蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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雅久の怒り

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 雅久が彼がそこから出て来るのを目撃したのは半月ほど前だった。ちょうど武が軽い発作を起こして早く帰宅し、続いて夕麿が帰宅した。雅久は病院に寄って解熱剤などの処方された薬を受け取って少し遅れて帰宅した。

 雅久と義勝の部屋は居間の前の廊下を真っ直ぐ進めば、武と夕麿の部屋である離れへの渡り廊下を過ぎた場所にある。廊下はかなり長く渡り廊下は半分と少し進んだ場所にあり、その分岐点の横に夕麿の乳母である絹子の部屋がある。ちょうどそこを通り過ぎて部屋へ入りドアを閉めようとした時に、渡り廊下から飛び出して来た彼を目撃したのだ。向こう側には武たちの部屋しかない。二人は既に帰宅して部屋にいるはずだ。嫌なことが胸を過った。

 次の日、青白い顔で夕麿が雅久と義勝の部屋を密かに訪ねて来た。彼は昨日のことを次のように話した。

 発作で不安定になっている武を抱いて疲れていたのか、夕麿も微睡まどろんでいると微かな音が耳に響いた。何となく寝室と夕麿の部屋の双方に扉があるウォークインクローゼットの開閉音のような気がした。しかも続いて自室のドアの開閉音らしきものも聞こえた。誰かがクローゼットに潜んで二人の閨事ねやごとを覗いていた可能性がある。武に気配を気付かせないでいる人間は一人しかいない。その事実に夕麿は全身の毛が逆立った気がしたと言う。

 そこで確かな証拠が欲しくて帰国したばかりの貴之に相談した。彼は適当な理由を付けて御園生邸に戻り、夕麿の許可を得てドアとクローゼットの扉の双方を画角に入れて、室内に動人の動きがあれば録画されるように設定した隠しカメラを仕掛けた。

 そして夕麿はあえて似たような状況をつくった。もちろん、覗かれるのをわかっていて行為には及べない。あくまでも形だけ状況をつくったのだ。

 発作を起こしている状態の武を抱きしめて安心させて眠らせ、自分も微睡んでいるように見せかけた。すると先日と同じ音が聞こえた。今度はハッキリと目覚めているため、廊下を通り階段を下りて行く音が聞こえた。

 その夜、夕麿が自らカメラを取り外し、雅久と義勝が貴之に届けて録画されたものを確認した。



 皆が集まったのを確認して貴之がプロジェクターで映像を壁に映し出した。

 夕麿のドアとクローゼットの扉が映し出され、すぐにドアがゆっくりと開かれた。どうやらドアノブの動きに反応して、カメラが作動をした様子だった。

「⁉」

 ドアをすり抜けるようにして部屋に入って来た人物を見て、何人かが息を吞んだ。

 武の異父弟 希だった。彼は部屋の中を見回し、クローゼットの向こうの様子を窺ってからそっと扉を開けた。その中にするりと慣れた様子で入り込んだ。

 貴之がここで映像を切った。

「見たところ昨日今日始めたことじゃなさそうだな」

 雫が吐き捨てるように言う。

「武さまがなぜか彼の気配だけは察知できないのをいいことに、二人の寝室を覗くとは大した度胸だ」

 周が怒りと不快感を隠せない口調で言う。彼は御園生邸の住人だった頃には。希の勉強を見てやったりギターを教えた。いずれは身分の差で引き裂かれる異父兄弟であるのを、周は不憫にさえ感じていたのだ。

「部屋にカメラを仕掛けたということは、夕麿さまもお気付きになられたのですか?」

 三日月の言葉に頷いたのは義勝だった。

「雅久が二人の部屋への渡り廊下から希が出て来るのを目撃して、そのすぐ後に夕麿が俺たちの部屋へ真っ青になって駈け込んで来た」

 夕麿には誰であるのかの予想はついていた。当然だろう。武が気配を感じない相手は一人しかいないのだから。

「昔の夕麿は眠りが浅く微かな変化にも過敏に反応して目を覚ました。しかしここ数年、おそらくは清方先生の治療の結果の一つだと思えますが、武の話だとかなり深く眠るようになっているらしい。だから何度も今回のようなことがあったとしても、二人して完全に眠って気が付かなかったのではないかと」

