き、中は誘うように収縮して絡み付く。
「凄いな…指に吸い付いて来るようだ。悪い奴だな…お仕置きされて悦んで」
「ごめんなさい…」
目隠しされて見えない事がかえって、羞恥心を扇ぎ感覚が増す。
「ああ…あン…あはぁ…義勝…ぅン…」
最も敏感な部分を敢えてそらされて、もどかしさにどうにかしようとして腰を突き上げる。 義勝はわかっていて当たらないように動かす。 動かせる左手で枕を掴んで、雅久は悶え狂う。 身悶えする様をずっと眺めていたい気もするが、今度は義勝が耐えきれなくなって来た。
あの事故からずっと雅久には触れていない。自分でどうにかする気にもなれず完全な禁欲生活だった。雅久以外を欲しいとは思わないのだ。
「やァ…!」
指を引き抜かれると、奪われた刺激を求めて悲鳴が漏れる………が、すぐに確かな熱を帯びたモノがあてられた。全身が期待に戦慄き、蕾が招くように収縮する。
「ひィィィィ…!!」
無言で一気に貫いた。引き裂かれるような苦痛に、白い四肢がガクガクと痙攣する。無論、十分に解してある。傷を付けるような真似はしない。苦痛を雅久の身体は快感に直結させてしまう。
「ひィ…ああッ…あああ…!!」
身体の奥深くを貫かれたまま、雅久はシーツの上で快楽にのたうちまわる。
「くッ…」
中が絡み付いてうねって、思わず引き込まれそうになる。 義勝は歯を喰い縛って耐えた。耳朶を甘噛みすると、甘い声をあげてすがって来る。
「ああッ…ンぁ…や…はァン…」
強く抱き締めると嬌声が耳をくすぐる。 夢中になって腰を打ち付けるように、激しく抽挿を繰り返す。
「義勝…もう…イかせて…」
両脚を絡めて縛められたモノを擦り付けて強請る。 義勝は胸のピアスを引っ張りながら答えた。
「俺が一度イってからな」
「そんな…」
紅の唇からは戸惑ったような肥が漏れた。しかし言葉とは裏腹に、中は更に収縮してとらえたモノを放さない。義勝はピアスをもっと強く引っ張って意地悪く告げた。
「本当に嫌なのか?その割には凄い締め付けだぞ?」
そう言って腰を引いた。
「イヤや…抜かんといて…」
「ならば我慢出来るな?」
「ああ……堪忍して……もう…許して」
「何を許して欲しいんだ?」
言葉の隙を突いて羞恥心を煽ると雅久は息を呑んで唇を噛み締めた。それを見た義勝は返事を促すように、浅い部分で軽い抽挿をする。
「あッ…イヤ…そないなとこ…」
もどかしさに腰が刺激を得ようと揺れる。 するともっと腰を引いてはぐらかす。
「義勝…義勝…」
啜り泣くような声で呼ばれて、義勝は唇を軽く重ねて更に問い掛けた。
「淫らだな、雅久。 俺はお前にお仕置きしているんだぞ?」
「ああ…堪忍や…許して…」
「何を許して欲しい?」
「み…淫らで…浅ましい…私をどうか…罰してください」
羞恥と期待の双方に、雅久の声は震えていた。
「お仕置きをして欲しいんだな?」
ピアスを引っ張って催促をすると、雅久はゆっくりと絡めていた脚を開いた。義勝はわざと自分のモノを引き抜くと雅久の行動を眺める。 両脚を大きく開いて、左手で蕾が見えるように開いた。
「どうぞ私の淫らな身体を…使こうてください。私は…あ、あなたが満足しはるまで…罰を…受けます…」
「お前が俺を満足させてくれるのか?」
「………へえ……」
雅久は消え入りそうな声で答えて起き上がった。代わりに義勝が横たわる。 無論、目隠しはしたままだ。手探りで位置を確かめ跨がった。 義勝のモノをあてがい、腰を落としてゆっくりと呑み込んでいく。
「ひァ…大きい…ああ…来る…奥まで…凄いのが…挿って来る…」
少し頭をもたげて見ている義勝からは、彼の太股は痙攣しているのがわかった。両手を伸ばして腰を掴み、一気に引き下ろした。
「きゃぁあああ…!!」
衝撃に悲鳴をあげて仰け反った。 縛められていなければ吐精していたかもしれない。 義勝のモノを締め付けたまま、身体を震わせている雅久の尻を平手打ちした。
「ひィッ…」
痛みに雅久が我に返った。
