蓬莱皇国物語 Ⅳ~DAY DREAM

翡翠

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    真闇

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 時の流れはノロノロと過ぎ行くように感じていたが、それでも暦は7月から8月へと移っていく。 

 武は自室でただ虚ろに時の流れを見つめていた。 ここには何もなかった。思い出も喜びも幸せも……クリスマスに夕麿が約束してくれた『明日』も。たとえ生命が消えようとも、今は紫霄の寮の特別室に帰りたかった。 あそこには夕麿と過ごした日々の思い出があり、幸せだった時間の記憶がある。 それに包まれて消えて逝けるならもう何も望まない。 思い出の中で微睡み、静かに消えて逝ければそれで幸せだと思えた。 

 武が愛した夕麿はもう消えてしまった。 今はただ思い出の中に生きていた。 初めて出逢ったあの時から、最後に別れた時までのもう自分に残されているのはそれだけだと考えていた。 

 食事はあそこへ帰り着く為だけに摂る。最早何を食べたのかすら記憶してはいない。ただ周が運んで来てくれるのを咀嚼そしゃくて飲み込んでいるに過ぎない。 それ以外の時間は音楽プレーヤーに入れた夕麿のピアノをずっとヘッドホンで聴いている。 余計な雑音を消してしまって、ただ夕麿の奏でるピアノの音だけを聴き続けていた。 思い出を遮るものは何も欲しくない。 言葉を紡ぎ出したくはなかった。 泣き言と恨み言は言いたくはない。誰かを責めて事態が好転するわけでもないのに、いたずらに傷付けて自分の中の感情を解消するような行為はしたくない。第一、それで解消できるとは思ってはいなかった。 

 そして……武は泣かなかった。 心のどこかが凍り付いたままで、思い出の中の夕麿の姿に縋り付いていた。 そうしなければ真っ暗闇で立っているのさえ怖かった。 

 周が食事を運んで来て怪我の治療もしてるがもうどうでも良かった。 もうすぐ逝く人間に治療の必要があるのかどうかも、武にはわからなくなっていた。 

 時折、中庭で月を眺める以外は部屋から出る事はない。 ベッドに横にはなるが、眠っているのかさえわからない。 ただ横たわっているだけかもしれない。 日が昇り辺りが明るくなると、何となく起き上がるだけ。 

 もう何も目に入らない。 心が求めるのは愛しい人の面影だけだった。



 夕麿は真実が知りたかった。武の口から直接に訊きたかったが部屋へ続く廊下で、彼が見たのは中から出て来た周が泣き崩れる姿だった。

 ただ一人部屋に入れる周の声はもう武には届かなかった。生命を断たれるのをわかっていながら、武を紫霄に帰さなければならない。それがあるじたる武の望みであるからだ。声すら届かない武を説得する事は出来ない。その無力さに周は絶望しつつあった。

 夕麿はその周に近付く事も出来ず、無言のままそっと自室へ戻った。行き場のない焦燥感だけが、夕麿の心の中で渦巻いていた。



 人間は完全完璧を欲する。だが運命の神はそれを愚かだと嘲笑う。完全完璧ではなく不完全な存在こそ人間なのだと。神経を張り詰めた先に落とし穴が、真闇の口を開けていても人間は落ちてしまうまで気が付かない。いや、時として真闇の底を歩いている事にすら気付かない。

 その日、後から考えても何故、ビバリーヒルズの御園生邸がそんな状態になったのか。誰一人として納得できる説明が出来る者はいなかった。

 人間は黄昏時を逢魔が時と呼ぶ。だが本当の逢魔が時は時間とは関係なく、人間の心の隙間が重なり合ったら密かに、背後に忍び寄っているものなのだ。 過ぎてしまってから人間はその恐ろしさを実感する。 



 ふと何かを感じてヘッドホンを外すと、いつになく静まり返っていた。 武はソファから立ち上がって裸足のままで室内を歩いた。 ザラザラとした違和感を感じていた。これは良くない事の前兆だ。 まるで砂が口に入ったような感覚に、止まっていた武の心が少しだけ動き始めた。 

