蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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深まる愛

 夕麿は最初は怖いくらい不安だった。もしもかつてのように愛する人を拒絶してしまったら……今度こそ武の生命を危険に晒してしまう。それでも側にいたいと強く願う。だから部屋へ戻る道すがら清方に相談した。

「御心配になられる必要はおありにならないと断言できます。以前とはまず原因の方向が違います」

 清方は淡々と語った。以前のは少なくとも武本人が望まなかったこととはいえ、夕麿が嫌悪する状態に陥らされてしまったことが原因だった。振り払っても振り払っても彼の唇に女が無理やりした口付けの跡が、夕麿を繰り返し嘔吐を起こし武の名前すら受け付けなくなった。愛情と自身を襲う症状に板挟みになってさらに苦しんだ。

 けれども今度は違う。原因は義弟として夕麿なりにかわいがっていた希の不埒な行為だ。自分を制御する術を学んでいた夕麿もあまりのショックに以前の症状が再発しただけだと。

「現在のあなた様は以前よりもお強くなられました。武さまへの御愛情もより深くより強くなられました」

 穏やかな笑みで大丈夫だと言い切る清方を信じて武の側に立ったのだ。

 けれども武の手に触れる……それだけの行動が怖かった。止めようとしても手は震えた。拒絶反応が起こるのが怖かった。

 武の縋るような眼を見て勇気を出して触れた……何も起こらなかった。むしろ武の手の温もりが胸を締め付けた。

 愛しい……想いが胸の中で嵐のように荒れ狂って、痛みすら感じでしまって苦しい。

 こんなにも自分は武を愛しているのか……わかってはいたけれど再確認してしまった。

 ああ、そうだった。幾千年いくちとせと誓ったただひとりの尊き御方、自分はこの方の伴侶なのだ。

 改めて自分の立場と身分、そして何よりも武に愛されていることに身の引き締まる想いだ。

 想いを力に変えて抱きしめると掠れた声が、「夕麿」と名前を呼ぶ。だから耳元で「武」と呼び返した。

 皆が部屋から出た後、夕麿は絹子が持って来てくれてたパジャマに着替え、武の横に入ってそっと抱きしめた。

 いつもよりも彼の身体が熱い。周が発熱してると言っていたが、少し上がって来たかもしれない。

 武の瞳が見つめて来る。真っ直ぐで一点の曇りすら見つけられないような眼差しだ。心の奥まで見通されているようにも感じられる。夕麿の不安も恐れも愛情もすべて彼は見つめているのかもしれない。同時にそれらをすべて受け止め、受け入れて理解してくれるのも武だと信じる。ずっとそんな風に支えられて来た。

「武、愛しています」

 自然に当たり前に唇が紡いだ言葉だった。これだけでは今、自分の胸を満たす想いは言い表せはしないが、何となく彼はわかってくれる気がした。

 夕麿の言葉に武は笑顔で応えた。その笑顔に声を発せない彼の想いを感じる。

 愛しくて愛しくて抱きしめた身体からだを慈しむようにそっと撫でると、武は嬉しそうに頬を寄せて来る。

「もっと熱が高くなるといけませんから、眠ってください」

 まだ開業したばかりのホテルのペントハウスでは、武の発作に対応はできない。周の判断は正しいと言えるだろう。

 体調不良ということで出社していなかったが、そろそろ動かないといけなくなる頃だ。

 現在、数年後に希に全権を移譲する予定で、自分たちが手を広げ過ぎたものを各部署に振り分けている最中だった。

 元は有人一人で行っていたものだ。何でもかんでも手を出し過ぎた……と今更ながら後悔する。

 武と夕麿が経営のほとんどを引き受けたことによって、御園生の企業業績は鰻上りになった。

 理由のひとつに武の負担を軽減するための体制が、多方向への配慮に繋がったことだ。結果、企業としてのコンプライアンスが上昇した。

 また有人が手を付けたくてできなかった改革も、夕麿が構築した人員と体制で推し進められた。

 夕麿としてはもう、武には経営から退けさせたい。発作とその治療も原因だが、それ以上にそれらが功を奏しても武に宣告されている寿命が延びる保証はどこにもないのだ。だから制限はあるにしても、もっと好きなことをして生きて欲しかった。身分や立場を変えることは不可能でも、武が武らしく精一杯生きていて欲しいと願う。

