蓬莱皇国物語 最終章〜REMEMBER ME

翡翠

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死の舞踏

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 紫霄学院の学祭が終わった後、とうとう夕麿が講師を務める私立音大の音楽祭当日になった。

 明石 姫子のヴァイオリンの伴奏は、大学側との交渉で無事に学生と交代になった。実は明石夫人の横暴で非礼な言動は学生たちの間でも噂になっており、大学側も再三にわたり明石教授へ改善を求めていたらしい。

 武の訪問は警備上のこともあって、大学側にも知らせてあった。故にあの日の出来事はそのまま大きな問題になったのである。

 お陰で夕麿はオーケストラに集中でき、この日を無事に迎えた。


 夕麿は朝から通し稽古ゲネプロのために出勤し、武は午後からの開会にあわせて雫たちとゆっくりとホールに到着した。

 到着すると大学側の職員に、三階の中央にあるインペリアル・ルームに案内された。ここは下の階からは窺い知れることがなく、ゆっくりと舞台の様子を観ることが可能だ。もちろんそれなりの広さがあるため、警護官も入室できるスペースがある。

 先日、久方から皇帝の名代としての出席を望まれた。本人が顔を出せないのは当たり前ではあるが、この場合は誰かを代理にするのが慣例となっており、それは可能な限り皇家の誰かが求められていた。

 元々、夕麿が参加することもあって、当然ながら武が出席することは宮中にもわかっている。ならば……と言うことで、久方を通じての要請が来た。これを武は『姿を他の観客に見せない』という約束で承諾した。

 大学側も『皇家は安易に一般人の前に顔を出さない』というルールを知っている。武の事情も聞いている。彼らが欲しかったのはこの音楽祭への皇帝の関心で、行幸がなくても名代が出席することは願ってもないことであった。

 幕内で調整をする音が響く中、武は雫と着席した。重厚なカーテンから、逸見いつみ 拓真たくまがソッと会場を見回した。

「結構、入ってますね」

 彼は数日前に警察大学校から、特務室に復帰したばかりだった。



 ベートーヴェンの五つのピアノ協奏曲の最後に作曲されたとされる『皇帝』は、スケッチもしくは作曲に取り組んでいる最中の1809年、ナポレオンが率いるフランス軍によってウィーンを完全包囲され、シェーンブルン宮殿を占拠されてしまう。カール大公が率いるオーストリア軍は奮戦するがフランス軍の勢いを止める事は出来ず、ウィーン中心部を砲撃されてしまい彼らのウィーン入城を許してしまった。後にフランス・オーストリア両軍の間で休戦協定が結ばれるも、オーストリア皇帝フランツ、ルドルフ大公(ベートーヴェンの後援者)を含む貴族たちもこぞって疎開してしまい、ウィーンに於ける音楽活動は停止されてしまう。

 初演は1811年1月13日に行われたロクポヴィツ侯爵の宮殿の定期演奏会の中で、弟子の一人で彼の後援者の一人でもあるルドルフ大公の独奏で、非公開という形で演奏された。また同年11月28日にライプツィヒにのゲヴァント・ハウス演奏会に於いてフリードリヒ・シュナイダーの独奏による初めての公開演奏が行われ、翌1812年2月12日にはウィーンのケルントナートア劇場で弟子の独奏でウィーン初演が行われている。

 当日のベートーヴェンは抱える難聴が悪化の一途を辿っており、ピアノ協奏曲のカテゴリに於ける前作『ピアノ協奏曲第4番ト長調』までは初演に際してベートーヴェン自らが独奏ピアノを務めてきた。しかし、フランス軍による爆撃音は、ただでさえ進行中だった難聴が重症化、初演にピアノ独奏者として関わることを諦め、他のピアニストに委ねるに至っている。

しかしこの曲は不評に終わり、その影響からかベートーヴェンの存命中に二度と演奏されることは無かった。また、新たにピアノ協奏曲を自身の存命中に書き上げることもしなかった。後に、フランツ・リストがこの曲を好んで演奏したところから、名曲の一つに数えられるに至る。

