蓬莱皇国物語Ⅱ~飛翔

翡翠

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   闇の翳り

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多々良たたら正恒まさつね……誰、それ?」

 貴之の口から出た名前を、武だけが知らなかった。

「武さま…4年前の中等部の事件の教師の名前です」

「え……」

 4年前の忌まわしい事件とは中等部の教師だった多々良 正恒はが、自分の教え子数人に手を出し情事の写真や映像を売り飛ばした。中には催淫剤を与えられて、複数の人間に金品と引き換えに輪姦された者もいた夕麿はその被害者の一人だが、幸いにも写真や映像の流出はなかった。だが愛されていると信じていた彼は、知らされた事実に自らの生命を絶ちかけた程傷付いた。武に出会うまで誰かを想う心を凍り付かせてしまう程に。

「逮捕されたんじゃなかったの!?」

「暴行傷害という事で、3年の実刑を受けました」

「既に出所してるという事になりますね」

「そんな……」

「あの事件の被害者で現在学院に残っているのは、慈園院 司が死んだ今、夕麿一人だ…だが何故戻って来た?」

「戻って来た理由もですが、方法もわかりません。都市部には彼の追放は知らされていなかったようで、賃貸契約書の職業欄には中等部教諭と書かれていました。契約は今年の1月末になっていました」

 それは恐ろしい事実だった。何を目的に戻って来たのか。少なくとも彼は板倉 正己に何某かの力を貸した。

「武さま、あなたを箱から出した人物ですが…香水の匂いがした、と申されましたね?」

「うん。俺、余り詳しくないけどね」

 貴之はそう答えた武の前に、小さなボトルを数本並べた。

「その中にありますか」

 言われて武はひとつ一つボトルの蓋を開けて香水を嗅ぐ。

「これは…違う。

 これも…違う。

 これでもない。

 あ…これだ!」

 武が示したボトルに付けられた番号を、手許のメモで確認した貴之が呟いた。

「CHANELのエゴイスト…」

 夕麿が恐怖に引きつった顔で、武を抱き締めた。

「夕麿?」

「あの男は…あなたの事を…知ってしまった…」

「武、エゴイストは多々良 正恒が愛用していた香水だ」

 義勝の言葉に武が息を呑んだ。夕麿を傷付けた教師が、自分の拉致を手伝っていた。もしかしたらあのリビングの光景を、どこかで観ていたのかもしれない。ゾクリと背筋に悪寒が走った。



 寮の部屋に帰って夕麿を着替えさせてベッドに入らせた。まだ部屋係の横井がいたので、取り敢えず彼に夕麿を頼んで義勝たちのいる階下へ降りた。

「高辻先生に電話したら、学会で学院都市にいないって。佐久間先生は来て下さるから」

「うん」

「武、夕麿を一人にするな」

「わかってる」

「俺たちは部屋に戻るが、何かあったら連絡をくれ、時間は気にするな」

「うん」

「会長の側にいてあげて、武君」

 彼らは傷付いてボロボロになったかつての夕麿の姿を見ている。寝室へと駆け戻って行く武を見送り、代わりに降りて来た横井に雅久が告げた。

「お疲れさまでした。明日は控えていただけますか。夕麿さまのお具合が、あの状態ですので」

「承知いたしました」

 礼をして帰った横井に麗が嫌な顔をする。

「何だか良くわからない人だね?感情の欠片も見せないし」

「学院側の配慮らしいですが、会長はあまり信用されていないと思えます」

 貴之のその言葉に全員が頷く。

「それで?まだ何を隠している、貴之」

「お見通しか…義勝。実は生前の星合 清治から嫌な事を聞いた」

「星合 清治?そう言えば奴の情報網もかなりのものだったな?」

「ああ」

「それで?」

「多々良 正恒が会長に手を出したのは、六条 詠美の依頼だった。多々良は証拠として、会長の映像を彼女に渡したと」

「何…だって…!?」

「では今回も、六条夫人が関与していると言うのですか?」

「星合の情報網は引き継がせて貰ったけれど、そっちにもはっきりとは引っ掛かってないだが、可能性はある」

「あのアバズレ、どこまで夕麿を苦しめるつもりだ!」

 義勝の怒りが爆発する。望み通り六条家の相続権は、自分の産んだ息子のものになった筈だ。この上に何がいる?夕麿をそこまで痛め付けて何の益があると言うのだ出来る事なら、六条 詠美を殺してやりたいと思った。


 

 夕麿は駆け付けた佐久間医師の打った鎮静剤でようやく目を閉じて眠った。あんな夕麿は初めて見る。あの時の作業着の男が4年前に夕麿を傷付けた犯人だったとは。全てが解決するのはいつになるのか。夕麿の苦しみはいつまで続くのか。その根源はどこにあるのか。正体の見えないものに、どうやって立ち向かえばよいのか。武は不安の中で眠る夕麿を見つめていた。



 自室に戻っても義勝の怒りは治まる事はなかった。物に当たり散らしてソファの上のクッションが崩壊し中身がリビングに舞い散る雅久は止める事も出来ずに、キッチンカウンターに隠れて自分を守るのが精一杯だった。第一、怪我でもしたら義勝が落ち込む。失われた記憶がなくても義勝が親友として夕麿を、どれだけ大切に思っているのかを雅久はこれまでに充分に見ていた。

 何かが落ちて割れる音は、義勝の心の叫び。

 何かが倒れる音は、義勝の悲鳴。

 凄まじい音は雅久を色彩の嵐となって襲う。それは余りにも激しく雅久の脳を直撃する。色彩の乱舞に翻弄されて意識が朦朧となり始めた頃、ようやく室内が静まり返っているのに気が付いたキッチンカウンターから這うようにして出て見ると、あらゆるものが散乱するリビングに義勝が立ち尽くしていた。

 何かを殴った時に傷付いたのか、義勝の左手からは血が滴っていた。割れた物の破片に気を付けながら、雅久は救急箱を手に義勝に近付いた。さすがにソファは重過ぎて、投げられなかったらしく、位置が移動しているだけだった。義勝をそこに座らせて手の傷を見る。