 するとドアが叩かれた。 今日は周はやむを得ない事情で確か出掛けている筈だ。 彼以外の誰かが叩いてもいつもなら無視する。 だがこの嫌な感覚が武をドアへと向かわせた。 

「宮さま…あの、お昼をお持ち致しました」 

 立っていたのは絹子だった。 周には出掛けるならば、食事はいらないと行っておいた筈なのだが。 

「皆さま、お出掛けになられたようで」 

「え?みんな、いないの?」 

「はい、私も食堂に行って初めて知ったばかりでございます。使用人も文月までおりません」 

 奇妙な事があるものだとは思う。使用人は交代で休暇を取らせている。 第一、武がいるのに警護官の雫さえいないと言うのだ。 

「お食事の準備だけがしてございました」 

「そっか…で、持って来てくれたんだ、ありがとう」 

 絹子に嫌われているのは知っている。 だがそれでも部屋から出て来ない武に、食事を持って来てくれたのを無碍にするつもりはなかった。 彼女が武に危害を加えても、それはもうどうでも良い事でもあった。 

「どうぞ」 

 ドアを開けて彼女を中へ入れた。 

「まあ…冷房をこんなに強くなされて。 病気おわもじになってしまわれますよ?」 

「え? そう言えば……寒い……かな?」 

 肌の感覚さえ虚ろで指摘されるまで、異様に室温が低いのに気付いていなかった。 

「どおりでくしゃみが出る筈だ」 

 苦笑すると絹子は溜息を吐いた。 

「私個人の気持ちは別にして、もう少しお気を付けくださりませ。 第一、裸足で歩き回られるのは感心致しませんね」 

 最後の言葉に武が吹き出した。 しばらく肩を震わせて笑う。 

「やっぱり、夕麿の乳母だな~ 紫霄時代に同じように言われて叱られたよ、夕麿に」 

 懐かしい。 胸が痛くなり目が熱い。 

「私のものですが、風邪薬をお持ち致しましょう」 

「どういう風の吹き回し?」 

「宮さまに何かあらしゃりましたら、夕麿さまのお責任になりますから」 

「ああ、そういう事か、納得」 

「さあ、お食事をお召し上がられませ。 お薬をお持ち致しますから」 

「わかった」 

 武が座って箸を手にするのを確認してから絹子が出て行った。そういう部分は己の役目に忠実な人間だと武は思った。 

 ザラザラとした感覚が今度はチクチクした感覚になった。薬を取りに行った絹子は今の所は大丈夫だろう。 

 武は嫌な感覚を無視するように昼食を始めた。 だし巻きを口に入れて気付いた。 これは多分、雅久がつくったものだと。 旧都風の味付けだった。 その味に武の心が少しだけ揺らぐ。 ここへ籠もって半月、彼はきっと心配している。 

