蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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奏者の心得

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 夏休みも終わり、演奏会の準備が本格的に動き出した。

 夕麿も連日大学に通い、オーケストラとのあわせと明石 姫子のヴァイオリンの伴奏と忙しかった。

 ただ、姫子の演奏は一向に上達せず、干渉してくる彼女の母親にも悩まされ続けていた。

「で、大学の方はどうなんだ?」

 と武に改めて聞かれた夕麿は、深い溜息で返すしかない。

「前に言っていたことから進んでないのか……」

 自分に夕麿の様な才能がなくて良かった、と思ってしまう。自分にならば間違いなく今頃はキレている。

 講師を楽しそうにやっているから、そのまま続けていれば良いと思って来た。だがこうなるとどこかで辞めさせた方が良かったのか……とも考える。

 実は貴之の方からは別な報告が来ていた。明石教授夫人と姫子はどうやら、夕麿をそういう意味で狙っている様子だと。

「一度見に行ってもいいか?」

 義勝でもあるまいし、夕麿が気が付いていないはずがない。女嫌いな彼が、女二人に圧をかけられるのは不快だろう。




「まったく、何を夢見ているんだろうな?」

 音大へ向かう車の中で呟く。

「まあ……貴族や皇家は側室を持つのが当たり前と思ってるのでしょう」

 後継者問題に悩む家も多いため、正室以外の女性を選んで側室にする者はいる。実際に上に立つ皇家が、女御・更衣などの側室制度を有している。現皇帝は女御腹である。

 武自身はそれは個人の選択ではあるが、自分が執拗に生命を脅かされるのは、そこが原因であるのも理解はしていた。

「側室を設けられるならば、夕麿さまではなく武さまの方でしょうに。后妃が別に夫君を迎える話など聞いたことないですよ」

 そう言ったのはハンドルを握る成美だった。
 
「ですが……貴族夫人が愛人をつくっているのはあります」

 雫が言った。

「我々の周辺にはいませんが、それなりに話はありますね。本人たちも隠そうとはしません」

「それ、子供ができたらどうするんだ?」

「……」

 雫の沈黙に答えがあった。そう、男児ならば紫霄へ行かされるのだ。そしてよほどのことがない限り、外に出るのは難しくなる。

「結局はオトナのわがままと身勝手か」

 紫霄にはその徹底した教育方針で培われた、優秀な人材が数多くいる。それが皇国にとっての損失になるのがわからないのだろうか。

 武はまた、自分の両手を見つめた。

 何もできない手。

 何の力も持てない手。

 もしかしたらもうすぐ、消えてしまうかもしれない、無力な自分の手……

 沈黙した武をソッと雫は見守る。ジリジリと焦燥が積み重なり、今の武の両肩にずっしりとのしかかっているのが理解できるからだ。

 かける言葉などない。だから黙って見守るしか術がない。

 重い沈黙の中で車は大学の駐車場に到着した。

 雫が周囲を確認してから武が降り、足早に夕麿がいるレッスン室へ向う。

 夕麿は一人でピアノを奏でていた。レッスンの時間にはまだ間があるが、大した間があるわけではない。相手は早めに来るという習慣がないのだろうか。講師である夕麿は早く来ているというのに。これは非礼ではないのか?

 こう考えて武は苦笑した。これは確かに人としてのルールについての考えだが、これに幾分は貴族的思考が入っていることに気付いた。

 いつの間にか自分も貴族的な考えが普通になっているのを、いまここで改めて実感した。

「一人か?」

 武が問いかける。すると夕麿と貴之が複雑な顔をして頷いた。

「ん?何かあったのか?」

「それが……」

 言い淀む夕麿に代わって貴之が口を開いた。

「三十分か一時間ほど遅れると連絡が、つい先程届いたのです」

「はあ?無礼な奴だな。そういうのは前倒しで連絡するものでしょう?」

 成美が思わず不満を口にする。

「前からあるのか?それとも今日だけか?」

 武はそこが気になった。

「最近です。姫子嬢の母親が関わるようになってからですね」

 貴之が代わって応えた。

 彼の口調がやや辛辣に響くのは、明石家が本家から分離した『半家』という身分であり、その本家は既に廃絶している事実があった。明石家の本家は分家から養子を迎えなかったらしい。