「破片が入っていたら大変ですから、明朝、登校前に校医の佐久間先生に診ていただきましょう」

 それにしても填め殺しの窓のガラスのなんと頑丈な事!一人掛けのソファが転がっている場所から判断して、義勝は窓に向かって投げ付けたのがわかる。なのに強化硝子には疵ひとつ付いていない。

 雅久は未だに放心状態の義勝を置いて、部屋の片付けを始めた。義勝と違って余り力がない雅久は、重い物はそのままにして動かせる物を移動し、割れた物や壊れた物を片付け念入りに掃除機をかけて、その上から粘着テープのローラーをかけた。

 キッチンでコーヒーを入れて、義勝に手渡すカップを置く筈のガラス張りのリビングテーブルは、粉々になってフレームだけが部屋の隅に転がっている。

「落ち着きましたか?」

「すまない…雅久、大丈夫だったか?」

「傷一つありませんよ、私は。頭は少しクラクラしてますが」

 雅久には騒音が暴力になる。色彩の反乱は時には、脳の処理能力を超え苦痛を与える。聞いた話によると平気な色聴能力者もいるらしいが、雅久は特に顕著な反応を見せる。

「私の記憶がちゃんとしていれば、あなたと一緒の想いを持てたのでしょうね。

 昔の会長の話を聞かせてください、義勝」

「俺はお前がそうやって、冷静でいてくれるのが安心出来て良い。

 昔の夕麿か…可愛いかったぞ?」

 義勝は楽しそうに喉の奥で笑った。

「小等部の頃の夕麿はチビで泣き虫な癖に、正義感が強い気性の激しい奴だった」

「泣き虫で気性が激しい?会長が?」

「声を噛み殺して黙って泣くんだ。負けず嫌いで誇り高いのはまんまだから」

「武君なら同意しそうですね」

「するだろうな。夕麿は武には素のままをかなり見せているようだ」

「武君がそうさせているのでしょう。義勝はずっと夕麿さまと?」

「ああ、何故か寄宿舎もずっと一緒で……まあ、腐れ縁だな」

「嘘ばかり…夕麿さまの事、大切に思ってる癖に。時々、妬きたくなります」

「おいおい、雅久、勘弁してくれ。お前に対する気持ちと、夕麿に対する気持ちは明らかに別物だぞ?」

「本当に?夕麿さまに対して、一度もそんな気持ちになった事がないと?」

「これだけは断言出来る。一度もない考えただけで頭が痛くなりそうだ」

「信じてあげます」

 悪戯っぽく笑って、雅久が唇を重ねて来た。

「今夜は積極的だな、雅久?」

「傷付いた男を慰めたいだけです」

「嬉しい事を」

 義勝は軽々と雅久を抱き上げてベッドへ運んだ。

「いきなりですかせめて制服をハンガーに掛けたいのですけど」

「クリーニングに出せば良いだろ?」

「またそないな事を…」

 旧都育ちの雅久は通常はきちんと標準語を話すが、恥じらったり興奮気味になると旧都の花街の言葉が混じる。それは玲瓏れいろうな姿に彼の艶やかさを一層匂いたたせて義勝を煽る。

「慰めてくれるんだろう?」

「もう慰めんでも、ええようにみえますけど?」

「じゃあ、俺が慰めてやる」

「はあ?」

 何を言っているんだかと思いながら、義勝の背に腕を回して抱き締める。激しい口付けを交わしながら、互いの衣類を脱がしていく。露わになった義勝の胸に、頬を寄せて熱い吐息を漏らす体温が高めの義勝に対して雅久は体温が低い。その温度差が雅久の心を安心させる。程々に鍛えられた胸筋を羨ましく思っ舞は無心になって踊るから体力の限界を忘れる。だが本当は食が細くて、一向に肉がつかない自分の身体を貧相だと思う。一応男なのだから……とは思うが体質だからとも思う。

 銀縁の眼鏡を外され、緩やかに縛っていた髪も解かれて、ベッドに組み敷かれた。

「もうちょっと話しぃたいのに…」

 紅潮した頬で呟く。

「何が聞きたい?」

「夕麿さまは本当に生命を絶とうと?」

「最初のはお前が見つけた治療の為に処方されていた睡眠薬を、こっそり溜めておいて飲んだんだ分量が致死量に満たなかったのと発見が早かったのと、本人が睡眠薬が効き難い体質だったので大事に至らなかった」

「武君が言うてました。夕麿さまには睡眠薬が余り効かへんと」

「ああ、元々効かない体質にさらに拍車がかかったようだ。

 二度目は教師が発見した。中等部の寮の裏で首を吊ろうとした」

 さすがに慌てた学院側が監視を付けたと言う。

「三度目は三年になる少し前だった。春休みを終えて帰って来た時から様子がおかしかった。気になってずっと見張ってたんだ」

「事件は秋頃やと聞いてますが?」

「だから学院側も落ち着いたと判断して、監視をやめたばかりだった。

 中等部の特別棟は記憶にあるか?」

 雅久はしばらく考えて首を振った。行けば違和感なく動けるのかもしれないが、記憶を問われると何もない。高等部の敷地でも時折、わからない場所が存在する。何故欠落しているのか理由がわからない。かと思うと奇妙な部分の記憶ははっきりある高辻医師は変わったケースだと言った。

「すぐ横が崖になっているんだ。何度も特別棟の場所を変える話は出るらしいが未だにそのままだ」

「夕麿さまはそこへ?」

「特別棟の屋上に通じるドアの鍵を壊して…」

 今でもありありと思い出す。屋上の手すりを乗り越えようとした夕麿を引きずり降ろして、羽交い締めにした時の事を。半狂乱で泣き叫んで暴れる夕麿は、死ぬというよりも崖に身を投げる事で、自分の身体を叩き潰そうとしているようだった。