 兄のような姉のような、優しくて美しい雅久。 彼の竜笛の音をもう一度聴きたくなった。 

 武の為に少しの分量の昼食。 すっかり食が細くなっていたけれど、雅久の心尽くしを残したくなくて全部食べた。 今は武の方が少食だった。 

 すぐに絹子は戻って来て、グラスの水と瓶に入ったカプセルを差し出した。 

「最後の一回分しかごさいませんけど…こちらはどこででも売っておりますが、あれは飲めませんでしょう?」 

 アメリカでは簡単な薬はスーパーで販売している。 だがそれは皇国人には飲めない。 通常飲む分量の3倍くらいの大きさで、うっかり飲んで倒れる者がいるくらいだ。 

「これ、2つとも飲むの?」 

「はい、それが一回分でございますよ」 

 武は絹子が瓶から出してくれたカプセルをグラスの水で飲んだ。 

「横になられた方がおよろしゅうございます」 

「そうだね………!?」 

 さっきまでの感覚に悪寒が混じった……と同時にそれが屋敷内を移動している感じがする。 

 絹子が食器を片付けようとするのを武は押し止めた。 

「宮さま?」 

「セキュリティーは殺されたみたいだな」 

「え?」 

 武は立ち上がって絹子の腕を掴み、広いクローゼットの中へ導いた。 

「絹子さん、どんな音がしても声をあげたり音をさせないように。 絶対に出て来たらダメだよ?」 

「あの…」 

「誰もいないと思った賊が、セキュリティーを殺して侵入したみたいだ。 

 ああ、夕麿から聞いてない? 俺にはそういう力があるんだ。 夕麿は皇家の霊感って呼んでたけど…… 兎に角、危険だからここにいて」 

「何を申されます。 宮さまこそここにいらっしゃれませ」 

「銃を持ってたら危険だろう? ……俺にもしもの事があったら、夕麿を頼むよ?」 

 武はそう言い残してクローゼットを出た。 食器を脇によけて本を開いて読んでいる振りをする。 嫌な感覚がゆっくりと近付いて来た。 次いでドアが荒々しく蹴り破られた。 

「何だ、人がいるじゃねぇか」 

 大柄な白人男が入って来た。 

 武は落ち着いて本を横に置いた。 

「騒がしいね、もう少し静かにして欲しいんだけど?」 

「ガキが生意気な口を利きやがって」 

 男が手にしていたのは、ハンティングナイフだった。銃は持っているのだろうか。隠し持っている可能性は捨てきれないがどちらかというと、留守宅を狙ってセキュリティーを殺して侵入する。 人を極力傷付けずに窃盗を重ねるプロだと武は判断した。 

「言っとくけど俺は滞在してるだけだから、どこに何があるのか知らないよ? だから訊かないでよね」 

 子供にしか見えないならそれを逆手に取るだけだ。 

「客か…住人はどこへ行った?」 

「知らない。 目が覚めたら一人だった。 その食事が置いてあってね」 

 武がテーブルの傍らの食器をあごで示してみせる。 

「ならばお前の金目の物を出せ」 

「無茶言うなあ…子供の持ち物なんて知れてるよ? 

 そうだな、この時計は? たしかオーストリアのどっかのハンドメイドだった筈。 多分、高いよ?」 

 自分で買った物だから値段は知ってる。 これくらいなら痛くはない。 

「後は…タイピンくらいかな? 一応、サファイアだった筈だけど? 俺、詳しくないから」 

 引き出しからタイピンとカフスのセットをケースごと出して見せた。 

「これだけか?」 

「男だからね、そんなもんだよ? この屋敷は男しかいない」 

「男しかいない?」 

「蓬莱皇国の男子校の先輩方がこっちへ留学して…ここはみんなの共同住宅みたいなもの。 俺は兄の所へ遊びに来たの、夏休みだから」 

 女性の住処のように宝石類は殆どない。 現金も置いていない筈だった。 高価なものをあげるとすれば、雅久の着物や楽器。 夕麿たちのスーツだが、すぐに足が付く。 

「共同住宅だぁ?」 

「うん。 奨学金を出してくれる財団の持ち物だよ、ここ」 

「お前、何で怯えない?」 

「似たような事があったから、皇国で」 

 怯えてはいない。 だがクローゼットにいる絹子を守らなければならない。 

「それに、一応、武道やってるから」 

 今の体力と相手の体格では時間稼ぎにしかならない。 一応、雫にコールを掛けて切った。 コールは2回。 前以て決めてあるSOSのサインだ。 今頃はこっちへ向かってくれている筈。 時間さえ稼げれば良い。 

 夕麿の為に絹子を死なせるわけにはいかないのだ。 間違った愛情を今は向けていても、彼女はきっと夕麿には必要だと信じる。 だから厳しい当たり方をしても本気で追い出さなかった。 

