蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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杞憂

 武と夕麿がホテルに移ってから半月、行長と月耶、朔耶と三日月の計画で交流会が行われる運びとなった。会場は二人が滞在しているホテルの大ホールを貸し切って。未だ遠方への外出が難しい夕麿のための配慮だった。

「残念なのは外に出られない生徒をここへ招待できなかったことです」

 行長は散々学院側と交渉したらしいが、希望者全員に一時的でも身元を引き受けてくれる人間を見付けるのは不可能だ。それでも何人かは連れ出すことができた。

 行長は二人を一段高い雛壇に座らせた。前に小さめの丸テーブルを置き、周囲には雫たちが配置する。

 雅久と幸久が二人に飲物や食事を甲斐甲斐しく運び、義勝と清方、周と保が少し離れた場所ですぐに動けるように立っていた。

 もちろん彼らも交代で旧友たちとの交流の時間は取っている。彼ら全員が生徒会執行部経験者だ。それなりに知名度も人気もある。すぐに囲まれて身動きが取れなくなる者もいた。

 周と朔耶もあっという間にそれぞれのファンや知り合いに囲まれてしまう。だがかつての周の遊び相手たちは遠巻きにして必要以上には近付かなくなった。彼が年下の運命の恋人にべた惚れで、すっかり尻に敷かれている噂さが広まってしまったからだ。このことを喜んでいる反面、快く考えていない者もいる。周の変わりようにがっかりした者もいた。

「周さま、お久しぶりです」

 突然声をかけられはしたが、周は彼の顔を記憶してはいなかった。

「え~僕ですよ~」

 媚びを売るような甘えた声で上目遣いですり寄るのを見て、周は嫌悪感に全身の毛が逆立って後退りした。この様子に気が付いて朔耶が駆け寄った。

「周、大丈夫ですか⁉」

「あ、ああ……」

 朔耶の顔を見てホッとする。今更ながら他人に不用意に近付かれたり、触れられるのを嫌う夕麿の気持ちがわかった気がした。

「ここのところあまり眠れていないのですから、無理はしないでください」

 夕麿も武も互いに影響し合って不安定になっている。それがそのまま体調の不良に繋がっていて、精神面は清方が、身体的な不調は周が診察している。特に夕麿は現在、些細なことで嘔吐などの不調を訴える。従って周も清方も二十四時間いつでも対応できるようにするため、どうしても睡眠が浅くなってしまう。朔耶はできるだけ休むように言うのだがやはり限界がある。

「向こうで少し休んでください」

 彼の腕を取り武たちがいる所へ戻るのを促す。この様子を見て周囲にいた者たちがサッと道を開ける。彼らに朔耶が礼を言って歩き出そうとした途端、先ほどの男が遮るように回り込んで来た。

「何だよ、お前」

 特待生の先輩には身分に拘らず一歩下がった対応を朔耶はする。だが周が彼を記憶していないことから考えても、一般生徒であった可能性がある。

「人に名前を聞くのならばまず名乗るのが礼儀でしょう」

 凛とした響きで朔耶が言う。

「お前、何様のつもりだ?」

 朔耶のことを知っている者たちからざわめきが漏れる。

「そう言うあなたこそ何様ですか?」

 当然ながら生徒会長経験者は少々のことでは怯まない。周の同級生ならば十歳あまり年上ではあるが関係ない。朔耶は未だ学生だが相手は社会人だ。横柄な口を利くことからも貴族であるのも確かだろう。しかも周に敬称を付けるのに周囲には身分の高い人間のような態度をしている。

 周の実家である久我家は清華貴族の中ではトップである。しかも彼の母は夕麿の父の姉、つまり摂関貴族である六条家の出身である。ゆえに同等の清華貴族よりも高い立場にあるのを理解しているはずだ。それは元宮家出身の祖母をを持つ夕麿が特別視されるのと同じである。