 うっかりと考え込んでしまって我に返れば、武が心配げな眼差しでジッとこちらを見つめていた。

「すみません……少し考え込んでしまいました。

 さあ、休みましょう」

 抱き寄せると不満そうな顔をする。その顔が幾分、幼く見えるのはそれだけ発作が進んだことを示している。

「気持ちはわかりますが……熱が上がった理由がそれだと周さんに叱られますよ?」

 苦笑いを受けべている自覚はある。同時にある程度は周や清方も黙認しているのも感じられた。

 それに武が夕麿のためにいろんなことを我慢していたのもわかってはいる。けれど大切な人の身体も気にしたい。彼の望みも叶えてやりたい。

 己の正反対の想いに戸惑う。その戸惑いの中に夕麿自身の『欲望』が揺らめく。愛しい人を抱きしめたい。心行くまで求めたい。出会いから近々15年を迎えるが、倦怠期とは今のところ縁遠い気がする。10代の強い熱を持った激しさこそ今はないが、代わりに穏やかな温かさに包まれた安らぎがある。

 夕麿にとって武がすべてだ。目の前に何を並べられ引き換えに何を差し出されても、武に代わるものなどこの世には存在していない。かつて武が自分の何もかもを犠牲にしても、夕麿のために行動した気持ちも今ならばわかる。自分も同じように今は考える。

「仕方がありませんね。明日、一緒に周さんに叱られましょう」

 覆い被さりながら言うと武が頷いた。

 髪を撫でてから唇を重ねた。最初は軽く擦れるだけ、次第に深く濃厚なものへと移っていく。髪を撫で頬を指先でなぞる。指は首へ、それからパジャマのボタンをはずしていく。

「寒くないですか?」

 指で触れる肌の熱が気になって問いかけてみる。武は笑顔で首を横に振った。

 発熱で染まった肌に熟れた果実のような乳首が、欲情にぷっくりと膨らんで色付き誘っている。舌先でつつくと武の口から吐息が漏れた。

 口に含んで甘く歯を立てて少し強めに吸った。

「はぁ……あああ……夕麿ァ」

 かすれた声が熱く響く。含んだ果実は甘くて夢中になる。

 思う存分甘い果実を味わってから、もう一度顔を覗き込んで笑う。

「イジワル」

 と唇が動いて紅潮した顔でプイッと横を向く。本当に愛らしくて愛しい。

 時間をかけると体温が上昇する可能性があると考えて、パジャマの下衣を慌ただしく脱がせた。そもそも熱が上がりそうなことをやっているのだ。ずいぶん矛盾した思いなのだが、当の本人は大真面目だった。

 それでも武の負担を考えて、早急に体を繋げた。

「ぁあ……」

 嬌声をかすかに上げて首を仰け反らせる。

「武……武……」

 ただただ彼の何もかもが愛しい……想いが胸を満たし溢れる。深く強い歓喜に心も身体も潤っていく。嫌な出来事がどれだけ自分を傷付け、飢え渇していたのかを思い知る。

 そして……この想いに無条件で応えてもらい、さらに大きく深い愛情で包み返してくれる武に感謝した。

 彼の夕麿への愛はどんな時にもブレない。たとえ背を向けたとしても彼は、その想いですべてを受け入れてしまう。諦めるのではなく、夕麿の望みや幸せを一番にするのだ。自分の想いや願いを押し込めても。

 ロスの留学時に武のこの想いは痛いほど実感させられた。自らの生命さえ脅かされようとも、武が選んだのは夕麿への愛だった。

 すべては愛する人の望むままに。

 紫霄の最後の一年に於いて側近として仕えていた周から、この言葉を耳にした時には言葉を失った。武は命がけで夕麿の乳母すら守ったのだから。

 夕麿を失えば武はどこかに幽閉され、間を置かずして病死を装って暗殺される。

 この想いに、愛に、自分はどれだけ応えて来れただろう?これから先にどれだけ応えていけるだろう?

