蓬莱皇国物語 Ⅲ~夕麿編

翡翠

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「夕麿さま、こちらにいらっしゃいますか?」 

 部屋の入口から聞こえて来た雅久の声で夕麿は意識を取り戻した。 衣擦きぬずれの音が近付いて来る。 夕麿は身を起こすと掠れた声で答えた。 

「すぐにそちらに行きます」 

 酷使された身体が悲鳴を上げていた。 しかも腰から下にはまるで力が入らない。根こそぎ力を持っていかれたような感覚だった。 それでも枕元に畳まれている衣類を、身に着けて這うようにして隣室への襖を開けた。 

「夕麿さま!?」 

 その姿に驚いて駆け寄って来た雅久の腕を掴んで夕麿は悲痛な声で言った。 

「武を探してください!」 

 意識を失ってからどれだけの時間が経過したのか。 不安が募る。 

「武さまは今、皆でお探ししております。 透麿君が非常階段から出て行くのを見たと…知らせてくれたのです」 

 その言葉に胸が詰まった。 武をそこまで追い詰めてしまったものは何か。 自らに向けた問いに思い付くのはたった一つしかなかった。 

 蛇を見て倒れそうになったあの時…… 武はあれを見たに違いない。 遠目には蛇は見えなかっただろう。 第一、武は夕麿の蛇に対する恐怖心を知らない。 だから夕麿が心変わりしたと武を裏切って、周を選んだのだと思ってしまったに違いない。 

 それでも強引に抱かれている間も武からは、一言も責めたり非難する言葉は発せられなかった。 それが辛く悲しい。 何故裏切ったと責められたなら、非難され罵られたなら…まだ答えようがあった。 そうではないと真実を告げられた。 

 武は泣いていた。 彼には何も罪咎はないというのに泣いて謝っていた、全てを自分の罪として。 きっと自分さえいれば夕麿は自由で幸せになると思い込んでいる筈だ。 嫉妬も怒りも悲しみさえも、自分の醜さだと思って絶望してしまったのだろう。 

「ああ…武…! どうか…どうか…無事でいて…」 

 夕麿が意識を失うまで抱いたのは激情のままと言うよりも、後を追いかけて来れないようにする為だったのではないか。 そんな風に感じてしまう。 

「大丈夫です。 武さまはご無事で見つかります。 きっとおするするであらしゃります」 

 為す術もなく啜り泣く夕麿を雅久は懸命に励ました。 まさか武が軽装で出て行ったと雅久には言えなかった。 一年分の記憶しかなくても雅久にははっきりとわかっていた。 夕麿は武を決して裏切ったりしない。 そんな事をするくらいならば生命を断つような性格だと。

 蓮華の間では武と夕麿の後に透麿が出て行った。それを見て高辻が夕麿が小夜子から聞いた話を皆に話したのだ。

「何という酷い事を…」

 雅久が絶句した。他の者も言葉を失っていた。

「ある意味、夕麿と似たり寄ったりだが…先生、夕麿にはそういうのがないが、どう違うんですか?」

「夕麿さまの場合、学院の寄宿舎が返って救いだったと考えられます。義勝君、あなたというよい友人に巡り会われたわけですし、何よりも高い御身分という事で皆さまが大切になされました。確かに周囲に応える為に、ご自分を律して御気性の激しさを隠してしまわれました。でも皆さまに必要とされているという感覚は人間を成長させ生き甲斐を与えます。夕麿さまは存在する事を肯定されて成長されたのです」

「武さまは…否定されたと思ってしまわれたのですね…それならば私には納得出来ます。私や下河辺副会長がどんなに武さまに言葉を重ねても、御心を本当には開いてくださらなかった理由が」

 敦紀が肩を落として呟いた。

「お前たちだけじゃない。俺たちにだって…夕麿さまがいらっしゃるから、まだ気を許してくださる部分があるだけだ」

 貴之が庇うように言った。

「武が一番心を開くのは夕麿だが…次は多分、雅久にだな?」

「私が先に御園生に養子に入らせていただきましたから、武さまは兄が出来たと仰られて…」

 時折、夕麿に言えない事を相談されたりもあった。渡米して武と離れているのに慣れてしまい少し距離が出来てしまっていたと、蓮華の間での会話と今の状況から思ってしまう。

 まさか武が周の夕麿に対する想いに気が付いていたなんて……思ってもいなかった。もっと言葉を交わしておけば良かった。夕麿に言えなくても自分には何か言ってくれたかもしれないのに。

 周に対する嫉妬。

 夕麿に対する独占欲。

 当たり前の感情を醜いと許されないと思い込んでしまった武を可哀想に思う。きっと武はそんな激しく熱い気持ちが存在するのを、最近まで本当の意味で知らなかったのだろう。

「雅久…私はもうどうすれば良いのかわからなくなってしまいました」

「良い方法なぞ、存在しないのかもしれません。それでも私たちはあの方に繰り返しあなたは必要で大切な存在なのだと、伝え続けるしかないのではと思います」

「繰り返し…いつかは、わかってくれるでしょうか?」

 現状が余程堪えているらしい。夕麿がここまで雅久相手に弱音を吐くなんて珍しいように思う。

「夕麿さま、武さまを信じましょう。お義母さまの愛情を受けられてお育ちになられたのですからいつかは届く筈です」

「雅久…力を貸してくださいますか?」

「もちろんでごさいます、夕麿さま。武君…武さまは私には大切な唯一無二の主。そして…僭越ではごさいますが、愛しい弟とも思わせていただいております」

「ありがとう…」

 誰に縋ってでも武を守りたかった。

 夕麿は部屋のテーブルの上に置かれたままの武の携帯を手に取った。そっと開いてみると待ち受けは、昨年のクリスマスに撮った全員の写真だった。夕麿は画面をそっと指先で撫でた。どんな想いでこの写真を武は見詰めていたのだろう。夕麿を失う事は武にとっては、義勝たちをも失う事と考えているだろう。