「僕は一条家の縁者だ!」

 一条家は摂関貴族では近衛家と並ぶ高い身分だ。だが彼が口にしたのは『縁者』という言葉だ。つまり彼は摂関貴族ではないという事実を告白したようなもんだ。

「ただの縁者ですか」

 朔耶がわざと挑発する。

「お前……生意気だぞ!大体どういうことだよ⁉」  

 彼はそう叫ぶと一気に雛壇に駆け寄った。慌てて雫たちが立ちはだかる。だが彼は雫たち越しに怒鳴った。

「そこの奴!何で図々しく六条さまの横にいる!身分と立場を考えろ!」

 明らかに武に向けて言い放った。言われた武はキョトンとし、会場は静まり返った。

「身分と立場をわきまえていないのはあなたです」

 物静かではあるがよく通る声がした。スーツを着た男が前に歩み出て来て雫に向き合った。

一条 響いちじょうひびきでございます。所用で到着が遅れて申し訳ございません。紫霞宮殿下に御目もじのご挨拶をさせていただきたく思います」

 真っ直ぐに立ち、胸に左手をあてて首を垂れる姿に敵意はない。

「雫さん、その方をお通ししてください」

 背後から夕麿の声がした。

「はっ」

 小さく応えて退いて響のために道を開けた。

「ありがとうございます」

 彼は雛壇に上がって武と夕麿の前に進み出て跪いた。

「初めて御目もじいたします。一条 響と申します」

 すると夕麿が口を開いた。

「第七十三代の生徒会長でいらっしゃいますね」

「さすがは夕麿さま。お噂通り歴代の会長の名前をご記憶されておられるのですね」

「一応、在学当時のお顔も写真があれば記憶しています」

 名前だけは武も記憶しているが顔や経歴まで記憶している夕麿には敵わない。

「横から失礼をいたします」

 夕麿の背後に立っていた清方が言った。

「お久しぶりです、響さん。いつ欧州からお帰りに?」

「三か月ほど前です。ご挨拶に伺いたかったのですが帰国してからも仕事に忙殺されて叶いませんでした」

「知り合い?」

 武が興味津々という顔で聞いて来た。

「私は七十代目の生徒会長ですから」

「あ、そっか」

「それに彼の御母堂は母の妹、つまり叔母になります」

「え、高子さんの妹?つまり夕麿のお母さんのお姉さん?」

「さようでございます。父は現当主の弟で私は分家の長男でございます」

 一条本家が表立って武のもう一つの後ろ盾に名乗りを上げないのは、九条家との関係上難しいのだろう。分家でしかも近衛家出身の女性繋がりであるならば、その縁で親しくするのは一応は理由になる。

 分家とは言え一条の人間が武に跪いて頭を垂れた。これは武の立場をより安定させる出来事だった。近衛家側は武に対しては非常に消極的だが他家に嫁いだ娘の子が皆、武の側に付いたともいえる。

 しばし武の周囲が響に自己紹介をするなどして和やかな会話が続いた。

「僕を無視するな!」

 突然、先ほどの男が叫んだ。会場が静まり返った。すると響が振り返って真っ直ぐに見下ろして口を開いた。

一条うちの縁者とか言ったな?私はお前の顔に見覚えがないぞ?」

 低く冷酷な声で言う様は先ほどの穏やかさとは真逆だ。その姿はどこか夕麿や清方に似ている気がした。

「知らないだけだろ、分家の人間のくせに」

 どう見ても彼はそこまで彼は身分が高い人間のようには見えない。

「そこのお前もだ!六条さまから離れろ!」

 武を指さしてさらに叫んだ瞬間、近くにいた成美が引き倒した。

「な、何をする!」

「不敬罪で逮捕する」

「は?頭おかしいのか?放せ!」

 もがくがガッチリ固められて逃れられはしない。雫が雛壇から降りて手帳を提示した。

「先ほどから君が『お前』呼ばわりしている御方は、前東宮さきのとうぐう殿下の皇子みこ、紫霞宮殿下だ。我々の会話でわからなかったのか?」

「皇宮護衛官……⁉」

 さすがに手帳を提示されてはぐうの音も出ないだろう。

「それにしてもお前、本当に紫霄の卒業生か?周たちの同級生みたいな口ぶりだが、普通は殿下のことも夕麿さまがご伴侶になられているのも知っているはずだぞ?ついでに言うとな、久我 周には既に同棲中の恋人がいる。それもここにいるみんなには周知の事実だ」