「お前、何を企んでる?」 

「別に」 

 ナイフを手に近付いて来る男と対峙する為に、武はゆっくりと立ち上がった。 

「俺ね、もうあんまり長く生きられないんだ。 だから怖くないんだよ」 

 嘘は言っていない。 

「今、あんたに殺されても帰ってその時が来ても、大して変わらないわけ。 やりたい事はやったしね。 願い事も終わった。 だから怖くないんだけ」 

「そんなお為ごかしを信じると思うのか!?」 

 ナイフを突き入れて来た腕を掴んで軽く投げ飛ばした。 大柄な男の身体が宙を飛んで床に落ちる。 だが組み伏せてしまう力は武にはない。 

「Ouch! Sit it!」 

 悪態をつきながら男が起き上がる。 

「それだけ持って帰るなら、俺は何もなかった事にする」 

「ガキにバカにされて、帰れるか!!」 

 男の攻撃を紙一重でかわして、武は身を守るだけで精一杯だった。 昨年が学祭で襲われた時よりも体力の消耗が激しい。 倒れてしまえば男は部屋を物色する。 そうなれば絹子が発見されてしまう。 

 本来、守られる側の武が危険に身をさらす。 有り得ない状況でも武は自分の代わりに、誰かが傷付くのは我慢がならなかった。

「そこまでだ。ナイフを捨てて両手を上げ膝を付け!」

 男の背後に銃を構えた雫が立っていた。鋭い口調には有無を言わせない威圧感があった。男は手からナイフを落とし手を上げて膝をついた。すかさず雫の後ろから貴之が出て来て男を縛り上げた。

「遅くなって申し訳ございません。武さま、御無事おするするであらしゃりますか?」

 雫の貴族言葉に苦笑しながら武が答えた。

「うん。ちょっと疲れただけ」

 その場にぺったりと座り込んで笑った。

「武さま!」

 周が血相を変えて駆け寄って来た。彼に続くように全員が入って来る。

「あれ?みんなで一緒だったの?」

「いえ、皆、同時に帰宅したのです」

「あらら」

 SOSコールしたのは雫にだけだ。それなのに全員が同時に帰宅したという。

「こんな事ってあ…る…」

 武は突然襲った胸の痛みに、シャツの胸元を握り締めた。心臓を直接力一杯に鷲掴みにされたように、ギリギリとした痛みがする。同時に胸と背中を挟んで締め付けられるように重い息苦しさが襲う。

「あ…あ…」

 目の前が霞む。意識が朦朧もうろうとして来て、そのまま周の腕の中へ倒れ込んだ。

「武さま!如何あそばされました!?」

 だがぐったりとして意識がない。周は慌てて脈をとった。どんなに探しても脈が触れない。武のシャツを開いて直接胸に耳を当てて心音を聴く。

「そんな…」

 心臓が停止していた。呼吸も当然ながら停止している。周は武の身体を横たえると、心臓マッサージを開始した。それを見て何が起こっているのかを、全員が知って蒼白になった。 慌てて貴之が武の顎を上げて気道を確保し、途中で周に代わる為に待機する。 

 高辻が救急車を要請し状況を説明する。 同時にUCLAのメディカルセンターに受け入れを要請する。 ロサンゼルス市警と救急車がほぼ同時に来た。 

 すぐさまAEDが使用される。 

 1回目、心拍は戻らない。 

 2回目、心拍が復帰した。 

 気道にチューブを入れて酸素を送る。 

 屋敷を雫に任せて、周が救急車に同乗する。 

 ところが今度は夕麿が悲鳴を上げて倒れ、高辻を慌てさせた。 武の状態が何かを誘発したらしい。 屋敷の車を用意して夕麿もメディカルセンターへ運ぶ事にした。 義勝たちも同乗して屋敷は再び静まり返った。



 2日後、小夜子が渡米して来たが武はICUで依然危篤状態だった。

「手は尽くしておりますが、ご本人に生きようとする気力がございません」

 担当医にそう告げられて、小夜子は倒れそうになった。義勝に抱きかかえられて外に出て、縋るようにして泣き崩れた。




 夢を見ていた。誰かが呼んでいた。武はそれに応えるように重い目蓋を開けた。ぼんやり霞む視界にマスクを付けた誰かがいた。手を握り締められたのがわかって弱々しく握り返した。誉めるように頭が撫でられた。