「雅久、仮に…ですが、私と武が離別したとしたら…それでもあなたは、彼の側にいてくれますか?」

「そのような悪しき言霊を口になされてはなりません、夕麿さま。ですが万が一そのような事態になられても、私は武さまをお守りいたします」

「義勝は…反対するかもしれませんよ?」

「蹴散らしてでも」

「ふふ…」

 夕麿は雅久が義勝を蹴散らす姿を思わず想像してしまった。笑いが込み上げて来た。

「義勝はすっかりあなたの尻に敷かれているようですね」

「成瀬さん程ではありませんけど」

 その言葉に二人して吹き出した。

 武は無事に戻って来る。

 悲観的な感情が薄まった。

 武を探しに行くには雅久には無理だったであろう。だがそれ以上に彼は真っ直ぐに率直に言葉を紡ぎ意見を口にする。それがこんな時にはどんなに有り難い事か。義勝はそれがわかっているからこそ、雅久をここへ来させてくれたのだ。

「お身体はまだお辛いですか?」

「いえ、もう大丈夫です」

 まだ気怠さが残ってはいるが、脚や腰に何とか力が入るようになった。

 そこへ雅久の携帯が鳴る。とっさに顔を見合わせ雅久が出た。

「見つかった?

 …夕麿さま、武さまはおするするであらしゃります!」

「ああ…!」 

「え…はい、わかりました。 用意をして待ちます」 

 通話を切った雅久に、夕麿はテーブルに身を乗り出すようにして訊いた。

「何の準備をするのですか?」

「お身体が冷えていらっしゃり、意識が朦朧もうろうとされているそうです。非常階段から義勝がお連れするので、すぐに露天風呂にお入りいただける準備をと」

「わかりました。私が武を入浴させましょう」

 急いで武の着替えやバスタオルを用意し、室温が上がるように空調を調節した。

 程なく武を抱いて義勝が飛び込んで来た。夕麿は露天風呂への引き戸を開け、外へ出ると衣類を脱ぎ捨てて湯へ入った。雅久や義勝に肌をさらす事になるが、今はそんな事を気にはしていられない。雅久が武を脱がせて義勝から武を受け取った。すぐに湯へ…その時、周が駆け付けて来て叫んだ。

「爪先からゆっくりと!急激に温めるのは危険だ!

 雅久君、バスタオルを!」

「は、はい!」

 慌てて雅久が用意していたバスタオルを周に手渡した。するとそれを湯に浸して、武の肩を包むように掛けた。こうすると体温が急速に奪われないで済む。夕麿は周の指示に従って、武を少しずつ湯へと入れて行く。

 すると周が服のまま湯に飛び込んだ。次いで武の両足を抱えて爪先をマッサージして血行を促進する。爪先や指先は一番冷えやすく一番温まり難い。

 夕麿はそれを見て右腕で武の身体をしっかりと抱いて、左手で武の左の指先をマッサージする。すぐに義勝が露天風呂の縁に膝をついて手を伸ばし右手をマッサージし始めた。武はまだ意識がはっきりしないのか、無言でされるままになっていた。

 雅久は部屋から出てまず義勝の着替えを取り、周の部屋に入って彼の荷物から適当な着替えを出した。それを手に武たちの部屋にとって返す。すると意識がはっきりして来たのか、武の声が小さく聞こえた。

「…気持ち…悪い…」

 その言葉に周が咄嗟、側にあった洗面桶を差し出した。夕麿が身体を支える状態で武はそこへ吐いた。雅久は備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注いで差し出した。義勝がそれを受け取った。

「武、水だ」

 グラスを唇に当てると彼は喉を鳴らして飲んだ。そしてまた吐いた。何度かそれを繰り返して、ぐったりと夕麿に身を預けた。

「周さま、それをこちらに」

 雅久は洗面桶を受け取り洗面所で洗い流した。周は身を乗り出して武の頬や首筋、脇に触れて言った。

「これくらいで…これ以上は逆に体力を消耗する。

 武さま、さあ」

 夕麿の肌を全員にさらすわけにはいかない。周は武の肩のバスタオルを取って夕麿に渡し、乾いたバスタオルを広げて待つ義勝へ武を渡した。

「すみません…」

 夕麿は渡されたバスタオルで身体を覆う。周が露天風呂から出たのを見て、雅久がバスタオルと着替えを差し出した。

「申し訳ございません。勝手にお荷物から持って参りました」

「いや、ありがとう」

 雅久が移動させた衝立の向こうで周は急いで着替えた。

「義勝も着替えてください」

 パジャマを着せた武を雫に任せて義勝も着替える。雅久は次いで夕麿の着替えを手に露天風呂に降りた。

「夕麿さま、お着替えでごさいます」

「ありがとう、雅久」

 浴槽から出た夕麿は広げられたバスタオルの前に立ち、受け取って身体に巻き付けた。普段はバスローブを使用している為、バスタオルには少し戸惑う。

「雅久君、僕は終わったから衝立を夕麿に」

「はい」

 慌てて雅久が衝立を移動させ、夕麿がその影で衣類を身に着けた。濡れた衣類はまとめて籠に入れた。

「雅久、あなたも着替えて来てください。せっかくの大島が傷んでしまいます」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 雅久も着ている黒い大島紬と足袋が僅わずかに濡れていた。雅久が部屋を出たすぐ後に、周も自分の部屋へと行ってしまった。

 武は布団に横たえると、そのまま目を閉じて眠ってしまった。

「肺炎をおこされなければよろしいのですが…」

 往診に来た町医者が呟く。高辻から武の病歴について訊きそれを一番に危惧した。

「発熱には十分に気を付けてください。ここは夜更けから明け方にかけて、かなり気温が下がります。出来る限り身体を冷やさないように。

 ……昔ながらの方法ですが、どんな暖房よりも人間の体温が一番良いのですが…」

「人間の体温…」

「暖房は空気の乾燥が問題になるもんです」

 老齢に差し掛かった町医者は、後で点滴と飲み薬を届けると言い残して帰って行った。武の容態と夕麿の精神状態が心配で、義勝と雅久は部屋を移って来た。それぞれがそれぞれの想いの中で、武の心の闇を改めて感じていた。