 雫の言葉を受けて彼は頭をもたげて周囲を見回した。当然ながら周囲にいる者は年齢にかかわらず一様に頷いて応えた。

「一週間前に帰国したばかりで!卒業して留学して!ずっとヨーロッパを点々としてたんだ!」

「くだらん言い訳だな」

 こう言い放ったのは周だった。

「そうですね。同じような人は他にもおられると思いますが」

 朔耶も辛辣に言う。

 彼はキッと雛壇とその周辺にいる者たちを睨み付けたが、全員が生徒会執行部経験者でしかも元会長だらけ。一般生徒にはない迫力がある。敵わないと判断したのかがっくりと力を抜いた。

「雫、放して良いと仰せです」

 あえて直接言葉をかけない……というルールは、これまで夕麿から叩き込まれている。今日の様な場合は夕麿自身も話さない。よって清方が取り次ぎを引き受けた。

「はっ」

 立ち上がって向き直り、胸に手をあてて短く答えた。

 そこへ行長がタブレットを手に雫に近付いた。彼は教師の立場を利用して紫霄学院高等部のデータバンクにアクセスし、目の前の無礼者の学院での経歴を引き出していた。

「なるほど、一応は風紀委員の一人だったわけか」

 雫が鼻で笑う。

「お前……勝手に……なんの権限があって……」

「権限?ありますよ?こう見えても私は高等部の教諭ですし、学院理事の一人でもあります。その前に殿下の臣ですが」

 行長が教師として学院都市に留まった理由の一つがこれだった。もちろん、貴之がいればいくらでもアクセスは可能だ。けれどつい最近まで彼は国内にはいなかった。そういう事態を想定してのものだ。

 また既にOBである貴之が、この様な多数の関係者が集まる中で、学院のデータバンクにアクセスできるのは知られない方がいい。行長はそう判断して素早くタブレットを取り出し貴之に示した。彼は行長に頷いて見せて雫に提示したのだ。

 様々なOBが集まるこんな場で愚かな言動に及んだ彼が何をしたかったのか。もしかしたら本人もわからないのかもしれない。



 再び穏やかな雰囲気に会場が包まれてから、貴之が蓮を養子にしたことが発表された。もちろん芳之の許可を受けてのことだ。蓮は少しはにかんだ顔で挨拶をしたのが良かったのか、貴之を知る人々からは好意的に受け取られた様子だった。

 これをきっかけに再び会場内で人の移動が再開し、武たちも会話を楽しむ。

 その様子をジッと見ていた周が難しい顔をしているのに朔耶が気付いた。

「周、どうかしましたか?」

 一応周囲を気にして囁き声で問いかけると周は少し憂いを含んだ笑顔を向けて答えた。

「夕麿が……どうも武さまにも触れられなくなっているんじゃないかと」

「え?件のことでですか?」

「以前の状態にまで戻ってしまわないか、僕はそれが心配なんだ」

 もちろん朔耶には『以前の状態』については何も知らない。ただ表情を曇らせた周の様子からただ事ではなかったとは判断できた。周はそっと恋人を会場の隅の人がいない場所へ誘導した。

「ちょうどお前と出会う前の年の夏に御園生の客船で一周旅行をしたんだ、みんなで」

 最初は敦紀の祖父が孫を男の恋人と別れさせる策略で、どこかの成金母子と家族を連れて強引に船に乗り込んで来たことだった。身分的に立場の弱い貴之に頭ごなしに命令し、敦紀から身を引かせようとした。ところが連れて来た母子はこともあろうに武に目を付けた。全員が武を一人にしないように注意していたが、些細なスキに発作で動けない彼に娘が無理やり口付けをした。この光景を夕麿が目撃し彼は武の側にいると体調を崩す症状を起こすようになった。(『蓬莱皇国物語Ⅴ~Doice Vita_甘い生活』参照)

「私がお会いした時には普通に武さまと過ごしていらっしゃいましたよね?」

「……ああ」

「周?」

 何かよほどのことがあったのか、周はさらに表情をを曇らせた。

「あの時の夕麿の治療については僕は……詳しくは知らない」

「え?」

「帝都にいなかったんだ」

「いなかった?」

 当時、周は研修で西の島へ行って不在であったこと。知っているのは清方が夕麿を高子・久方夫妻に預け、武から離して治療に専念させたこと。武には期限が付けられ、それまでに夕麿が戻らない場合は幽閉される命令が出ていたのを、曇ったままの顔でポツリポツリと語った。

