18 / 19
Gloomy disappear
しおりを挟む
パーティーの間、夕麿は武が気になって仕方がなかった。 彼の顔から笑みが消えるのが怖かった。 だから出来るだけ近くにいる事にした。
「武、食べてますか? 何か取り分けて来ましょうか?」
「グラスが空ですよ? オレンジ・ジュースを持って来ました」
掛ける言葉は特別でも何でもない。 ただ武の笑顔が見たかった。 笑っていて欲しかった。 抱き寄せると甘えて来る。 時折、どこかから鋭い眼差しが刺すように向けられている感じがするが、夕麿は少しも躊躇う事などなかった。
そんな中、さり気なく横に立った雫が声をひそめて言った。
「夕麿さま、慈園院 保にはお気をお許しになられませんように」
「…何かあるとは思っていましたが…」
事を荒立てるつもりはなかったので、UCLAでは親交を温めてはいる。 だが…元々、慈園院家と六条家は犬猿とまではいかなくても余り仲が良くない。 司が夕麿の為に隠れていろいろやってくれてはいたが、表立ってしなかった理由でもある。 互いに顔を合わせれば嫌味を言う状態だった。 もし多々良の一件がなかったら、夕麿と司が共に被害者として名を連ねていなかったら。 嫌味を言うだけの間柄で終始していたかもしれない。
「やはり何か、気付いていらっしゃいましたか」
「慈園院と六条は昔から不仲ですから。 幾ら私と司の間に関わりがあっても、兄だと言うだけで彼が私たちに寄って来るのはおかしな事です。 あなたに対する情報も出鱈目でしたからね」
「ありがとうございます。 武さまにも一応、お話申し上げておきました」
「他の者には私から話しておきます」
「その事で御開きの後に、お話をしたいと思います」
「承知しました」
雫に耳打ちされてずっと感じていた違和感の意味を得心した気がする。 プライドの高い慈園院家の子息が、幾ら宮家の一員になったからと言って、六条家出身の夕麿に自ら近付いて頭を下げるなど、有り得ない事だった。
表立って何かをする。
武が『紫霞宮』となった今は、それは有り得ないだろうと思われた。 だが裏工作は有り得る。 司と瓜二つの容姿と声。 学院から出た司の愛人たちを調べるべきかもしれないと、夕麿は実彦か直明に全員の消息を訊く事にした。
貴族言葉で話す保を武が敬遠しているのを良い事に、夕麿は武を出来るだけ彼から離した。
プレゼントを交換する時間になり、それぞれが大切な相手に贈り合う。
夕麿は敦紀に指輪を贈る貴之を見て優しい気持ちで微笑んだ。長い間、貴之の片想いを見て来ただけに、彼には新しい恋をして欲しかった。敦紀の相談を受けて彼ならばきっと、臆病になり頑なに心を恋愛に対して閉ざしてしまった彼を、変えてくれるかもしれないと直感的に感じたのだ。二人がどういう経緯で付き合い出したのかはわからない。だが夕麿と武が検査入院をしている間にそれは始まり、旅行で深まったらしいのはわかる。
貴之は良岑家の一人息子。愛妻家の芳之氏には、正室弥生子夫人以外の女性はいない。つまり貴之には兄弟姉妹は一切いないのである。それは後々、問題となるかもしれない。二人が乗り越えて行くのか、別の形を取って行くのかは夕麿にはわからない。ただ大事な友人に幸せになって欲しいと、ひたすらに天に祈るだけだった。
その敦紀から武に一枚の絵が手渡された。夕麿の白鳳会の制服姿を描いたものだった。
「すみません…制服姿のお写真しかなかったので…」
敦紀が申し訳なさそうに言うのに反して武の瞳は輝いていた。
「凄い……御厨って絵を描くんだ。ごめん、知らなかった」
「あ…いえ…人には、言ってないですから。
こちらは夕麿さまに」
それは当然、特待生の白い詰め襟姿の武の絵だった。
「見事ですね…何と言うか…武らしさが良く表れていますね」
武の直向きさ…が表れされた、見事な肖像画だった。
「武?どうしました?」
武が絵を見詰めたままで黙り込んでしまった見ると目を潤ませている。夕麿は武の顔を覗き込むようにして声をかけた。