 夕麿はずっと武の傍らに座り続けていた。武は時折目を覚まし水を欲しがった。日が落ちた辺りから少しずつ熱が上がり始めた。

 高辻が何度か様子を見に来たが、聴診器で聴く限りは肺炎の兆候はないと言う。

 義勝や雅久が心配して休まそうとしても、夕麿は頑として武の側から離れなかった。食事も摂らず口にしたのは武に飲ませる為の水だけ。

 武の身にもしもの事があれば生命を断ちかねない雰囲気を、まとったままの夕麿に義勝も雅久も何も言えなかった。貴之も敦紀も何度か様子を見に来たが何も言えなかった。

 雫も一度、姿を現した。やはり部屋を覗いて瞑目し、何かあったら連絡をするように言って立ち去った。

 透麿も一度やって来て夕麿に、何かを言おうとして睨まれすごすごと下がった。

 夕麿の記憶する大体の時間から考えて透麿が敦紀に、知らせに行った時間がどう計算してもかなりのズレが存在していたのだ。誰も彼を問い質したり責めたりした者はいなかった。それでも異様な雰囲気だけは察したらしい。それっきり顔を出さなかった。

 周は武を露天風呂に入れた後に部屋へ戻ってから一度も姿を見せなかった。周は周なりにこの事態の責任を感じているのかもしれないと夕麿は考えていた。



「…い…」

 目を開いた武が何かを呟いた。

「武?」

「…寒い…」

 額に触れると熱がかなり高くなっていた。

「義勝、高辻先生を!」

「わかった」

 義勝が携帯を手に取った。雅久が従業員に運ばせて置いた掛け布団を武に重ねた。

 高辻はすぐに駆け付けて来た。聴診器を胸に当てて肺の呼吸音を聴く。肺炎を起こしている場合、肺音に雑音が混じる。

「肺音は正常ですが…」

 そう呟くと携帯を手にした。

「雫、周を連れて来てください」

 医師とは言っても高辻は精神科医だ。一応、ある程度の診断は出来るが専門分野からは離れている。周はまだ学生だが夏の武の肺炎の状態を知っている。いつも症状が同じだとは言わないが比較診察は出来る。

 程なく雫が連れて来た周を見て、義勝と雅久は顔を見合わせた。何かわからないが違和感があった。泣き腫らした目をしていたが落ち着きはあった。ただ足許が覚束ないらしく、雫が腰を抱くようにして支えていた。

「清方、連れて来た」

「周、武さまの状態を診て欲しい」

「はい…」

 周は高辻が差し出した聴診器を受け取り、まず武の唇や顔色を確認し肺音を聴診器で聴く。

「肺炎の兆候はない…と判断します」

「私と同じですね…夕麿さま。肺炎は起こされてはいないと、判断して良いと思います」

 高辻は雫に言って周を先に部屋へ戻らせ、先程の町医者が置いて行った解熱剤を取り出した。

「空腹時は使用は望ましくないのですが…」

 それを聞いた雅久がフロントへ降りて行った。程なくして硝子の器を手に戻って来た。

「夕麿さま、これを武さまに」 

「これは?」

「林檎の摺り下ろしたものに、蜂蜜を入れてあります。以前、発熱された時に武さまが召し上がられたものです」

 そんな事もあったと夕麿は懐かしく思った。

「そんな事もありましたね…」

 雅久が覚えていてくれた事を嬉しく思う。

「武?」

 声をかけるとゆっくりと目を開ける。

「雅久が林檎を摺り下ろして来てくれました。少しで構いませんから、食べてください」

「…林檎…?ん…食べる…」

 スプーンの先に少しだけ掬って武の口に運ぶ。

「…美味しい…」

 言葉と一緒に涙が零れ落ちた。雅久が手にした手拭いでそっと拭うが涙は次々に溢れて来る。

「武さま……」

 武は雅久の手を掴んで身を起こした。そのまま胸に倒れ込むようにして、声を上げて激しく泣き出した。夕麿は器を握り締めたまま何も言えなかった。 今の武に昼間の状況を話しても、信じてもらえる自信がなかった。 唇を噛み締めてただ武の泣き声を聴くしか出来ない。 

 雅久は武を袖で包むようにして優しく抱き締めていた。 その瞳には涙が浮かんでいた。 

「武さま…私たちは皆、あなたを愛しております…」 

 義勝もその後ろで拳を握り締めていた。 武を愛するからこそ大切に想うからこそ皆がここにいるのだ。 信じて欲しいと思う。 決して独りきりではないのだと。 

 だが同時に夕麿の心は揺れ動いていた。 武を想う心に一点の曇りもない。 この胸に想うのは武ただひとりだけ。 

 ……それでも蛇に驚き取り乱す余りに、よりによって周に縋り付いてしまった。 理由はどうであれ言い訳は出来ない。 武は非難も責めもしないだろう。 だが許しもしないかもしれない。 武にもし背を向けられたら…不安が心を揺らす。 

 今すぐ抱き締めたいのに、雅久に縋る背中が夕麿を拒んでいるようで怖い。 

「さあ、武さま。 林檎を食べてしまわれて、お薬をお飲みください」 

 涙を拭いながら雅久が言うと武は幼い子供のように素直に頷いた。それを見た夕麿はいたたまれない想いで雅久に器を手渡した。自分の手からは食べてもらえない気がしたのだ。

 
 薬の効果で汗をかいた武の身体を丁寧に拭い、着替えさせてまた眠らせる。

 深夜、空調が止まった施設内は急速に気温が下がっていく。健康な人間にさえ肌寒く感じる。その寒さが発熱している武を蝕む。夕麿は躊躇う事なくシャツを脱ぎ、武のパジャマのボタンを外して肌と肌を合わせた。肘で身体を支えて不必要な体重を、武にかけないようにして華奢な身体を抱き締める。夢と現の狭間を漂う武の耳に繰り返し繰り返し囁き続けた。