「実は夕麿さまをお待たせしないように、俺から幾度か申し入れしているのですが……」

 母親が聞く耳を持たないらしい。

「実力もやる気もない。いくらヴァイオリンの教師だからって、勝手に口出しする。はっきり言ってゴミだな」

 言い捨てたのは成美だった。

「夕麿さま、本日の武さまのご訪問については通達なされたのですか?」

 雫が冷静に問いかけた。

「一応、明石教授には連絡してあります」

 教授から夫人と娘に伝えてないのか、それとも二人が武を軽んじているのか。もしかしたら待たせれば焦れて帰ると考えているのかもしれない。

「じゃあ、時間潰しに何か聴かせてよ」

 武は窓際に立て掛けてあるヴァイオリンのケースに視線を走らせて言った。貴之のヴァイオリンのケースであるのはわかっていた。おそらくは今日のように遅れた時に、夕麿の練習に付き合うためだろう。

「そうですね、構いませんか、貴之?」

「はい」

 笑顔で返事をしてケースを手にする。蓋を開けてヴァイオリンを取り出し、楽譜を幾つか取り出した。

「用意が良いですね」

 夕麿が苦笑する。ツィゴイネルワイゼンを貴之が弾いてしまうのは、未だに上達がしない姫子への嫌味になりかねない。またケースに一緒に入れられた楽譜は貴之が多忙の中にあっても、常日頃の練習を欠かしてはいないしるしとも言えた。

 貴之から楽譜を受け取った夕麿は驚きに目を見開いた。先日、彼が難曲にチャレンジしていた話を聞いたばかりだ。それを何の躊躇もせずに差し出したということは、このどれもを弾きこなすことができるのだろう。警護官の立場では何も言えないが、貴之は姫子の演奏にうんざりしているのかもしれない。何しろ夕麿もそうだが貴之もストレスの解消に、難しい曲や激しい曲を弾き続けることがある。だから彼の気持ちがわかるのだ。

「これにしましょう」 

 夕麿が選んだ楽譜には『悪魔のトリル』という題が綴られていた。その言葉に貴之がニヤリと笑って頷いた。

「何々?難しいやつ?」

 武が興味津々に楽譜を覗き込み、その題名に目を丸くした。夕麿が笑いながら曲の説明を口にした。


 18世紀の作曲家ジュゼッペ・タルティーニによって作曲された三楽章で構成されたソナタである。この曲はタルティーニの夢に現れた悪魔にヴァイオリンの演奏を懇願して演奏されたものだと言われている。『トリル』というのは主要音とその全音にすくは半音上の補助音を交互に鳴らす演奏法を言う。もちろんこれはヴァイオリンだけではなく、ピアノやギターにも用いられる。この曲では第三楽章の独奏カデンツァはトリルで構成されている高難度の曲である。

 悪魔の演奏を写し取ったという逸話とトリルが多く用いられているということで、この曲はいつしか『悪魔のトリル』と呼ばれるようになった。

「悪魔が作った曲?難しそうだな」

「難しいですよ」

 夕麿は実に楽しそうだ。

「始めましょう」

 楽譜を広げて鍵盤に指を乗せて頷く。貴之のヴァイオリンが美しい音を奏で始めた。確かに複雑な音がしている。だがその複雑さが美しい音となっている様に武には思えた。

 この教室は森に面した奥まった場所にあり、古さゆえにさほど防音性を持ってはいないらしい。というのもここは使用頻度の低い教室で、学生の出入りも本校舎のある区画よりは少ない。

 もちろんこの区画にも防音性の高い部屋はいくつか有り、学生や講師たちが予約して使用しているが、講義をほとんどしない、個人レッスンが仕事の夕麿の専用になっている。

 ただ……夕麿のピアノの実力は学内に広まっており、未だ夏休み中にもかかわらず学生がいつの間にか集まって来ていた。もちろん彼らもレッスンをするために、この区画の教室を一部屋何人かで借りている者たちである。