「うん…何だか懐かしくて…ちょっと…な」
「あなたは私が制服を着ているのが好きでしたよね?」
「うん…最初が最初だからさ。一種の刷り込みみたいな感じなんだと思う」
「確か以前は私と生徒会長もセットだと、言ってましたね…」
「まあね…」
曖昧に笑った武を見て、夕麿はたまらなかった。武の中では未来は見えなくても、過去は鮮やかな輝きを放って存在するのだと。彼の中の自分は一年前の日々で止まってしまっているのだろうか。
武の為に自分自身の為に強くなりたいと願っている。 早く大人になって、後に続く武を守り支える人間になりたい。 だが武は紫霄の高等部生徒会長だった頃の夕麿の姿を、見つめ続けているような気がする。 今の自分を見てくれているのだろうか。 未来を見ない一番の理由は、武が愛しているのは過去の夕麿だからではないのか。
不安が胸を満たす。 もうあの頃の自分には戻れない、決して。 紫霄学院という揺り籠の中で、微睡んでいた時間は終わってしまった。 外に踏み出し学生だけではなく、企業人として生きてしまったから、純粋で硝子細工のような在り方には戻れない。 どんなに染まらずにいたいと願っても、取り巻く環境は否が応でも、踏み込んだ彼らを染めて行く。
それを哀しんでいては前には進めない。
少年から大人へ。
それはあたかも綺羅綺羅と輝く青春の薄衣を、一つひとつ脱ぎ捨てて行くようなもの。 どんなに美しくても、それ故の儚さや脆さを持ち込んで生きるのは難しい。 それがわかってしまったから抗わず、それでも誇りと希望を失わずに生きる決意をした。
自分は自分らしい大人になりたいと今は思えるようになった。 変わってしまったかもしれない。 武が愛してくれた自分からは。 それでも夕麿は夕麿なのだ。
皇国貴族としての矜持も、武への愛もちゃんと自分の中に存在している。 皇家への尊崇の気持ちも、武の伴侶である自分の役割や立場も。
だからわかって欲しい。 変わらずにいられない現実を。 変わっていくからこそ、成し遂げられるものがある事を。 少年の、青春の衣を脱ぎ捨てたと言っても、紫霄で得た事や武と過ごした日々を過去だと、捨ててしまうわけではない。 大切な大切な、宝石なのだから。
「夕麿、これ…俺からのプレゼント」
言葉をどう紡いで何を話せば良いかを迷っている内に、武が先程、宝石店で受け取った包みを差し出した。
「ありがとうございます」
夕麿の誕生石のルビーと紫霞宮家の一員になった時に決められた、御印の蝋梅が銀色のプレートを彩るペンダントだった。
「綺麗ですね…あなたはいつも、素晴らしいものを私に送ってくださいますね」
手に取ってプラチナプレートの輝きを眺めた。 夕麿の誕生石と御印以外、双方の名前やアルファベットの刻印もなければ、武からの贈り物を記すものは何もない。バレンタインに贈られた腕時計には、名前と紫雲英が刻まれていた。
プラチナの重み。小さめだが最高級のビジョンブラッド。ルビーは現在既に良質の物が殆ど採取されなくなっている。この石ひとつでも、如何に注文したと言っても、見つけ出すのは困難だった筈。武が御園生系列の宝石店を利用するのは、電話やネットで注文出来るように有人が間に入っているから。それでも、かなり前から注文されていたとわかる。
武自身の刻印がどこにもないのは、何か意味があるのかもしれないと夕麿は思った。
「ありがとうございます。大切にします」
ペンダントを手にして見つめているとまた視線を感じた。絹子がリビングの片隅からこちらを見つめていた。夕麿はそれにうんざりしながら武を抱き締めた。誰に反対されようともこの想いは譲れない。消させはしない。
午前零時を過ぎて、パーティーはお開きになった。 保だけが御園生邸を去り、それ以外の招待客は宿泊する事になった。
雫は自分と高辻の部屋へ彼らを集めて完全な人払いをした。 二人の部屋は離れのひとつを完全に占有している。 ここは外部から近付けない立地で、通路は渡り廊下がひとつあるだけ。 しかも渡り廊下は離れの入口で、引き戸を閉めて鍵をかける事が出来る。 雫が警察官であり高辻が武たちの主治医という立場を考慮して、内部での会話が外に漏れないようにと有人が決めた部屋であった。
