蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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   Just You Alone

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ノックの音にふと我に返った。いつの間にか微睡んでいたらしい。

 夕麿はベッドからそっと抜け出すとドアを開けた。

「周さん?」

「一応、武さまがお目覚めになられるまで、ついていないとダメなのでね」

「わかりました、どうぞ」

 入ってすぐ、周は武の手を取り脈拍をはかる。

「異常はないようだな。夕麿、ちょっと座れよ」

 武の傍に戻ろうとして、周に引き止められた。仕方なく周の向かい側に座った。

「お前は僕の意見なんか聞きたくはないだろうけど…夕麿、武さまの激情に流されてはいけない。お前の気持ちはわかる。でもあんな風にただ傍にいたいと願うのは、武さまを追い詰めるだけだろう?」

「わかっています…わかってはいるのです、それは」

 そこから先がわからないから、武を傷付けて続ける。

「一緒に特別室の住人になる。それからお前は何をしたい?あの部屋で悲しみ暮らすのか?」

「それは…」

「武さまがお前を外に残したがるのは、お前に自分の夢を叶えて生きて欲しいからだ…そうだろう?」

「ええ…でもそれは…武さまと共に叶えたい夢です」

「中では無理なのか?」

 周の問い掛けに夕麿はしっかりと頷いた。御園生を二人で継いでもっと発展させて…生まれて来る希に手渡す。今の夕麿にとってはそれが一番の夢であった。

「では中で生きなければならなくなった時、お前は別の夢を持て。中でも出来る事はたくさんあると思う」

「中で出来る事…?」

「そのままUCLAに行って帰って来て、特待生クラスの講師になる…というのも有りじゃないかな?」

「講師…?考えてみた事もありませんでした。

 でも、武さまを特別室に置いたままは無理です。恐らくは私が帰国するまで、彼は多分…生きては…いない」

 それがわかるからこそ、ひとりにはしたくない。愛する人には生きて笑っていて欲しいから。

「……それに気付いていたか…」

「武さまは、誇り高い方です。ご自分でご自覚はされてはいませんが、理不尽な扱いには自らの生命をかけて弾劾されるでしょう」

「僕も…清方さんも、同じ意見だ。だから夕麿、お前が中でやりたい夢を持てば、武さまもただ閉じ込められる人生ではないと、気付かれて生きる道を見付けられる筈だ」

 それは今まで夕麿も武も考えた事がない話だった。

「内部進学すれば良い。

 僕と同じく医者になるか、夕麿?」

 周の言葉に夕麿は苦笑いを浮かべた。

「私には向いていないのは、あなたが一番ご存知でしょう?」

 それを聞いて周が吹き出した。

「お前は感情の起伏が激しい。 特に武さまの事になると手が着けられない。僕も人の事は言えないがその場を取り繕うくらいは出来るつもりだ」

「わかっているのなら、わざとらしく持ち出してからかわないでください!」

 眉を吊り上げて言うと拗ねたように横を向く。 『氷壁』と呼ばれた頃は決して見せた事がない、彼の幼い頃を彷彿ほうふつとさせる態度だった。

「ふん、可愛くなったものだな、お前も」

 なおも追い討ちをかけるような事を言って、恨みがましく睨み付けた夕麿に声を立てて笑う。

「それで良いんだ、夕麿。 その方がお前らしい。

 泣きたい時は泣けば良い。 笑いたい時は笑えば良い。 怒りたければ、物を壊してでも怒れ」

「周さん…」

「僕はお前に何もしてはやれなかった。 逆にお前の嫌がる事しかしては来なかった。

 今は……今さらだと言われても仕方がないが申し訳ないと思っている」

 周はそう言って夕麿に深々と頭を下げた。 周も負けず嫌いで誇り高い人間である。それは従弟である夕麿もよく知っている。それが今、夕麿に真摯な面持ちで頭を下げて謝罪していた。 こんな彼は近年は見た事がない。一体、何が起こったのだろう?

「周さん…」

「許してもらえるとは思ってはいない。 その上で助言させて欲しい。

 新設された内部の教養学部でも良い。 自分の道を見付けろ。

 まあ…今回の件は有人氏が武さまに、謝罪すると言っているから不問にする?

