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死闘の果てに
全力で行かなければならない相手だと感じていた。如何に『皇国一の武道家』と称えられようとも、勝ち続けて来たのはあくまでも、『武道』と言う名の競技だ。その中で最強であったとしても、生命を賭けた闘いはまた別物である事実も、貴之は幾度かの武の襲撃を経験して身を持って理解していた。
もちろん、『競技』としての武道が実際の戦闘で役に立たない訳ではない。
ただ、相手を倒すことを目的とする『競技』と相手を殺す、もしくは戦闘不能に陥るまで叩きのめすことは明らかに『違う』。
男と対峙した貴之は静かだった。向かい合う男が殺意の炎を上げているのとは対照的だった。
しかし雫は理解していた。貴之が所属する流派は『無我無心』を戦いの極意としている。どこまでも澄んだ水面の様に、凪いだ海の如く、心を研ぎ澄ませて視覚ではなく肌で、全身で、場を支配する力の動きを読む。『殺意』もまた人の心に湧く『感情』という揺らぎに過ぎない。『揺らぎ』は心の水面を波立たせ、映し出す景色を歪める。判断にズレを生じさせ、動きを鈍らせる。
必要なことは『無我無心』によってあらゆる感覚を研ぎ澄ませる状態に己を持っていくことである。
以前、雫は貴之に質問したことがある。
「お前にとって『最強』とはどの様な『境地』だ?」と。
貴之は苦笑しながらこう答えた。
「そうですね……最初は誰しもが高山の頂を目指します。ですがある程度登ってしまうと気が付きます。山道を歩んでいたつもりだったけれども、実は深い水底へ向かって潜っているのだと。山の頂上はいつかは辿り着くでしょう。しかし己の心の底には果てがありません」
「果てがない?」
「俺の師匠、もう故人になってしまわれましたが、こう申されました。『心には底はない。何故なら人間の魂は球で、その中心は神々の坐す世界と繋がっているからだ。修行と研鑽はそこへ至ることこそが真の極意だ』と」
「インド哲学でいうところの真我か」
武道が本来、信仰と深く繋がっているという事実は、貴之が所属する皇国最古の流派が神道との関わりがあることでもわかる。そもそも『剣』は神々の依り代でもある。貴之の言葉には『誰とどの様に戦うか』ではなく、『如何に己自身と向き合うか』こそが、武道の真髄であり奥義であるという意味に聞こえた。長期にわたり皇国の武道界の頂点としての揺るぎない彼が、常に自分を『未熟』と言い続ける理由がここにあった。
雫が見たところこの大柄な白人の男は、貴之のような武道を収めた者ではないだろう。多少はボクシングやマーシャルアーツの経験があるだろうが、基本的には喧嘩で積み上げたのだろうことが、その体形で予想された。
武道・武術と言われるものやスポーツで作られた身体にはそれに必要な筋肉のみが発達し、無駄な部分がほぼない物なのである。たとえば、テニスプレイヤーやダンサーは通常は水泳をしないと言われている。これは使用する筋肉が真逆であるため、それまでに鍛錬された筋肉がダメになるという。
またボディビルの様に見せるためにつくられた身体は、武道・武術には向いていないと言われている。通常の『喧嘩』であるならば力押しで何とかなるだろう。だが筋肉は重い。闘いの時間が長ければ無駄な筋肉の重みが次第に体力を削る。ゆえに力押しは短期決戦こそ有効なのである。
対して貴之は器具を使用してのトレーニングをするにはする。だが彼はどこをどう鍛えればよいのかを熟知して行っている。彼は一見、とても細身だ。実際に見た目で彼を判断して痛い目に遭った犯罪者もいる。だがよく見れば纏う衣服の下に戦闘に特化して鍛えられた身体があるのを、見破る者も皆無ではないのだ。
彼がアメリカに研修に言っていた時に同僚の一人が、熊を素手で倒せるか……と聞いて来たことがあるらしい。貴之は「やったことはないが多分、倒せるだろう」と答えたらしい。雫も誰かに貴之が熊をと聞かれたら迷うことなく「YES」と答えるだろう。昔、日本である空手家が牛を素手で倒した逸話がある。熊は牛よりもはるかに機敏で狡猾ではあるが、貴之ならばと思わせるものが彼にはある。
「ほぅ~この前の奴が言っていたのはお前のようだな」
その容姿からは想像できなかったほど、男は流暢な日本語を口にした。男の言う『奴』とは拓真のことだろう。間違いなく彼に重傷を負わせたのはこいつだ。
「まず、お前の名前を聞こう」
貴之の声が静かに響く。男が貴之を動揺させたり、怒りで我を忘れさせようと企んだのであれば完全に失敗である。何故なら貴之は出発する前に雫に言ってわずかな時間を一人真剣を手にして、御在所の敷地内にある道場に籠ったからだ。真剣の扱いは素人が思うよりも難しい。だからこそ鞘から抜き放って剥き身にする時には一切気を抜くことができない。真剣は安易に生命を断てる凶器でもあるからだ。
そしてその真実を以って貴之は怒りを正しく爆発させ、揺るぎのない無我無心に己の心になれるように調節したのだった。
男は貴之の言葉に幾分驚いた様に方眉を上げて、自分と対峙する相手をしみじみと見た。今の貴之には殺気すらない。風のない、波や波紋のない水面のようだ。
もっとも、白人に東洋の武道の心の在り方なぞわかりはしないだろうが。
「俺の名前?これからどちらかが倒れるのに、そんなものは知る必要はないだろう?」
「物事には礼儀というものがある。戦場で相手の顔も見ないでライフルを撃つのとは違う」