「リストってベートーヴェン好きだよね」

 雫の説明に武が呟いた。何しろリストはベートーヴェンの交響曲等を幾つもピアノの独奏楽曲に編曲している。

「そうですね。しかし『皇帝』という題名はベートーヴェンが付けたわけではないんです」

「え~?じゃ、誰が付けたの?」

「ベートーヴェンと同時代の作曲家であり、ピアノ奏者であるヨハン・バブティスト・クラーマーという人物が、雄渾壮大とか威風堂々というこの曲から受けた印象で付けたそうで、ベートーヴェンの死後に主として英語圏で定着したそうです」

「うわ、ベートーヴェン本人は不満言いそうだな~」

「そうですよね。ナポレオンに母国が負け、ウィーンが占領された訳です。後に和平がなされてもオーストリア人としては屈辱の時間だったでしょう」

「確か、ベートーヴェンは最初はナポレオンを気に入ってたんだよな?」

「ええ。なので『英雄』を作曲しました。けれど彼が皇帝になったと聞いて、『英雄』と書いた楽譜の最初を引きちぎって投げ捨てた……と言われています」

「あ~裏切られたような気持ちだったんだろうな」

「ナポレオンは優秀な人物ではあったと思います。しかし皇帝として即位するのはどうだったのか……というのとでしょうね。

 ですが、別にナポレオンの肩を持つつもりはありませんが、皇帝が必要なほどに当時のフランスは混乱していたのかもしれません」

 フランス革命の後のフランスはまさに、政治家や思想家たちの分裂と殺戮の時代だった。『王政打倒』という目標があった時には、思想や目的の違いがあっても彼らは団結できた。しかし目標を達成した後に残ったのは、それぞれの次へのステップへの思想や理想の違いだった。

 これは現代でも見られる光景で、人間は数百年経過しても、その本質はさほど成長していないのかもしれない。

「でもさぁ……そういう経緯のあるこの曲をこんな時に演奏して許されるわけ?」

 それは武の純粋な疑問だった。

「俺もそう思いますが……クラーマーの印象の方で押切ってしまうつもりなのでしょう」

「わけわかんないな」

「そうまでしてこの音楽祭を開催したかっただけなんじゃないですか?」

 成美が言って、さらに言葉を繋げた。

「わざわざ夕麿さまを引っ張り出して、体裁を整えてまで」

 大学側の魂胆が丸出しなのは、皇帝も把握しているだろう。それでも一応は『祝』であるものに、つまらないケチはつけたくはなかったと考えられた。

「まあ、これで夕麿のピアノが認められたら、俺は満足だけどね」

 夕麿は音大を出たわけではない。有名なコンテストに出場して、賞をもらっているわけでもない。ただ、何人ものピアノの専門家……大学教授等が、彼の演奏を絶賛した事実があるだけだ。

「確かによい機会かもしれません」

 万が一、武に何事かあった場合に、夕麿の今後を支えるのはピアノしかないだろう。武はそこまで考えているのがわかる。

 だからこそ雫は今日、特務室全員を引き連れてここに来ていた。

 次々と学生たちの演奏が続いていく。結局、明石 姫子はピアノ科の学生と無難にツィゴイネルワイゼンを演奏し終えた。とは言っても普段、貴之と夕麿の演奏を聴き慣れている武には、やはり何か物足りないように思えた。

 そして……これまで演奏していた学生たちの背後の幕が開かれた。その奥にはオーケストラのための準備が整っており、楽器を携えた学生たちが幾分、緊張を隠せない面持ちでそれぞれの席に着いていた。

 そして……満場の拍手の中、指揮者と夕麿が入室。二人同時に武たちのいる席を見上げて頭を下げ、客席に向き直って頭を下げた。

 夕麿が着ているのは武がこの日のためにオーダーしたスーツだ。オーケストラは黒のスーツを着る。特に今回は新皇帝の即位を祝う演奏会だ。

「夕麿さま、カッコイイですねぇ」

 そう言ったのはカーテン脇から下を覗いていた拓真だ。

「それに誰よりもお綺麗でいらっしゃる」

 続いて成美が言う。

 格好良くて綺麗。これほど夕麿にぴったりな言葉はない……と武は思う。自分の愛しい人はいつも一番輝いている。

 誰かが耳にしたら、砂か砂糖でも吐きそうなことを武は、至極真面目に感じていた。

 夕麿の背後には気配を消した貴之がいた。夕麿のために楽譜をめくる役目を担いながら、傍らにいて周囲の状況に目を配る。また、舞台袖には康孝が、客席の最前列の階段際には今年から配属された、水尾みずお 穂澄ほずみが座っている。彼ら以外にもそこここに複数の人員が配置されていた。