 それで納得出来るな?」

「武さまがお許しになられれば」

「それがダメなんだ。 自分の意見はちゃんと持て。 その上で主たる武さまのご意志を考慮するんだ。全ての答えを武さまに出させるな。 それがどれだけの心理負担になると思っている?

 仕えるとはそういう事だ。 主の想いを感じて体現する。 周囲の者は想いを言葉にさせてはいけない。 その前に読み取れなければ仕えている意味がない。

 いいな、お前は武さまに判断をさせてはならないんだ」

 それはまさに頭を強打されるような衝撃だった。 夕麿は今まで誰かに仕えられた経験はあっても、自分が誰かに仕える事を本当に考えてみた事がない。 その事実を今、ようやく認識したのである。

「ありがとうございます、周さん…私は、ようやく自分のどこが間違っていたのか、理解出来たような気がします。

 そうだったのですね。 仕えるとはそういうものなのですね…」

「だが、一番に忘れてはならないのは、お前は武さまの伴侶であるという事だ。まずそれを一番に考えろ。伴侶として出来る事と行わなくてはならない事は何かをだ。

 わかるな?」

 周の言葉にしっかりと頷いた。

「普通に愛し合う夫婦としての生き方を一番大切にするんだ。臣下として仕えるのはその次だ。お前にまで臣下になられたら、武さまは本音を吐露出来なくなられてしまう。対等でいて差し上げるのが、武さまへの愛情じゃないのか?その上で全身全霊でお仕えしろ。

 出来るな?」

「はい…私が間違っていました」

 武に依存する余り、自分の立っている場所が見えなくなっていた。

 武を愛している。それが全ての始まりだった筈だ。最初からセッティングされ、仕掛けられた結び付きでも、 愛したのはまぎれもなく自分だ。夕麿は眠る武を見つめた。自分の純粋な気持ちが全ての始まりだったのだと。

「ああ…私は…なんて愚かな…」

 両手で顔を覆って泣き出した夕麿に周は穏やかに呟いた。

「間違えればそこからやり直せば良い。間違いは誰にでもある。完全な人間などいないんだ。大切なのは間違いを間違いと認める事だと今なら僕も思う。

 なかなかそう出来ずに、捻曲がった僕が後悔して言うのだから、これは本当だぞ?」

 苦々しい言いように夕麿は唖然として周の顔を見た。これがあの周と同一人物とは思えなかった。夕麿の知っている紫霄での周は怠惰で刹那的で無責任で、欲しがるクセに手に入って完全に自分のものになると飽きて興味を失って見向きもしない。相手の想いなどお構い無しのそんな酷い男だった。実際に周に捨てられて、自殺騒動を起こした生徒が何人もいた。

「……余程、嫌われていたみたいだな、お前には。まあ…無理もないか」

「それは…仕方がないでしょう?従弟としても生徒会長としても、あなたには随分悩まされましたから」

「そうだな…」

 周の遠い目を見てあの生き方には何か理由が、存在したのかもしれないと夕麿は初めて気が付いた。彼の中に巣食う闇を垣間見た気がした。記憶にある快活だった昔の彼は一体、どこで光を見失ってしまったのだろう?誰が彼の光になれるのだろう? 怠惰で歓楽的な『退廃の貴公子』と呼ばれた姿は、どのように形創られたのであろうか。夕麿はその仮面の下を初めて見た気がした。

「う…ん…」

 武が小さく身じろぎして呻いた。見開かれた瞳は未だ焦点が定まっておらず、薬の効き目から完全に抜けていない様子だった。

「武…?」

 声をかけると虚ろな目が、ぼんやりと見つめ返して来る。

「武さま、失礼いたします」

 周が夕麿を押しのけて武の状態を診る。手首に指を当てて脈拍を確かめ目を覗き込む。胸元を開いて聴診器を胸に当てる。

「う~む…」

「何か問題がありますか?」

「痩せた所為かな?薬が効き過ぎたようだ」

「それは悪い事なのですか?」

「このままだとちょっとね。中和剤を投与して様子を見よう」

 ポケットからケースを出して、中からアンプルと注射器を取り出した。アンプルを切り注射器を滅菌包装から取り出し針を装着する。次いでアンプルの中身を2/3程吸い込み、注射器を指で弾いて中の空気を集め針から外へ出す。武の腕を捲り上腕を縛る。静脈に針を刺し上腕を縛るゴムを外して薬液を注入する。