 出入り口や廊下に鈴なりになっている。これは夕麿のピアノだけではなく貴之のヴァイオリンの音が呼んだと言っても良いだろう。

 貴之のヴァイオリンは素晴らしいと武は思っているが、集まった学生たちの表情からも同じ感覚が読み取れる。音楽を学ぶ彼らと同じであるのは個人としては嬉しいが、少しまずいことになっているかもしれない……と思った。

 とも言うのも第二楽章の終わりあたりに、女性が二人、出入り口に姿を現したからだ。彼女たちが明石母娘に違いないだろう。

 娘の方は目を輝かせてこの様子を見ているが、母親の方の顔はまるで般若である。面白くはないだろう。貴之は十分にプロとしてやっていける実力と聞いている。その実力差は歴然だ。

 もちろん、夕麿も貴之も他の皆も二人の出現に気付いている。だからといって演奏を止めたりしない。この演奏は武の要望だからだ。

 独奏カデンツァ部分は圧巻だった。こんな複雑な演奏ができる貴之を本当に凄いと武は思う。何しろ未だに父宮の形見の琵琶に辿り着けていない。

 曲が終わった余韻に静まり返る。が、次の瞬間、集まった学生たちから割れんばかりの拍手と喝采が溢れた。

 貴之は振り返って無言で彼らに頭を下げた。

 もちろん武も惜しみない拍手を贈る。これに貴之は跪いて頭を垂れることで応えた。主君の賛辞に対する最上級の返事と感謝だった。

「如何でした、武」

「うん。凄いね。よくあんなに複雑に指が動くなぁ……と思った」

 武の純粋な言葉に明石教授夫人がバカにするように嘲笑った。

 即座に夕麿が立ち上がり武を庇う様に立つ。彼女の態度は不敬極まりない。

 それを見て彼女はさらに不快そうに鼻を鳴らしてから、振り返って学生たちを追い払った。

「これはどういうことですの、六条先生」

 現在、夕麿は本来の『六条』姓に戻っている。もっとも『御園生』姓はあくまでも便宜上で、摂関貴族の彼が勲功貴族へ養子入りするのは有り得ないことだったのだ。

「本日の武さまのご訪問を、明石教授から聞いておられませんか?」

「武さま?いいえ、何も。

こちらの方は警護だと存じておりますが」

 軽んじるように貴之を顎で示すが、これも無礼極まりない行為だ。明石教授の家柄は半家。貴之はそれよりもかなり上の羽林の筆頭出身。

 どれくらいの差かと言うと『良岑』家は、宮殿の謁見の間に伺候できるが、半家は特別な勅命が下りない限りは近寄ることもできない。平安時代の表現で言うならば、『良岑』は『殿上人』の端に属しているが、『明石』はそれが許されていない『地下人』になる。

 もちろん、武に声をかけることは僭越せんえつ行為である。

「聞いていないのであれば、本日のレッスンは中止いたします」

 あ、怒らせた……と武は心の中で呟いた。彼女は夕麿が一番嫌いなことをやっているのだ。

「中止?何ゆえです?」

 どうやら彼女は摂関貴族出身の夕麿にさえ非礼な言動をして来たらしい。夕麿と貴之が微妙な顔をしていたはずだ。

「明石夫人、不敬ですよ」

 そう言って前に踏み出したの雫だった。

「不敬?おかしなことを言うのね」

 この女は何だ?そういう疑問が全員の頭を過ぎった。明石教授は妻に何も話してはいない……のだろうか?