 今回はまだ微睡みの状態であったために気付くことができたのだった。

「よほどショックを受けられたのでしょう、ここのところ不調を口になさいます」

 雅久が睫毛を伏せて言う。

「以前の発作が復活しないかが気になります」

 まさか武にこのことを告げれず、懸命に耐えている夕麿を支えている現状だった。

「早急に御園生邸から離れていただくべきではないでしょうか」

 康孝が言った。彼も夕麿のかつての発作を目撃している一人だ。

「病院も避けた方がよいでしょう。こうなると宮の造営が終了していないことが残念ですね」

 保が言葉を添える。

「できれば我々以外、御園生の人間と顔を合わせないように配慮すべきだな。清方、久方さまにホテルの例の部屋の用意をお願いしてくれ。あそこが今は一番だろう」

「それは構いませんが武さまも御一緒に?」

 清方にすれば二人一緒の方が、夕麿の精神状態も安定しやすい。

「あちらに武さまだけ……は夕麿さまがお許しにならないだろう」

「そうですね。武さま御自身にも良くはありません」

「しかしそうなると理由を何と説明するか……」

 真実をまだ言えない状況では、他の理由がないと難しい。

 言えない理由はただ一つ。武が異父弟を絶対に許さないからだ。

「それは私に任せていただきます」

 清方にはちゃんと策があるらしい。

 その時だ。周のスマホが鳴りだした。着信音は武からの発信尿に設定したものだ。

「はい、周でございます、武さま。如何なされました?……え⁉夕麿が?わかりました、すぐに向かいます」

 彼の口から出た夕麿の名前、全員が嫌な予感を感じていた。

「夕麿が倒れた」

 やはり……という思いと同時に全員が動き出した。

「雫、ホテルの方はすぐに手配します。周、病院には運ばないでください。義勝君、雅久君、お二人の当座の荷物を」

 清方の言葉を受けてそれぞれが急いだ。


 義勝と雅久の乗る車のハンドルを握っているのは貴之だった。敦紀は康孝の運転で宮に併設されている住居へ帰った。

 側に残っているべきだった……雅久の心は後悔でいっぱいになっていた。出かける時に不調気味な夕麿が休めるように、できるだけ部屋で安静にしているようにと義勝が指示していた。武も心配してここのところ側を離れないようにしていた。本来ならば体調に揺らぎはあっても倒れるようなはずがない。考えられるのはただ一つ。希と顔を合わせたのだろう。

 自分たちが出かけるのと入れ違いで、小夜子と有人が帰宅する予定になっていた。帰宅した小夜子が夕麿の不調を聞いて部屋へ足を運んだに違いない。おそらくは希を近付けないように、部屋に入れないように絹子に言っておいたが、小夜子と一緒に動かれたら武にまだ現状を伏せているだけに、排除はできなかっただろうことが考えられた。


 雅久たちの車は雫たちよりも早く御園生邸に到着した。あとから来る車の邪魔にならないように配慮しながらも、武と夕麿の部屋の前にまで入り込んで停車する。貴之はそのまま車内に残り、雅久と義勝が降りて武たちの部屋へ向かった。

 本来は庭に出るために使っている外側の出入口から室内に入った。

 ぐったりした夕麿がソファで、寄りかかるようにして武に身を預けている。テーブルを挟んで小夜子がいて、その横に希が立っていた。

「義勝兄さん、さっき過呼吸起こしかけた」

「意識はあるか?」

「一度なくなったけど、さっき戻った。体温が低くなってる」

「周さんと雫さんがこっちへ向かってる。夕麿を当分別へ移して、治療のために隔離する指示が出た」

「え……隔離…?」

 夕麿を抱きしめている武が強張ったのがわかる。

 治療のために夕麿が隔離され、回復までの期限が設けられた過去がある。もしも夕麿が戻れなければ、武は二度愛する人と逢えなかった。ゆえに自らの生命を断つ決心をしていた。幸いにもギリギリ間に合った。だがそのトラウマは武の心に深く疵を残しているだろう。