「愛しています」と。熱に浮かれた武が応えるように呟く。

「…ごめんなさい…許して…夕麿…」

 悲痛な呟きに胸が痛い。握り締めても握り締めてもすり抜けて行ってしまう。抱き寄せたらもろはかなく壊れてしまいそうな武の心。彼が抱く悲しみを理解出来ないわけではない。渇望する苦しさは理由は違えどもなんとなくわかる。

 夕麿の渇望は武が満たして癒してくれたのだ。尊敬という情は周囲からは与えられても、魂を揺さぶる熱情は武が教えてくれたのだ。独占欲も支配欲も誰かに武を奪われてしまわないか…という嫉妬や不安も。

 自分がこんなに誰かを愛せる日が来るとは……

 だからわかって欲しい。わからせたいと切に願う。共に生きる明日があるのだという事を。自分も義勝たちも武を必要としている事を。武がいなければきっとバラバラに離れて行ってしまう。武という中心がいるからここに集うのだから。

 闇の中にいても光はすぐそこに存在する。

 ただ振り向けば良い。

 腕の中の武が身動みじろく気配で夕麿は目を覚ました。いつの間にか微睡まどろんでいたらしい。身を起こして額や首筋に触れ、完全に熱が下がっているのを確認した。

「良かった…熱は下がりましたね」

 瞳を覗き込みながら髪を撫でて言うと武は僅かに微笑んだ。触れ合う肌が濡れた感じがする。解熱の為の最後の汗に濡れているらしい。

「汗をかいてますね。今、着替えを出しますから着替えましょう?」

 その時である。背後で何かが落ちた音がした。嫌な予感に凍り付く。

「夕麿?」

 武も身を起こした。

 振り向いてはいけない。だが人間はこういう時、誰でも振り向いてしまう…

 そこにいたのは昨日、階下で灯りに絡み付いていた蛇だった。鎌首をもたげて赤い舌先をチロチロと蠢かせている。と頭を下ろしてこちらへ這いずって来る。

 夕麿の口から辺りを切り裂くような凄まじい悲鳴が上がった。

「夕麿!」

 隣室に泊まり込んでいた義勝が慌てて飛び込んで来た。見ると夕麿は武に縋り付いてガタガタと震えていた。

「また、長虫か!

 雅久!」

「困った長虫ですね?」 

 雅久は誰に言うともなく呟くと衣擦れの音と共にに移動して、あっさりと蛇の頭を掴んで捕らえしまった。 

「長虫の分際で夕麿さまを二度も驚かすとは…幾ら夕麿さまがお綺麗であられても、尊き皇家のお血筋の武さまの妃宮ですよ。 

 清姫であるまいし…分を弁えよ」 

 鋭く蛇に言い聞かせるように言って、雅久は蛇を持ったまま出て行った。 

「夕麿、もういないぞ? いつかのように雅久が持って行ったから大丈夫だ」 

「あの…義勝兄さん…これは何事?」 

 縋り付く夕麿を抱き締めて武が訊いて来た。 

「夕麿は長虫、つまり蛇がダメなんだ。 昨日も下で行き会って久我先輩に助けてもらったらしい」 

 義勝は敢えて武が目撃したらしい事を知らないように言った。 

「全く……いつも側にいる誰かにいきなり飛び付く。 触れられる嫌悪感より蛇への恐怖が勝つんだ。 まあ…お前が知らないのも仕方がない。 現在じゃ学院側が駆除するから見なくなったからな」 

 武が自分を追い詰めないように。 義勝は言葉を選んで夕麿の蛇嫌いを説明する。 

「他人と接触する嫌悪感すら吹っ飛んで、側にいる誰彼となく抱き付くから……大変なんだ。 俺たちは全員が中等部時代に一度は経験してる」 

 実際の光景を思い出して義勝は苦笑した。 

「しばらくしたらおさまるからそのまま抱き締めてやれ」 

「あ…うん…わかった」

 武の温もり……武の匂い…… 夕麿の心から恐怖がゆっくりと退いて行く。 武はいつも守ってくれる。 ボウガンの矢からも鉄球からも武は守ってくれた。 元学部長の剃刀からも救い出してくれた。 それは夕麿にとっては記憶にはない母親の胸の中のようなものだった。 誰よりも安らげる場所。 

「ありがとうございます…もう大丈夫です。 取り乱して…申し訳ありません」 

 そう言って離れてようとすると武は抱き締める力を強めた。 

「無理するな…まだ落ち着いてないだろう? 鼓動がまだ速い」 

「ですが…着替えを…あなたが冷えてしまいます。 もう大丈夫ですから」 

 そう言って半ば無理やりに身体を離した。 誤解は解けたかもしれない。 だがそれで許されるとは思ってなかった。 

 夕麿は武の鞄を開けて絶句した。 武の衣類の大半を着替えに使ってしまったのだ。 あとは施設が用意する作務衣か浴衣だが、武はどちらも好きではないらしくフロントに返してしまっていた。 

「あの…武…あなたの着替えが尽きてしまいました。 クリーニングに出しますが…その間、どうしますか? 私のものを着ますか?」 

 身長差15cm。 一番差があるのは手足の長さだ。 

「パジャマ…ある?」 

「ええ」 

「それ…貸して」 

「わかりました」 

 夕麿は浴衣を使う予定だったので、念の為に持参したパジャマは貸しても確かに差し障りはない。 武も今日は余り起きれない。 夕麿はパジャマを出して武の身体を拭い着替えさせた。 袖を折り曲げ裾も折り曲げる。 だが武は細身の夕麿よりも華奢だ。 