 生きて……そんな声を聞きながら武は再び目蓋まぶたを閉じた。

 次に目蓋を開いた時に見えたのは母小夜子の顔だった。酸素マスクの下で名前を呼ぼうする。すぐさまマスクが外されて、武はもう一度と口を開いたが………声が出ない。何度も呼びかけようとするが、虚しく息が吐き出されるだけだった。

 それだけではなかった。武の両脚が完全に麻痺して動かなくなっていたのだ。徹底的な検査の結果、武の身体にはどこにも異常はなかった。動かない両脚には痛覚等の感覚は存在しているのだ。つまり声が出ない理由も、脚が麻痺している原因も、身体的には存在していないのだ。

 心肺停止の原因は薬物だった。心臓病の治療や検査に使用される薬物を飲んだ事による症状…と診断された。その薬は今でこそ化学合成されているが、かつてはとある植物から抽出されていた成分であり、その植物は猛毒だった。武が摂取した分量は、健康な人間ならば心臓発作を起こす程度。だが武はストレスと極度の食欲不振で心臓が少々弱っていた。しかも過度の運動の後で、薬物に過敏反応を起こしたのだ。周の心臓マッサージとAEDのリレーがなかったら、武は確実に死亡していた。

 ICUを出て病室に移った武には、FBIが警護に付いた。身分が内々にアメリカ政府からFBIに伝えられ、外交的な配慮がされたのだ。武がどのような経路で薬物を飲んだにしても、彼が自分で手に入れられるものではない。誰かに飲まされたのははっきりとしていた。だが武はそれについては首を振って答えなかった。たとえ思い当たる事が一つしかなくても。 

 
 武の入院はそれでも8月の半ばには退院となった。 まだ安静が必要ではあるがアメリカの病院は患者を長く入院させない。 失声と両脚麻痺は屋敷に侵入した賊との格闘と薬物を飲まされて、殺されかけたショックからと診断された。 

 だが高辻はそれにプラスαがあると考えていた。 声を失ったのは夕麿や他の者に泣き言も恨み言を言えないように。 両脚麻痺は帰国するのを望む表面意識に反して、内面は帰国したくないと思っていたから。 武のそういった想いが事件の心的傷害と共鳴したのだろうと。 

 武の在宅治療はメディカルセンターから、紹介された開業医が往診して行う事になった。 これがアメリカの医療システムである。 むろん人選はFBIによって行われ、屋敷にも彼らが泊まり込んでいた。 

 武は看病してくれる母に甘え、身体的にはめぐるましく回復した。 だが声と脚はそのままだった。 

 8月も末が近付いた頃、小夜子は後ろ髪を引かれる想いで帰国して行った。 

 この期間、武は一度も夕麿には会っていなかったがもう何も望まなかった。 母に代わって看病してくれる、周や雅久に努めて明るく振る舞った。 

 だが気にかかっている事があった。 螢との約束だった。 夕麿を守ってくれるならば、生命を差し出すと誓ったのだ。 それなのに自分はまだ生きている。 しかもこんな身体になって。 

 約束を果たさなければならない。 

 武はそう思いながら自由に動けない身体で、どうすれば良いのかと途方にくれていた。 

 最初は夜も交代で付き添ってくれていた周や雅久を、眠る時までは良いと断った。 

 それから武は考えた。 そして見つけた。 

 その夜、雅久が出て行ったのを確認してじっと夜更けを待った。 寝室に灯りを点けて、隠し持っていた包帯を出した。 イルカのぬいぐるみの尻尾に片側を結び付けた。 ベッドのリクライニングをリモコンで起動して身を起こす。 武は何かの支えなしには今は座る事も難しい。 

 イルカをベッドの天蓋のカーテンレールに向かって投げる。 届かずに床に落ちた。 それを包帯で手繰り寄せて再度挑戦する。 何度となくやっていると、ようやくイルカがレールの向こう側へ飛んだ。 イルカを手に取って包帯を外す。 