獣を倒すのとも違う。互いに人であるならば名乗り合ってこそ真の闘いであると貴之は考える。
「殺し合いに礼儀だと?面白いことを言う男だな。いいだろう、お前の流儀に合わせてやるよ。
俺の名前はゲオルグだ」
『ゲオルグ』というのは『George』のドイツ語読みである。
「俺は貴之だ」
敢えて『姓』は口にしない相手に従って、貴之も姓は名乗らない。
改めて男がファイティングポーズを取る。だが貴之は何も変えることなく立っている。
しかし彼から立ち昇る気迫が間近にいる者たちの肌をピリピリさせる。
それなりの付き合いのある雫でも、貴之の本気モードは初めてだ。かなりの人数の暴漢を相手にしても、あまりにも実力の差があるために手加減はしても本来の実力を発揮することはなかったからだ。
貴之の態度に幾分、ゲオルグと名乗った男の感情が動く。ナメられていると感じているのだろう。
無理もない。貴之は男からしたら、小柄で華奢な東洋人にすぎない。彼が皇国一の武道家であると教えたのは誰かはわからないが、それなりに期待はしていたのだろう。白人はどちらかと言うと『強さ』は、『大きさ』と比例すると考えているのかもしれない。
もしかしたら貴之の実力を疑い、侮りの気持ちへと心が動きつつあると雫は見た。
だとしたら半分はもう貴之の勝ちだ。
貴之はまるで呼吸すらしていないかのように不動のままで立っている。
しかしゲオルグはまるで散歩から帰ったばかりの犬の様に、激しく粗い呼吸を繰り返していた。額には汗が溢れ、眼を爛々と光らせてどこか嬉々とした様子さえうかがえる。明らかに興奮状態である。
(楽しんでやがる……)
雫は心の中で呟いた。この調子で拓真に重症を負わせたのだろう。相手をなぶり殺しにする輩だ。殺すのが目的ではなく、できるだけ長く苦痛を与えるのが大好物というところだろう。
拓真が生きていたのは、武が止めたからだ。流石に雇い主がそれに従って止めたのには逆らえなかったらしい。
貴之は変わらず眉一つ動かさずに立っている。
……と、利き腕を差し出して掌を上に向け、手招きしながら小さく言った。『来い』と。
ゲオルグがギリリと歯を鳴らす。貴之の挑発への苛立ちを顕にした。
挑発しながらも貴之は冷静である。反対に先程までの余裕がゲオルグの顔から消え失せた。さすがに自分が目の前の相手を軽く見ていたと悟ったのだろう。
雫は貴之の試合を観に行ったことがある。ずっとチャンピオンの座にある貴之には、決勝戦で勝ち残った者だけが挑めるシステムに最近改定された。これは警察官僚としての貴之の多忙さを配慮すると同時に、トーナメントそのものに出場しても結果がわかりきっている状況からだった。
そして……トーナメントを上り詰めて貴之に対峙した者の殆どが、闘う前から萎縮してしまう。初めから勝負は決まっている状況だった。
身近に『好敵手』がいないと言うのは、どの様なものであっても不幸な事態と言える。共に競い合って高め合うことができなくなるからだ。
だからこそ蓮が現れたことに貴之は心底喜んだ。そして彼を養子に迎えて、自らの手で好敵手へと育てる歓びを今は味わっている。その歓喜がさらに貴之を強くしていると雫は感じていた。
焦れたゲオルグが一歩踏み出す。
貴之は動かない。
さらに焦れたゲオルグがまた踏み出し、いきなり回し蹴りを繰り出した。それを滑るように退いてかわす。
唸り声をあげて殴りかかって来た手首を軽く握って、事も無げと言う様に投げる。
が、ゲオルグもさるもの。クルリと身を翻してかわした。
2m近い巨体にしては敏捷な動きだ。
「フッ、『柔よく剛を制す』か。東洋人は時折、見た目をうらぎるから困る」
「今のは柔道じゃないが」
「なるほどな。そう言えば刀をもってたが、そっちでやるか?」
「断る。お前に貸す刀はない」
扱いも知らぬ者に刀を貸すほど愚かなことはない。ゲオルグは貴之の言葉に片眉を上げて笑うと周囲を見回した。
壁に槍用であろう棒が数本掛けてあった。平時は先とは別にしてあるらしい。もっとも、九條家関連の屋敷であるここに討ち入りするバカは、自分たちくらいだろうと雫は苦笑した。
ゲオルグはそんな雫の様子をチラリと見てから、壁に歩み寄って棒を二本手に取り、一本を貴之に投げ渡した。
槍はその刃先だけではなく、柄である棒の部分も使用して闘う。手にした棒の長さはちょうど貴之の肩ぐらいである。
貴之は掌に軽く当てて強度を確かめる。先を付けていないことから、これが飾りではなく戦闘用として置かれている予想はつく。ゆえにこれだけでも十分に使用できる硬度を確認した。
スッと脇に抱える様に棒を持ち、真っ直ぐにゲオルグを見据えて立った。
「来い」
今度はゲオルグが挑発する。武器を手にして少しは気を大きくしたのかもしれない。
しかし彼は知らない。貴之が所属する武道の流派には『棒術』があることを。しかも合気道まで習得しているということは、ありとあらゆるものを武器として使用する術に長けているのだ。
現代の合気道ではそこにあるものを武器にする闘い方を教えなくなっているが、本来はそのようなことも教えの中に含まれていた。ただ……護身の方法として発展してしまったことや、相手の『気』を読む武術と言うことで『愛の武道』的なことも語られたためにいつの間にか、攻撃中心に感じられる『そこにあるもの』を武器にする教義が失われて行ったのかもしれなかった。