「夕麿はあの時、こう叫んでいた」

『こんな穢らわしい身体なんか粉々にする』と。

「何かが春休みにあったんだと思う。傷付いたままだったが、それなりに落ち着いて来ていたんだ」

「春休みは帰らはられたのですよね、六条家に?」

「その筈だが、夕麿は未だに何も話さない。」

「そうですか…」

「俺が知ってるのは、これくらいだぞ?」

「夕麿さまの事は充分伺いました」

「じゃあ何だ?」

 真っ直ぐに見つめ返されて、雅久は思わず視線を逸らした。最初の頃は失った記憶に関係する事に、ちょっと思考を巡らせただけで激痛が頭の中をかき混ぜた。今はそれとの付き合い方を徐々に学びつつある。だから…ちゃんと話しておきたい。雅久は気付いていた。自分を抱く義勝が時折、物足りなさそうにしているのを。そして自分の中のある渇望を。

「義勝、記憶を失う前の私は、あなたにどのように抱かれていたのですか?左の胸のこれは…ピアスの跡ですよね?」

 雅久が真っ直ぐに見返すと、今度は義勝が顔色を変えて視線を逸らした。

「やはり…あなたの仕業ではなかったのですね?私の身体にこういう事をする誰かが存在した……あなたとは別に私を好きにしていた人がいて、あなたも私もその事を不快に思っていた」

 鋭い痛みが貫いた。これ以上はダメだと心が叫ぶ。この先は入ってはならない、知ろうとしてはならないと全身が警告を出しているようだった。

「少なくとも私はその所為せいで、普通の愛され方ではダメだったのではありませんか?」

「雅久……」

「多分私の為に……私の身体に合わせて、あなたはそんな抱き方を覚えてしまったのでしょう?なのに…今はそれを抑えてくれているのですね、あなたは?」

「俺は…お前を傷付けたくない」

「覚えてはいませんけれど、あなたを見ていればわかります。あなたは私を傷付けたりはしない。ただ、私を満たして癒やそうとしてくれてたのだ。だからお願いです。今の私にも……シて下さい」

 自分ではない自分を義勝が何処かで求め、探し続けている。そこまで想われていた消えた記憶の中の自分自身に、雅久は強い嫉妬を覚えずにはいられなかった。

「ダメだ…雅久…」

「お願いです…私を…虐めて…下さい…」

 言葉にすると奥底から言い知れぬ懊悩が、灼熱のマグマのように沸々とわき上がって来る。あの渇望はこれを求めていたんだとはっきりと理解した。

 義勝は雅久のその姿に、自分の中に抑え込んでいた残虐な欲望が、引きずり出されたのを感じていた。喉がなり、汗が滴る。脈拍が激しくなり、血液が沸騰しそうだった。

「雅久…本当に…良いのか…?」

 欲望に声が掠れる。

「虐めて…下さい…淫らな私に罰を下さい…」

 それは義勝の心のタガを外すには充分の誘惑だった。

「ン…ンふぅ…」

 革製の拘束具で両腕を後ろ手に固定されて、膝だけで身体を支え口淫を続ける。前のめりの姿勢は義勝の大きなモノを奥深くまで、その不安定さで呑み込んでしまう。窒息しそうな状態なのに、雅久のモノは張り詰めていた。

 拘束具の革は滑らかで柔らかく傷や跡が絶対につかない物で、そこに義勝の優しい本当の気持ちがある気がした。

 口腔で脈動するモノが吐精が近い事を示すように、大きさを増して蜜液を溢れさせる。

 記憶を失ってから幾度も愛し合ったが、一度も口淫を求められた事はなかった。拘束されて命令された時は、記憶にない行為に戸惑った。ちゃんと出来るのだろうか、と。自分の行為で義勝は、感じてくれるのだろうか、と。

「くッ…雅久…もう…出すぞ…!」

 長い髪ごと頭を抑えられ激しく突き上げられて、苦しさに息が詰まりそうな中、熱い迸りが口腔を満たした。喉を鳴らして嚥下して顔を上げると、飲み切れなかった精が、欲望に染まった唇から首へと伝い落ちる。