「音楽の道に身分は関係ないでしょ。そんなものに拘るから賞の一つも取れないのよ」

 何も知らないで自分の良識をすべてと考えているらしい言動に、武も夕麿も心底うんざりした。

「さて、現状も見たし、帰るな」

 15cm高い夕麿の顔を見上げて、武が笑顔で言った。

「申し訳ありません。お見苦しい様で」

「いや、久しぶりに貴之先輩のヴァイオリンとの演奏聴かせてもらったし」

「そう言っていただけると少しホッとします」

 武は女性二人を『いない者』にすることにした。いくら武の身分を知らなくての態度だとしても、夕麿に対する非礼だけでも許し難く感じたからだ。

「今日はこれからオーケストラの方の練習があります」

「お、『皇帝』楽しみだ。この前、検索かけて聴いてみた」

「なかなか壮大な曲でしたでしょう?」

「ピアノ、滅茶苦茶に難しそうじゃないか」

「そうですね。でも弾きごたえあります」

 実に夕麿らしい言葉に嬉しくなる。彼は何かに挑戦している時が、一番に煌めいている気がする。

「と言うことは移動か?」

「はい。少し離れた場所にコンサートホールがあります、この大学の」

 貴族の子息・子女も通う私立だけあって、大学専用のコンサートホールを持っている。収容人数は1500人程で、今回のオーケストラの練習もすべてここで行われていた。

「遠いの?」

「歩いても7~8分……というところでしょうか」

「じゃあ、送るよ」

「ありがとうございます」

 そう答える後ろで貴之が、既に楽譜とヴァイオリンを片付けていた。これを振り返って確認した夕麿は、満面の笑みで武を見た。

「ん?」

 何だろう…と首を傾げた武の頬に触れ、軽く唇を重ねて離れた。

「お前!突然過ぎるだろ!」

 一瞬の行為に武が叫ぶ。すると夕麿は楽しそうに笑った。

「あなたがあまりにも可愛かったので」

 雫も貴之も成美も『確かに…』と内心では思っていたが、ここで同意するわけにもいかず無言で互いに顔を見合わせた。

「うちの娘のレッスンはどうなるんですの⁉」

 和やかな雰囲気を引き裂く様に夫人が叫んだ。だが夕麿は少しも動じず、静かに振り向きもせずに答えた。

「本日の私の日程は先に大学側から配布された、本番までの全日程表に記載されてあります。それを考えずに当日に突然に遅刻されても、調製は難しいと何故わからないのでしょう?」

 今回の音楽祭は新たなる『皇帝の即位』を祝う名目で開催されるものだ。当然ながら夕麿がピアノを務めるオーケストラの方が優先される。一学生の演奏とは比べられないのだ。

「まさか、皇帝陛下御即位記念祝賀音楽祭の趣旨をお忘れではないでしょうね?」

 そもそも選曲自体が姫子のわがままとも言えるのだ。他の学生は『祝う』という意味を持った選曲をしている。しかし『ツィゴイネルワイゼン』にその様な趣旨はまったくない。

「夕麿、遅れるぞ」

 武の声に笑顔で応えて夕麿はなおも叫ぶ夫人を無視して、レッスン室を後にしたのだった。


「困った人だな」

 武が溜息混じりに呟いた。

「彼女は一般から嫁いだのか?」

 彼女の様な態度を取る人間には貴族のルールがわからない者が多い。男女関係なくだ。企業経営等をしていれば、貴族への接し方やルールを覚えなければ取引もままならない。

 しかし大学を含めた『学校』は少し違う部分がある。身分の違いと共に教える側と教えられる側がある。身分が高い者でも教える側、『師』には一定の敬意を払うのが常識である。もちろん高い身分の貴族に対する態度は求められる。それでも『師』と『教え子』の関係は存在し、尊重されるべきものなのである。

 そういう意味では夕麿は明石教授を『師』として、当たり前の敬意と気遣いをして来たつもりだった。だがここに来て彼の教え子に対する認識を疑いたくなった。何故なら今回の姫子の伴奏に対するゴリ押しが、あまりにも無茶苦茶な経緯だった事実を知ったからだ。

 姫子はどうやら卒業が難しいらしい。成績が今一つ振るわないと聞いた。それを挽回するために音楽祭での演奏を申し出たらしい。

 初めは大学側も『祝賀』に相応しくないと拒絶した。そこで出して来たのが夕麿にピアノ伴奏を、という本来は有り得ない要望を打開策にして来た。

 本来は学生のための音楽祭であるのを理由に、夕麿はオーケストラでの演奏すら躊躇った。今、目立つことは極力控えたい。自分の行動が刺激になり、武の生命が脅かされる可能性をどうしても考えてしまう。