 武は自分の姿を見てスクスと笑い続けた。 

「やっぱりブカブカ…」 

 夕麿もつられて笑う。 

「おい、入るぞ?」 

 声を掛けて入って来た義勝も武を見て吹き出した。 

「次は俺のを貸してやろう。 絶対に下が長袴になるぞ?」 

「そこまで足が短くない!」 

 拗ねる武を抱き締めて笑う。 まるで何事もなかったようだった。 

「で、朝食はどこで摂る?」 

「みんなと一緒が良い…」 

「その格好で笑いを取りに行くのか?」 

「うう~義勝兄さんの意地悪!」 

 義勝を睨み付ける武を見ながらこのまま元通りになれば……夕麿はそう思った。



「今、武さまに何を言った!」

 突然に響いた声に夕麿は武から視線を移動させた。いつも物静かな御厨敦紀が怒りに身を震わせて声を荒げていた。

「昨日の昼間も君は武さまに酷い事を言ったでしょう!?」

「落ち着け」

 頬を押さえて睨み付ける透麿に、今にも掴みかかろうとする敦紀を貴之が引き止めた。

「君は…誰のお陰で夕麿さまと再会出来たと思ってるの!?武さまがあっちこっちにお頼みになられて、君を探しだしたのに…よくそんな恩知らずな真似が出来るね!?」

 瞳に涙を浮かべ拳を握り締めて敦紀は叫ぶ。貴之が抑えていなければ間違いなく透麿を殴り倒しているだろう。敦紀は武が透麿を自分の弟のように大切に思っていたのを知っているのだ。こんな事になっても武はそれでも透麿を大切に思っている。だから夕麿と仲直りさせたいと望んでいるし、何よりも自分が理由で仲違いしたのを悲しんでいる。

 全部知っているから透麿の武に対する言動が敦紀には許せなかったのだ。

「武さまの御心も知りもしないで…!」

 貴之に抱き締められて敦紀は泣き崩れた。それを見て夕麿は武に詰め寄った。

「武…透麿に何を言われたのです?」

 だが武は激しく首を振って拒否した。

「武、言いなさい!」

「…嫌だ…」

 頑なに拒む。肩を掴むと武は振り払って雅久の腕の中へ逃げた。

「嫌だ…嫌だ…嫌だ…」

「武さま…」

 雅久が庇うように抱き締めた。

「武!」

「夕麿さま!」

 雅久が首を振る。

 夕麿は溜息を吐くと踵を返して透麿に近付いた。

「武に何を言ったのです?」

「兄さま…僕は…僕は…兄さまの為に…」

「そんな事は訊いていません!私は何を武に言ったのかを訊いているんです!」

 昨日のあれを見た武に透麿が追い詰めるような事を言ったのだとしたら……今度こそ本当に許せなかった。大切なもの愛しい人を傷付けるような人間を弟と思いたくない。兄と呼ばれたくない。

「僕は…僕は…」

「この期に及んでまだ、言い逃れをしようと言うのですか、透麿!」

 武の想いを無にし、自分の望みだけを叶えようとする透麿。その姿に憎い義母詠美の姿が重なる。

「あなたは…あなた方母子は、これ以上何が欲しいと言うのです?私から何もかも奪っておいてまだ…奪おうと言うのですか?」

 悲痛な言葉だった。自分から何もかもを奪い心をボロボロにされて…生きる気力さえ失った事があった。 甦るのは苦しみも悲しみも愛すらも、封じ込め凍り付かせて生きた歳月に満ちていた苦悩。 

 そこから救い出してくれたのは武。 今、武を傷付けているのが血肉を分けた弟だという事実に、夕麿は耐え難い痛みを感じていた。 

 また奪うのか…… 自分だけではなく武まで傷付けるのか。 

 怒りが炎のように揺らめく。 同時に深い悲しみが込み上げて来た。 

「あ、武さま!」 

 武が雅久の腕の中から飛び出して夕麿の背に抱き付いた。 

「夕麿…もう良い…止めろ…ダメだ…」 

「止めないでください、武! これは兄弟の問題なのです!」 

「夕麿…」 

 武が介入すると透麿は更にエスカレートしてしまう可能性があった。 

「ごめんなさい…」 

 背中で響いた言葉に夕麿は蒼褪めた。 スッと武の温もりが離れた。慌てて振り返ると武が義勝の所へ行って何かを囁くのが見えた。 義勝は頷いて武を抱き上げ、軽く合図をして雅久と共に出て行った。 

 夕麿がそれを見つめている影で透麿が残忍な笑みを浮かべていた。 

 夕麿は唇を噛み締めた。 今更ながら何故、透麿をこの旅行に呼んだのかと周を責めたくなった。 だが今はそんな事をしている場合ではない。 気を取り直して貴之の腕の中でようやく泣き止んだ敦紀に向き直った。 

「御厨君、透麿は武さまに何を言ったのです?」 

 武を呼び捨てにしない事で、事態の重要性を透麿に知らしめるつもりだった。 

「離れていたので…全部は聞いていません。 でも夕麿さまを解放するようにと。 武さまはもう夕麿さまには不要だとも… 

 それから…さっきは…偽善者と…」 

「ありがとうございます」 

 武を大切に思ってくれる敦紀に夕麿は心から感謝した。 

「いえ、武さまにはいつも良くしていたたいてますから」 

 それは形式的な言葉ではなく真実だった。 

「透麿、言い訳は一度だけなら聞いてあげましょう」 

 そう言った夕麿の表情に全員が引きつった。 口許には笑みが浮かんでいたが、その瞳は冷酷な光を湛えていた。 貴之と周は思わずに互いを見た。 二人は夕麿を本気で怒らせたらどうなるのかをよく知っていたからだ。 