「んー」

 武が嫌がるように首を振った。

 見守っていると、ゆっくりと武の瞳に光が戻った。

「あれ…?」

 安堵の吐息を揃って吐いた。

「何…二人とも?」

 武が不思議そうに見上げて来た。

「失礼します」

 周の手が目を調べ首筋に触れる。

「ご気分は如何ですか? 吐き気はございませんか?」

「別に…?」

「もう少しそのままでいらっしゃってください。 薬が効き過ぎた様子ですので」

「武…」

 下がった周に代わって、夕麿が武に近付いて乱れた髪を撫でた。

「夕麿…」

「何ですか、武」

「それ、気持ちいい…」

 答えた武の目から涙が零れ落ちた。

「武…」

「俺には…死ぬ自由もないのか…?」

 左腕で目許を覆うようにして、武は誰に言うとでもなく呟いた。

「!?」

 その言葉に夕麿は髪を撫でていた手を引いて言葉なく顔を背けた。 武の苦しみはわかる。 それでも生きて欲しいと願うのは、自分のエゴなんだろうか。

「武さま、自ら生命を断つのに、自由など存在いたしておりません。それは他者を傷付けるだけの罪でしかございません」

 周の声が突き刺すように響いた。 彼は慈園院 司と星合 清治の心中を例に挙げて、武の周囲にいる人々がどれ程に傷付くのかを滔々とうとうと諭した。彼の言葉には武と一緒に夕麿も息を呑んだ。 それは夕麿にも痛い言葉だった。 絶望して幾度、生命を捨てようとしただろう。武と出逢えたから生きる光を見つけられた。けれど未だに武に依存しているままだ。 武を叱責する周の言葉は、そのまま夕麿にも向けられた言葉に聞こえた。

「ご自分だけが悲劇の主人公になるのはおやめなさい。 夕麿などもっと辛い目にあって来ました。

 雅久を思い出して御覧なさい」

 周の言葉に身体が強張った。

『悲劇の主人公』

 その言葉に胸が痛む。 自分にもそんな感情があった。 引き合いに出されても恥入るしかない。 辛く苦しい時には、人間は自分の痛みしか見えない。 だが夕麿の気持ちを余所になおも周の言葉は続いた。

「もっとしなやかに生きる力をお持ちになられてください。 あなたの苦しみや哀しみはそのまま、夕麿やご母堂さまの想いなのだとご理解なさいますように」

 自分の事はどうでもよかった。 けれども身重の小夜子の心労を考えると、帰国してから心配ばかりかけて申し訳ないと思う。

「僕の言いたい事はそれだけです」
 
 話は終わったと部屋を周が出て行った後、二人の間に沈黙が流れた。

「甘ったれ…か」

 武は自嘲した。

「そんなの…わかってるよ…」

 シーツを握り締めて声も上げずに泣く姿が痛々しく感じられた。 再会してからやたらに過敏に反応するのは、病に伏し広い部屋に一人で寝起きする日常の孤独に心が侵蝕されてしまったのだろう。それは夕麿にも経験のある事だった。 武の涙は見ているだけで辛く胸が痛い。 ベッドに上がってそっと壊れ物を扱うように抱き締めた。

「あそこにひとりでいれば、不安になるのは当たり前です、武」

「夕麿…」

 すると武は縋り付いて消え入りそうな声で言った。

「寂しい…って、言っても良い?」

 そんな事すら言わせてやれない雰囲気を自分はつくってしまっていたのか…と、夕麿は今更ながら気付いた。

「我慢しなくても良いのですよ? 一年間、一緒にいたのですから…寂しいのは当たり前でしょう?」

「ごめんね…もっと頑張れるつもりだったんだ。

 でも…」

「あの部屋は広いから、独りきりは辛いでしょう? 私があなたの立場でも辛いと思います。 だからお願いです、我慢しないで」

「うん…夕麿は? 夕麿は平気?」

「そんなわけがないでしょう? 私も寂しくて…あなたの事ばかり想っていました。朝はいつもあなたの温もりをさがしてしまいます。遠く離れているのに、私の心はそれを納得しないのです。

 眠る時はまだ自分に言い聞かせる事が出来ます。 でも…朝は微睡みの中で、あなたを探してしまうから辛いのです。 こんな事ならば一年間内部進学して、来年、あなたと一緒に渡れば良かったと、どれほど後悔したでしょう」