 壮絶なまでの妖艶さに飛びそうになる理性をかき集めて、義勝は雅久の腰を引き寄せ、舞で鍛えられて引き締まった尻を撫で回す。

「あッ…ああッ…」

 汗に濡れ乱れた長い髪が、切なげな吐息に揺れる。

「ひィッ…」

 潤滑用のローションを垂らしながら、蕾に指を挿れて動かすと、肉壁は快感を貪るように絡み付く。

「ああッ…ふン…ひァ…義勝…ヤ…もう…もう…下さい…」

 ジレたように腰が揺らめく。

 数ヶ月ぶりに妖艶な痴態を見た義勝も、我慢の限界だった。指を引き抜いて仰向けにさせて、容赦なく一気に根元まで貫いた。

「…ぁあああああッ!」

 余りの衝撃に拘束されたままの身体を、仰け反らせて雅久は激しく吐精した。喰い千切られそうな収縮に息を呑む。一度吐精していなければ、間違いなく引き込まれていた。

「ああ…義勝…ごめんなさい…」

「我慢の足りない奴だな?俺のを口でシただけで、イきそうになってたのか?」

 耳許に意地悪く囁いて耳朶を噛み舌を伸ばす。

「あッ…あッ…」

 言葉はそのまま色になり、身体に与えられる刺激と共に脳を犯す。義勝の欲望を含んだ声は、蓮の炎となって燃え上がり、雅久の全身を包んで懊悩を激しく揺さぶる。

 体内をかき混ぜるような抽挿に上げた自らの声が、萌葱色の輝きに変じて紅蓮の炎に絡み合い、揺らめきながら消えていく。

 その美しさに涙が溢れた。

 ああ…これが欲しかった……失われた記憶のどこかで、きっと自分はこれを見ていた、と。涙はそれを教えてくれていると、確信した………


「雅久、雅久!」
 
 頬を叩かれて目を開けた。

「大丈夫か?」

 心配そうに覗き込む義勝の顔を見て、失神していたのだとわかる。

「義勝…」

「すまない、途中でセーブ出来なくなった」

「私は大丈夫です。むしろ…幸せな気分です」

 義勝の頬に手で触れて微笑みかけると、唇がおりて来た。軽く触れる優しくて穏やかな口付け。

「どこか痛い所はないか?気分はどうだ?」

「だから、大丈夫です」

 クスクスと笑いながら答える。でもこの優しさが嬉しい。ホッとした面持ちで髪を撫でる手を取り、微笑みながら左胸に導く。

「お願いがあります。」

「何だ?」

「冬休みに……今度はあなたが、ここを飾る物を下さい」

「雅久……」

「私はあなたのもの。その証を下さい」

「……わかった。お前は俺のものだ。どうせエンゲージを買うつもりだった」

「義勝…」

「武が言ってただろう?お前が御園生の養子になったら、次は俺の婿入りだと御園生 小夜子さんに、電話で同じ事を言われた。

 ………高等部を卒業したら、結婚してくれ、雅久」

「義勝…ああ…夢みたいです。嬉しい…」

 本当は武と夕麿が羨ましかった。自分も愛する人と幸せになりたい…と、どれだけ願っただろうか。

「答えは?」

「もちろん、YESです」

 抱き締める腕が温かい。触れ合う鼓動が、互いのリズムを伝え合う。

「雅久、愛してる」

「私も…義勝を愛しています」

 愛の言葉が色になり混じり合う。

「嬉しい…」

 雅久はそれに何度も呟いて眠りに堕ちた。




 微睡みの中で伸ばした手にある筈の温もりが触れない。瞬時に目が開いた。

「夕麿…?」

 慌てた室内を見回すと、彼の部屋に通じるドアが開いていた。武はベッドから出てノックして声を掛けた。

「夕麿、いるの?」

 PCのモニターを見つめていた顔が戸惑ったように振り返る。血の気のない顔は苦悩を写していた。

「武…」

「夕麿、起きて大丈夫?」

「ッ……」

 口を開きかけて顔を背け黙り込む。どう声を掛けて良いのか言葉が見付からない。ただ、立ち尽くす。今の夕麿は触れたら音を立てて崩れてしまいそうで哀しい。

「武…お願いが…あります」

「何…夕麿?」

「あなたに、観ておいて欲しいものが…あります」

 喉の奥から絞り出したような声が、夕麿の心の内を吐露しているように聞こえた。黙って頷くと哀しげに睫が震えるのが見えた。

「約束して下さい…何を観ても、最後まで…終わるまで観ると」

「わかった、約束する」

 並々ならぬものを観せようとしているのだとその言葉から読みとって、握り締めた掌にじっとりと汗がわく。夕麿の机の椅子に座りPCのモニターに向かう。すぐ横で夕麿がマウスを操作する。

「私は向こうにいます」

 やや大きめのモニターに特待生の制服を着た少年の姿が写し出された。一緒に写り込んでいるものから判断すると、今の武より少し小柄で華奢な体格の少年は、声にすすめられるままに黒革のソファに座った。

 画面が切り替わるようにして、少年の横顔がアップになる。

「!」

 まだあどけなさが顔に残っているが、それは間違いなく夕麿の横顔だった。

「これ…中等部の…夕麿…?」

 特待生制度は中等部から採用されている。ついこの前、学祭で後輩たちを見たばかりだ。

 モニターの中の夕麿は、少しはにかんだように微笑んでいた。その視線の先に誰かいるらしく、くるくると表情を変えて会話をしていた。会話の内容はとりとめもないもので、夕麿は嬉しそうに笑っていた。

 そこでまた切り替わる。今度はソファの正面からのアングルに変わっていた。

 横に人が座っていた。体格からして大人だとわかる。

 抱き寄せられた夕麿は、瞳を輝かせてその人を見上げている。編集で人物の顔は、わからないようにされていた。

「六条は甘えん坊だな?」

 囁かれて真っ赤になって男の腕の中から、逃げ出そうとする夕麿を力で抱きしめて封じる。

「先生…離して、多々良先生…!」

 夕麿が口にした名前に武は息を呑んだ。

 夕麿の映像はなかったのでは?

 心臓の鼓動が激しくなる。第一、それを何故夕麿が持っている?疑問を感じながら観ていると、映像の中の夕麿にそっと唇が重ねられる。

「先生…」

 驚いて目を見開く夕麿を、カメラはしっかりと映し出していた。優しく頬を撫でられ再び唇が重なる。今度は舌を差し込まれ、翻弄されているのが観ているだけでわかる。男の胸元を握り締める手に力が籠もり、幼い唇から甘い声が漏れる。

 詰め襟が脱がされ床に落ちる。

 絹のシャツのボタンが外されていく。

 離された唇が首を伝い、舌先が肋骨を舐め、幼い身体を啄むように愛撫する。

「あ…先生…くすぐった…ン!」

 シャツを脱がせ終わった指が、白い肌の上で微かに色付いている乳首を摘んだ。

「あッ…ヤ…先生…やめて…」

 夕麿の顔が不安と悦びの2つの感覚で揺れ動いている。口では抗いながら官能的な口付けを初めて受けて、身体は力をなくして男の為すがままのようだった。

「可愛いな」

 その言葉に頬を染めるのが初々しい。

「あッ!先生!ダメ!ヤダー!」

 いきなり下着ごと下肢を剥かれて悲鳴を上げるが、すぐに脚を開かされて羞恥に啜り泣く。男はそれに戸惑いもせずに、まだ快楽を知らない幼いモノに指を絡ませゆるゆると扱いはじめた。

「ン…あッ…ヤ…ああッ…」

 息が乱れ肌が染まり、色付いた唇から喘ぎ声が漏れる。未経験のあどけない身体を官能が支配していく。

「ヤぁ…ああッ…!」

 それは夕麿には生まれて初めての吐精だった。

 夕麿も武と同じく他者の手でイかされるまで、自慰すらしらない無垢な身体だった。

 全身を貫いた快感に為す術もなく翻弄され、荒い息をして横たわる彼の膝を胸に押し付けるようにして、誰も触れた事のない秘部を露わにする。

 今、彼が放出したものを潤滑剤にして、蕾が暴かれ開かれていく。

「ヤ!先生!そこヤダぁ…!」

 小柄な身体はどんなに抗っても、大人の力にはかなわない。指を増やされ解されていく蕾と、泣いて嫌がる声が続く。

 武は爪が食い込む程、手を握り締めていた。

 観たくない。

 これ以上観たくない。

 だが夕麿との約束が身体を縛っている。

 指が抜かれ、男のモノが蕾にあてられた。啜り泣く声が悲鳴に変わる。だが男はそれを気にする事なく、一気に押し開いた。激痛に四肢が痙攣し、恐怖に引きつった顔が映る。

 合意じゃない!