「幽閉……その様なことをしたら武さまは……」

 その先は言葉にするのは怖かった。周が頷いたのを見て背筋が冷たくなる。武はそのための準備を何かしていたのかもしれない。それが実行されていれば周もここにはいない。当然ながら朔耶との出逢いもなかった。

 一体、どれだけの生命が武に殉じて消えただろう。そして朔耶もこの年齢までは生きてはいなかったかもしれない。

 そう考えると今の周の懸念は理解できる。しかも今上皇帝が余命幾何いくばくもないと噂される現状では、前回以上に恐ろしい闇が牙を剥き出しにして大きく口を開けていそうに思える。

 少なくとも今の夕麿は武の傍らにはいる。優しく穏やかに視線を絡め、笑顔で言葉を交わしている。だがそれが急変しないと誰が保証できる?

「武さまはお覚悟は……なさっているのだろう」

 武の笑顔はすべてを受け入れているからだ。その上で自分が今できることに最善を尽くす。そこに武の夕麿への愛の強さと深さを感じる。

「ですが……」

「できれば僕は『もしも』を考えたくない」

 周の気持ちはわかる。だが朔耶にはもっと気になることがあった。今の彼の立場だ。夕麿の従兄が揃ったが、この中で一番身分が低いのが周である。母こそは六条家の出身ではあるが、この場合はまず父親の身分が先に立つ。しかも彼の母は清方の乳母だった。つまり護院家とは主従関係になる。さらに彼らの母は近衛家出身の姉妹だ。周の居場所はない。

 摂関貴族と清華貴族の差がどれほどであるかは、養子に入ることで身分が変わった朔耶自身がよくわかっている。近年では下級貴族では曖昧になりつつあるとは囁かれてはいるが、やはり上であればあるほど、皇家に近ければ近いほど階級の差は現代でもはっきりとわかるくらいには存在している。

 夕麿を大切に想う強さは同じ『従兄』の中でも、周の気持ちが一番であろうと朔耶は思う。かつては強い嫉妬の原因であったことも今となっては、周の気持ちの『実』のようなものが見える気がする。
 
 歳月を経て二人の『想い』が確かな強さを築けたからなのだろうか。

 人の想いと身分。彼ら貴族たちには身分差はある意味で当たり前だった。けれどもこうして目に見えるものとして目の当たりにしてしまえば、心苦しい理不尽さを感じてしまう。

 否。かつての朔耶ならば当たり前のことだと傍観していただろう。薫との身分差はそういうものだったから。

 そのような目で振り返れば、自分にとっての薫は『主』以外ではなかったと感じる。武に向ける周の姿勢とは違うのがわかる。

 この時、朔耶はアッと声をあげそうになった。

 今回の希の件。何故に皆が武に真実を話さないのか、朔耶には訳がわからなかった。

 だがそれは何よりも異父弟を大切に思う武の気持ちをおもんばかってのことだったのだと。

 ああ……だから今もまだ希は兄と自分の間には、途轍とてつもない身分の隔たりが存在するのを知らないままなのだ。

 しかし周囲の人間は恐らくは焦れ始めていたと感じる。日常的な希の言動を不快に感じ始めていたところに今回の件だ。全員が怒りを感じてはいるが、最も激しいのが雅久ではないか、と朔耶は思う。

 記憶を失った彼がどれほど武に恩義を感じているのか。『兄』と呼ばれて深い感謝と愛情を抱いて、武のすぐ側に控えているように感じる。義勝と喧嘩しても武を擁護した話も行長から聞いている。
 
 当の希本人は自分の不埒な行動が露見したとは露ほども気付いていないだろう。夕麿をホテルのペントハウスに移す時に武に食って掛かったと聞くから。

 やれやれ面倒な……と朔耶がソッと溜息吐いた時だった。武が通宗に手にしていたグラスを手渡して、ソッと立ち上がった。気が付いた清方が動こうとしたが、手を上げて制止する。そのままフラフラと自分たちの方へ来た。