 武は包帯を手に巻いて、ぶら下がってレールの強度を確認した。 全体重がかかるわけではない。 多分、支えられるだろう。 そう確信して包帯の端を結んだ。輪にした包帯に首を入れてリモコンを操作した。 リクライニングが下がって行くように。 

 当然、武は包帯に首を吊られる事になる。 今の武に唯一出来る方法だった。 これで螢との約束を果たせる。 夕麿を守れる。 次第に首を絞めて行く包帯に武は静かに目を閉じた。 

 ……と、ドアが荒々しく開いた。 

「武さま!」 

 周だった。 彼は慌ててリクライニングを止め元に戻した。 

「何という事を…」 

 包帯を外して周は武を抱き締めた。 

「お願いでございます。 こんな事はお止めになってください!」 

 周の頬を涙が零れ落ちた。 武は側のメモを取って書いた。 

『俺にこんな状態で生きろと言うのか』 

「そうです。 あなたの心臓が停止しているのがわかった時、僕がどんな気持ちでいたか…おわかりですか?」 

 もうあんな想いはたくさんだった。

「僕があなたの脚にでも声にでもなります。だから生きてください」

 ICUで武に生きろと言ったのは…周だったのだろうか?それとも母だったのだろうか?

 武は諦めたようにベッドに身を投げ出した。すぐに天蓋が取り外された。キングサイズのベッドにリクライニング。それで天蓋などとこの特注もののベッドがおかしいのだ。紐の類も全て武の周囲から遠ざけられた。

 それでも武は夜は一人でいたいと主張して絶対に譲らない。周たちはそれを渋々承知した。

 自分でベッドから車椅子に移動する事が出来ない。逆は何とか出来るが息も絶え絶えになる。声が出ないと筆談になり、思う気持ちを十分に書き切れない。どうしてもストレスが溜まり孤独感が増して行く。本を運んで置いてもらってもすぐに読み終えてしまう。PCを覗くのも限界がある。メールを送る…という方法もあるが義勝たちが仕事中に、取り留めない会話は夕麿が許さないだろう。かと言って皇国にいる紫霄の生徒に現状を話す事は出来ない。

 周たちも多忙なのを押して自分の世話をしてくれているのを知っている。

 唯一出来る事は誰にも言えない心情を書き連ねて行く事だけだった。武はシステム手帳に日程と一緒に、日記紛いのものをずっと書き連ねて来た。アメリカに来る前に仕事を始めれば予定も増えると、日捲りタイプのものに切り替えて来たものに細かい字で長々と書き連ねる。

 誰かに見せる訳ではない。だからこそ本音が書ける事にやっと気付いた。

 武の下肢麻痺は通常の脊髄損傷などの麻痺とは様相が違った。兎に角、何かに寄りかからないと座ってもいられない。 腕の力がないから腕だけで身体を動かせない。 リハビリは病み上がりを考慮して未だに始めてはいない。 武自身の体力が第一ない。 

 ないない尽くしに一番苛立ったのは武本人だった。 常に誰かの手を借りなければ移動すらままならない。 元々あまり丈夫でない故に、皆に心配ばかりかけていたというのに。 かといって周囲に当たり散らす訳にもいかない。 

『身分が上の者の身勝手は、仕えてくれる者に多大な迷惑をかける。 平気で行う者もいないわけではないが、それは恥ずべき行為である』 

 こんな時にも夕麿の言葉が蘇って来る。 庶民育ちの武には夕麿の立ち振る舞いや言葉が、いつもいつも自分の指針になっていると今更ながら気付いて辛くなる。 貴族社会の作法も身分が上の者が下の者に対して、どのような態度を取るのが相応しいのか。 全部を教えてくれたのは夕麿だ。 武の伴侶であり教育係として。 紫霄の先輩として。 武は夕麿という目標をいつも見つめて来た。 愛する人というだけの存在ではなかった。 今の立場でいるには必要不可欠な存在だった。 そして自分がどれだけそれに甘えていたのかが、こんな状態になって初めて本当に理解した。 