「さて、確認しておきます。 ここにいる皆さんは一人残らず、武さまと夕麿さまへの友情や忠義の気持ちをお持ちですね?」
雫の問い掛けに全員が頷いた。
「わかりました。 では話を進めさせていただきます。
本日招待されていた、慈園院 保についてです。 皆さん方は昨年亡くなった、彼の弟司君に彼がそっくりなのに驚かされたよいですが…どうか姿や声に惑わされないでください」
「どういう意味でしょうか? 司さまの兄君が、どうかされましたか?」
問い返したのは実彦だった。
「保は弟とは全然、正反対の性格であるだけではなく、十中八九、武さまと夕麿さまに仇為す者。 一番上の遥共々、慈園院家は私たちに敵対はしても味方にはならない。その一人である彼が、ああして夕麿さまに近付き、今度は武さまと面識を持った」
「そう言えば慈園院家と六条家は、昔から余り仲が良くはなかったな」
周の言葉に夕麿が頷いた。
「ええ。だから司と私は常に嫌みの言い合いをしていました。ただ司は今から思えば、私を物井から庇ってくれたり、武と結び付くきっかけをくれました」
「彼は実家の在り方に不満を持っていた」
夕麿よりも周の方が司と交友がまだあった。
「慈園院家は現在、長男の遥が宮中に従事しています。その遥の細君は、9月に夕麿さまを狙った人物の後ろにいたと考えられる我が伯父の末娘です」
雫の言葉に全員が息を呑んだ。
「それと…私はどうでも良いのですが、一々ライバル視する男がいます。彼も紫霄学院の卒業生、私が高等部生徒会長だった折り副会長を務めていました」
「成瀬さんの代の副会長…確か、朽木 綱宏ですね?」
「成瀬と朽木はちょうど、六条と慈園院と同じような関係です。そして朽木の母方の一族が物井の甥の父親の一族と同じなのです」
「じゃあ…成瀬さんの噂の出所は…」
「朽木 網宏でしょう。 夕麿さまと私は立場も似ています。 母方が宮家に連なる。 故に実家の家格がほぼ同じ場合、母方の身分で上下が決まる。 夕麿さまと司の場合、学年が違いますからまだトラブルにはならなかった。 けれども朽木と私は同学年。 母方の血筋も成績も私の方が上だった。 だから彼は私をライバル視しました。 常に私と争い、勝とうとして来ました。 その彼が、伯父の側へ」
雫には元より争う気などなかった。 馬鹿馬鹿しいと思っていたくらいだ。
「問題はここからです。 ロサンゼルスで夕麿さまに近付いた保が何を企てているのか。 それともう一つ、学院にも彼らの側の人間がいて、武さまの身近にいる可能性があります」
「それは生徒会にいる可能性がある…という事ですか?」
行長が驚いたように言った。
「多分、一年生の中にいると思われます」
「敦紀、心当たりはあるか?」
すかさず貴之が問い掛けた。 彼は首を振った。
「何かを実行に移す…という訳ではないでしょう。 恐らくは武さまの監視だけだと思います」
その言葉に行長と敦紀が同時に安堵の表情を浮かべた。
「そりゃあ、皇家の血筋である武に、直接危害を加えるのは躊躇するだろう。 一つ間違えば皇家への忠義や尊崇を疑われて貴族全体から爪弾きに合う」
義勝がきっぱりと言い切った。 だが同時に夕麿が今現在も彼らの標的として、危険に晒されている事を指し示していた。
「つまり、彼らはまだ諦めていないという訳ですね?」
夕麿がウンザリした面持ちで言った。 武も自分も野心も邪心もない。 そんなに目障りならば『紫霞宮』などという名前すらいらない。 御園生姓で十分なのだ。 臣籍降下が出来るならば武が背負うものが少なくなる。 それを許しもしないで邪魔者扱いをする。 自分の生命が脅かされる事よりも武の気持ちを、置き去りにして勝手に邪魔者扱いするのが腹立たしい。
「流石にこの前のような直接お生命を狙う事はないと思われます。 ただこちらの情報は筒抜けだとお考えください」