 御在所を定めたことで、正式な人員が皇宮警察から派遣されることになり、雫は現在、警護班の長として二十人余りを指揮している。それでも薫と葵が戻って来れば、まだまだ人員が足らないと考えていた。

 同時に……この中にあちら側が送り込んで来た人員がいない、という保証はどこにもない。できれば信頼できる人員だけで結成したかったが、その様な人材がそうそう揃うはずもない。

 今回はできるだけ紫霄の卒業生を率いて来たが、当然ながら以外の人間が不満を漏らすのは考えられることだ。そこで鷺沼さぎぬま 知也ともやを連れて来たが、彼は刑事局長である良岑よしみね 芳之よしゆきの甥であり、副室長の貴之の従兄であるのは知られている。

 これはこれで問題になりそうで、雫としては頭が痛い。

 雫の心配を他所に武は、オペラグラスで舞台を眺めていた。


 指揮者がタクトを振り、演奏が始まった。最初からピアノの演奏が中心に曲が進んで行く。続いてヴァイオリンや管楽器による主題が壮大に演奏される。この間、ピアノのパートはない。その後再びピアノのパートになり、主題が華やかに演奏される。

 曲自体は夕麿が熱心に練習していたし、貴之がピアノ以外の部分をでき得る限りヴァイオリンで再現する、という『神業』としか武には思えない技術を駆使して補助していた。

 夕麿に対しても思うのだが、貴之にはもっと感じてしまう。彼らにはできないことはないのではないか……と。特に文化面では他者を寄せ付けない部分がある。貴之に至っては皇国一の武道家である。

 自分に彼らの半分でもいいから、もっと何かをできる才覚があれば……と思う。

 むろん二人が聞いたならば、武の染色や組紐、機織りの技術こそ敵わないと答えるだろう。けれど武にとってはそれは大したことではなく、その気になれば二人ならばもっと巧く素晴らしい作品が創られると考えていた。


 夕麿のピアノ演奏に引っ張られるように、学生たちの演奏が練習以上のものに引き上げられていく。

 学生の中でも優秀な者を集めていたと言っても、所詮は学生の演奏するオーケストラのはずだった。『皇帝』は凡そ40~50分ほどの演奏時間を必要とする。

 第一楽章は普通に優秀な学生による演奏だった。それが第三楽章に入る頃には、どこかの名の通ったオーケストラのような響きが、満員のホールに響きわたっていた。

 最早これは夕麿のピアノの持つ能力ちから以外の何ものでもないだろう。

 皇家は神話の中や歴史の中で、人を超えた能力を発揮したと言われて来た。

 天変地異を予知したり、皇帝が動くだけで雨が降ったり止んだりする。行幸先で虹や彩雲が空に出現する等、近代でも『偶然』で片付けるにはあまりにも度々のことが起こった。

 新しい皇帝はまだ行幸には動いてはいないが、先帝はかなりの頻度で天候現象をもたらした。彼の『賢帝』という評価の一端がここにあった。

 武の能力は他者の負の感情をダイレクトに受けてしまうところだと言える。ダイレクトゆえに心身が蝕まれる。

 夕麿といえば彼を嫌う人間が極端に少ない。嫌う者は大抵、利害が絡んで来た。むしろ彼は周囲に大きな影響を与え、物事を円滑に進めることに長けている。これも能力だと言えるかもしれない。

 『皇家の血』はある意味で恐ろしいと成美は思ってしまう。上司の雫にしても、統率力と指揮力は凄い。紫霄の警察組織でさえも、腹の中はわからないにしても彼の顔色を伺うようになってしまっている。しかし彼の能力はそれだけなのであろうか?少なくとも夕麿よりは皇家の血が濃いはずだ。