「お前だけ感じてるな」
「堪忍……堪忍して……」
「ちゃんと俺をイかせないと、いつまでもコレを解いてやらないぞ?」
うっかり解いてしまわないように気を付けて、縛めているネクタイを引っ張った。
「ああッ…ちゃ、ちゃんとするさかい……」
容赦がなければない程、雅久の官能は高まり、最後には強い快感を得る。
「ぐずぐずしていた罰だ俺が二度イくまでこれは解かない。 ほら、早く解いて欲しいなら頑張るんだな」
腰を突き上げて催促する。
「へ、へえ…」
右手が使えない雅久の為、義勝は細腰に手を当てて倒れないように軽く支えた。舞踊家である雅久は基本的に足腰が強い。本当はこれくらいで倒れたりはしない。だからこれは彼の愛情の現れだった。
そろそろと腰を持ち上げ下ろす。
「ンぁ…ああ…ふァ…ああ…」
義勝を満足させる。 悦楽に次第に陶酔して、夢中で腰を上下して悶える。 封じられた絶頂を求めるように、中が熱を帯びて絞るように激しく収縮する。
「ぁあ…イイ…もっと…もっと…」
快感に溺れて腰を振る姿に義勝も、次第に追い上げられていく。 雅久の動きに合わせて突き上げ、欲情が加速する。
「雅久…イくぞ…」
「ああ…来て…私ん中に…ぎょうさん出して…」
体内のモノが更に脹れあがり、ますます快感が強まる。
「くぅッ…!!」
「ああッ…熱い…熱いのが…中に…」
体内に迸る熱にイけない苦しみが増す。
もう一度イかせないと、自分はイかせてはもらえない。でも身体は既に限界で…体内の熱にジクジクと熟れた官能が疼く。 ジッとしていられない。自然に腰が揺れて来る。
「ああ…ふ…ンぁ…」
頬の湿布と包帯の目隠し。 顔の半分以上が被われているというのに、雅久の妖艶なまでの美しさは損なわれるどころか、益々色香を強めて来る。長い髪が宙を舞い、白い肌の上をのたうつ。
興奮して桜色に染まった肌は焚き染めた伽羅のような、濃厚で絡み付くような甘さを持ち、それでいて清楚で清々しい香りを放っていた。
義勝は身を起こすとしっかりと抱き締めて、繋がったまま体勢を入れ換えた。 官能に喘ぐ雅久をシーツに横たえ、貪るように唇を重ねた。
「ンン…ふ…あ…」
「ッ…」
強過ぎる感覚を示すように、雅久の爪が背中を抉るように引っ掻いた。体内の収縮のうねりは激しく、今し方イったばかりだというのに、義勝を更なる欲情へと引き摺り込む。 唇を放すと、容赦なく腰を打ち付けるような抽挿を始めた。
「ああッ…あああ…ンぁあ…ひ…」
雅久の嬌声も最早、悲鳴と呼んだ方がよい状態だった。本来ならば絶頂を迎えている程の感覚が、出口を求めて更なる高みへと押し上げていく。
「ぁはぁ…ふァン…ひィッ…」
大きく仰け反ったまま、身体は激しく戦慄いている。義勝も二度目が近い。体内から熱が今にも噴き出してしまいそうだった。
雅久のモノを縛めているネクタイを解いて投げ捨てると、更に激しく収縮する中を抉るように抽挿を続けた。
「ああッ…イヤ…凄い…ダメ…あああ…イく…も…イく…あああ…イくぅッ!!」
絶叫と共に昇り詰めた雅久は、大量に激しく吐精した。義勝も後を追うように、二度目の熱を愛しい人の対内に放出した。雅久の絶頂の痙攣はしばらく収まらず、義勝は抱き締めながら口付けたり言葉を紡いで、落ち着くのをゆっくりと満ち足りた気持ちで待った。
目隠しをしていた包帯は、強過ぎる官能に溢れた涙でぐっしょりと濡れていた。
数日後、数々の検査を終え、顔の腫れが引いたのを確認して雅久は退院を迎えた。入院中にマンションの荷物は全て、御園生邸の二人の部屋に戻された。
義勝が退院する雅久の為に用意したのはあの日の着物だった。武が織った布を仕立てて、前回の退院の時に初めて袖を通した、あの着物を敢えて用意したのだ。無論、その事は雅久にきちんと話してある。
御園生家からの迎えの車を降りて、雅久は我が家の玄関に立った。義勝は病院を離れられない状態で、代わりに小夜子が一緒だった。
「雅久さま、おかえりなさいませ」