 それでも自分には義勝たちがいる。 武よりは孤独ではない。それを申し訳ないと思う。もっともっと下河辺 行長たち同級生と武の間の距離を、縮めておく配慮をしておくべきであったと後悔していた。

「ごめんなさい」

 機敏に夕麿の気持ちを察知する。時としてそれは武自身が深く傷付く原因にもなっていた。

「謝らないで、武。私に余裕がなかったのが悪かったのです。

 気分はどうですか。起きてから何も口にしていませんから、空腹なのではありませんか」

「空いた…」

「ここへ運ばせますか?」

「ううん…みんなに謝りたいから、ダイニングに行く」

「わかりました。今日は水族館へ行く約束でしょう?」

「うん、行きたい」

 明後日には学院へ武を帰らせなければならない。夕麿自身も日本での仕事はほぼ終わった。ロサンゼルスの社の状態も気になる。

 武と周のお陰で夕麿自身の不安定さは、何とか薄らいだと自覚している。だが逆に武が常になく不安定なのが気になった。このまま武を学院へ帰らせて、ひとりにしてしまって本当に大丈夫であるのだろうか。

 不安が晴れぬまま武を連れて今に行くと、小夜子に引き止められた周が昼食を食べていた。

「まあ、武。あなた起きて大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。母さん、さっきはごめんなさい」

 武は小夜子に抱き付きながら謝罪の言葉を口にした。

「武、お願い。生命だけは大事にしてちょうだい」

「うん、ごめんなさい。希に障らなかった?」

「大丈夫よ?

 お腹空いたわよね?さあ、夕麿さんも座って」

「はい、ありがとうございます」

 すぐに用意された食事を食べながら武が笑顔で言った。

「母さん、食べたらすぐに出るからさ、車をお願い」

「え!?武…あなた、出掛けるつもりなの?」

「うん、予定通り行く」

「大丈夫なの?」

「平気だよ?」

 小夜子は困ったような顔で夕麿を見た。

「母さん、夕麿に話をふらないで俺としろよ?もう、夏休みも残り少ないし…前半はずっと寝てたし…」

「お義母さん、私からもお願いいたします。無理はさせないように、心掛けます」

「でも…」

 小夜子の不安は晴れない。武の不安定さも恐らく、彼女の心配の一因だと思えた。

「僕が同行いたしましょうか?」

 不意に食事を終えた周が言った。

「二人のデートの邪魔にはなるでしょうけど、僕ならばある程度の対応は出来ます」

「まあ…周さん、よろしいんですの?」

「別に予定はありませんし、僕が同行する事で小夜子さまがご安心なさいますなら」

「武、お言葉に甘えさせていただきなさい」

「わかりました。 周さん、お願いします」





「武!」

「武さま!」

 風を切ってモルタルの壁に刺さった矢は、夕麿を突き飛ばした武の頬を傷付けた。 とっさに周が武を抱きかかえて水族館の入口へ飛び込む。 次いで夕麿も身を起こして転がり込む。

 この光景にさほど多くはない来場者たちがパニック状態になった。武の為に増やされていた警備員が一斉に飛び出して来て、来場者を懸命に誘導する。 その間に本社から派遣されて来ている、警備員が3人を従業員用通路に夕麿たちを誘導した。

 取り敢えずは安全と思われる場所へ入って、夕麿は携帯で貴之の父で、この春の人事異動で刑事局長になった、良岑 芳之よしみねよしゆきの携帯に直接電話をかけた。 いざという時用に貴之と相談して番号を登録してあったのだ。 むろん芳之とは既に何度か電話で会話を交わしてあった。