「だって…兄さま、周さんと抱き合ってたじゃないか! あれは武さまを捨てたって事だよね?」 

「透麿…あれは、夕麿が長虫に驚いただけだ」 

 周が答えた。 少なくとも夕麿にはそんな気は微塵も存在していなかった。 それを武を傷付ける道具にされたとは…… 周は泣きたくなった。 

「いくら武さまが普段は気安くしてくださっても、皇家の一員であられる事に違いはないのです。お近くにお仕えする私たちでも公私を分けています。

 当然でしょう?いつから六条家は皇家に対する尊崇の心を失ったのです?おとうさんおもうさんといいお前といい…御先祖方が嘆かれているでしょうね」

 母が亡くなり自分が六条家を離れて、代わりに好き放題に振る舞っていた詠美が、ここまで堕落させてしまったのか。

「六条 透麿。今後、紫霞宮武王さまに対しての今までのような態度を禁じます。同時に私は既にお前の兄ではありません。武さまの伴侶、紫霞宮家の人間です。二度と兄と呼ぶ事は許しません」

「そんな!」

「所詮、あの女の子供なのですね…貴族として最も守らなければならない事をないがしろにするなどと。失望しました」

 夕麿はそう言うと踵を返して出て行ってしまった。

「兄さま…」

「悪いが透麿。夕麿をあそこまで怒らせたら誰も執り成しは出来ない。多分、武さまでも無理だ。お前が自分で招いた事だ。折角、仲直りのチャンスをやろうと思ったのに……」

「だって…」

「ひとつ言っておく。確かに佐田川を潰すと確かに武さまが言い出された。だが俺も義勝や雅久、渡仏した麗…それに、現在の生徒会執行部2年生全員が力を貸した。俺たち全員が夕麿さまを傷付けられた事が許せなかった。

 恨むなら俺たち全員を恨め、六条 透麿」

 貴之が透麿を見据えて静かに言った。彼も怒っていた。唯一の主と決めた武を傷付けられたのだから。

「一年前の傷を負わされた夕麿さまを見て、怒りを感じなかった者はいない。武さまの気持ちは俺たち全員の気持ちだ」

「怪我?」

「一年前の事件は僕も詳しくは知らない」

 周が夕麿と武に会ったのは夕麿の包帯が取れた後である。

「僕は事件自体を学院の発表したものしか聞いていない。本当は何があった、貴之?」

「…怪我は頭部を2針の打撲裂傷、殴打による左顔面の内出血と腫れ…ある程度腫れがひくまで左目は開けれない状態でした」

 苦渋に満ちた顔で貴之が言った。

「貴之さん、もう止めましょう?すません、部屋へ戻らせていただきます」

 敦紀は貴之の手を強引に引っ張って出て行った。

「怪我をした話は…聞いていたが…」

「詳細を知りたいなら、報告書を読んだから知ってるが?まあ…良岑君は救出に入った一人だからな…」

「雫…それ以上は…」

「特別室の世話係の手引きで侵入した男の名前は多々良 正恒だ」

「多々良!?…まさか…」

「そういう事だ。多々良は佐田川 詠美の命令で動いていた」

 周にはそれで全てがわかってしまった。

「夕麿を…救出したのは…?」 

「まず武さまが囮として特別室に入られた。 それから隙を突いて良岑君と義勝君が飛び込んだ。 頭部の傷は放置されたままで夕麿さまは束縛され、ベッドはかなりの出血で染まっていたそうだ」 

「止めているのに…全くあなたと言う人は…」 

 高辻か仕方がないと言う顔をした。 

「御厨 敦紀は…ありゃ、多分、ある程度は知ってるな。話したのは良岑君か? 周とそこにいる坊やはちゃんと事実を知っておいた方が良い」 

「ひょっとして…武さまが夕麿を抱くのは…」 

「一年前の事件がきっかけです……私まで…ああ、もう、仕方ない! 夕麿さまが武さまに離縁を願われたそうです」 

「武さまはお許しにはならなかった?」 

「当然でしょう? お許しになっていたら今、生きていらっしゃる夕麿さまには、お目もじ出来ませんよ?」 

「だろうな…随分な目に合わされた訳だからな、同じ相手に二度も」 

「武さまがあれ程までに夕麿を守ろうとされるのは…」 

「もっと早く戻れば良かった…という後悔だと思う。 良岑君の気持ちもな」 

 雫はやり切れないという顔で天を仰いだ。 

「当日、武さまは良岑君と合気道の稽古で武道館にいたそうだ。 雨が降り始めた頃に戻っていればと、二人とも自分を責める記録があった」 

「それは…不可抗力だろう!」 

「貴之が武さまへの態度を今のようなものに変え始めたのも、それがきっかけであると聞いています。 最初は…義勝君と似たような態度でしたから」 

 生徒会全体が武と夕麿を守ろうと本気になった。 

「武さまがご自分の身を危険にさらしてまで、夕麿さまを守ろうとされる原因。 そして今、夕麿さまの為と思い込まれて、離れようとなされる原因でもあります。 

 透麿君、君は夕麿さまの愛情を無碍にしたのです。 武さまの御心も」 

 高辻は医師として中立だが個人としては、やはり武と夕麿に恩義と忠節を抱いていた。 二人がいたから雫とまた共にいられるのだから。 

「透麿、多々良 正恒というのは…中等部の事件で逮捕された教師だ。 

 あの事件の事くらいは知っているだろう?」 

 透麿は蒼褪めて頷いた。 

 雫は静かに言った。 事件そのものが佐田川一族絡みだった事を。 夕麿が被害者に名前を連ねていたのは、詠美が望んだという事実を。 

 詳細を初めて知った周も顔色を失っていた。

「それでも夕麿はお前をたった一人の弟として兄らしい情を持っていた。 それがわかったからこそ…武さまはお前を探されたんだ。 お前、確認されなかったか、夕麿に対する気持ちを?」 

 透麿は渋々頷いた。 

「お前はそれを台無しにしたんだと自覚するんだな…」




 夕麿はずっと一心不乱に鍵盤を叩いていた。 それだけに全神経を注いでいた。 そうしなければ目の前が真っ暗になってしまう。 

 武こそが全ての光なのに…… どうすれば武の心の深くに刻まれてしまった、自分自身に対する間違った認識を払拭出来るのだろうか? 