文月が変わりなく出迎えてくれる。
「ご退院をお慶び申し上げます」
「ありがとうございます」
履き物を脱ぎ玄関ホールに上がると、とても懐かしい気持ちと安心感で胸がいっぱいになった。一時的に過去の記憶の中にいた自分は、此処という帰るべき場所を捨てて、何処に安らぎを求めようとしたのだろう。
「ただいま…」
ホールに生命でも宿っているかのように、雅久は吹き抜けの天井に向かって呟いた。
「おかえりなさい、雅久さん」
優しい声に振り返ると、小夜子が笑顔で立っていた。
「ただいま…お義母さま」
待っていてもらえた事が嬉しい。
「さあ、居間へ。 夕麿さんは不在だけど、武と希が待ってるわ」
「はい」
返事をして小夜子の後を歩き出したが雅久は内心不安だった。武はきっと喜んではくれる。 けれど傷付けてしまった事は、武には大きなストレスになった筈だ。どんな顔をして会えばよいのか。 なんと言って詫びれば良いのだろう。
襟元を握って考えながら歩いていると、居間に着いてしまった。すかさず文月がドアを開いた。
「雅久さまがお帰りになられました」
いつもと変わらないにこやかな声で告げる。 ソファから武が立ち上がった。よく見ると希も立ち上がったが、少し怯えたように武の腕を掴んで、半ば背後に隠れるようにしてこちらをうかがっていた。
「ただいま戻りました」
緊張で声が震えていた。
「武君…心配をかけてごめんなさい」
一瞬、臣として今の記憶が消えていた時の非礼を、伏して謝罪しそうになった。けれども彼が自分に求めているのは、兄としての姿なのだと気付いたのだ。途端に武の顔が満面の笑みに包まれた。
「おかえりなさい、雅久兄さん」
そう言って武は少し甘えるように縋って来た。雅久は以前と変わらずに袖で包み込むように、彼の華奢な身体を抱き締めた。
「武兄さま、ずる~い!」
すぐ横で希の声がした。
「あ…」
「おや」
同時に噴き出して雅久は希を抱き上げた。
「雅久兄さま、ご退院おめでとう」
「ありがとう、希君」
希を抱き上げたままソファに座り彼を横に座らせた。
希は過去の記憶を取り戻していた雅久に、完全に無視されていたのだ。普段の優しい彼が好きな希は、懸命に注意を引こうとして鋭い眼差しで睨みつけられていた。自分のよく知っている雅久なのかどうか希は、半信半疑の様子でお茶を飲んでいる最中も時々、見上げて様子を見ていた。
「希君、ごめんなさい…どうやらあなたにも何かをしたみたいですね」
希の様子に自分がどのような状態だったのか、何となく予想が着いてしまう。
「雅久兄さま…」
見上げた眼に涙が浮かんでいた。
「希、やめろ」
武の口から鋭い声が飛んで希は慌てて俯いた。やはり兄としての謝罪で済ませて良かった。
臣としての謝罪は夕麿に…… 雅久は希の手を握ってそう思った。
「武君、あの…御厨君は?」
事故に巻き込まれた事がきっかけだった。ならば責任感の強い貴之は、強く責任を感じている筈だ。だから敦紀に謝罪したかった。
「あ…貴之先輩と二人で昨日からいない」
「旅行ですか?」
「いや、そこまでの時間と移動許可が出なくて…ホテルに宿泊してる」
「そう…ですか」
二人が宿泊しているホテルとは、年間を通じて夕麿が押さえている部屋だ。 元々は武と完全に二人きりになる為の部屋で、武のストレスを少しでも緩和する配慮だった。だが使用していない時は、希望があればいつでも夕麿が手配してくれる。
夜景の美しい最上階のインペリアル・スイート。カップルには癒しとムードの双方を与える絶好の条件の部屋だった。
「さて…続きにかかるかな」
「組紐ですか?」
「うん。」
「出来たら見せてくださいね」
「O.K.」
帰って来た当たり前を喜ぶように、武は上機嫌で居間から出て行った。
その夜、雅久は帰宅した夕麿の足元に平伏して、武を傷付けた上に、臣としてあるまじき言動をした事を謝罪した。 夕麿は雅久の罪ではないと答え、彼の退院を喜んだ。