 すぐさま警察省から警官が数名駆け付け、夕麿たち3人を省舎に保護した。

 簡単な事情聴取を受ける。

「今の…夕麿を狙ってた。 でも…俺に当たっても良いと考えていたと思う」

 頬に受けた傷の手当てを受けながら武が断言した。

「お心辺りは?」

 聴取を行うキャリア警官が、武の立場を配慮して問い掛けた。武はそれに首を横に振った。

「武、また彼らではないのですか?」

 佐田川絡みではないのか。 自分が狙われたなら、彼らしか思い当たる人間がいない。

「違うと思う。 何て言うのかな…殺意は感じたけど、憎しみとか恨みは感じなかった」

「武がそう感じられるなら、間違いないのでしょうけど…」

 誰がこんな事をすると言うのか。 夕麿の困惑に武は躊躇いながら言葉を紡いだ。

「周さん、俺を学院から出すのを反対してる人っている?」

「それは……」

 周は咄嗟に言い繕う事が出来ずに思わず口ごもってしまった。

「やっぱり…いるんだ」

「どういう事ですか、武」

 何故そんな事を今ここで聞くのか。 夕麿にはその意味がわからなかった。

「少し前から、セキュリティー・ドアに近付くと、プレッシャーを感じるようになってたんだ…」

 夕麿は周と驚いて顔を見合わせた。 何となく武の不安定さの本当の原因がわかったような気がした。

「誰かが強く俺を外へ出したくないって思ってるなって」

「しかし、あなたの事は一応、決定済みの筈です」

 夕麿との婚姻という形で、ある程度の武の自由は認められた筈だ。 それでも制約だらけで、武を可哀想に思っているというのに。

「だから…夕麿を狙ったんだよ」

 武の哀しげな眼差しが揺れる。

「夕麿がいなければ、俺は学院から出られなくなる。 俺を閉じ込めたい人間にとって、一番手っ取り早い方法だろう、それは… …

 夕麿、もうロスへ戻れよ…」

「出来ません! まだ私が狙われているという確証がないのに…あなたを置いては行けません!」
 
 矢はどちらを狙ったとも言えない場所に刺さった。 武を狙った可能性もまだ捨てきれない。

「私も反対ですね」

 背後のドアから入って来た人物がそう断言した。

「あの…」

 彼が現刑事局長、良岑 芳之本人だと貴之によく似た面差しが語っていた。

「お初にお目もじおめにかかるいたします、武さま。 貴之の父、良岑 芳之でごさいます」

「貴之先輩の…お父さん…? あ、ごめんなさい。 御園生 武です」

 彼は慌てて名乗った武に笑顔を返して、今度は真っ直ぐに夕麿を見つめた。

「あなたが夕麿さまでいらっしゃいますか?」

「はい、お目もじは初めてですね」

 わざわざ彼自らが足を運んでくれた事を夕麿は心から感謝した。 所轄では武への配慮がどうしてもおざなりになる。 結果として問題を増やしかねなかった。

「貴之がお世話になっております。

 えっとあちらは?」

 芳之は今し方携帯にかかって来た電話に出ている周を見た。

「彼は私の従兄で久我家の周さんです」

 夕麿の言葉に周が振り返って軽く頭を下げた。

「ああ、貴之からお名前は聞いた事があります」

「それで…あの、どうして夕麿がロサンゼルスに戻るのは、良くないんですか?」

 武が率直に問い返した。

「もし本当に夕麿さまのお命を狙うなら、相手にとって皇国の司法が通じない場所の方が好都合だからです。 夕麿さまのご身分や武さまのご伴侶としてのお立場をアメリカ側が、一応知らせてはある筈ですがどこまで理解して動いてくれるかは、実際の所は未知数であると考えるからです。

  従って危険は増しても安全になる事は絶対に望めません」

「そんな…」

 武が茫然としていると、電話を切った周が振り向いて告げた。

「上でも同じ判断だ。

 夕麿、御園生邸に戻って直ちに荷物をまとめて、武さまと共に学院へ向かうように指示が出た。 今上のお耳にも届けられて、大変御不快に思し召しだ。 恐らく予定を早めて、来月の武さまのお誕生日には何だかの決定が下される事になるだろう」

「決定…って、何…?」

 顔を強ばらせて武が問い返した。 遂にその時が来てしまうのかと、夕麿は胸が痛くなった。だから周が今上の勅で動いているのだ。

「あなた様のお立場を明らかになります」

「立場…」

「周さん、やっぱり武は…」

 周の武に対する態度から、ある程度の予測はついていた。武の血が間違いなくその正統性を示しているのである。むしろ今まで『御園生の養子』でいた方が不思議だった。

「それが意見が割れるから、こんな事態になってるんだ。

 ……武さま、申し訳ございません。ここから先は今はまだあなたにはお聞かせ出来ない事になっております。良岑刑事局長、あなたにも事情をお話いたしますから、別室へお運びいただけますか?