「夫人は『名門』と呼ばれる家の出身だそうです」

 答えたのは貴之だった。彼は武と夕麿の側に近付く人間の身元調査を行うのも役目だ。

「一応は貴族出身なんだ」

「最下層でほとんど一般人と変わらないですが」

 今度は成美が答えた。

「ああも母娘揃って邪心塗れだと、演奏も想像がつきますね」

 雫もさすがにうんざりしたらしい。

「夕麿さまの演奏が台無しになりそうですね、あんな状態ならば」

「なあ、彼女の担当の講師とかはいないのか?」

 どう見ても母親が娘の担当だとは、武には思えなかったのだ。第一、あんなに好き勝手言いたい放題、やりたい放題をしていたら、娘の卒業が危ないのも納得してしまう。

「いたのですがね……」

 そう言って夕麿が深々と溜息を吐いた。

「追い払ったのか?ダメだろそれは。娘のためにならないとわからないのか、あの母親は」

「諦めたんじゃ?だから玉の輿狙いを始めたのでしょ。相手が夕麿さまってのが愚か過ぎるけど」

 成美はこういう時には遠慮しない。彼は夕麿や武とは別の形で、激しく女嫌いなのだ。

「基本的な部分を大切にできなければ、何をどうしても結果はあまり変わらないと思いますが」

 そう答えたのはヴァイオリンケースを成美に預けて、一番後ろで周囲を警戒している貴之だった。

「人としての在り方の基本かぁ……ちょっと耳が痛いかな?」

 武が苦笑する。武道家として常に基本を重視して大切にする貴之がだからこそ、その言葉の重みは大きな意味を持っていた。

「基本というのはある意味で『極意』でもあります。数多くの先達が長い歳月と努力を重ねた結果をまとめたものなのです。武道ではすぐに『奥義』を欲しがる者が出て来ますが、俺は『基本』こそ『奥義』なのだと思っています。実際に所属する流派では、『免許皆伝』で手渡されるものには何も書かれてはいませんでした」

 改めて武道の奥深さと貴之の実力に唸ってしまう。かつての彼はいくつもの迷いの中で、『主』に選んだ武を守る重さに悩んでいた。だが今の彼は確かな『何か』を掴んでここにいる。

「結局『心得』なのでしょうね、自分が行っているものに対しての」

 夕麿が穏やかな口調でこう言った。

「かもしれないな。どんなことでも真っ直ぐに向き合わなければならない時があるんだろう。そしてどれだけそうできるか……心を砕けるかなのかもしれない」

 武も頷きながら言った。


 楽器の演奏にしても、舞踊にしても、携わる本人の状態が剥き出しになるとも言われる。どんなに表面を取り繕っても、技巧的に優れていたとしても。内面が余すことなく溢れ出すと。

 だから彼らは体調を整え、ストレスとリラックスのバランスを図る。緊張しない人間はいない。だが少なからず緊張を味方にして、本来よりも優れた結果を出す者も存在する。

 逆にレッスンでは非常に優秀であるのに、本番では緊張に負けてダメになる者もいる。

 それぞれが『己』を知り、長所と短所と向き合って行くのが、正しい在り方なのだろう。

 『奏者の心得』……この言葉に明確な『答え』はないのかもしれないし、携わる人間の数だけ存在しているのかもしれない。

 芸術に携わる者が求める『究極』は、もしかしたら地上には存在してはいないのかもしれない。


 その頃、ある人物たちにに近付く者がいた。

 一人はこう耳打ちされて頷いた。

「紫霞宮に一泡吹かせませんか?」

 と。

 そして……今一人の人物は即答できなかった。囁かれた言葉はこうだった。

「返事は一週間後に聞かせてください。

 色良きものでしたら三条 葵の居所を教えます」

 ゆっくりと確実に陰謀が動き始めていた。


 



 







 
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