夕麿が心配していたのはあのままの雅久だと、様々な方面での人員の調整を行わなければならなくなる事と…武が発作を起こした時の心配だった。
発作時の武が夕麿の次に警戒しないのが雅久と小夜子なのだ。特に雅久の作る林檎のすり下ろしは、他の食物を受け付けない時でも食べる。
それに…なんと言っても親友である義勝が心配だった。この9年間に育んで来たものが全て、消えてしまうところだったのだから。
その日の夕食は賑やかだった。武はよく笑いよく喋った。雅久は家族に愛されている事を痛感し、この幸せを天に感謝した。
そして思った。今の自分の記憶に失った記憶が合わさっても、此処にいる自分はいなくなってしまったのではないかと。何故そうなのかは自分でも説明が出来ない。けれども感じるのだ。
昔は失ったものを取り戻したいと願っていた。でも今は此処にいる幸せこそが、大切な真実であると思っている。 家族と共に在る事が続いて行く事を天に願いたいと思った。
義勝と共に自分たちの部屋へ入って、雅久は安堵の溜息を吐いた。此処が自分の本当の栖。 此処以外に住む場所はないし住みたいとも思わない。胸にそっと手をあてて、此処にいる事の幸せを噛み締め……感謝した。
こんな想いが沸き上がって来るのは、恐ろしい事故に巻き込まれたからだろうか。 それとも一時的に今の自分でなかった自分が、何かしらの哀しみや孤独を感じていたからだろうか。
(私は一人ではありません…愛する家族がいます…愛する人がいます。 そして…愛されています。 私の中でまた眠ったもう一人の私…どうか、哀しまないで。 苦しまないで……)
胸を満たす悲哀が彼のものであるならば、どうかこの幸せが届いて欲しいと願う。
過去の自分に何があったのか。
何故、記憶を失ったのか。
その本当の理由を雅久は教えられていない。激しい頭痛などの拒否反応を呼ぶ事は理解している。
もう一人の自分が何かを恐れている。でもそれは此処には存在していない。雅久は自分の中のもう一人に、穏やかに微笑んだ。
義勝は部屋へ入って、一人で物思いをする雅久を黙って見詰めていた。再び消えた過去の彼が何かの置き土産をしている事は、清方と気付いて相談していた。今の雅久がそれをゆっくりと受け入れて、自らの想いに繋いでいると判断出来ていた。
見守っていく。このまま生きて行くとしても、もう一人の自分の哀しみに気付いた雅久はきっと、共に歩いて行く道を選ぶだろう。
今の雅久が微笑むように、過去の彼にも微笑む日が来て欲しい。幸せを感じて欲しい。二度と彼が目を覚まさなくても、今の雅久と一緒に愛して行こう。
二人の雅久。そのどちらも愛している。一緒に抱き締めて生きて行く。
義勝が心にそう強く誓った時だった。 雅久がゆっくりと振り返った。その顔は穏やかな笑みを浮かべて美しかった。
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ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。
このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。
そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。
一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて…
那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。
ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩
《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》
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