「心配するな。お前も一緒だ。今の夕麿にはお前が必要だからな」

 義勝の言葉に武の全身から力が抜けたのがわかった。

「絹子さん、手伝いますのでお二人の当分のお着替えなどを」

「承知いたしました」

「武君、夕麿さま、お持ちになられたい物はございますか」

 滞在がどれ位の期間になるのかはわからない。状態によってはホテルからリモートで仕事をすることもあろう。

「あの……見舞いに行ってもいいのかな?」

 成り行きを見守っていた希が口を開いた。

「当分の間は面会は許可制になる」

 希のは背後から入って来た周が告げた。

「武さま、外に車が待機しております。直ちに夕麿とお乗りになられてください」

「わかった」

 武が承諾すると義勝が夕麿を担ぎ上げた。武がそのあとに続く。希が武を睨み付けるが完全に無視をして通り過ぎた。もちろん武は何も知らされてはいない。だが近頃の希は事あるごとにに夕麿と武の間に割って入ろうとする。時折は小夜子が窘めるが一向に改める様子がない。

 ここのところ夕麿が希を避けているようには感じてはいた。なので彼も希のこの態度を不快に思っているのだろうと思っていた。

 また雅久も希に対して冷淡になったようにも感じていた。

 武たちと御園生のあり方のズレが希の態度にも表れ始めているのだとも武は考えていた。たとえ身分の違いを知らしたとしてももう既に家族としては、想いも見つめている未来も違うのかもしれない。悲しい事実ではあっても逃れられないのだろう。

 武は既に血の繋がった母と弟と、人生と言う道を違える覚悟をし始めていた。



 雫の運転する車は護院家が経営するホテルの駐車場に入った。周と雫の二人がかりで専用のエレベーターに夕麿を運び入れ、武も後に続いた。

 最上階に到着すると清方が待ち受けていた。用意されていた車椅子に夕麿を座らせて廊下の突き当りの部屋へ入る。ここは以前にお試しで何度か宿泊して改善点を示して来た。

 ここは御園生のホテルとは違って、完全に武と夕麿専用のフロアになっている。エレベーターを降りて廊下の突き当りのドアを入るとリビングダイニングがある。武の希望でミニキッチンが増設された。メンテナンスに出されていた夕麿のベヒシュタインも取り敢えずここへ設置された。

 リビングを横切って左へ行くと寝室へのドアがある。中へ入ると遮光カーテンは閉められており、室内の明りは抑えてあった。中央に置かれているキングサイズのベッドにも遮光カーテンとレースのカーテンが付けられている。