 何もわからないまま、陵辱されたのだ。悲鳴と泣き声が続く中、一方的に揺すられ光をなくした瞳から涙が次々とこぼれ落ちた。

 しばらくその様子が続いて、再び場面が切り替わる。ハンディカムで撮影したのだろうかぐったりと意識なく横たわる身体を、嘗めるようにカメラは映し出していく。

 白い肌に散る鬱血の跡。

 大きく開かされた下肢。

 体内に放たれた精が溢れ出している蕾は、傷こそ負ってはいないが赤く腫れている。無惨な姿を撮影されているとは知らずに、涙に濡れた目蓋は固く閉じられていた。

 次に映し出されたのは、最初の状態から少し日付が過ぎたように思えた。ベッドの上で組み敷かれる夕麿は、男の愛撫に感じて身悶えていた。さすがにまだ受け入れるのは辛そうではあったが、次第に声が甘みを帯び四肢を男に絡めて腰を振る。

「先生…先生…もう…もう…ああッ!」

 仰け反った身体が震え、夕麿のモノが弾けた。啜り泣く彼に男が囁く。

「良い子だ、夕麿。初めて挿れられてイったな」

 ………何だこれは?バラ撒く為に作られたものじゃない?まるでこれは誰かに経過報告しているみたいだ。

 DVDはその後も夕麿が快楽に溺れていく様を映し出して、最後には男のモノを口淫してから跨り、自分で挿れて淫らに腰を振ってイく姿で終わっていた。

 武は震える指でPCを切り、立ち上がって寝室に戻った夕麿はベッドに身を投げ出すようにしていたが、武が戻ったのを見て起き上がった。

 暗い瞳が一瞬、武を見つめてそらされた。

 武は夕麿の前に立って手を伸ばして、夕麿を抱き起こして頭を抱いた。

「あれ…誰が夕麿に渡したの?」

義母ははです…あれを観た時、この身体を粉々にしたくなりました…あんなものを撮影されていたなんて…」

「最初は合意じゃないじゃないか…」

「ええ…でも…特別だと言われて…」

 誰かに愛して欲しかった。

 誰かに必要だと言われたかった。

 抱き締められる温もりが欲しかった。

 だから縋ってしまった。

 だから信じた。

「辛かったね。悲しかったね」

 そう言って抱き締められてようやく、夕麿は自分の本心に気が付いた。暴走して彼を傷付けたのもあんな無惨な過去の映像を観せたのもたった一つの理由だったと。

「武…私は…あなたを試しました…」

「うん、気が付いてた。幾らでも夕麿が納得するまで、俺を試して良いよ。でも忘れないで?この前、俺は夕麿がアイツを抱いていると思えるのを見ても夕麿といるのを選んだよ?」

 ああ、そうだ…彼は自分を捨てたりしないでは自分は何が信じられない?目の前が真っ暗で答えが見付からない。

「夕麿がずっと一人だったのは、夕麿の所為じゃないよ?あれだって夕麿は悪くないどうして自分を責めるの?ダメだよ、夕麿?こんなに頑張って来たじゃないか」

「武…」

「もう許してあげて、昔の夕麿を。

 もう一人じゃないだろ?俺がいるよ。俺は夕麿を愛してる。夕麿だって俺の事、愛してくれてるだろ?」

「もちろんです、武」

「じゃ、あれ、壊して良いよね?

 俺は夕麿の過去をちゃんと受け入れたから、必要ないだろ?それともいつか俺を捨てて、誰かを好きになってまたあれを観せたい?」

「壊して…下さい…」

 答えた夕麿の声は震えていた。

「わかった」

 武はもう一度夕麿の部屋に戻ってPCを立ち上げ、ドライブからDVDを取り出した。それを寝室に持って行き、夕麿の目の前で叩き割った。

「もうDVDはない。

 忘れるのは無理だろうけど、大切なのはこれからだよ?」

 武の言葉に涙を浮かべながら頷いた。

「夕麿って…泣き虫だなあ…」

「昔から義勝によく言われます」

「ふふ、みんな知らないよね、そんな事?

 それに…中等部の頃の夕麿、滅茶苦茶可愛いかった…タイムマシンに乗って先回りして、俺が押し倒したいくらいだよ」

 そう言うとみるみるうちに、夕麿が頬を染めた。

「あ、あれは…まだ中等部の2年生だから…当たり前です!」

「あれから急に身長が延びたの?あれ、俺より小さいよね?」

「どうせ…」

 横を向いて拗ねる。

「あ、ごめん、気にしてたんだ?……うわッ!」

 茶目っ気たっぷりに言うと、いきなり抱き寄せられてベッドに押し倒された。

「憎たらしいですね。どの口がそんな事を言うのです?そんな可愛げのない事ばかり言うと、お仕置きしますよ、武?」

「えッ!いや、あの…あッ!ダメ…あッあッ…」

 戸惑う武の脚を膝で割、腿で股間を押す。いきなりの刺激に武は身悶えする。耳朶を甘噛みされて仰け反った。

「あッあッ…ダメ…ヤぁ!」

 衣類を着たまま吐精してしまった。

「え?」

 夕麿もこの反応には驚く。

「ヤダぁ…見ないで…夕麿のバカ…虐めっ子!」

 両手で顔を隠して恥ずかしがる武は一段と可愛い。

「随分呆気ないですね、武?」

 可愛い過ぎてつい虐めてみたくなる。

「すっかり淫らになって…」

「夕麿の…夕麿の所為だからな…! 俺を…こんなにしたのは…夕麿じゃないか…」

 涙ぐんで呟くのも可愛い。

「武…私の武…」

 囁きはどこまでも甘く、耳に響くだけで身も心もドロドロに溶けてしまいそうだった。 いつの間にかはだけられた胸を、しなやかな指が撫で回す。

「夕麿…待っ…」

 制止の言葉は口付けに塞がれ言わせてもらえない。 舌を絡められて、強く吸われただけで、イったばかりの敏感な身体は戦慄く。 吐精で濡れたパジャマを下着ごと脱がされ、羞恥にもがいても、口腔で蠢く舌にすぐ翻弄されてしまう。 ようやく離れた唇が、頬に、額に、口付けの雨を降らす。