「つまり私の病の事も向こうは掌握してるという訳ですね」
「夕麿…」
「夕麿さま…」
思わず全員が紡ぐ言葉を見失ってしまう。
「私たちは多かれ少なかれ、武さまの伴侶候補になった時点で、徹底的に調査されています。 裸にされて見せ物にされたに久しい…のは確かです。 最も『敵』と考えられる人間に掌握されるのは、少々不愉快で痛いのは確かではあります」
一時、同じ立場に置かれていた雫だけが夕麿に対して言葉を紡げる。 夕麿はそれに対して目を細めて、美しい微笑みで返した。
と、その優しい眼差しが伏せられた。
「彼らには私のような者は、穢れて取るに足らない存在なのでしょうね。 だからこの生命を消す事など、虫を捻り潰すようにしか思えないのでしょう」
「夕麿!」
血相を変えた武の頬に指先で触れ、決意を込めた眼差しで室内の全員を眺めた。
「しかし…私にも意地があります。 誇りもあります。 こうして企てがあると知った限りは、打てる手は打たせていただきます」
凛とした面差しを見て武が笑みを浮かべて言った。
「それでこそ、俺の夕麿だ。 でも無理はするなよ? 俺は夏までロサンゼルスには行けないんだぞ?」
「当たり前です。 私はあなたのように無鉄砲に、火中の栗を拾う真似はしません」
「無鉄砲で悪かったな」
「ええ、もっと自覚を持ってくださいね、武」
膨れて横を向く姿が可愛い。 周囲から忍び笑いが漏れた。
「で具体的にどうなさいますか?」
貴之が居住まいを正して訪ねた。
「目には目を。 歯には歯を。 貴之、慈園院 司の情報網はしばらくは使わないでください。 その上で慈園院 遥と保兄弟及び、朽木 網宏の現状を徹底的に調査してください。
それこそ、重箱の隅をつつくようにして」
作戦や計画を実行する為に指揮を執らせたら夕麿は無敵に等しい。 紫霄の生徒会長時代は、それが絶大なカリスマとして発揮されていた。 潔癖だけだったものが企業人としての巧妙さを得て、今は以前よりも容赦をする気持ちがない。
ロサンゼルスで内部調査と改革をした企業では、不正を行った者を徹底的に排除した。 排除そのものは現総帥である有人の命令であっても、代理として断罪したのは夕麿であった。 相手は自分より経験豊富で遥かに年上の企業人たち。 それぞれに家族や恋人などもいる筈の人々だった。 躊躇ためらえば足元を掬すくわれるのはこちら。
生徒会長ならば正義を貫けば良かった。 だがいずれ企業のトップに座る者として冷酷無情な顔も必要だった。 それが今、武と自分を守る為の盾にも剣にもなる。
相手は魑魅魍魎ちみもうりょうが住むとまで言われる宮中で、既に失われて久しい権力を未だに諦め切れずに貪る者たち。 決して彼らを侮るつもりはない。 こうして話し合っていても、狡猾こうかつな彼らには自分たちはまだまだヨチヨチ歩きの幼児かもしれない。
それでも振り回されるのは嫌だ。
絶対に嫌だ。
夕麿の負けず嫌いが、ムクムクと頭をもたげて来る。 今はまだ力を溜める時だともわかっていた。 武と離れ離れでしかも彼が、紫霄に在校している状態では人質をとられているのと同じだ。
それでも武を中心に人は集まって来ている。 武自身が本来持っている輝きと、身分に決して傲らない誠実さ故に。
必ず反撃に出る。 そしてわからせてやる。 自分たちが何よりも欲しているのが、権力や富ではなく、愛する人々との安寧な日々だけだと。
夕麿は今一度全員を見回してして、決意を表すかのようにしっかりと頷いた。
夕焼けの中を車はゲートに向かって走っていた。 走る車は2台。 前に武と夕麿、雫と高辻が乗る。 後続車には貴之と敦紀、それに周が乗っていた。 夕麿たちは義勝たちより後の便で渡米する。
それぞれが大切な相手を残して再び太平洋を越える。
「あなたが来るのを一日千秋の想いで待っています」
「うん、必ず…必ず行くから。 夕麿、何度も言うけど無茶はしないで」
「危険な真似はしません」
本当は腕の中にいる彼をこのまま連れ去りたい。 いつでも彼を閉じ込められる檻に帰したくなどない。