 夕麿をベッドに寝かせると周が点滴を打った。次いで何やら薬剤を注射器で点滴に注入する。

 武は傍らで夕麿のもう一方の手を握りしめて、周のすることを見つめていた。

 程なくして夕麿がゆっくりと目蓋を閉じて眠りに就いた。どうやら先ほど周が注入した薬剤の効果らしい。

 たけは促されてリビングに戻る。すると清方が待っていた。

「先生、あれ、昔のと同じヤツだよね?」

「はい」

「何で今さら?」

「カウンセリングをしてみなければ明確な判断はできませんが……恐らくは、板倉君との再会が影響しているのではと考えています」

「板倉と顔を合わせたから……?」

「武さまを巡る陰謀の始まりが彼であったから……ではないでしょうか」

 確かに表面的に害を為したのは正巳が始めであった。

「フラッシュバックのようなものを起こされている可能性があります」

「え……でもそんなの見たことない」

「夕麿のことです。多分、武さまにご心配をかけたくないので、何とかやり過して隠していたのでしょう」

 周が溜息混じりに言った。あえて軽い口調にして、武が自分を追い詰めないように配慮した。

「それはどうでしょう。御自身に自覚があまりおありになられなかったのかも」

「そうか……わかった。で、俺はどうすれば良い?」

「お側にいらっしゃることが今は一番の治療です。あとは私たちにおまかせください」

「わかった、何でも指示してくれ」

「ありがとうございます」

 夕麿の状態はそのまま武のストレスになる。だからこそ離してはならない。武が側にいることで夕麿はある程度安定するのがわかっているからだ。

「武さま、私たちはあなたさまのお身体も心配しております」

「これをお飲みになられて武さまもお休みください」

「わかった。いつもありがとう」
 
 武は周に手渡された錠剤を飲んで、隣の寝室へ入って行った。それを確認してから二人は、同じフロアの別室へ移動した。

 そこには雫がいた。

「終わったか?」

「ご納得はしていただけたと思います」

「あとで面倒にならないか?」

「いいえ。今回の症状のきっかけは板倉 正巳との再会で間違いはないのです。ただそれだけならば自己暗示で軽減はできていました」

 夕麿にとっても彼が関わった事件は、遠い過去の記憶だ。その後に様々な事件があり、武は発作を抱えながらも無事でいる。

「ということはやはり……」

 引き金トリガーを引いたのは希だということになる。

「夕麿は昔から肌を見せるのは嫌う。ごく限られた者しか許さない。乳母にすらすべてを任せることはしていないはずだ」

「それは義勝君から聞いています。非常時もほとんどが武さま自ら着替えをなさいますし、手伝うのはほぼ雅久君だけとか」

「義勝も雅久に任せるからな」

 夕麿にとって雅久は武とは別の意味で安心できる人間なのだろう。この点は発作時の武でも同じである。そこに雅久の人柄があるのだろう。

「で、肝心の希だがどうする?ただ注意したり叱責しても意味はないきがする」

 雫の言い分は納得できる。唯一御園生の血を引く子供、しかも実の兄とは年齢が離れている。ゆえに大人びた子供であるのは確かだ。いずれは兄との身分の違いをわきまえなければならない事実があり、その日のためにもと誰よりも夕麿が厳しく接して来た。

 夕麿は希にとって一番怖い兄であっはずなのに、物心つくころからずっと誰よりも甘えていた。武がその度に起こって引き離して来た事実も、今となっては笑えない。

「武のさまはある意味で、こうなることを予測されていたのかもしれんな、あの皇家の霊感で」

「夕麿は昔から兎に角モテた。厳格で『難攻不落の氷壁』などと渾名されても、憧れて恋い焦がれるやつは跡を絶たなかった。義勝たちがガードを固めていたから、近付く者は少なかったりはしたが」

 周が渋い顔で言う。本人もその一人であったのだから実感が篭っている。昨夜がここにいたら揉めただろう。

「まさか幼子にまで発動させて、十数年後にこんな事態になるとはな、予想はしてなかった」

 小夜子に話して止めてもらったとしても、希の感情が武への反発になるだけだろう。

「いっそ彼を紫霄に入れるのをすすめたらどうだ?」

 雫が言う。だが周は首を振ってこう答えた。

「無理だな。彼はそこまで成績が良いわけじゃない。今からだと中等部へ途中編入になるが、試験が通るかどうか怪しい」

「はあ?あれだけ秀才が集まってるのにか?」

 武はIQの高い天才だし、夕麿も紫霄では同学年でトップから落ちたことはない。義勝たちも常に夕麿のあとに名前を連ねる秀才たちだ。

 特に夕麿と雅久は教えることにも抜きん出ていて、外部編入だった武が慣れないうちはよく勉強を見ていたと聞く。

「本人があまり勉強が好きではない。僕も教えたことがあるが、やる気そのものに欠けてる。多分、現在の成績は今の学校で中の上が精々だろう」

 周も家庭教師まがいのことをしたことがある。だからこそ希の正確はわかっている。同時に武や夕麿たちも同じ想いをしたのではないだろうか。

「つまり、周囲に教えられて今の成績……というわけですか」

 清方も呆れた声を上げた。

「やれやれ困ったな」

「とりあえずは彼からお二人を引き離すことしかないでしょう」  

 清方の言葉に残る二人は深々と溜息を吐いた。



 雅久が絹子と武たちの荷物を揃えている間、義勝は自分と雅久の荷物を車に運び込んだ。義勝自身の荷物は多くはないが、雅久は和装が含まれるのでどうしても多くなる。相談を雫に持ちかけた時から、こうなる予想はしていた。なので荷物そのものは既に用意はしてあった。