 すぐに変われるとは思わない。 だが、愛する人の為に変わりたいと想う。 全てを拒絶していた見せ掛けだけの偽りの強さはいらない。

「あッ!夕麿…ダメ…汚い…」

 下肢を濡らす精を舌先で舐めとると武が悲鳴を上げる。

「いつもあなたのを飲んで上げるのに、汚いわけがないでしょう?

 ちゃんと綺麗にしてあげます」

 何もかもが愛しい。 こんなにも誰かを愛せる日が来るとは、思ってもみなかった。 こんな自分を丸ごと包み込んで、愛してくれる者がいるとは思わなかった。

「も…欲し…」

 腰を突き上げて求める武を抱き締めて、ヒクつく蕾を押し開いて挿入すると、待ち構えたように肉壁が絡み付き収縮して、貪欲に貪って来る。

「夕麿…夕麿…」

 欲しかった温もり。 そう…ただ、誰かに優しく抱き締めて欲しかった。



 事後の気怠さの中で肌を寄せ合う。 触れるだけの口付けを交わし指を絡める。

「夕麿、あのさ」

 武が真っ直ぐな目で言った。

「多々良って人、多分、俺は狙わないと思うよ」

「どうしてそう思うのですか?」

 武の言葉に怪訝な顔で問い返して来る。

「俺をどうにかしようと思うなら、この前、幾らでも時間はあったと思うから。 板倉の目的だって俺が、そんな事になった方がやりやすかった筈だよ?でも俺は実際には何もされてない」

「それはそうですが…別の理由があったのかもしれません」

「そうかな…もっと単純じゃないかな…あんまり考えたくないけど」

「何をですか、武?」

 その問いに武は躊躇ってから、答えた。

「目的は夕麿だと思う。

 その、六条夫人が関与してるかどうかまではわからないけど、俺は絶対に夕麿が狙われてると思う」

 紡がれた言葉に夕麿は顔を引きつらせ微かに身を震わせた。

「ごめん、怖がらせるつもりはないんだ、夕麿。 でもそう思って気を付けて欲しい。」

「武…」

「絶対に独りきりにならないで。 みんなにもお願いしておくから ………ごめんなさい、夕麿。俺、心配してくれる夕麿の、今までの気持ちわかってなかった」

 過保護だと反発していた。 でも実際に逆の立場になってみると、過保護などではないと感じられた。 出来るなら自分が身代わりになりたいと、叶えられない想いを抱く焦燥感。

 なのに逆らってばかりいた。

 夕麿が怒ったのも当然だった。

 何も知らずに浅はかなわがままを繰り返していた。

「本当にごめんなさい。 だから、夕麿も俺の言う事を聞いて」

「ありがとう、武。 気を付けるようにします」

「うん」

 これ以上、大切な人が傷付いて欲しくない。 だから守りたい。 気持ちは同じなのだと。

 そして…夕麿から恐怖心が去ったわけではない。 鉄の塊を飲み込んだような、重い不快感は消えない。 気を抜いて想いを巡らせれば身体が震える程怖い。 底知れぬ闇の井戸を覗き込んでいるような、不安定な恐ろしさ。 今、その恐怖に耐えられるのは、武が優しく包んでくれるから。怯えは心身の気力を奪う。 いざという時に身動き出来なくなる。 わかっていても心と身体を引き裂かれた過去の痛みの記憶は消えない。 震える手を温かい手が握り締めた。

「夕麿、俺はここにいるよ? 大丈夫だから」

 頭を抱かれて幼子のように啜り泣くと優しく髪を撫でられた。 武はただ抱き締めるしか出来ない自分を情けなく思う。

 強くなりたいと思った。



 俄かに降り出した雨が、次第に強まっていく。

 最近、貴之に合気道を習い始めた武は、毎週金曜日、武道館で稽古に勤しんでいた。

 強くなりたい。 その想いのひとつとして。

 武道は心身を共に鍛える。

 それで全部を叶える事は出来ないが、ひとつのきっかけにしたいと渋る夕麿を説得した。 幸いにも護身術はムダにはならないと貴之が助言してくれたので、合気道ならば…という条件で夕麿が承諾した。

「武さま、これ以上、雨足が強くなると寮に戻りにくくなります。

 今日はこれでおしまいにしましょう」

「はい、ありがとうございました」

 きちんと礼をして終了する。

 身体を冷やさないように汗を拭い、制服に着替えるうちに雨足は一層強くなって来た。 傘を探しに行こうにも、校舎からもかなり離れた位置に武道館は建てられている。

 貴之にすれば武をここに一人残して、探しに行くわけにもいかない。

「貴之先輩、走って寮まで帰ろう?」

「しかし…それでは…お待ち下さい。 誰かに持って来させましょう」

「でも…」

 そうしている間にも雨は強まっていく。

「失礼いたします」

 突然、背後からの声に貴之が武を庇うように動いた。

 有段者の貴之に気配を全く感じさせずに姿を現したのは、特別室の雑務を任されている横井だった。

「夕麿さまの御言いつけで、傘をお持ちいたしました」

 差し出された二本の傘を貴之が受け取る。

「夕麿さまは寮にいらっしゃるのですね?」

「はい。

 出て参る折には、ピアノをお弾きになられておられました」

「え?」

 その言葉に武の顔色が変わる。

「夕麿さまはお一人か!?」

「はい、お一人で戻られましたので」

 貴之が、しまった…という顔になる。

「あ…雅久先輩は昨日から舞の稽古だ…」

 雅久は武の祖父の推挙で、正月に宮中で舞を披露する事になり、昨日から講堂を借りて稽古を始めていた。武も貴之も、それを失念していた。 いや…普通は誰かがこんな場合はサポートする。

 何故?