 誰も彼の代わりにはならない。 

 なれる筈がない。 

 武は相変わらず泣く事が出来ないままヒシヒシと胸を、締め付ける事実を闇の中で見つめていた。

 だが、数日前から不思議に感じる事があった。 

 ある朝の事だった。起きてサイドテーブルから手帳を手に取ると、ほんのりとした温かさを感じた。 別に手帳が本当に暖かいわけではない。 何かが温かさを感じさせるのだ。 手帳に別段、前夜との違いがあるようには見えない。 ただその温もりが武を優しい気持ちにさせた。 

 かたくなに思い詰めていた心が少しずつ解れて行く。 最愛の人を失った痛みは癒えはしない。 寂しさは決して拭えはしない。 

 ベッドを中庭側に寄せてもらって硝子越しに月を見上げる。 別に月が好きだったわけではないけれど…ドビュッシーの『月の光』がきっかけで、夕麿が自分の為に『月』が題名に付いている曲の楽譜を集めていた事実が嬉しかった。 だから今は月を見上げて愛しい人を偲ぶ。 それだけしか出来ないから。 

 思い出が深いものはベッドの上のイルカのぬいぐるみと左手首のミサンガ以外、結婚指輪もスクールリングも皆封印してしまった。 最もスクールリングは夕麿が自分の物を、返して欲しいと言ったので武のものが返って来ていた。 2年間、夕麿の指にあった武のスクールリング。 紫霄はもう卒業したけれど大切な思い出の指輪。 入寮のあの日に手渡してくれたのも夕麿だった。 初めて二人の想いを交わした証だった。 

 全ては終わったのだ。 不自由な身体でも皇国に帰れるだろうか。 口にすると周が悲痛な顔をするので言い出せなくなってしまった。 

 でも…ここにいても虚しさが募る。 言えないまま…帰りたいと日記に何度も綴つづった。

  色褪せた世界に何があるというのだろう。 せめて思い出の中へ帰りたい。 あの温もりは取り戻せないのだから。 もう自分を抱き締めて、愛を囁いてくれる人はいないのだから。 全てを終わりにしてしまいたい。 思い出の中で… 

 綴り続ける哀しみは誰にも届く事はない。 それでも武は自分の心の中を吐露とろし続けた。 それが唯一、武の自由になる事だった。 





 時折、夜中に周や高辻が武の様子を見に来る。 武はいつも全ての光を消すようにして、真っ暗闇の中に横たわっている。 余りにも眠れないと薬を飲んで眠る。 夜中に目覚めた時用に、ミネラル・ウォーターが置いてある。 だからそれで薬を自分で飲んで眠る。

 これが今の彼の状態だった。

 その夜は薬を飲まなくても、早い時間から微睡みの中にいた。 誰かが部屋に入って来たのがわかった。 ベッドがきしんだ。 

 周はいつも武の体温と脈を確認して出て行く。 ベッドに座ったという事は今夜は周が来たのだろう。 気配は感じるが武の意識は半分は微睡みの中にある。 

 指先がそっと頬に触れた。 武は不思議に思った。 体温を調べるならば首筋に触れる。 それがいつもの周の行動だ。 ところが頬に触れた指先は、まるで武の肌の心地を確かめているようだった。 すっと指先が頬から離れたかと思うと今度は優しく髪を撫でた。 その触れ方はまるで彼がここにいるようだった。 

 フッと意識が明確になり武はその手を掴んだ。 息を飲む気配がして手が引っ込められ、再びベッドが軋んで暗闇の中の人影が去って行った。 

 確かに掴んだ筈の手。 武は唇を噛み締めた。 

 次にその人が訪れたのは2日後の深夜だった。 周や高辻とは違う気配が今度ははっきりとわかった。 

 武は静かに眠ったふりを続けた。 自分の記憶に間違いがない事を確かめたかった。 ベッドが軋み指先がそっと頬に触れる。 武が動かないので眠っていると判断したのだろう。 もう一度ベッドが軋んで、相手がさらに近付いて来たのがわかった。 窓から射し込む月明かりを頼りに、武の寝顔を覗き込んでいるのがわかる。 相手はその光が背中になる位置にいる。 だから…目を開けても多分、顔ははっきりとは見えないだろう。 それでも間違える筈はない…… 