貴之の口元に笑みが浮かんだ。好敵手とあいまみえるのは久しぶりだった。研修で行ったFBIにも、知識や技術で尊敬できる人物は幾らでもいたが、武術で貴之と対等にやり合える相手はいなかった。複数を相手にしてもすぐに勝敗は明確になった。
ましてや今は命を賭けて相手と対峙している。おそらくは完全な無傷では終われないだろう。
これは『死闘』なのだ。
「参る」
低く言い放って、すぐに打ち込んだ。打撃音が鈍く響く。
貴之の鋭い打ち込みをゲオルグが受け止めたのだ。
再び貴之の口許に笑みが浮かんだ。
その表情にムッとした顔でゲオルグが反撃に出る。一歩引いて瞬時に打ち返す……が、クルクルと棒を回転させてすべて受けとめ、払い除ける。その足捌きはまるでダンスのステップの様に軽快だ。
響く音からゲオルグがかなり強い力で打ち込んでいるのがわかる。巨体からは想像できないほど、彼の動きは素早く激しい。
貴之が、どんなに優れた武道家であろうとも、実力が拮抗している相手の攻撃をすべてかわせたり受け止められる訳ではない。
変則的に来る足払いに続く脇腹等への打ち込みは、直撃を防いではいるがダメージは受けていた。
もちろん、有効な打撃を相手にかなり打ち込んではいる。通常の相手ならば動けなくなっていてもおかしくない。
貴之の繰り出す痛烈な打撃を受けていても、ゲオルグの動きは一向に鈍る様子はない。汗をかき、多少の呼吸の乱れはある。それでも動きが変わらないのは、彼が痛みに強い耐性をもっているということだろう。
双方共にそれなりの傷は負っているはずだった。武道の試合ならば既に、有効打を判断されて勝敗を決しているか、双方のダメージを鑑みて試合が停止されているだろう。
五手に一手は相手の攻撃を受けてしまう。ある適度は直撃をかわせているが、それでもかなりのダメージを受けていた。
国内で敵なしの貴之は、なかなか向き合う相手から打撃を受けることはない。これはある意味でマイナスであった。
決して痛みに弱いわけではないが、どんなに鍛えても強靭な肉体となっても、人間には限界は存在する。
どの様にかわしても一手か二手は直撃に近い打撃を受けている。何しろあいては執拗に脇を狙って来る。自分のそこがあまいとは思ってはいないが、一点を攻められれば多少のミスは起こる。
それでも高め合うは表情も顔色も変えずに、相手の攻撃を受けかわし、その倍のスピードで打撃を繰り返す。
木と木がぶつかり合う音に混じって、人の身体を打つ鈍い音が響く。
初めは踊る様にステップを踏んで、棒を扱っていた貴之の足元が心持ち狂いだしている……様に雫には見えていた。彼が負けるとは思わないが、際どい勝負なのはわかる。手加減はできないと宣言したのを、今更ながら実感していた。
時間の感覚がなかった。相手の振るう棒がスローモーションの様に視えることもあるが、それは目が慣れて来て動きに対応を始めたからだろう。
こうなると完全に相手の攻撃をかわせるようになった。しかしここで気を緩めてはならない。勝ちを思った瞬間に人間はスキを生む。
貴之はあえて数歩下がって体勢を整え、棒を構え直した。その全身からゆらゆらと炎が上がるように見えた。
その姿は鬼神の様だった。
大切な主と後輩を傷付けられた怒りが、静かな冷たい炎のように全身から立ち昇るのが雫には確かに視えた。
見ている雫の全身が総毛立つ。ピリピリとまるでその場の空気に電流が流れたかのように、肌が貴之の気迫と怒気を感じていた。
次第に棒を繰り出す貴之のスピードが増して行く。当然ながらゲオルグのスピードも合わせて上がって行く。
しかし、細身の貴之と巨漢のゲオルグでは、消費する体力にかなりの差がある。元々身体に恵まれている欧米人は、細身よりも筋肉質の巨漢に強さを感じる。
東洋でも同じ考え方の人間は存在するが、何某かの武術を嗜む人は往々にして細身な者が多い様に見受けられる。巨漢を無駄な筋肉ばかりだと嗤う武道家も存在する。
こうして見ていると貴之の動きは実に芸術的だと感じられた。スポーツでも武術でも、洗練されて無駄のない動きは時として舞踊の様だ。
実際に舞踊はバランスを保つ為に、柔軟性と筋力を必要とする。また舞踊家が細身なのは、足腰にかかる負担を軽減するためでもある。そもそも太めの身体は柔軟性に欠ける場合が多い。
柔軟性はあらゆるスポーツ、武道にも要求されるものである。何故なら柔軟性が低くなるとそれが直接、故障に繋がってしまう可能性が高くなる。
貴之の柔軟性はおそらく、バレエダンサーにも劣らないであろう。
………などと雫が思考を巡らせている間に、とうとう貴之のスピードに合わせられなくなったらしいゲオルグが、手にしていた棒を投げ出した。びっしょりと汗をかいている。
貴之とて消耗していないはずはない。相手の打撃を直撃は避けたとはいえ、何度かくらっているからだ。いくら何でもノーダメージとは言えないのではないか。
如何に国内で向かうところ敵なしの彼でも、ここで素手に切り替えるのはリスクがあるのではないのか。
自分が闘うのであれば、こうも頭を悩ませたりしない。
雫にとって貴之はずっと武を護るために歩んで来た『戦友』で、最早、『上司と部下』という括りでは考えられない関係である。だからこそこうして二人で殴り込みに来たのだ。
母を皇家の内親王に持ち、清華貴族出身の雫に対して貴之は、羽林らしい礼節を持って接してはくれる。それでも彼が自分に絶大な信頼を寄せてくれているのは肌で感じていた。