「電話します。 どうしても時間が取れない時にはメールをします」
「それも無理しなくて良い。 俺は夕麿が元気なら…それで良い」
「周さん、成瀬さん、御厨君、武をお願いします」
「出来る限りの事はさせていただく」
周がしっかりと頷いた。
「武さまを必ず、お守り致します」
高辻に別れを告げた雫が答えた。
「私も後任の生徒会長として、夕麿さまと武さまのご意志を継ぎたいと思います」
敦紀は自分の出来る事を告げ貴之に向かって頷いた。 中と外を隔てる警備ゲートギリギリまで行って、それぞれが愛する人を抱き締めた。 それを見守っていた周も高辻に抱き寄せられる。
「周、雫が浮気をしないようにしっかりと見張っていてください」
「清方~」
高辻の言葉に全員が吹き出した。
「武、身体に気を付けて」
「うん、俺も無茶はしない」
唇を重ねて力いっぱい抱き締め武の華奢きゃしゃな身体を離した。 雫と周と敦紀を従えるようにして、武はゲートを通過した。
それをじっと見つめる。 武は振り返ると今にも泣きそうな顔に無理浮かべた笑顔が、余計に切なさを呼んで夕麿は胸が張り裂けそうだった。
「武!」
名を呼んで笑顔を向けると彼は手を振って踵を返した。 未練を振り切るように。
周が振り返って頷く。 夕麿は彼に頭を下げた。 頼るべくは雫と周。 彼らに縋るしかない。
ゲートの向こう学院の敷地へ出る扉の前で、武はもう一度振り返りそしててその向こうへと姿を消した。
夕麿は名残惜しいと思いながらも踵を返して告げた。
「行きましょう」
武は武の戦いの場所へ戻って行った。 夕麿もまた戦いの場所へ赴く。 全ては武と生きる為に。
大学を終えるとすぐに社へ向かう。 キャンパス用のラフな服装からビジネス・スーツへ、車中で着替えて気分を引き締める。 仕事を終えて帰宅すると今度は、提出しなければならないレポートを書き、明日の授業の下調べを行う。 そんな多忙な毎日がずっと続いていた。
武への電話だけが今の夕麿の安らぎであり気力の源でもあった。
「そうですか、とうとうあなたも白鳳会々長なのですね」
〔制服が届いて去年の事を思い出した。 一年ってこうして振り返ると短い気もするな〕
「そうですね。 過ぎ去った時間と言うのはそういうものかもしれません」
〔明日、離任・着任式だよ。 夕麿からもらった二つの記章を外すの、ちょっと寂しい気がするんだよな〕
「武、もとの私の部屋の机、右の一番上の引き出しを開けてご覧なさい」
〔ん? 夕麿の使ってた机?〕
携帯を通じて物音が聞こえる。 夕麿は11月に寮に滞在した時にこっそりと、この日の為に残して来たものを思い出していた。
〔夕麿…これって…〕
「私の白鳳会の会長記章です。 4ヶ月しか付けませんが、使ってください」
〔ありがとう! 嬉しい…もう…手渡しでくれれば良いのに、何だよ…〕
文句を言う声が涙声になる。
「ふふ、サプライズです」
〔相変わらず変なとこが意地悪だな、夕麿は〕
「私の身代わりのお守りです」
〔うん、ありがとう、夕麿… …そろそろ切るよ。 そっちは良い時間だろう? あんまり無理して電話くれなくても、俺は大丈夫だから〕
「私があなたの声を聞きたいのです。 あなたの声を聞けばぐっすり眠れますから」
〔うん…俺も夕麿の声聞いたら元気が出て来る〕
「武、愛してます」
〔俺も愛してる…んじゃ…おやすみなさい、夕麿〕
「おやすみなさい、武」
通話を切って椅子の背もたれに身を預ける。 最近、身体が重い。 眠れば楽になるが、無理をしている自覚はあった。
ノロノロと身を起こして、ベッドに移動する。 すると絹子が入って来た。
「遅くまでお疲れさまでございます」
絹子は疲れがとれるというハーブティーを、ロサンゼルスに戻ってからいつも淹れて来てくれていた。 彼女が何から何まで献身的に世話をしてくれるので、疲れ果てて動くのが辛い時にも助かっている。
「夕麿さまのお世話をと、宮さまに仰せつかりましたから」