 夕麿、お前はこの際だ、事情を知っておいた方が動きやすいだろう」

 聞くのは怖いような気がした。予測通りならば武は益々辛い立場になる。

「武、こちらで待っていてください」

 本人には話してはならないという事実が事の重大さを示していた。皇国の特権階級での成人年齢 18歳に成らずして、皇家の貴種としての武の身分と立場が定まる。それは武を更なる不自由さへ追い込む事になる。

「…わかった、待ってる」

 武にすれば自分の事なのに、圏外に置かれてしまうのは不満だろう。それでも無理強いは出来ないとわかっているからこそ、強張った表情のままで了承したのだとわかってしまう。今は知らせられないと謝罪した周には周の立場があるのだと理解しているから、武は全てを飲み込むようにして受け入れたと夕麿は感じていた。

 彼らが芳之に案内されたのは刑事局長用の部屋だった。 芳之はドアの外に部下を配置して、絶対に誰も入れてはならないと命令じドアを閉めて鍵をかけた。

「周さん、聴かせてください」

「僕もあくまでも耳にした話だ。 だが確かな方からいただいた情報なんだ。 ………今上がどうしても武さまをご自分の孫として、 今の中途半端なお立場であられるのをどうにかしたいと思し召しなんだ。そうかといって皇家から出して御園生家でただびとにしてしまうのは惜しいと」

「惜しい…?」

 ただびととはいうが御園生家は末席とはいえ一応は貴族だ。平民になる訳ではないのに……と夕麿は思うが、同時に尊き身分の方々の認識がわかってしまってさずがに悲しくなった。

「とは言っても世間には公には出来ないのは同じだと思うし、上からお金が下賜されるわけでもない。 そんな余剰はも今の皇家にはない。 故に表向きは変わらず生涯、御園生姓を名乗られる事は変わらない。それでも皇統系譜に御名みなが記される。つまり宮家を立てる事になるだろう」

「そんな無茶な…幾ら何でも前例がありません!」

 皇家や貴族は新たな決定事項の参照に、過去の事例に照らし合わせるのがルールになっている。 武のような立場の存在は本来は有り得ない事なのだ。それは亡くなられた先東宮に対する皇帝の愛情であるのかもしれなかった。彼の生母は今上の皇后あり東宮時代から正妃で、皇家の血を受け継ぐ『王女御』と呼ばれる尊き女性だった。。彼女は前東宮さきのとうぐう薨御こうぎょされた折りは存命であったが、数年後にやはり急な病で崩御している。このような事情もあって皇帝は遺児である武を本当は、自分の側に置きたいと思っているのかもしれんかった。だがそれは許されはしない。

 皇帝は戦後は政治には関与しない事になった。もっとも戦前であっても政務は諸大臣たちが行っていて、皇帝は認証するだけになっていたゆえにさほどの差はないが、それでも警察組織と自衛軍の最高指揮権は未だに保持している。貴族及び宮中の人事には宮内省と摂関貴族の当主たち、皇籍臣下した者で構成される『元老会』の承認がいる。

「だから妨害があるのか…ご本人には、何の責任も罪もないというのに」

 芳之も意外な話に驚きを隠せない顔をした。

「周さん、武か私の生命を狙う程の反対をされているのは、どなたですか?」

 周が渋々という感じで口にした名を聴いて夕麿は言葉を失った。 それは皇帝の末弟で皇家から臣籍降下した人物の息子だった。 彼は現東宮の後宮に娘を入内させている。前東宮が夭逝する前に武が誕生していれば、皇位継承権は武が次になっていた。武こそ正当な後継者だった筈なのだ。 当然ながら小夜子の実家もそれに見合う待遇を与えられてであろう。

 後宮に娘を入内させるというのはそのような意味があるのである。その人物は武が皇家の一員として、たとえ日陰であろうと認められるのは、自分と娘に不利だと感じているとしたら… 武に宮家を立てさせて、紫霄から出て制約はあってもそれなりに自由に生きるのを認めたくはないのだろう。

 学院に閉じ込める。一番早く簡単なのは確かに、夕麿を排除する事だと言えた。

「恐らく内々に、宮名も決まっているだろう」

「私はその場合、どうなるのですか? このまま御園生の養子のままなのでしょうか?」

「それも表向きだけになる。 通常ならお前は宮妃の立場だ。 御園生では入り婿なんだから妙な話にはなる。皇家には姓がない。ゆえにお前も正式な立場では名前だけになり、二人とも皇統譜に記載されて選挙権を失う」