 絹子を手伝って二階から荷物をおろし、出入口へ移動してドアを開けた。

「雅久、こっちへ渡せ」

 車から降りた貴之が荷物を受け取る。それをワゴン車の後ろに積み込んでいく。この間に絹子が自分のを取りに行った。

 不満そうに見ていた希が出入口に立っていた雅久を押し退け身を乗り出した。

「師匠!おかえりなさい!」

 貴之と敦紀は先に新しい方へ移っていたこともあって、希とは顔を合わせていないままだった。

 元気に明るく声をかけたが、貴之は無言で黙々と荷物を移動させるだけ。希はそれ以上声がかけられなかった。

「雅久、お前はもう乗っておけ」

 希に先ほど押し退けられて険しい顔をしている雅久に、貴之が乗車を促した。

「そやな」

 背後からの声に振り向いた希は、雅久の無表情に背筋が寒くなるのを感じた。

 今日の雅久は休日にもかかわらずスーツだ。ほっそりとした立ち姿は和装とは別に独特の美しさがある。

「兄さんたちが良くて何で俺がダメなんだよ」

 幾分強張った口調で抗議の言葉が発せられる。とっさに雅久は背後にいる小夜子を振り返ってから、ゆっくりと希に射るような冷たくて鋭い視線を向けて答えた。

「己の立場もわきまえられへんもんが何様のつもりや?」

「え……」

 御園生の中では庶民である麗を除いて、一番身分が低いのは有人と希である。その次に低いのが御園生夫人である小夜子だ。彼女は元皇家に所属していたし、宮である武の生母として夫と息子よりは高い身分とされる。雅久や義勝も決して高い身分ではないが、千年以上皇家に仕えて来た貴族と戦前に叙位された勲功貴族とでは立場や身分に大きな差がある。

 武が夕麿と結婚して間もなく十五年目を迎える。これまでは武の希望もあってあまり身分や立場の違いを明確にする言動は控えて来た。しかし希も既に中学生であり、そのうえで今回のようなことが判明しては、雅久としてはこれまでのようにはできない。まして夕麿に対してはずっと身分の低き者が貴き相手への礼儀を貫いて来た。彼がいかに努力家であるかをずっと見て来た。類い稀なる才能に驕ることなく常に己を磨く姿に尊敬も感じて来た。

 武との仲に幾多の危機が訪れても、互いの深く強い愛情は失われはしなかった。大きな危機の足音が迫っているのは雅久も感じている。だからこそ平穏な今を穏やかに過ごして欲しかった。それを破り、夕麿を傷付けた希を雅久は絶対に許さないと誓っていた。

「雅久!」

 今度は義勝が呼んだ。

「そこ、どきや」

 先ほどよりも鋭い声が突き刺さるようだ。

「急げ」

 戸惑って一向に雅久を通さない希を手で押しよけて、義勝が手を差し出した。

「おおきに」

 その手に手を重ねると強い力で引き寄せられた。その反動で希がバランスを崩して尻餅を着いたが、だれもそれを気にする様子もなく雅久と義勝が乗り込んで車は発車した。

 希は尻餅を着いたまま呆然としていたが、もっと驚いていたのは小夜子だった。雅久は記憶を失っているとは言え実母は故人だ。ゆえに小夜子をとても慕って大切に思ってくれていた。けれど先ほど彼が自分に向けた眼差しは冷ややかな怒りに満ちていた。それは一度も見たことがないものであった。

 

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