だからこそこの勝負を見守っている………が、あり得ないとは思うが万が一、貴之が敗北することがあったならば、躊躇いなくこのゲオルグという男を射殺するつもりでもあった。
これは公明正大に闘うスポーツではない。生命を賭けたものであり、ゲオルグは部下に瀕死の重傷を負わせた犯罪者なのである。
そこは絶対に間違えてはならないからこそ、『手加減は無理』と言う貴之を闘わせているのだ。
部屋横にある庭に面した廊下には、この屋敷の警備を担っているらしき者たちが多数、戸惑った顔で立っている。
先程、踏み込もうとした猛者をゲオルグが一喝し、雫も無言で銃口を向けて威嚇した。
武の容態が気にならない訳ではない。だが今は気を散らし、隙をつくって自らを危険に晒す行為になる。
無事を祈ってはいる。周も慈園院家も付いている。彼らを信用しよう。
貴之も手にしていた武器を投げ捨てる。
こういった戦闘は間合いが取り難くなると素手になる。むしろ武器が邪魔になる。
刀と刀の鍔迫り合いですら、刃を合わせながら相手を蹴飛ばしたりする。
そこが武道と実戦の違いと言える。
素手での闘いはさらにスピードアップした。
腕や脚がぶつかる音が鈍く室内を満たす。
鍛えた身体ならばダメージをかわす筋力と技で無傷だが、どれも常人ならば骨折だけでは済まないほどの打撃である。
貴之は普段のスーツ姿だと細身に見える。一見、武道家だとやかる人間は少ないだろう。しかしよく観察すると衣類の上からでも肩や上腕、脚の筋肉がわずかに盛り上がっているのがわかる。
手は、普段は手袋をしているため、甲にある武道のたこは見えない。もっともそれをわかる人間も少ないかもしれない。
貴之がゲオルグの顎に向かって鋭い飛び蹴りを入れる。と、ゲオルグはその脚を掴んだ。好機と思ったのか、既に腫れ始めている顔がニヤリと歪んだ。
が、次の瞬間、掴まれた脚を軸にしてもう片方で顔面を強打して、そのままクルリと宙を舞って着地した。
体勢に乱れはない。それだけ貴之の筋力が強く靭やかであるのがわかる。
「グゥ………!」
ゲオルグが呻いて後方へたたらを踏んだ。
初めて見せたダメージである。
それだけ彼が疲弊している証拠でもあった。
貴之は間髪を入れずに踏み込んで行くと、ゲオルグは一応は対抗するがスピードも勢いも緩んでいた。
おそらくは何処かにかなりのダメージを受けていると雫は見た。
それでも『もしも』の時の準備だけは怠ってはいない。手の中の銃の安全装置は外したままだし、脳の片隅で思考をめぐらせながらも、二人から目を離したりはしない。ゲオルグも貴之を倒して終わりだとは考えてはいないはずだ。
これは『試合』ではなく、『死闘』なのだから。
足元が若干、覚束なくなったゲオルグの状態を見逃さず、貴之の回し蹴りが首元にまるで刃物を叩き付けるかのように打ち込まれた。
………鈍い音がして、ゲオルグの巨体がドッと後ろに倒れ込んだ。
「終わったか?」
雫が言葉と共に立ち上がる。もちろん、詰めかけている者たちを銃で威嚇することは忘れていない。
「多分」
貴之にしては曖昧な返事だった。それだけ相手がタフだったということだろう。
「今の蹴りで起き上がれたらさすがに化物だろう」
「化物でしたよ」
貴之が苦笑混じりに答える。
「そりゃご苦労さん」
少し戯けて言って、預かっていた刀を手渡す。
受け取った貴之は軽く振って構えなおす。
「進むか」
「そうですね」
まるでピクニックに来たかのような口調だった。
武力的にはこのゲオルグが一番で、あとはそこまで強い人間はいないと二人は見ていた。いるならば二人の勝敗が決したところで出て来ているはずだ。
抜き身の刀を手にした貴之を見て、鬼神からでも逃げ出す様に、集まって来ていた者たちが逃げ出した。
その先に必ずや九條 実時がいるはずだ。そして、三条 葵や知也も。
入って来た知らせは車の中で一人待つ成美には、あまりにも衝撃で怒りと後悔に満ちていた。
雫と貴之が突入して既に一時間近くになる。もう少し様子を見てから、応援を呼ぶか呼ばないかの決断をしなければならない時間になる。雫の銃の腕は国内でもトップクラス。そして貴之は言わずもがなの実力だ。
二人が負けるはずはない。
そんなことがあっては絶対にならない。
運転席に身を預けながら成美が悶々としていると、屋敷の門が勢い良く開かれ人影が飛び出して来るのが見えた。
慌てて発車させて彼らの前に停車する。
そこには痩せ細った葵を抱きかかえた知也と、血まみれの雫と貴之が立っていた。
二人に怪我がある様には見えない。おそらくは返り血であろう。
知也が葵を抱え上げているのは、『血』の『穢れ』ゆえなことだとわかる。
車の後部ドアを開いて知也を促すと、彼は頷いて葵をシートに降ろしてから自身も乗り込んだ。されに成美が続く。
本来ならば同じ車両に乗り込むのは憚られるところだが、早急にこの場所を離れる必要がある。
せめての対策として、雫と貴之が前に乗り込むことにした。
「室長………先程、周さまからご連絡が………」
常になく歯切れの悪い成美に、彼らの顔色が蒼白になる。
「使用された毒の主成分は、月下百合から抽出されたものだそうです」
そう続けたのはスマホに来ていたメールを確認した貴之だった。
「なんだと?!」
雫が驚愕の声をあげた。
「あれは………解毒剤が存在していないだけじゃない、かなりの苦痛をもたらしすとんでもない毒だ………そんなものを………」
車の中の全員が言葉を失う。
同時に九條家を許さない、という想いがますます強くなった。