 夕麿自身は宮家の女系の血を引くが、摂関貴族の家系は過去に繰り返し皇家の血が入っている。また武はある意味で先祖返りとも言える。

 薫はどうなのだろう。彼にはその様な兆しは見えなかったと記憶している。

 何にしても自分はそういうのから離れた身分で良かった……などと成美は思っている。お陰で仕事は別として、日常は至って平和に呑気に過ごしている。『結婚しろ』とうるさい一族郎党さえ無視すれば。

 

 そうこうしている間に演奏が終わった。指揮者がタクトを振り終えると会場は静まり返った。誰しもが呼吸すら忘れているかの様であった。

 学生たちが不安げに互いの顔を見合わせる。夕麿もピアノの前から動けない。

 指揮者が戸惑いながら指揮台を降り、観客に深々と頭を下げた途端に、会場は我に返ったらしく割れんばかりの歓声と拍手がわき起こりホールが振動した。

 武はその凄まじさに呆然としながら立ち上がり、フラフラと舞台の方へ歩み出した。

 雫が慌てて制止する。こんな場面で凶事をたくらむ者はいないであろうが、古来、劇場は暗殺とテロリズムの実行場所になることが多々あったからだ。

 武はそれでも雫に隠れる様にして舞台を覗き込む。ちょうど指揮者が夕麿を紹介するところだった。

 こういう時には夕麿の姓を『六条』に戻して良かったと思う。

 再び、ホールを揺るがすような歓声と拍手がわき起こる。その様を見て夕麿が呆然と立ち尽くしていた。

 天才と持て囃されても、彼は音楽界では無名の一人に過ぎない。在学中の学生でも夕麿の本当の実力を目の当たりにした者は少ないだろう。

 これでもう、『摂関貴族の出身だから選ばれた』『皇家の血を引くから』という理由だけで、彼がこの演奏に挑んだわけではないと誰しもが納得したはずだ。

 次いで『皇帝の名代』の臨席が告げられ、雫が代って立つ。もちろん下からは姿は見えないが、これも武を守るためだった。

 それにしても観客の興奮はまだ収まらない。

 これはまずい……と雫たちは思った。一般の観客は大丈夫ではあるが、大学関係者は舞台袖や裏側に入れる。賛美するためであったとしても夕麿が彼らに取り囲まれて、身動きが取れなくなるのは非常に危険な状態になる。第一、夕麿は他者との接触を嫌う。一気に多数が接触すれば体調を崩す。すぐに駆け付けて他者との間に壁を作って守る必要があった。

「雫さん、俺はいいからすぐに夕麿の所へ行って!逸見を残してくれたらいいから」

 夕麿の側にいるのは貴之と康孝だけだ。雫が率いて来た人員をできるだけ投入しなければならない事態であるのは、武にだってはっきりとわかるのだった。

 今は夕麿を守らなくてはならない。

「逸見だけではダメです。応援を呼びました。到着するまでここで待機していてください」

 雫はそう言って成美たちを連れて飛び出して行った。

 ほどなくドアがノックされる。彼らはその時に合わせてノックのやり方を変える。それによって他者と仲間を区別し、判断をする。

 入って来たのは知也だった。彼はすぐに廊下を今一度確認してドアを開き、武と拓真を促した。それに従って二人は廊下に踏み出した。今のところ人がいる気配はない。しかし誰かが往来する可能性がある場所に、今は長くとどまるべきではない。

 拓真の先導で人気のない廊下を下りて、足早に夕麿の控室へ向う。

 さすがに控室の並ぶ辺りには、学生らしい人間がチラホラいた。彼らは武たちに視線を移すが、知也と拓真に鋭い視線を一瞬向けられて、そそくさと自分たちの控室に姿を消した。

 控室の前に武と知也を待たせて、拓真が解錠して中を確認する。控室は至ってシンプルで、簡単なソファとテーブルに身だしなみを整える姿見。そしてピアノを弾く指を温めるために、アップライトピアノと温かなオシボリが入ったケースが設置されている。