「戸籍がなくなる…という事ですね?」

「そうだ。 ある意味、訳の分からぬ説明不可能な身分になる。 戸籍が皇家として抹消されるのに、表向きは御園生家の養子のままだ。 僕もこんな滅茶苦茶な話は、聞いた事も見た事もない。 臣籍降下で御園生姓で解決するものを… 武さまは余計なご苦労を背負われるだろう。

 しかしこれはほぼ決定事項だそうだ。 今更反対しても変更はないから、お前を狙おうとするのだろう」

「では身の安全もですが、武の誕生日まで私は日本にいるべきなのですね?」

「そういう事になる」

「わかりました。 その後、私はロサンゼルスに戻ってもよろしいのですね?」

「それも決定事項だ。 ギリギリになるが…仕方がないだろう、一応はアメリカ政府に話を通すそうだ。これがお前が私立校であるハーバード行きを反対された理由の一つでもある。

 ただ今日の事件が解決しなければ、場合によっては断念してもらわなければならないかもしれない」

 周は夕麿に申し訳なさそうに言った。

「その場合は内部進学します」

 武以外の何を選べるだろうか。夕麿に躊躇いはなかった。

「話はそれだけだ。

 良岑さん、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

 二人は芳之に礼を言って部屋を出た。

「武…」

 武の側に戻った夕麿は愛する人の不安そうな顔を直視出来なかった。最も望んではいなくて最も辛く面倒な形で話が進んで行く。 祖父である今上皇帝でさえ、武の気持ちを知ろうとはしない。 そんな夕麿の心配を感じたのか、腕の中の細身の身体が一瞬強張った。

「帰ろう、夕麿……」

 沈んだ声で武が呟いた。

「そうですね。

 周さん、 今日中に学院へ戻らなくてはなりませんか?」

「出来れば」

「しかし…逆に危険ではありませんか? このままではかなり遅い時間帯に学院に着く事になります」

 帰ってどんなに急いで荷物をまとめて出発したとしても、到着は深夜になってしまう。

「久我さま、私もそれには賛成しかねます。

 本日はこのまま御園生邸に戻られて、明日早朝にお発ちになられる事をオススメいたします。 私どもとしても、皇宮警察や学院都市警察とお二方の警護の打ち合わせなどをしなくてはなりません」

 この国では皇国警察庁と呼ばれる、皇帝が最高指揮権を持つ警察組織がある。これは皇家と宮廷御所を警護する皇宮警察庁、一般的な警察省組織とに別けられている。紫霄学院都市にある都市警察と呼ばれる組織は、一応は皇宮警察庁の管轄ではあった。

 良岑 芳之刑事局長は警察省の幹部であり、蓬莱皇国においては皇宮警察庁とのバイパスの役目を担っている役職でもある。皇宮警察と警察省はそれぞれに役目が大きく違っている。外で起こった事件絡みではあっても、武の立場を鑑みるにやはり早急な打ち合わせが必要だと見える。

「都市警察だけでは不十分とお考えですか?」

 周が眉をひそめて聞いた。

「残念ながら都市警察は警護の為の専門訓練を受けてはおりません」

 確かに都市警察は本来、内部の犯罪と脱走する住人や生徒の取締りが役目だ。このような事態には対応出来ないのは、秋の板倉正巳の事件で露見していた。

「出来ましたらお二方には警護官を配置させていただけるように要請いたしたく思います」

「わかりました。上にはそのように連絡をいたします」

 至極真っ当な話に周が納得して頭を下げた。周が口にする上とは皇家と貴族の法律や規範を監督する、宮内省の事である。

 夕麿は眩暈を起こしそうだった。いつになったら武と静かに暮らせるのだろうか。互いの未来だけを夢見て、家族と幸せに過ごせるのだろうか。

 視線を感じて見ると腕の中から、武が不安げな眼差しで見上げて来た。

「私がついています」

 自分の不安を呑み込んで微笑んで告げた。
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幼馴染の君は、7歳のとき 「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。 そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。 背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。 結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。 「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」 誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。 叶わない恋だってわかってる。 それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。 君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。

【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。 そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

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