「今は無事に帰ることを優先しよう」
この中で最も武に近い人間ではある雫が、ハンドルを握り締めて言ってエンジンをかけた。
あとは言葉を失った状態だった。
もちろん、『競技』としての武道が実際の戦闘で役に立たない訳ではない。
ただ、相手を倒すことを目的とする『競技』と相手を殺す、もしくは戦闘不能に陥るまで叩きのめすことは明らかに『違う』。
男と対峙した貴之は静かだった。向かい合う男が殺意の炎を上げているのとは対照的だった。
しかし雫は理解していた。貴之が所属する流派は『無我無心』を戦いの極意としている。どこまでも澄んだ水面の様に、凪いだ海の如く、心を研ぎ澄ませて視覚ではなく肌で、全身で、場を支配する力の動きを読む。『殺意』もまた人の心に湧く『感情』という揺らぎに過ぎない。『揺らぎ』は心の水面を波立たせ、映し出す景色を歪める。判断にズレを生じさせ、動きを鈍らせる。
必要なことは『無我無心』によってあらゆる感覚を研ぎ澄ませる状態に己を持っていくことである。
以前、雫は貴之に質問したことがある。
「お前にとって『最強』とはどの様な『境地』だ?」と。
貴之は苦笑しながらこう答えた。
「そうですね……最初は誰しもが高山の頂を目指します。ですがある程度登ってしまうと気が付きます。山道を歩んでいたつもりだったけれども、実は深い水底へ向かって潜っているのだと。山の頂上はいつかは辿り着くでしょう。しかし己の心の底には果てがありません」
「果てがない?」
「俺の師匠、もう故人になってしまわれましたが、こう申されました。『心には底はない。何故なら人間の魂は球で、その中心は神々の坐す世界と繋がっているからだ。修行と研鑽はそこへ至ることこそが真の極意だ』と」
「インド哲学でいうところの真我か」
武道が本来、信仰と深く繋がっているという事実は、貴之が所属する皇国最古の流派が神道との関わりがあることでもわかる。そもそも『剣』は神々の依り代でもある。貴之の言葉には『誰とどの様に戦うか』ではなく、『如何に己自身と向き合うか』こそが、武道の真髄であり奥義であるという意味に聞こえた。長期にわたり皇国の武道界の頂点としての揺るぎない彼が、常に自分を『未熟』と言い続ける理由がここにあった。
雫が見たところこの大柄な白人の男は、貴之のような武道を収めた者ではないだろう。多少はボクシングやマーシャルアーツの経験があるだろうが、基本的には喧嘩で積み上げたのだろうことが、その体形で予想された。
武道・武術と言われるものやスポーツで作られた身体にはそれに必要な筋肉のみが発達し、無駄な部分がほぼない物なのである。たとえば、テニスプレイヤーやダンサーは通常は水泳をしないと言われている。これは使用する筋肉が真逆であるため、それまでに鍛錬された筋肉がダメになるという。
またボディビルの様に見せるためにつくられた身体は、武道・武術には向いていないと言われている。通常の『喧嘩』であるならば力押しで何とかなるだろう。だが筋肉は重い。闘いの時間が長ければ無駄な筋肉の重みが次第に体力を削る。ゆえに力押しは短期決戦こそ有効なのである。
対して貴之は器具を使用してのトレーニングをするにはする。だが彼はどこをどう鍛えればよいのかを熟知して行っている。彼は一見、とても細身だ。実際に見た目で彼を判断して痛い目に遭った犯罪者もいる。だがよく見れば纏う衣服の下に戦闘に特化して鍛えられた身体があるのを、見破る者も皆無ではないのだ。
彼がアメリカに研修に言っていた時に同僚の一人が、熊を素手で倒せるか……と聞いて来たことがあるらしい。貴之は「やったことはないが多分、倒せるだろう」と答えたらしい。雫も誰かに貴之が熊をと聞かれたら迷うことなく「YES」と答えるだろう。昔、日本である空手家が牛を素手で倒した逸話がある。熊は牛よりもはるかに機敏で狡猾ではあるが、貴之ならばと思わせるものが彼にはある。
「ほぅ~この前の奴が言っていたのはお前のようだな」
その容姿からは想像できなかったほど、男は流暢な日本語を口にした。男の言う『奴』とは拓真のことだろう。間違いなく彼に重傷を負わせたのはこいつだ。
「まず、お前の名前を聞こう」
貴之の声が静かに響く。男が貴之を動揺させたり、怒りで我を忘れさせようと企んだのであれば完全に失敗である。何故なら貴之は出発する前に雫に言ってわずかな時間を一人真剣を手にして、御在所の敷地内にある道場に籠ったからだ。真剣の扱いは素人が思うよりも難しい。だからこそ鞘から抜き放って剥き身にする時には一切気を抜くことができない。真剣は安易に生命を断てる凶器でもあるからだ。
そしてその真実を以って貴之は怒りを正しく爆発させ、揺るぎのない無我無心に己の心になれるように調節したのだった。
男は貴之の言葉に幾分驚いた様に方眉を上げて、自分と対峙する相手をしみじみと見た。今の貴之には殺気すらない。風のない、波や波紋のない水面のようだ。
もっとも、白人に東洋の武道の心の在り方なぞわかりはしないだろうが。
「俺の名前?これからどちらかが倒れるのに、そんなものは知る必要はないだろう?」
「物事には礼儀というものがある。戦場で相手の顔も見ないでライフルを撃つのとは違う」
獣を倒すのとも違う。互いに人であるならば名乗り合ってこそ真の闘いであると貴之は考える。
「殺し合いに礼儀だと?面白いことを言う男だな。いいだろう、お前の流儀に合わせてやるよ。
俺の名前はゲオルグだ」