 もっと大人の経験深い存在が必要なように思えた。 

 夕麿には詠美が追い出すまで乳母がいた。 優しく厳しい女性だった。 女系とはいえ皇家の血を受け継ぐ者としての在り方。 摂関貴族の一員としての義務と責任、そして誇り。 皇家への尊崇の気持ちと忠節への教え。 そういった事を通じて夕麿は自分を確立し、自分の内側の基礎を築けたと思っている。 

 無論、人間としての自分はまだまだ子供で武ひとりを救えない程弱い。 いつになったらおとなになれるのだろうか? 学院にずっと閉じ込められていた故の世間知らずを、夕麿は決して言い訳にはしたくなかった。 

 純粋で真っ直ぐで未だ幼子のような心を抱く武を包み込めるような男になりたい。 そうならなければこの先、武を支えては行けない。 武が学院を出ればもっと複雑になる。 

 今上の思し召しで宮家を立てなければならなかった故に臣籍に下るのも難しいように思えた。 如何に夕麿が優秀であったとしても、それらはもう彼の処理能力を超える先に存在していた。 

 まだ18歳。 皇国の法律で貴族の子息として成人しても、心は未だ少年と青年の間で揺れ続けていた。 

 ベートーベンのピアノソナタ第23番『熱情』。この激しい曲を夕麿は想いの丈を込めて奏でていた。夕麿の『熱情』は全て武の為に存在する。学業そのものは確かに自分の興味や希望へと繋がってはいる。だがそれすらも、武がいるから抱けた想いだった。

 不意に背後でドアが開く音がした。従業員が何度かそっと用事を済ます為に出入りしていたので、夕麿は気にせずに鍵盤を叩き続けた。椅子がピアノからそう遠くない場所に置かれたのを、視線片隅で確認したが無視した。

 するとそこへ誰かが座った。その後、別の誰かが出て行った音がした。今一度、視線チラリと椅子へ向ける。折り畳んだパジャマの裾からむき出しの足が伸びていた。

 驚いて振り返ると武が座っていた。

「もう止めちゃうの?」

「武…」

「成瀬さんとお父さんのダブルで叱られちゃった…」

「お父さん…?」

「学祭の旧特別室の事からこっち、俺、亡くなった人に会ってばっかりだよ…」

 武の皇家としての血の力は確実に強くなって来ている。武が女ならば今頃は斎姫としてどこかに閉じ込められていただろう。 既に斎王は廃止されてから1000年近くになる。 だが皇家がこの力の存在を知ったならばこの力を捨ててはいまい。 そろそろ隠す必要があるかもしれない。 

 武は椅子から立ち上がると裸足で歩み寄って来た。 

「ごめんなさい。 俺…夕麿の事…愛してるから…」 

 武はどう言葉を紡いで良いのか、わからない様子だった。 無理もない…と夕麿は思った。 自分に皇家の血を受け継ぐ摂関貴族としての矜持が染み付いているように、武は10年も前の老人の言葉が心にくっきりと刻印されている。 どんな人間もそのようなものから脱却するのは至難の業とも言える。 人間の心はそんなに単純ではないのだ。 

 夕麿は武をしっかりと抱き締めた。 

「あなたを失ってしまうなら…私はどう生きて良いのか、道標を失う事になります。 武、光なしに暗闇は歩けないのです」 

「俺も真っ暗だった。 怖かった」 

 武は震えていた。 

 周に抱き付いてしまった姿を武はどんな気持ちで見たのだろう。 何もかもを置いて彷徨い出てしまう程、武は嘆き悲しんだのだと思うと胸が痛かった。 

「許してください、武。 長虫の事をあなたに話しておくべきでした……その、みっともないと恥じる気持ちがありました」 

「義勝兄さんに聞いた。 お母さんが嫌いだったんだって?」 

「ええ…母がまだ幼い頃に使用人の子供が木から落ちて来た、蛇に首を咬まれて血清も間に合わない程短時間で死んだそうです」 

「それは…俺でも怖くなるよ」

「母は絵に描いたものでも異常に反応しました。物心が付いた時には私も既に長虫を恐れるようになっていました。どうしても恐怖心が…心を埋め尽くしてしまうのです」

 武に説明しているだけで恐怖に手が震えてしまう。

「夕麿、もういい!もういいから……震えてるじゃないか!誰にでも苦手なものはある」

 手を握り締めて言ってくれるのが嬉しかった。武は全てを受け入れてくれる。自分の弱さやみっともない所まで。震える指先で武の薔薇色の頬を撫でて、どちらからも求めるように自然に唇が重なった。

「ン…ぁン…」

 縋り付いて来る姿に愛しさが込み上げる。どうして…自分でも不思議に思う程に強く武への愛しさが募る。

「夕麿、ピアノ弾いて。夕麿のピアノもっと聴きたい」

「我が君の仰せのままに」

 武に向かって最上級の礼を執る。夕麿の奏でて始めた曲に武は首を傾げた。

「これって…確か、サティの曲だよね?」

「ええ、メロディーは有名ですから」

「うん、聴いた事…ある。でもこれ題名知らない。夕麿が録音してくれたのに、入ってないよね、これ?」

 武の言葉に夕麿は微笑んだ。

「敢えて入れなかったのです。この曲の題名は紙に書くのではなく、直接あなたに告げたいから」

「はあ?何それ?」

「ふふ、後で聞かせて差し上げます」

 不満げな顔をする武に夕麿はもう一度微笑んだ。



 昼食も終わり今度はみんなが興じる卓球に、参加を禁じられた武は応援する側に回った。勝ち抜き戦で最後に残ったのは当然と言えば当然の貴之と雫だった。ギリギリまで雫と争ったのは義勝だった。