「貴之先輩…」

「急ぎましょう」

 二人は横井に別れを告げて、傘を片手に寮に向かって駆け出した。 寮は校舎からは歩いて10分弱、武道館からは15分程離れている。学院では一番最初に創建された高等部の敷地が最も面積が広い。 寮は大学部を見下ろす高台にあり、高等部の敷地の最も外れにある。
 
 途中で傘が邪魔になって、たたんで走る。

 学院側は武の再三の要請にもかかわらず、夕麿に護衛を付けようとしない。風紀委員を付けるには委員長である貴之が、武の護衛にとられている為にこれ以上の人員が削られると、冬休み前の不安定な生徒たちに目を配れなくなる。

 学院では休みの前に生徒たちの幾人かが、不安定な精神状態に陥る。 どの長期の休みの前にも、身元引受人を失って学院から出れなくなる生徒が出義勝のようにある程度慣れてしまうと諦めを覚えて冷静だが、日の浅い者は悲喜交々に暴走する自傷行為に走る者。 他者を傷付けて憂さを晴らそうとする者。 そういった者を制止し学院の秩序を守るのも風紀委員の仕事なのだ。 生徒会も対策に動くが、彼らを拘束する権限は風紀委員会にある為、限界がある。

 雨は既に豪雨になっていた。 視界が真っ白になる。12月が近い今、叩き付けるように降る雨は氷のように冷たい。 水を含んで重くなった制服は、体温と体力を奪っていく。 特待生寮の玄関セキュリティーを解除して、エレベーターを呼ぶ。 降りて来る間がもどかしい空調が効いている筈なのに、身体が震える程寒い。 二人は降りて来たエレベーターに飛び乗った。玄関セキュリティーを外すのすらもどかしい。 中に飛び込むと、ピアノの音が聞こえて来た。 リビングのドアを荒々しく開け放つ。

「武?」

 ピアノの音が止まり、夕麿が振り向いた。 ずぶ濡れで床に水溜まりを作りながら立っている、武と貴之を見て目を見開いた。

「どうしたのですか!? 傘は届けさせた筈ですが?」

「はあ…」

 夕麿の無事な姿を見て、武と貴之は一変に力が抜けてへたり込んでしまった。

「夕麿ぁ…何で独りきりなんだ…」

 安心した途端にくしゃみが連続して出る。

「…ッ…バスタブに湯を入れて来ます」

 夕麿が珍しく狼狽して立ち上がりバスルームへと向かった。

「取り敢えず…良かった。 貴之先輩、夕麿は俺がちゃんと叱っておくから、先輩も部屋へ戻ってお風呂入って」

「わかりました。 では、おやすみなさいませ、武さま」

 武は貴之が立ち去った後も、安堵に腰が抜けて動けなかった。

「とにかく、着ている物をすぐに脱いで下さい。体温が下がるだけです」

 戻って来た夕麿は武の頭にタオルをかけ、濡れた制服を手早く脱がせ始めた。

「心配をさせてしまったのは、謝ります」

「どうして一人で帰って来たんだよ」

「雨が…雨が好きではないのです。雨が降るのを見ていると、居たたまれない気持ちになるのです。雨音はもっと…聞いていると、苦しくて、悲しくて…」

「だからピアノ、弾いてたんだ」

 寮は完全防音である。各部屋の玄関扉は重圧で音を通さない。壁も床も天井も、普通のマンションの数倍の断熱防音の処置がとられている。

 リビングも本来は微かに空調の音がするだけだ。だが嵌め殺しの巨大な窓は、今も激しく降る雨に叩かれていた。

「ああ…こんなに冷え切って…」

 夕麿は武を立たせて衣類を全て脱がせ、変わりにバスローブを着せ、少しでも冷えた身体を暖めようと抱き締めた。

「暖かい…」

 抱き付いて呟くと、上から安堵の溜息が降って来た。

 夕麿の精神状態の不安定は、未だに続いている。大抵は本人が抑圧してしまう為、そのようには見えない。だが時折今日のように、衝動的としか思えない行動をする。高辻医師によると、ひとつには催眠術による暗示の後遺症だと言う。しかも4年前の心的外傷を利用して、暗示をかけられていたと考えられていた。複数の暗示をかけるには、相手の弱点や恐怖心を逆手にとって使うのが一番効果がある。

 表面化したそれを再び抑圧してしまおうとすると、当然ながらどこかに無理が起こってしまう。多々良 正恒の名に異常な怯えを見せたのも、今日のような行動に出てしまうのも、抑圧された心の悲鳴とも言える。本人には制御は出来ないものが多く、何かに縋らないと治まらない。武が不在であった為に、彼はピアノに縋ろうとしたのだろうひたすらに弾き続ける、奏でる音に心を預けて。それ以外が見えなかったに違いない。

 不安感に支配されると人間は迷路を彷徨う気持ちになる。切迫感は胸を押し潰し、やり場のない居たたまれなさに恐怖する。迷路の出口を示すアリアドネの糸を求めて彷徨う。

「夕麿、お風呂は?入ったの?」

「それは…お誘いですか?」

「ダメ?」

「とんでもない」

 平気な顔を装っているが言動がやはり不安定だ。

「着替えを用意します」

 離れようとする夕麿に武は慌ててしがみ付いた。

「いらない!」

「え?」

 怪訝な顔をする夕麿の胸に顔を埋めて、恥ずかしさを堪えて呟いた。

「どうせ…すぐに脱いでしまうじゃないか…」

 本当は穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。

「今日は積極的ですね、武」

 言葉はいつものように聞こえる。しかし武を抱き締めている手は震えていた。出来る限り窓を見ないようにしているのも窺える。

「もう、お湯、溜まったかな?」

「見て来ましょう」

「ううん…いい貯めながら入ろうよ、寒いから」

「え…それはいけません。風邪をひいてしまいます」

 今は出来る限り離れないようにしたい。

 パウダールームに入って、武は夕麿に口付けを強請り彼の衣類を脱がせていく。顔から火が出そうになりながら、夕麿の手を引いてバスルームに入った。二人でシャワーを浴び、半分程しか溜まっていないバスタブに入る。