『ゲオルグ』というのは『George』のドイツ語読みである。
「俺は貴之だ」
敢えて『姓』は口にしない相手に従って、貴之も姓は名乗らない。
改めて男がファイティングポーズを取る。だが貴之は何も変えることなく立っている。
しかし彼から立ち昇る気迫が間近にいる者たちの肌をピリピリさせる。
それなりの付き合いのある雫でも、貴之の本気モードは初めてだ。かなりの人数の暴漢を相手にしても、あまりにも実力の差があるために手加減はしても本来の実力を発揮することはなかったからだ。
貴之の態度に幾分、ゲオルグと名乗った男の感情が動く。ナメられていると感じているのだろう。
無理もない。貴之は男からしたら、小柄で華奢な東洋人にすぎない。彼が皇国一の武道家であると教えたのは誰かはわからないが、それなりに期待はしていたのだろう。白人はどちらかと言うと『強さ』は、『大きさ』と比例すると考えているのかもしれない。
もしかしたら貴之の実力を疑い、侮りの気持ちへと心が動きつつあると雫は見た。
だとしたら半分はもう貴之の勝ちだ。
貴之はまるで呼吸すらしていないかのように不動のままで立っている。
しかしゲオルグはまるで散歩から帰ったばかりの犬の様に、激しく粗い呼吸を繰り返していた。額には汗が溢れ、眼を爛々と光らせてどこか嬉々とした様子さえうかがえる。明らかに興奮状態である。
(楽しんでやがる……)
雫は心の中で呟いた。この調子で拓真に重症を負わせたのだろう。相手をなぶり殺しにする輩だ。殺すのが目的ではなく、できるだけ長く苦痛を与えるのが大好物というところだろう。
拓真が生きていたのは、武が止めたからだ。流石に雇い主がそれに従って止めたのには逆らえなかったらしい。
貴之は変わらず眉一つ動かさずに立っている。
……と、利き腕を差し出して掌を上に向け、手招きしながら小さく言った。『来い』と。
ゲオルグがギリリと歯を鳴らす。貴之の挑発への苛立ちを顕にした。
挑発しながらも貴之は冷静である。反対に先程までの余裕がゲオルグの顔から消え失せた。さすがに自分が目の前の相手を軽く見ていたと悟ったのだろう。
雫は貴之の試合を観に行ったことがある。ずっとチャンピオンの座にある貴之には、決勝戦で勝ち残った者だけが挑めるシステムに最近改定された。これは警察官僚としての貴之の多忙さを配慮すると同時に、トーナメントそのものに出場しても結果がわかりきっている状況からだった。
そして……トーナメントを上り詰めて貴之に対峙した者の殆どが、闘う前から萎縮してしまう。初めから勝負は決まっている状況だった。
身近に『好敵手』がいないと言うのは、どの様なものであっても不幸な事態と言える。共に競い合って高め合うことができなくなるからだ。
だからこそ蓮が現れたことに貴之は心底喜んだ。そして彼を養子に迎えて、自らの手で好敵手へと育てる歓びを今は味わっている。その歓喜がさらに貴之を強くしていると雫は感じていた。
焦れたゲオルグが一歩踏み出す。
貴之は動かない。
さらに焦れたゲオルグがまた踏み出し、いきなり回し蹴りを繰り出した。それを滑るように退いてかわす。
唸り声をあげて殴りかかって来た手首を軽く握って、事も無げと言う様に投げる。
が、ゲオルグもさるもの。クルリと身を翻してかわした。
2m近い巨体にしては敏捷な動きだ。
「フッ、『柔よく剛を制す』か。東洋人は時折、見た目をうらぎるから困る」
「今のは柔道じゃないが」
「なるほどな。そう言えば刀をもってたが、そっちでやるか?」
「断る。お前に貸す刀はない」
扱いも知らぬ者に刀を貸すほど愚かなことはない。ゲオルグは貴之の言葉に片眉を上げて笑うと周囲を見回した。
壁に槍用であろう棒が数本掛けてあった。平時は先とは別にしてあるらしい。もっとも、九條家関連の屋敷であるここに討ち入りするバカは、自分たちくらいだろうと雫は苦笑した。
ゲオルグはそんな雫の様子をチラリと見てから、壁に歩み寄って棒を二本手に取り、一本を貴之に投げ渡した。
槍はその刃先だけではなく、柄である棒の部分も使用して闘う。手にした棒の長さはちょうど貴之の肩ぐらいである。
貴之は掌に軽く当てて強度を確かめる。先を付けていないことから、これが飾りではなく戦闘用として置かれている予想はつく。ゆえにこれだけでも十分に使用できる硬度を確認した。
スッと脇に抱える様に棒を持ち、真っ直ぐにゲオルグを見据えて立った。
「来い」
今度はゲオルグが挑発する。武器を手にして少しは気を大きくしたのかもしれない。
しかし彼は知らない。貴之が所属する武道の流派には『棒術』があることを。しかも合気道まで習得しているということは、ありとあらゆるものを武器として使用する術に長けているのだ。
現代の合気道ではそこにあるものを武器にする闘い方を教えなくなっているが、本来はそのようなことも教えの中に含まれていた。ただ……護身の方法として発展してしまったことや、相手の『気』を読む武術と言うことで『愛の武道』的なことも語られたためにいつの間にか、攻撃中心に感じられる『そこにあるもの』を武器にする教義が失われて行ったのかもしれなかった。
貴之の口元に笑みが浮かんだ。好敵手とあいまみえるのは久しぶりだった。研修で行ったFBIにも、知識や技術で尊敬できる人物は幾らでもいたが、武術で貴之と対等にやり合える相手はいなかった。複数を相手にしてもすぐに勝敗は明確になった。
ましてや今は命を賭けて相手と対峙している。おそらくは完全な無傷では終われないだろう。