「武さま……発作ですか?」

 周が周囲をはばかって顔を近付けて囁く。武は小さく頷いた。夕麿のことでストレスが溜まっているはずなのに、彼を気遣う態度しかしていない。

「出ましょう」

 側にいた成美が雫に合図をして廊下への扉に向かう。武には康孝が付いた。

 今度は夕麿が振り向いて眉をひそめたが、周が軽く頷いて応えた。二人とも抜けるわけにはいかないし、今の状態の彼では武を悪化させるだけだ。

 先に廊下に出て待っていた義勝が武を抱き上げる。急いで部屋へ運んで行く。

 発作の進み具合が急激に感じられる。部屋に到着する前に幻覚が発生したら大変なことになる。

 ただついて行くしかできない朔耶には歯痒い限りだ。

 部屋ではさらに先行していた雅久が待っていた。早々にベッドに横たえられた武をパジャマに着替えさせる。

 その間にも武を観察しながら、周が処方箋を書き、緊急時の入院の用意も依頼する書類を書き、義勝が受け取って飛び出した。

 朔耶が行きたかったが病院内で融通の効く義勝の方が早い。ここでも役立たずだと歯軋りするしかない。

「まずいな……久方ぶりの発作だからか、進行が早過ぎる。手持ちの薬剤は投与したが、有効なようには思えない……」

 誰に言うともなく呟く周の気持ちはわかる。発作時の武が一番に依存するのは夕麿だ。その次が母である小夜子、そして雅久、絹子と続く。

 その夕麿は今は武の側にいるには問題がある。彼自身の症状が悪化するかもしれない。その辺りは主治医である清方の判断しだいだが、十中八九は無理だとなるだろう。

 小夜子はもっと無理だ。こっちも夕麿が悪化する危険がある。また彼女の見舞いや付添いを希望して、希を拒否するのも理由の説明から面倒を引き起こす。絹子は夕麿の世話に専任するとなると……雅久しかいない。彼は誠心誠意、武に寄り添うだろうがどうだろうか。武は夕麿が側にいない状態で発作を乗り越えられるのだろうか。

 しばらくして朔耶の杞憂をよそにパーティーが終わったらしく、半分ほど開けておいたドアの向こう、リビングの側から会話が近付いて来た。次いで途中で一緒になったのか、薬を抱えた義勝が部屋に入って来た。

「ありがとう」

 点滴用の生理食塩水や注射用の薬剤、食事に障害が出た時のブドウ糖などを受け取った。側のテーブルに置いて武を振り返った。手には体温計がある。これは未接触で体温が測れるものだ。

「……少し上がって来ましたね」

 発熱は元々、ストレスを溜まり過ぎた時に昔からあった症状だと小夜子から以前に聞いている。紫霄学院在校時にも同じことがあったのもわかっている。ゆえにこれは一概には発作によるものとは断言できない。

「病室の準備はできています」

 義勝も武の症状は見て来ている。

 周にしても入院させた方が安全なのはわかる。だが夕麿と完全に引き離してしまうことになる。そうなると発作は悪化して長引く。武の身体的な負担は精神面にも強く影響する。ここが周が迷うところだった。

 どうするのが最良なのか……とリビングにいる清方に視線を向けた時だった。夕麿が緊張した面持ちで入って来た。とっさに周と義勝が顔を見合わせた。

「武……」

 シーツの上に投げ出された手に夕麿の手が伸ばされる。手が震えているのがわかった。

 武の目が不安の色に染まりながら夕麿を見つめている。

 皆が息を呑んで見守る中、恐る恐る指先で武の手に触れて大丈夫だったのか、しっかりと握りしめた。もう一方の手で武の頬に触れる。

「夕……麿……」

 かすれた声で言った武の名を呼んで抱きしめる姿に、そこにいた全員がホッと胸を撫で下ろした。これで武を入院させれる……?と思った者もいたが、周は不安に眉をひそめた。以前のことを思い出したのだ。だからそっと清方を振り返った。すると彼が穏やかな笑みを浮かべて頷くのを朔耶もハッキリと見た。

 これは大丈夫ということなのだろうか?