 指先が髪を撫で始めた。 確かな息遣いがすぐ側にあった。 武は今度はしっかりとその手を両手で掴んだ。 相手が引こうとするのを防ぐようにその手に口付けた。 何度も何度も繰り返して。 声が出せない分、囁くように優しく唇で触れた。 するとその手が武の手を掴んだ。 返事のように武の手に口付けがされた。 

 ああ…間違いない。 熱い想いが胸を満たした。 武は両手を相手に差し出した。 次の瞬間、武はしっかりと抱き締められていた。 武も両手を相手の背にまわして抱き締めた。 

 涙が溢れて来た。 凍り付いていた武の心が解け出した。 あれ程泣けなかったのに、涙が次から次へと溢れて来る。 声が出ないのに唇は懸命に言葉を紡ごうとする。 

 ……夕麿、と。


 翌朝、武は退院後初めて食堂で食事を摂るのを承知した。夕麿に会いたかったのだ。あれは夢ではなかった事を確かめたかった。食堂のテーブルは車椅子には少し高い。いつもの武の席には肘掛け付きの椅子が置かれていて、義勝が抱き上げて座らせてくれた。

 そこへ夕麿が入って来た。彼は真っ直ぐに武の側に来て深々と頭を下げて言った。

「おはようございます、武さま。御気分おきもじは如何であらしゃりますか?」

 上げられた顔は…仮面のように冷たかった。

『おはよう。気分は悪くない』

 手元のメモに走り書きするのがやっとだった。

「それはよろしゅうございます。後程、資料をお届け申し上げます。レポートをご提出くださいませ」

 感情のない淡々とした口調だった。武は引きつった顔のまま頷いて答えた。

 昨夜のあれは夢だったというのか?それとも他の誰かを夕麿と間違えたというのか?

 ……否。

 絶対に間違えたりしていない。声こそ聞かなかったが、あの温もり…匂い…抱き締め方。 手に口付けた仕種。 愛しい人を他人と間違う筈がない。 

 ではこの違いは何なのだ? 疑問だけが頭の中をグルグルと駆け巡る。 

 朝食のメニューが何だったのか。 それすら記憶に残らない程、武は混乱してしまった。 

「武君、真っ青ですよ? 気分が悪いのですか?」 

 心配の余り声を掛けた雅久に懸命に笑顔をつくって首を振った。 

『久しぶりにベッドから出たら疲れた』 

 そう書いたメモを見せた。 

「余り無理をなさらないでくださいね? 大変な事の後なのですから」 

『ありがとう。 でもそろそろ起きて動かないと益々何も出来なくなるから』 

「それはそうですが…」 

 雅久の様子から判断しても、夕麿の状態は変わらないらしいと判断出来た。

 本当にわからなくなって来た。 やはり夢だったのだろうか? 堂々巡りに疲れて武は考えるのを止めてしまった。 


 午後、夕麿が言っていたファイルが届いた。 ファイルを開くとメモが入っていた。 

『月読の 光は清く あらねども 闇に惑う 心哀しも』 (月の光はあんなに清らかなのに、闇に惑わされた自分の心を哀しく思っています) 

 と歌が詠まれていた。 どちらとも取れる歌だった。 昨夜、武を抱き締めたのは、闇に惑わされただけだとも読めた。 武を抱き締めてしまった事を悔いているように感じた。 

 愛しい人が戻って来たわけではなかったのだ。

 武は携帯を手に返歌をメールした。 

『ぬばたまの 闇に惑いし 面影を 夢と知りせば 我は咎めじ』 (あれは闇に惑い出た幻だったのか。 夢だとわかったものを私は咎めたりはしない) と。 

 再び心が凍り付く事はなかった。 ひたひたと押し寄せて来る哀しみに、武は泣く事しか出来なかった。 それでも懸命にファイルを開いて中を読み始めた。 

 もう甘える事は出来ないから。 
  
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