これは『死闘』なのだ。
「参る」
低く言い放って、すぐに打ち込んだ。打撃音が鈍く響く。
貴之の鋭い打ち込みをゲオルグが受け止めたのだ。
再び貴之の口許に笑みが浮かんだ。
その表情にムッとした顔でゲオルグが反撃に出る。一歩引いて瞬時に打ち返す……が、クルクルと棒を回転させてすべて受けとめ、払い除ける。その足捌きはまるでダンスのステップの様に軽快だ。
響く音からゲオルグがかなり強い力で打ち込んでいるのがわかる。巨体からは想像できないほど、彼の動きは素早く激しい。
貴之が、どんなに優れた武道家であろうとも、実力が拮抗している相手の攻撃をすべてかわせたり受け止められる訳ではない。
変則的に来る足払いに続く脇腹等への打ち込みは、直撃を防いではいるがダメージは受けていた。
もちろん、有効な打撃を相手にかなり打ち込んではいる。通常の相手ならば動けなくなっていてもおかしくない。
貴之の繰り出す痛烈な打撃を受けていても、ゲオルグの動きは一向に鈍る様子はない。汗をかき、多少の呼吸の乱れはある。それでも動きが変わらないのは、彼が痛みに強い耐性をもっているということだろう。
双方共にそれなりの傷は負っているはずだった。武道の試合ならば既に、有効打を判断されて勝敗を決しているか、双方のダメージを鑑みて試合が停止されているだろう。
五手に一手は相手の攻撃を受けてしまう。ある適度は直撃をかわせているが、それでもかなりのダメージを受けていた。
国内で敵なしの貴之は、なかなか向き合う相手から打撃を受けることはない。これはある意味でマイナスであった。
決して痛みに弱いわけではないが、どんなに鍛えても強靭な肉体となっても、人間には限界は存在する。
どの様にかわしても一手か二手は直撃に近い打撃を受けている。何しろあいては執拗に脇を狙って来る。自分のそこがあまいとは思ってはいないが、一点を攻められれば多少のミスは起こる。
それでも高め合うは表情も顔色も変えずに、相手の攻撃を受けかわし、その倍のスピードで打撃を繰り返す。
木と木がぶつかり合う音に混じって、人の身体を打つ鈍い音が響く。
初めは踊る様にステップを踏んで、棒を扱っていた貴之の足元が心持ち狂いだしている……様に雫には見えていた。彼が負けるとは思わないが、際どい勝負なのはわかる。手加減はできないと宣言したのを、今更ながら実感していた。
時間の感覚がなかった。相手の振るう棒がスローモーションの様に視えることもあるが、それは目が慣れて来て動きに対応を始めたからだろう。
こうなると完全に相手の攻撃をかわせるようになった。しかしここで気を緩めてはならない。勝ちを思った瞬間に人間はスキを生む。
貴之はあえて数歩下がって体勢を整え、棒を構え直した。その全身からゆらゆらと炎が上がるように見えた。
その姿は鬼神の様だった。
大切な主と後輩を傷付けられた怒りが、静かな冷たい炎のように全身から立ち昇るのが雫には確かに視えた。
見ている雫の全身が総毛立つ。ピリピリとまるでその場の空気に電流が流れたかのように、肌が貴之の気迫と怒気を感じていた。
次第に棒を繰り出す貴之のスピードが増して行く。当然ながらゲオルグのスピードも合わせて上がって行く。
しかし、細身の貴之と巨漢のゲオルグでは、消費する体力にかなりの差がある。元々身体に恵まれている欧米人は、細身よりも筋肉質の巨漢に強さを感じる。
東洋でも同じ考え方の人間は存在するが、何某かの武術を嗜む人は往々にして細身な者が多い様に見受けられる。巨漢を無駄な筋肉ばかりだと嗤う武道家も存在する。
こうして見ていると貴之の動きは実に芸術的だと感じられた。スポーツでも武術でも、洗練されて無駄のない動きは時として舞踊の様だ。
実際に舞踊はバランスを保つ為に、柔軟性と筋力を必要とする。また舞踊家が細身なのは、足腰にかかる負担を軽減するためでもある。そもそも太めの身体は柔軟性に欠ける場合が多い。
柔軟性はあらゆるスポーツ、武道にも要求されるものである。何故なら柔軟性が低くなるとそれが直接、故障に繋がってしまう可能性が高くなる。
貴之の柔軟性はおそらく、バレエダンサーにも劣らないであろう。
………などと雫が思考を巡らせている間に、とうとう貴之のスピードに合わせられなくなったらしいゲオルグが、手にしていた棒を投げ出した。びっしょりと汗をかいている。
貴之とて消耗していないはずはない。相手の打撃を直撃は避けたとはいえ、何度かくらっているからだ。いくら何でもノーダメージとは言えないのではないか。
如何に国内で向かうところ敵なしの彼でも、ここで素手に切り替えるのはリスクがあるのではないのか。
自分が闘うのであれば、こうも頭を悩ませたりしない。
雫にとって貴之はずっと武を護るために歩んで来た『戦友』で、最早、『上司と部下』という括りでは考えられない関係である。だからこそこうして二人で殴り込みに来たのだ。
母を皇家の内親王に持ち、清華貴族出身の雫に対して貴之は、羽林らしい礼節を持って接してはくれる。それでも彼が自分に絶大な信頼を寄せてくれているのは肌で感じていた。
だからこそこの勝負を見守っている………が、あり得ないとは思うが万が一、貴之が敗北することがあったならば、躊躇いなくこのゲオルグという男を射殺するつもりでもあった。
これは公明正大に闘うスポーツではない。生命を賭けたものであり、ゲオルグは部下に瀕死の重傷を負わせた犯罪者なのである。