「三十路に負けるとは思わなかった!」

 悔しがる義勝に雫は勝ち誇った口調で行った。

「現役の警察官をナメてもらっては困るな。鍛え方が違うよ?」

 夕麿はというと雅久には勝ったが周の方が一枚上手だった。

「卵でも医師は体力がいるんだ」

 と言われて負けず嫌いの夕麿はすかさず反論した。

「ピアノだって体力が必要なのですよ?今日は寝不足気味だから、勝ちを譲ってあげただけです」と。

 これには武が笑い転げた。

 10分間の休息を入れて雫と貴之で決勝をする事になった。夕麿は武と密かに相談してあるものを賞品として用意した。

 1時間半にもわたる奮闘の末、貴之が勝った。

「あ~あ、やっぱり若いのには勝てないか…」

 床にへたり込んだ雫が苦笑混じりに言った。

「いや…俺、負けるかと思いました」

 貴之も床に座り込んでしまった。

「俺…参加出来なくて良かったかも」

 武が苦笑するのを見て夕麿は微笑んだ。

「あんまり凄いから、途中で写真撮るの忘れちゃった」

 舌を出す武に夕麿は合図する。

「あ、そっか。夕麿、お願い」

 待っていた言葉を受けて、夕麿は立ち上がって貴之に近付いた。

「良岑 貴之、優勝者として武さまからの御下賜です」

 夕麿が差し出したのは蒔絵の筆箱。貴之は慌てて座り直して、筆箱を推しいただいた。

「惜しくも敗者になった成瀬 雫。あなたにはこれを」

 雫に差し出されたのは一本のペン。雫も姿勢を正して受け取った。二人が武の前に出て揃って感謝の意を述べた。

「二人が強いのは日頃の鍛錬があるからだよね?」

 武の言葉に夕麿が頷いて見せた。 

「うん、貴之先輩、おめでとう。 成瀬さん、残念でした」 

 夕麿は武をもっと丈夫にしてやりたいと思う。 だが精密検査の担当医の診断ではどうやら武は、丈夫にしようとするには限界があると考えた方が良いらしい。 

「成瀬さん、水泳はされますか?」 

「水泳…ですか? 一通りは泳げますが?」 

「武は少し体力を付けるように指示されました。 温水プールで無理がないようにコーチをしてくださる方が欲しいのです。 

 水泳は無防備になります」 

「なる程…武さま、水泳は?」 

「俺、プールとか入ったの余りない。 だから…全然ダメ」 

「わかりました。 お引き受けいたしましょう。 水中エクササイズなどもありますから。 知り合いのスポーツドクターにも相談してみましょう」 

「ありがとうございます」 

「お願いします」 

「あ、周…さま…」 

「今頃、敬称を付け足さないで欲しいのですが、雫さん」 

 げんなりした周を見て高辻が吹き出す。 何となく事情を察した貴之が、やれやれという顔をして溜息吐いた。 

「で、何ですか?」 

「スポーツドクターの所には一緒に行ってもらいたい」 

「最初からそのつもりですが、何か?」 

「以心伝し…痛い! 清方、嫉妬は良くないな」 

「何で私が周に嫉妬しなければならないんです。 周、こんなバカは捨てて置いて行きましょう?」 

「はあ…清方さん、僕を引っ張り込むのは止めてください」 

 周まで巻き込んで始まった夫婦漫才に周囲が笑いに包まれる。 

「武、疲れたでしょう? 夕食まで部屋へ戻っていましょう?」 

「あ…うん」

 夕麿が武を抱き上げた途端、武が思い出したというように声を上げた。

「あっ!夕麿、さっきの曲の題名、まだ聞いてない!」

 すると夕麿は武の耳にその題名を囁いた。みるみるうちに武の顔が朱に染まった。夕麿はクスクス笑いながら、顔を隠すように縋り付いて来た武を抱いて卓球場を後にした。

「さっきの曲って…聴こえてたあれですよね?」

 敦紀が呟いた。

「サティの曲ですよね、義勝」

 ニヤニヤしている義勝に雅久が訊く。

「あれはサティの『Je te veuxジュ・トゥ・ヴ』という曲だ」

 その言葉に全員が納得する。ただフランス語がわからない透麿だけが不思議そうな顔をした。夕麿にあそこまで言われてしまった彼を周が気にして相手をしている。

「ジュ・トゥ・ヴ?」

「英語にするとI want youになる」

 抱き上げた武の耳にその言葉を囁いたと思うと、周は少々食傷気味な気分だった。

「透麿、街に買い物にでも行くか?」

「良いの?」

「車を呼んでもらおう」

 周の言葉に透麿は目を輝かせた。

「父さまと相良会長に、お土産を買いに行きたい!」 

「僕も妹に土産を買って行かないと…」 

 周は口ばかり達者な異母妹を思い出してげんなりとした顔をした。 

「車なら俺が運転しよう。 俺も土産を買わなきゃならないんだ」 

 雫が腰を上げた。 

「ここのを借りて行けるだろう」 

「交渉して来ます」 

 周が急ぎ足で出て行った。 

「敦紀、お前も行きたかったら行って来い」 

「貴之さんは?」 

「成瀬警視が出掛けるから俺は残った方が良い」 

「じゃあ、私も残ります」 

「無理しなくて良いぞ?」 

「武さまと下河辺先輩たちのお土産を買わなければいけませんし、別の日で構いません」 

「わかった。 義勝と雅久はどうするんだ?」 

「俺たちも残る」 

「という事なので、成瀬警視、ごゆっくりとどうぞ」 

「すまんな、そうさせてもらう」 

 そこへ周が戻って来た。 

「借りれました」 

 こうして彼らはそれぞれの午後を過ごす事になった。


 旅行はその後、滝を観る為に軽く登山をしたり特産物の牛すき焼きに舌鼓を打ったりと、周が武の為に様々なイベントを用意していた。 武はいつもより多く食べはしゃぎ、生まれて初めての旅行を楽しんだ。 

 御園生邸に到着したのは日付が変わる少し前で疲れた武は眠り込んでいた。 

 周とは透麿を連れて途中で別れた。 ただ武の希望で次の日に御園生邸を訪問する事を約束して。 

 夕麿たちは文月が出迎える中、それぞれの部屋へ直行した。 

「おやすみなさい」 

 波瀾万丈ではあったが武の穏やかな寝顔に、夕麿たちは深い満足と喜びを感じていた。 
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