絹子はそう言って下にも置かぬ扱いをする。 それは六条家から紫霄に追いやられずに成長したならば、当たり前に受けていた筈のものだった。
「夕麿さまはもうご自分では何もなさらないでくださりませね。 全てこの絹子が致しますから」
幼い時には当たり前だった事が、今更ながら気恥ずかしく感じたが、それもいつの間にか慣れてしまった。
「さあ、これをお飲みあそばされませ」
心地良い香りのハーブティーに、少量の蜂蜜を入れたものを、いつものようにゆっくりと飲み干した。
「お飲みになられましたね。 ではお鎮まりなされませ」
絹子に促されでベッドに入った。 傍らには武から借りたイルカのぬいぐるみを置く。 程なく強い眠気が訪れて、夕麿は眠りへと落ちて行った。
「武、食べてますか? 何か取り分けて来ましょうか?」
「グラスが空ですよ? オレンジ・ジュースを持って来ました」
掛ける言葉は特別でも何でもない。 ただ武の笑顔が見たかった。 笑っていて欲しかった。 抱き寄せると甘えて来る。 時折、どこかから鋭い眼差しが刺すように向けられている感じがするが、夕麿は少しも躊躇う事などなかった。
そんな中、さり気なく横に立った雫が声をひそめて言った。
「夕麿さま、慈園院 保にはお気をお許しになられませんように」
「…何かあるとは思っていましたが…」
事を荒立てるつもりはなかったので、UCLAでは親交を温めてはいる。 だが…元々、慈園院家と六条家は犬猿とまではいかなくても余り仲が良くない。 司が夕麿の為に隠れていろいろやってくれてはいたが、表立ってしなかった理由でもある。 互いに顔を合わせれば嫌味を言う状態だった。 もし多々良の一件がなかったら、夕麿と司が共に被害者として名を連ねていなかったら。 嫌味を言うだけの間柄で終始していたかもしれない。
「やはり何か、気付いていらっしゃいましたか」
「慈園院と六条は昔から不仲ですから。 幾ら私と司の間に関わりがあっても、兄だと言うだけで彼が私たちに寄って来るのはおかしな事です。 あなたに対する情報も出鱈目でしたからね」
「ありがとうございます。 武さまにも一応、お話申し上げておきました」
「他の者には私から話しておきます」
「その事で御開きの後に、お話をしたいと思います」
「承知しました」
雫に耳打ちされてずっと感じていた違和感の意味を得心した気がする。 プライドの高い慈園院家の子息が、幾ら宮家の一員になったからと言って、六条家出身の夕麿に自ら近付いて頭を下げるなど、有り得ない事だった。
表立って何かをする。
武が『紫霞宮』となった今は、それは有り得ないだろうと思われた。 だが裏工作は有り得る。 司と瓜二つの容姿と声。 学院から出た司の愛人たちを調べるべきかもしれないと、夕麿は実彦か直明に全員の消息を訊く事にした。
貴族言葉で話す保を武が敬遠しているのを良い事に、夕麿は武を出来るだけ彼から離した。
プレゼントを交換する時間になり、それぞれが大切な相手に贈り合う。
夕麿は敦紀に指輪を贈る貴之を見て優しい気持ちで微笑んだ。長い間、貴之の片想いを見て来ただけに、彼には新しい恋をして欲しかった。敦紀の相談を受けて彼ならばきっと、臆病になり頑なに心を恋愛に対して閉ざしてしまった彼を、変えてくれるかもしれないと直感的に感じたのだ。二人がどういう経緯で付き合い出したのかはわからない。だが夕麿と武が検査入院をしている間にそれは始まり、旅行で深まったらしいのはわかる。
貴之は良岑家の一人息子。愛妻家の芳之氏には、正室弥生子夫人以外の女性はいない。つまり貴之には兄弟姉妹は一切いないのである。それは後々、問題となるかもしれない。二人が乗り越えて行くのか、別の形を取って行くのかは夕麿にはわからない。ただ大事な友人に幸せになって欲しいと、ひたすらに天に祈るだけだった。
その敦紀から武に一枚の絵が手渡された。夕麿の白鳳会の制服姿を描いたものだった。
「すみません…制服姿のお写真しかなかったので…」
敦紀が申し訳なさそうに言うのに反して武の瞳は輝いていた。