そこは絶対に間違えてはならないからこそ、『手加減は無理』と言う貴之を闘わせているのだ。
部屋横にある庭に面した廊下には、この屋敷の警備を担っているらしき者たちが多数、戸惑った顔で立っている。
先程、踏み込もうとした猛者をゲオルグが一喝し、雫も無言で銃口を向けて威嚇した。
武の容態が気にならない訳ではない。だが今は気を散らし、隙をつくって自らを危険に晒す行為になる。
無事を祈ってはいる。周も慈園院家も付いている。彼らを信用しよう。
貴之も手にしていた武器を投げ捨てる。
こういった戦闘は間合いが取り難くなると素手になる。むしろ武器が邪魔になる。
刀と刀の鍔迫り合いですら、刃を合わせながら相手を蹴飛ばしたりする。
そこが武道と実戦の違いと言える。
素手での闘いはさらにスピードアップした。
腕や脚がぶつかる音が鈍く室内を満たす。
鍛えた身体ならばダメージをかわす筋力と技で無傷だが、どれも常人ならば骨折だけでは済まないほどの打撃である。
貴之は普段のスーツ姿だと細身に見える。一見、武道家だとやかる人間は少ないだろう。しかしよく観察すると衣類の上からでも肩や上腕、脚の筋肉がわずかに盛り上がっているのがわかる。
手は、普段は手袋をしているため、甲にある武道のたこは見えない。もっともそれをわかる人間も少ないかもしれない。
貴之がゲオルグの顎に向かって鋭い飛び蹴りを入れる。と、ゲオルグはその脚を掴んだ。好機と思ったのか、既に腫れ始めている顔がニヤリと歪んだ。
が、次の瞬間、掴まれた脚を軸にしてもう片方で顔面を強打して、そのままクルリと宙を舞って着地した。
体勢に乱れはない。それだけ貴之の筋力が強く靭やかであるのがわかる。
「グゥ………!」
ゲオルグが呻いて後方へたたらを踏んだ。
初めて見せたダメージである。
それだけ彼が疲弊している証拠でもあった。
貴之は間髪を入れずに踏み込んで行くと、ゲオルグは一応は対抗するがスピードも勢いも緩んでいた。
おそらくは何処かにかなりのダメージを受けていると雫は見た。
それでも『もしも』の時の準備だけは怠ってはいない。手の中の銃の安全装置は外したままだし、脳の片隅で思考をめぐらせながらも、二人から目を離したりはしない。ゲオルグも貴之を倒して終わりだとは考えてはいないはずだ。
これは『試合』ではなく、『死闘』なのだから。
足元が若干、覚束なくなったゲオルグの状態を見逃さず、貴之の回し蹴りが首元にまるで刃物を叩き付けるかのように打ち込まれた。
………鈍い音がして、ゲオルグの巨体がドッと後ろに倒れ込んだ。
「終わったか?」
雫が言葉と共に立ち上がる。もちろん、詰めかけている者たちを銃で威嚇することは忘れていない。
「多分」
貴之にしては曖昧な返事だった。それだけ相手がタフだったということだろう。
「今の蹴りで起き上がれたらさすがに化物だろう」
「化物でしたよ」
貴之が苦笑混じりに答える。
「そりゃご苦労さん」
少し戯けて言って、預かっていた刀を手渡す。
受け取った貴之は軽く振って構えなおす。
「進むか」
「そうですね」
まるでピクニックに来たかのような口調だった。
武力的にはこのゲオルグが一番で、あとはそこまで強い人間はいないと二人は見ていた。いるならば二人の勝敗が決したところで出て来ているはずだ。
抜き身の刀を手にした貴之を見て、鬼神からでも逃げ出す様に、集まって来ていた者たちが逃げ出した。
その先に必ずや九條 実時がいるはずだ。そして、三条 葵や知也も。
入って来た知らせは車の中で一人待つ成美には、あまりにも衝撃で怒りと後悔に満ちていた。
雫と貴之が突入して既に一時間近くになる。もう少し様子を見てから、応援を呼ぶか呼ばないかの決断をしなければならない時間になる。雫の銃の腕は国内でもトップクラス。そして貴之は言わずもがなの実力だ。
二人が負けるはずはない。
そんなことがあっては絶対にならない。
運転席に身を預けながら成美が悶々としていると、屋敷の門が勢い良く開かれ人影が飛び出して来るのが見えた。
慌てて発車させて彼らの前に停車する。
そこには痩せ細った葵を抱きかかえた知也と、血まみれの雫と貴之が立っていた。
二人に怪我がある様には見えない。おそらくは返り血であろう。
知也が葵を抱え上げているのは、『血』の『穢れ』ゆえなことだとわかる。
車の後部ドアを開いて知也を促すと、彼は頷いて葵をシートに降ろしてから自身も乗り込んだ。されに成美が続く。
本来ならば同じ車両に乗り込むのは憚られるところだが、早急にこの場所を離れる必要がある。
せめての対策として、雫と貴之が前に乗り込むことにした。
「室長………先程、周さまからご連絡が………」
常になく歯切れの悪い成美に、彼らの顔色が蒼白になる。
「使用された毒の主成分は、月下百合から抽出されたものだそうです」
そう続けたのはスマホに来ていたメールを確認した貴之だった。
「なんだと?!」
雫が驚愕の声をあげた。
「あれは………解毒剤が存在していないだけじゃない、かなりの苦痛をもたらしすとんでもない毒だ………そんなものを………」
車の中の全員が言葉を失う。
同時に九條家を許さない、という想いがますます強くなった。
「今は無事に帰ることを優先しよう」
この中で最も武に近い人間ではある雫が、ハンドルを握り締めて言ってエンジンをかけた。
あとは言葉を失った状態だった。
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