 周を見ると彼は微笑んでいた。きっと今の夕麿の姿は数年前の『それ』とは違っているのだろう。多分、意識が混濁していない今の状態の武にもわかっているのかもしれない。なぜなら彼は満面の笑みで瞳を綺羅々々と輝かせている。その様子に思わず朔耶も微笑んでしまった。

「病院側の準備は整いました。明朝、午前中に入院を。同時に治療に入りたいと侍医全員の意見をお伝えいたします」

 そう言ったのは清方だった。

「治療は苦痛を伴うものだとお覚悟いただけると幸いでございます」

 貴之が持ち帰った正巳の治療記録は、ほとんど何もわからない状態で半ば実験的に進められていた。当然ながら彼が経験したのは『苦痛』などという生易しいものではなかっただろう。本庄 直也の治療も少し前から開始されているが、漏れ聞くことによるとやはり様々な副作用があるようだ。

 正巳はどちらかと言うと丈夫な方に入る。直也も長い囚われ生活で内臓などに問題を抱えてはいるが、体力そのものはある方らしい。

 だが……武は昔よりは改善されたとは言え、丈夫とはいえず体力もある方ではない。そこが懸念されて準備に準備を重ねて来た。治療が長引くのは当然ながら予想されている。とは言っても一気に全過程を進めるわけではない。副作用の状況などを見て休みを入れながらをすることが決まっていた。

 武は視線が届く者を見回して頷き、小さく息を吐いた。武にとって『発作』は周囲に迷惑をかけるものでしかなかった。特に体の弱い自分をカバーして多忙な夕麿に、多大な負担をかけるのが最も辛かった。

 治療がどんなに長く辛いものであったとしても、それらがすべて解消されるのであればいくらでも頑張れる。もしかしたら確実に完治する保証はないのかもしれない。しかし何もしないよりはとは思う。

「大丈夫ですよ。側にいますからね」

 手を握りしめて言うと笑顔で頷いた。

 これは大丈夫なんじやないか……と朔耶は思った。周も同じらしい。やれやれとばかりに小さく溜息を吐き、もう一度清方を振り返り、応えるように彼は笑顔で室内に踏み入った。入れ違うように周がリビングへと移動する。朔耶もそれに従った。義勝もリビングへ移る。

「お腹は空かれてはおられませんか?」

 会場では二人は立場上、あまり食べられないのは確かだ。かと言ってまるで手を付けないのも、皆が食べられなくなってしまう。なので食べやすいものを少量、皿に取り分けて箸を付ける。気兼ねなく摂取できるのは飲物だけで、アルコールを口にできる夕麿はまだしも、武のようにソフトドリンクのみでは限界がある。

「そうですね、武には消化の良いものを。私も軽食をお願いします」

「御意」

 深々と頭を下げてから清方はフロントへ連絡を入れた。

 二人と御園生の関係がこれからどのような形になるのかは、おそらくはまだまだ模索中なのだろう。切り離そうにも完全には難しいのは確かだ。御園生夫人は皇籍を保持してはいなくても、武の生母である事実は消えないからだ。身分的には既に差ができてはいるが、武の存在がある限り彼女を一人の勲功貴族夫人としてだけ扱うわけにはいかない。ここが皆が頭を悩ませている実情だった。

 だが同時に夕麿や雅久の言葉によれば、現在の御園生家は武の身分と立場を軽んじているとさえ思える。同時に雫たちが警戒するように最近、御園生邸での話が漏れているとしか思えないらしい。これについては宮中に長老として仕え続けている久方も感じているそうだ。

 周の父である久我 周哉くがしゅうやに九条家が近付いているという話もある。あちらはどうあっても武の周囲に集う人材を切り崩しにかかっている。それだけ今上皇帝の病は重いということだ。

 だが逆に響が接近して来たように、こちら側を気にかけている者もいる。あくまでも権力とは無縁でありたい武の気持ちを彼らが、どれだけ理解しているかは別の話だ。崩去して久しいさきの皇太子は大変に国民からも貴族からも人気があったと聞かされている。その遺児である武に何某かの期待が集まるのは、仕方がないことではあるだろう。

 現皇太子に人望がないわけではない。彼も聡明な人物であると言われている。次代の皇帝として決して遜色があるのではない。ただ……彼の生母である弘徽殿御息所、九条 嵐子くじょうらんこの皇家を皇家とも思わない専横ぶりを嫌う者がいるのだ。彼女の存在が現皇太子の『疵』だと囁く人物までいる。

 だからこそ一部の貴族たちは武に前皇太子の面影を重ねて見ようとする。それはこのまま外戚としての権力を保持し続けたい九条家には都合が悪い。武本人にそのような考えは欠片ほども存在はしてはいないのに。



 食事の後、夕麿はそのまま武の部屋に……


 閉じられるドアの音と重なるように、どこかで何かが軋むような音が朔耶には聞こえたような気がした。

 



 

 





 
 

 
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