「凄い……御厨って絵を描くんだ。ごめん、知らなかった」
「あ…いえ…人には、言ってないですから。
こちらは夕麿さまに」
それは当然、特待生の白い詰め襟姿の武の絵だった。
「見事ですね…何と言うか…武らしさが良く表れていますね」
武の直向きさ…が表れされた、見事な肖像画だった。
「武?どうしました?」
武が絵を見詰めたままで黙り込んでしまった見ると目を潤ませている。夕麿は武の顔を覗き込むようにして声をかけた。
「うん…何だか懐かしくて…ちょっと…な」
「あなたは私が制服を着ているのが好きでしたよね?」
「うん…最初が最初だからさ。一種の刷り込みみたいな感じなんだと思う」
「確か以前は私と生徒会長もセットだと、言ってましたね…」
「まあね…」
曖昧に笑った武を見て、夕麿はたまらなかった。武の中では未来は見えなくても、過去は鮮やかな輝きを放って存在するのだと。彼の中の自分は一年前の日々で止まってしまっているのだろうか。
武の為に自分自身の為に強くなりたいと願っている。 早く大人になって、後に続く武を守り支える人間になりたい。 だが武は紫霄の高等部生徒会長だった頃の夕麿の姿を、見つめ続けているような気がする。 今の自分を見てくれているのだろうか。 未来を見ない一番の理由は、武が愛しているのは過去の夕麿だからではないのか。
不安が胸を満たす。 もうあの頃の自分には戻れない、決して。 紫霄学院という揺り籠の中で、微睡んでいた時間は終わってしまった。 外に踏み出し学生だけではなく、企業人として生きてしまったから、純粋で硝子細工のような在り方には戻れない。 どんなに染まらずにいたいと願っても、取り巻く環境は否が応でも、踏み込んだ彼らを染めて行く。
それを哀しんでいては前には進めない。
少年から大人へ。
それはあたかも綺羅綺羅と輝く青春の薄衣を、一つひとつ脱ぎ捨てて行くようなもの。 どんなに美しくても、それ故の儚さや脆さを持ち込んで生きるのは難しい。 それがわかってしまったから抗わず、それでも誇りと希望を失わずに生きる決意をした。
自分は自分らしい大人になりたいと今は思えるようになった。 変わってしまったかもしれない。 武が愛してくれた自分からは。 それでも夕麿は夕麿なのだ。
皇国貴族としての矜持も、武への愛もちゃんと自分の中に存在している。 皇家への尊崇の気持ちも、武の伴侶である自分の役割や立場も。
だからわかって欲しい。 変わらずにいられない現実を。 変わっていくからこそ、成し遂げられるものがある事を。 少年の、青春の衣を脱ぎ捨てたと言っても、紫霄で得た事や武と過ごした日々を過去だと、捨ててしまうわけではない。 大切な大切な、宝石なのだから。
「夕麿、これ…俺からのプレゼント」
言葉をどう紡いで何を話せば良いかを迷っている内に、武が先程、宝石店で受け取った包みを差し出した。
「ありがとうございます」
夕麿の誕生石のルビーと紫霞宮家の一員になった時に決められた、御印の蝋梅が銀色のプレートを彩るペンダントだった。
「綺麗ですね…あなたはいつも、素晴らしいものを私に送ってくださいますね」
手に取ってプラチナプレートの輝きを眺めた。 夕麿の誕生石と御印以外、双方の名前やアルファベットの刻印もなければ、武からの贈り物を記すものは何もない。バレンタインに贈られた腕時計には、名前と紫雲英が刻まれていた。
プラチナの重み。小さめだが最高級のビジョンブラッド。ルビーは現在既に良質の物が殆ど採取されなくなっている。この石ひとつでも、如何に注文したと言っても、見つけ出すのは困難だった筈。武が御園生系列の宝石店を利用するのは、電話やネットで注文出来るように有人が間に入っているから。それでも、かなり前から注文されていたとわかる。
武自身の刻印がどこにもないのは、何か意味があるのかもしれないと夕麿は思った。
「ありがとうございます。大切にします」