 何もできない自分が歯痒い。けれど彼を想う気持ちだけは誰にも負けない。

 こうして武を抱けるのは自分だけ。自分が請い求めるのも武だけ。

 今はそれでいいのかもしれない……純粋に真っ直ぐに愛する人だけを見つめて、抱き締めて前へと歩んで行く。

「愛してます、我が君……」

 思わず口にした言葉に、武は柔らかく笑った。




「ふう……」

 自分たちの部屋へ戻ると周は、大きく溜息を吐いてネクタイを解いて荒々しく引き抜いた。シルクの擦れる音がする。

 朔耶は恋人が疲れているのをわかってはいる。けれど彼自身が自らの役目だと思ってすることに、異議を唱えるつもりはない。

「お二人にして良かったのでしょうか」

「ああ。夕麿はもう大丈夫だと清方さんが判断しているし、武さまが難しい治療に向かわれるためにも」

「ですが……」

 発熱してる武がそのまま夕麿を求めるのは、良いことではないのでは?と考えてしまう。

 朔耶の思考を察した周が声をたてて笑った。

「それも込で判断してる」

 すべては彼ら侍医たちはわかっていること。周の言葉はそういう意味だ。

 まだ学生にすぎない自分は、彼らと同じ位置に立つことはまだまだ許されない。わかってはいるけれど少し寂しく感じる。

「朔耶、僕たちはお前を除け者にしてるわけじゃないぞ?」

「それはわかってます」

「僕はまだ学生の頃から武さまのお側にいたが……できないことやわからないことばかりで随分悩んだ。大学で学んで資格を取得するだけでは本当の意味では『医師』ではない。そこから経験を積んでようやくらしくなっていくんだ。けれど学ぶことに無駄はない。僕も清方さんもお前にはよく学び、多くの経験をして欲しいと思っている」

 紫霄在学時代に『退廃の貴公子』とまで呼ばれた彼は。本当はとても責任感が強い努力家である。彼を無気力で気まぐれな人間にしていたのは、その繊細で傷つきやすい心を理解しない人間のエゴの犠牲になっていたからだ。

「それでも私は何もできない今を歯痒く感じるのです」

 生真面目過ぎるのが朔耶の調書でもあり、短所にもなっていると周は笑う。その笑みは穏やかで愛情に満ちている。恋人として、医師として、歳の離れた朔耶を大切に想ってくれている。だからこそ彼にかかる負担を軽減できる何かをできないか……と考えてしまうのだ。

「お前の気持ちはわかっている。だが今は焦らなくていい、その内に嫌でも担ってもらわなければならないことになる。

 第一、僕はお前がこうして側にいてくれるだけで十分なんだ。自分の居場所が、安らいで眠れる場所があるのだから」

 朔耶を真っ直ぐに見て言う瞳には迷いがない。出会った頃の不安定さも危うさも今は欠片さえ見えない。精神的には安定したと言えるかもしれない。

 ただ心配に思うのは変わらずの熱意だった。医学は日進月歩、新たな技術は更新され続けている。そのために『学び』は続けなければならない。先日までの理論が今日は覆されるのは医学に関わらず、学問では当たり前のことだ。周は『紫霞宮家の侍医』としての努力と責任と義務を怠ることはない。その有様は学生である朔耶でさえも凌駕する。
 
 ひとたび武の体調が崩れれば専用病棟に何日も泊まり込む。時として寝食もそっちのけになる。

 いや、そうじゃない。紫霄でインフルエンザが蔓延した折も周は医師として、不眠不休で全力で罹患者の隔離と治療に当たった。初期の指示も閉鎖空間ゆえに長く罹患者を出していなかった学院都市の医療機関に代わり、適切に速やかに行き亘らせたのは言うまでもない。

 全身全霊で自分が選んだ職業を追行する姿は確かに尊敬するし、朔耶には一つの目標でもある。だが心配でもある。めったに風邪もひかないというが、同じような体質の夕麿が度々、過労と心労の双方から発熱して倒れるのを見ていると、周も決して他人事ではないはずだと思ってしまう。

 実際に幾度か軽い症状ではあるが、体調を崩している。

「……周、あまり無理はしないでくださいね。あなたの気持ちは十分過ぎるほど理解してはしますが、もう少しは自分のことも考えてください、私のためにも」

「朔耶……」

 いつもいつも彼が自分を求め呼ぶ時に駆け付けられるわけではない。自分の心のセンサーをどんなに広げて伸ばしても、届かない限界が存在している。これまでは何となく感じられたけれども、武や蓮のような能力があるわけではない。彼の支えになりたいと願っても難しい。まだまだ未熟で何をどうすればよいのかに迷う。