 夕麿は武を抱き寄せて、手で肩に湯を掛け始めた。

「武、もっとくっついて、こんなに冷たい…」

「うん…でも温かくなって来たよ?」

 何だろう?雨で冷えた身体に、異常に反応している気がする。

「俺も、余り雨は好きじゃない。母さんが留守の時にアパートの部屋で、雨音を聴いているのは寂しくて…怖かった。何故かって聞かれたら、今でも理由はわからないんだけどね」
 
 夕麿の胸に頬を寄せて、さり気なく言ってみた。

「お義母さんは武に、よくお留守番を?」

「たまにね」

 どこからも援助のない母と子だけの生活。小夜子の両親の残した遺産は、武の学費を考えて出来る限り温存しなければならない。だから彼女は近くの裕福な家庭で、ピアノを教えていたと聞く。幼い武はひとりアパートの部屋で待っていたのに違いない。その姿を思い浮かべて夕麿は微笑んだ。幼い時の彼はさぞかし愛らしかっただろうと。

「小さな子供には…雨は…辛いですから」

 ポツリと武の頬に温かいものが落ちて来た。驚いて見上げると夕麿の頬を涙が濡らしていた。

「夕麿…?何があったの?」

「義母が…私の返事が気に入らないと…雨の降る庭に…」

「…ッ…夕麿を雨の中に出したの!?」

「2月の寒い日でした…雨は…刺すように冷たかった…」

 恐らく小等部に入学する前の出来事だろう。

「酷い…」

「私はその後、肺炎を起こして、生死の間を彷徨いました。苦しくて…呼吸が辛くて…」

「そっか…だから嫌いなんだね、雨が」

 夕麿は口にしないがひょっとしたら、六条 詠美に虐待めいた扱いをされていたのではないだろうか?

「夕麿、あのひとがした酷い事はそれだけ?」

「それは……」

「話したくないなら無理に言わなくていいから」

 執拗に夕麿に対する嫌がらせは、今に始まった事ではなかったのだ。 武は激しい憤りを感じていた。

「そんな顔をしないで下さい、武。 昔の事です」

「夕麿がそう言うなら…」

 本当は納得などしていない。 けれどその事に拘れば、夕麿が余計に不安定になる武は話題を切り替える事にした。

「帰って来た時に弾いていたのは何て曲?」

「ショパンの『前奏曲 第15番 変ロ短調 雨だれ』です」

「あのね~雨嫌いなのに、何で『雨だれ』なんて曲を弾くんだよ?」

「でも、美しい曲だと思います。『雨だれ』はショパンが、女流作家のジョルジュ・サンドと同棲していた時期に創作されたと言います。

 愛する人と見る雨は、違うのでしょうか?」

「う~ん…どうだろう? 今度、小雨の時にでも試してみよう。今日の雨はちょっと…ね?」

 雨がいつか良い思い出に変われば良いと、武は思わずにはいられなかった。 辛くて悲しい思い出より、優しくて温かい思い出が増えるように…祈らずにはいられなかった。

「夕麿はショパン、好きなの? いつも曲名聞くと、ショパンだよね?」

「どちらかと言うと好きです。 武はどんな曲が好きですか?」

「ドビュッシーの『月の光』とか…かな?

 あ、でもショパンの『夜想曲ノクターン』は好きだよ?」

「夜想曲? たくさんありますがどれでしょう?」

「夜想曲としか知らない」

「それ誰が弾いていたんです?」

「中学校の時の同級生」

「…女の子、ですね?その子の事、好きだったのですか?」

「はあ? 何でそういう話になるのさ?」

 夕麿の嫉妬混じりの言葉に、思わず素っ頓狂な声で聞き返した。

「声が裏返るところをみると図星ですか?」

「あのね~怒るよ、夕麿!

 俺は夕麿と出会うまで、恋愛感情なんて知らなかったんだよ?」

 見上げて言うと夕麿は真っ直ぐに見返して来た。

「本当に?」

「嘘ついて何の得があるんだよ!

 俺…最初は夕麿の側にいる時の感覚が理解出来なくて…不安で…困ったんだから!」

「いつ…わかったのですか…」

「…温室の…後…」

「では私があなたにとった態度は辛かったでしょう?」

 夕麿もはっきりと自分の感情を自覚した時期だった。だが怖かったのだ。 誰にも触れる事はないと、そう思っていた筈だった。 身体も反応しないと思っていた。

 ……もう裏切られるのは嫌だった。

 怖かった。

 だから敢えて背を向けて冷たい態度をとる事で、自分の心に生まれた感情を無視しようとしたのだ。

「俺…嫌われたって思ってた。

 あんな姿見られたんだから仕方がないって。 元々、叶う筈がないって思ってたし。 あんな状態だったけど、抱き締めてもらえたから…それで…満足しようって。だけど、夕麿を見る度に胸が引き裂かれそうだった。 苦しくて苦しくて……」

 今でも思い出すと胸が痛く涙が溢れて来る。

「武、武、泣かないで下さい。あなたはこんなにも私を想ってくれていたのに…自分の事しか考えていませんでした。 また裏切られるのが怖くて…逃げたのです…許して…」

 流れ落ちる涙を舌先で舐め取り唇を重ねた。

「ふン…あ…夕麿…好き…」

 双方ともに不慣れで不器用で臆病だった恋の始まり。

 人のえにしとは摩訶不思議。


 愛し合う二人を包むように、明け方近くに、雨はこの冬初めての雪に変わった。


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