 ソファには夕麿の荷物が置かれていた。

 ホッと小さく息を吐いて、ソファに腰を降ろした武の後ろに拓真が立つ。

 知也はドアの側に立って、廊下の様子を窺っている。

「夕麿さまにアップライトって……大学は正気ですかね」

 ピアノに視線をやって拓真が呟く。

「元々、この部屋にはピアノはなかったんじゃないかな?」

「あ~ここの主流はヴァイオリンと指揮者育成とか言いますものね」

「だから夕麿を非常勤講師に呼んだんだろう」

 そう言いながら明石 姫子のことを思い出した。この大学の主流の一つを学びながら、今一つ上達しないのは本人には辛かろう。まして母親があれでは投げ出すことすら難しそうだ。

 雑談に花を咲かせていると不意にドアがノックされた。特務室の合図のそれではない。

 部屋の空気が緊張に染まる。拓真は武を庇う位置に移動した。

「どなた?」

 知也がドア越しに誰何すいかするが、相手からの返事は更なるノックだった。

「だから、あなたの姓名を聞かせてください」

 少し強めに知也が言う。すると弱々しい声でかろうじて声が聞こえる返事があった。

「あの、すみません……明石 姫子でございます」

 今頃、何の用だ?と三人が顔を見合わせた。

「夕麿さまはまだ戻られてはいらっしゃいませんが」

「いえ、あの、その、武さまに先日の母の非礼のお詫びがしたくて」

 『先日』と言ってもあれは夏休み中の出来事だ。何ゆえに今頃、しかもこのタイミングで?

 武は首を捻った。母親本人が来たならまだしも、娘に来られても意味はない。身分を弁えずに非礼と言うよりも、不敬を働いたのは彼女ではないのだ。

「申し訳ありませんが警備上、ここをお開けすることはできません」

 知也が冷静にきっぱりとした口調で告げた。

「私一人なのに⁉」

 一般人でももう少し理解力がある、と拓真は呆れ返った。

 母娘して夕麿の側室狙いだったらしいが、まずその頭の悪さを何とかしろと言いたかった。閨の相手をするだけが側室の仕事じゃないぞと。政治的な利用を企んで寄って来る輩を、巧く捌くのも尊き方の側に仕える者の役目であるのだ。

 これは側室に対してだけ必要とされることではない。高貴なる方々に仕える者は、政治家以上に擦り寄ってくる輩が多い。理由の一つにかつては『国府』などの叙任の願いに、権力者詣でが当たり前だった時代がある。ゆえに現代でも便宜を図ってもらう目的で近付いて来る。

 今現在、この悪習を最も利用しているのが九條家と言えるだろう。

 そして明石家はかつては今よりももっと高い身分の家柄だった。教授は分家で身分は低くあるが、断絶した本家を自ら継承して、復活させたい気持ちはわかりはする。夕麿や武をその足がかりに……という気持ちもわからないわけではない。だからと言って母娘の思惑は不敬である。

「まだ夕麿の側室の座狙ってんのかな」

 溜息混じりにに武が苦笑して言った。ただこの時点で武の胸の中は嫌な胸騒ぎが押し寄せて来ていた。拓真の背に隠れて、それこそ知也にすら気付かれない形で、スマホの録音機能をONにしてソファ下に置いた。

「申し訳ありませんがその案件は後日になさってください」

 当然ながら知也は拒絶の言葉を口にした。

「でも……」

 姫子は一度言い淀んでからこう告げた。

「……君なくて 塵積もりぬる 常夏の 露うち払い 幾夜寝ぬらむ」

「⁉」

 ドアの向こうから聞こえて来た歌に知也が息を吞むのがわかった。

 彼女が口にしたのは『源氏物語』で葵上が死んだ後、三条の左大臣邸を去った光源氏が残していった歌の一つだ。
当然ながらこの歌が行方のわからない葵を示していることは、そこにいた彼らには瞬時にわかった。

 だが何ゆえにこのタイミングで、しかも葵の存在を知らないだろう姫子の口から出て来るのか。

 武と拓真が首を捻った時だった。知也がドアの施錠を外して開いた瞬間だった。黒服の男が数人、ドアを蹴り破る勢いで部屋に突入して来た。

 彼らは驚愕する知也の首に素早く手刀を入れて昏倒させた。

「何だ、お前たちは!」

 武を背後に庇って拓真が鋭く言う。だが男たちは不快な笑みを浮かべるだけだ。知也とて決して弱いわけではない。ライバル視する貴之が皇国武道家としてチャンピオンに君臨しているゆえに、到底敵わぬことは痛いほどわかってはいてもそれなりの学びと鍛錬はしている人間だ。如何に驚いていたとしてもこうもあっさり倒されるとは思えなかった。目の前にいる男の中に相当の手練れがいる。しかも彼らはここに貴之がいないことを把握して押し入って来たのだ。