「僕は……大丈夫だ。お前がいてくれるから。ちゃんとブレーキをかけてくれるだろう?」

 頬に触れる周の指先からは消毒薬の匂いがする。医療関係者は一日に何度も手指の消毒をする。アルコールでは殺菌できない場合もあるため、さらに強い薬品を使用する。そのために手や指が荒れてしまいやすい。勤務中はハンドクリームさえつけられない。外来で患者に接触するために、彼は家でのハンドケアを欠かさない。

 朔耶にとって尊敬する姿だが、周に言わせると紫霄の医学部へ進んだのは、都市内に留まりたかったからたそうだ。最初はそこまで深く考えてはいなかったと。

 周を変えたのは武だった。武と出会い、彼が初恋の相手の伴侶になっていたことに大きく心を揺さぶられた。

 今の自分があるのは武のお陰と周は言い切る。だから彼は武を主と仰ぎ一心に仕えている。

 それを見るに付け、自分は戻って来た薫にどこまで仕えられるだろう……と考えてしまう。

 両腕を周の首に絡めて、自分から唇を重ねていく。唇を重ねたままでベッドに押し倒され、さらに口付けが深くなる。

「周、愛してます」

 唇が離れる合間に囁くと、さらに深く強くなった……



「良かったのか、お二人だけにして」

「ええ。夕麿さまは大丈夫です」

 入浴の後の濡れた髪をタオルドライしながら、清方は穏やかな口調で答えた。

 数年前の出来事を目の当たりにしている雫が、心配するのは仕方がないことではある。

「じゃ、何を気にしてるんだ、お前は?」

 いつものスタイルを崩してはいない自信はあったが、やはり恋人にはわずかな違いがわかってしまう様だ。

「父から……気になる話を聞いたのです」

「気になる話?もしかして薫さま絡みか?」

「確証はなく、今はまだ噂の段階だそうですが」

「ふむ……だが、火のないところに煙は立たぬというからな。何かはあるのだろう。それが薫さまに繋がるかは別として」

「ですが宮中という場所は火がなくても煙を無理やり立たせるところです。互いに足をひっぱり、すくいあうのが常の様ですから」

「だがことは薫さまに繋がりそうな気配なのだろう?そこは無理やり煙、というのは違うんじゃないか?」

「話してくれた父も……多分、その様に考えるからだと思います」

 清方に話せば当然ながら雫に伝わる。その先は彼の判断に任せるということだろう。

御香宮ごこうのみやの御在所に、産婦人科医が呼ばれたそうなのですが、女御更衣や女官たちに懐妊の様子は皆無だそうです」

「それは確かに妙だ」

「殿下は幼少時より虚弱体質であられる」

 ゆえに子供は望めないかもしれない……と囁かれていた。実際に数年前からの側に侍る女御更衣は数人いるが、兆しすらないと言われている。

 当然ながら九條家は焦っているだろう。ここでもし、男児が生まれなければ皇統は他へ移る。

「なるほどな、だから武さまを消したいわけか」

「以外は……ご生母の身分が低い第三皇子ですから」

 第三皇子の生母は亡き皇后宮の下仕えで、後にそれなりの身分を与えられはした。美しい女性であったと言うが、後ろ盾だった皇后の崩御後に病で急逝している。しかし近徽殿側からの度重なる嫌がらせで、精神的に弱って上での病だったと囁かれ続けている。

「一応はあちらの縁者の女性が後宮に入ったみたいだけど……」

「あちらが怒らない程度の寵愛だと聞いている」

 宮中の出来事はどの様に秘しても、ある程度は漏れるものだ。特に後宮での寵愛は誰が最も重いかは、常に貴族たちの間では強い関心が持たれている。それによって皇家の恩恵や意向を自分たちの都合が良い方へ向かせるための指針になる。第三皇子は元々継承順はあっても自分には縁がないと思っている人物で、別宮を与えられてそこでどちらかと言うと質素な暮らしをしていると言われている。

「九條は武さまをどうして取り込まなかったのでしょう」

「さあな。もしかしたら弘徽殿御息所の亡き皇后への恨みや妬みは、直系の孫を取り込むのを好しとは思わせないほどなんじゃないか?」

「ご本人は既に崩御されて随分と歳月が過ぎているのに」

「まあ、今上が弘徽殿御息所を皇后にも準后にもしなかったのもあるだろう」

 武には何の関係もないではないか、と憤りしか感じられない。今上皇帝が最愛の皇后とその息子の血を受け継ぐ孫を、繋がりのない市井の人間にはしたくはなかったのだろう。実際に皇帝は武に会いにお忍びで訪れることまでした。宮中にも何度も呼び入れたりもした。それが孫可愛さに継承権を……と言い出すのではないか、という疑念を九條家や御息所が抱いても仕方なかった部分はある。