 拓真は息を吐いて態勢を整えた。敵わないかもしれないが命をかけても武を守らなければならない。彼らの目的は彼なのだから。

 拓真の覚悟がわかったのだろう。一人の男が彼の前に立った。貴之や蓮ならばこの男に勝てただろう。面差しや体高から彼が皇国出身者ではないことが見て取れた。貴之がずっと夕麿の警護に専属で就いたいることを彼らは把握している。だが雫が率いる紫霞宮の警護チームは、全員が普段から貴之の鍛錬を受けていることは知っているのだろう。

 そう、武と夕麿を守る彼らは通常の警察官や警護官よりも遥かに強いのだ。

 対峙する二人は構えたまま動かない。身長は相手が2M近く、拓真は180CMに少し足りない。武道は身長や体格で優劣が決まるわけではないが、それはあくまでもかなりの手練れにだけ言えることだ。

 ピリピリとした空気が室内に満ちる。焦って無駄に動けばあきらかに拓真の方が不利だ。おそらく目の前の人物は傭兵出身者だろう。武器を持たせても強いだろうと思える。だが敢えて丸腰でいるのは素手でも十分に相手を倒せる実力があり、その手で既にかなりの人間を殺しているのがわかる。

 拓真は自分を守る警護官の一人である前に、紫霄の高等部からの友人だ。彼らの狙いは武。できれば彼を危険な目に合わせたくはない。だがそれは自分の甘えた考えでもあるのは、さすがに長きに亘って『皇家の貴種』として生きて来た経験から身に染みて理解している。拓真には拓真の役目があり責任がある。上に立つ者としてそれに介入し、阻害する言動は決してしてはならない。このルールを破れば多方面にも支障が出るのだ。

 警護官である拓真は勝ち目がない相手であっても、武を守るために死力を尽くさなければならない。武が繰り返し生命を脅かされるのを見て、彼を守りたいと望んだ役目だ。元より望むところだ。

「サッサと邪魔者は排除してしまいなさい」

 少し細身の男がそう言った。彼が頭なのだろう。口調や物腰、その雰囲気から見て貴族であるのは間違いない。

「お前がリーダーか」

 武は男を見据えて言った。すると彼は鼻で笑って答えた。

「ええ、そうですよ」

「名前を聞こう」

 彼の名前は強力な証拠になる。自分が証言できない事態になっても、録音が残ってくれる。

 さすがに繰り返し失敗して来たのだ。あちらとしても今度こそ成功させたいだろう。だからこそ逃げ場がなくなる可能性のあるこんな場所で襲撃をして来たのだ。

「名前……ですか」

「お前みたいなのが来たというのなら、成功する自信があってのことだろう?今更、名を惜しむか?」

 どうしてもその口から名乗らせたい。今後のことを考えても、ずっと警護してくれていた雫たちのためにも、遺せるものは残しておかなければならないから。

 この状況では逃げられない、逃げ場はない。向こうもこれまで以上に策を練って来ているのがわかる。

「まさか。ご無礼をいたしました。

 わたくし、九條 実時さねときと申します」

 薄笑いを浮かべて頭を下げて言う。何とも慇懃無礼いんぎんぶれいな姿は、武を『皇家の貴種』とは認めていないのがわかる。

「なるほどな。俺は首謀者の一族の人間を引っ張り出せたわけだ。それはそれは……ある意味でめでたいな」

 相手がそうならばこちらも遠慮も配慮もしない。

 実時は別にして、他の者は武の落ち着きぶりに驚いた顔を向けた。拓真に対峙する男すらだ。

「俺が命乞いでもすると?そんな無様なマネはしないさ。第一、慣れた」

 不敵に言い放つ。

 雫たちはおそらく間に合わないのがわかっているからこそ、彼らからできるだけ多くの言葉を引き出しておきたい。

 武は彼らに向かい合いながら心の中で愛する人に、謝罪と別れを告げた……
 

 


 

 




 

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