 その今上皇帝の寿命がつきようとしている。だからこそ護院家が武の後ろ盾になり、生母の嫁ぎ先にすぎない御園生家の邸から離すべく、帝都の郊外と言える土地に御在所を建設した。

 皇帝も自分がいなくなった後、武が危険に晒されるのは重々承知している。久方の申し出をすべて承諾したのは、それが武を護る最良の方法だと考えたからだろう。

「この先何も起こらないでいて欲しいが、それは無理だろうな。できるだけ抑えられるものは抑える。俺たちにできることはやる」

 少なくとも武は覚悟を決めている。何が起こっても最善を尽くすと雫には話していた。

「ところであなたは先ほどから何をしているんです?」

「ん~?わからないのか?ボタンをはずしているんだろうが」

「今、私たちは大事な話をしている最中だったはずですが……」

「ちゃんとしてるじゃないか。細かいことは気にするな」

 恋人の言い草に清方はふきだす。

「っく、あなたという人は……」

「ん?」

「『ん?』じゃないでしょう!」

 口調こそは怒っているが、顔は笑っている。

 気が付けばボタンはすべてはずされ、シャツが全開になっていた。

「好きモノですね、相変わらず」

「お前限定だぞ?」

「どうだか……」

「気に入らんな、どういう意味だ?」

「さあ?」

 清方が学院都市に閉じ込められている間、雫が何人かの女性と付き合っていた事実がある。中には結婚話が出ていた相手もいたと聞いている。

 二度と会えないと双方ともに思っていたのであるから、仕方がないことであるのはわかっている。

 わかってはいるのだ。だが自分の中の嫉妬の炎はいつまでも燻っていて、こうして何かのきっかけでメラメラする。

 逆に清方と関係のあった人間が現れても、雫は嫉妬の影すら見せない。

 周や貴之に対しても、学祭で再会した者たちを前にしても、雫は平然としていた。

 それが悔しい。口惜しい。もう会えないと恋焦がれていたのは自分だけだったのか……と悲しくなる、辛くなる。

 目の前の男が愛しいからこそ、会えなかった時間が存在するのが悔しい。二人の間にある埋められない時は、互いがあまりにも違う環境で生きていた。

 嘆いても仕方がないのはわかっている。雫の傍らにいた女性たちに嫉妬しても意味がないのも。けれどもその一人が仕事の上とは言え、一緒にいるのを見てしまった後からはずっと……しかも彼の母親に完全に自分は否定されたのだ。

 愛する人の腕の中にいても、例えようもなく孤独な気持ちになる時がある。

 これは学院都市に閉じ込められた者特有の心理なのだろう。朔耶も似たようなことを言っていたと周に相談を受けた経験があるし、義勝がそこから抜け出すのは難しいと語っていた。榊によると彼のパートナーも似た幹事らしい。

 雫にはなんの罪もない。自分のこのとうしようもない状態が、彼の負担にならないか心配はしている。だが時折、止められなくなる。不安が胸を満たして何もかもが恐ろしい。

「大丈夫だ、俺はここにいて、抱きしめるのはお前だけだ」

 噛み締めるように、幼子に言い聞かせるように、抱きしめる力を強めながら雫が言った。最初は恋人の不安定さが今一つわかっていなかったが、彼と過ごした十数年と似たような精神状態を見せる者が複数いる事実に、雫もゆっくりと理解を深めて来ていた。



 何かを変えることは難しい。まして過ぎ去った時間を巻き戻して、間違いを正してもう一度人生をやり直すことはできない。傷付いてしまった心は簡単に癒えるものでもない。だがその傷をも含めて現在ここにいる『彼』がある。同じような経験をしても個々の感覚や傷はそれぞれ別物だ。似て非なるものであり、時として真逆のものにもなり得る。そこが人間の神秘であり難しいところでもある。

 けれどもたった一人でも良い。信じるに足る『誰か』に出会えたならば、人は苦しみ悩みながらも前に踏み出す力を得られるのではないだろうか。『明日』を迎える気持ちを抱けるのではないだろうか。



 




 



   

 

 

 
 

 

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