ペンダントを手にして見つめているとまた視線を感じた。絹子がリビングの片隅からこちらを見つめていた。夕麿はそれにうんざりしながら武を抱き締めた。誰に反対されようともこの想いは譲れない。消させはしない。
午前零時を過ぎて、パーティーはお開きになった。 保だけが御園生邸を去り、それ以外の招待客は宿泊する事になった。
雫は自分と高辻の部屋へ彼らを集めて完全な人払いをした。 二人の部屋は離れのひとつを完全に占有している。 ここは外部から近付けない立地で、通路は渡り廊下がひとつあるだけ。 しかも渡り廊下は離れの入口で、引き戸を閉めて鍵をかける事が出来る。 雫が警察官であり高辻が武たちの主治医という立場を考慮して、内部での会話が外に漏れないようにと有人が決めた部屋であった。
「さて、確認しておきます。 ここにいる皆さんは一人残らず、武さまと夕麿さまへの友情や忠義の気持ちをお持ちですね?」
雫の問い掛けに全員が頷いた。
「わかりました。 では話を進めさせていただきます。
本日招待されていた、慈園院 保についてです。 皆さん方は昨年亡くなった、彼の弟司君に彼がそっくりなのに驚かされたよいですが…どうか姿や声に惑わされないでください」
「どういう意味でしょうか? 司さまの兄君が、どうかされましたか?」
問い返したのは実彦だった。
「保は弟とは全然、正反対の性格であるだけではなく、十中八九、武さまと夕麿さまに仇為す者。 一番上の遥共々、慈園院家は私たちに敵対はしても味方にはならない。その一人である彼が、ああして夕麿さまに近付き、今度は武さまと面識を持った」
「そう言えば慈園院家と六条家は、昔から余り仲が良くはなかったな」
周の言葉に夕麿が頷いた。
「ええ。だから司と私は常に嫌みの言い合いをしていました。ただ司は今から思えば、私を物井から庇ってくれたり、武と結び付くきっかけをくれました」
「彼は実家の在り方に不満を持っていた」
夕麿よりも周の方が司と交友がまだあった。
「慈園院家は現在、長男の遥が宮中に従事しています。その遥の細君は、9月に夕麿さまを狙った人物の後ろにいたと考えられる我が伯父の末娘です」
雫の言葉に全員が息を呑んだ。
「それと…私はどうでも良いのですが、一々ライバル視する男がいます。彼も紫霄学院の卒業生、私が高等部生徒会長だった折り副会長を務めていました」
「成瀬さんの代の副会長…確か、朽木 綱宏ですね?」
「成瀬と朽木はちょうど、六条と慈園院と同じような関係です。そして朽木の母方の一族が物井の甥の父親の一族と同じなのです」
「じゃあ…成瀬さんの噂の出所は…」
「朽木 網宏でしょう。 夕麿さまと私は立場も似ています。 母方が宮家に連なる。 故に実家の家格がほぼ同じ場合、母方の身分で上下が決まる。 夕麿さまと司の場合、学年が違いますからまだトラブルにはならなかった。 けれども朽木と私は同学年。 母方の血筋も成績も私の方が上だった。 だから彼は私をライバル視しました。 常に私と争い、勝とうとして来ました。 その彼が、伯父の側へ」
雫には元より争う気などなかった。 馬鹿馬鹿しいと思っていたくらいだ。
「問題はここからです。 ロサンゼルスで夕麿さまに近付いた保が何を企てているのか。 それともう一つ、学院にも彼らの側の人間がいて、武さまの身近にいる可能性があります」
「それは生徒会にいる可能性がある…という事ですか?」
行長が驚いたように言った。
「多分、一年生の中にいると思われます」
「敦紀、心当たりはあるか?」
すかさず貴之が問い掛けた。 彼は首を振った。
「何かを実行に移す…という訳ではないでしょう。 恐らくは武さまの監視だけだと思います」
その言葉に行長と敦紀が同時に安堵の表情を浮かべた。
「そりゃあ、皇家の血筋である武に、直接危害を加えるのは躊躇するだろう。 一つ間違えば皇家への忠義や尊崇を疑われて貴族全体から爪弾きに合う」
義勝がきっぱりと言い切った。 だが同時に夕麿が今現在も彼らの標的として、危険に晒されている事を指し示していた。
「つまり、彼らはまだ諦めていないという訳ですね?」
夕麿がウンザリした面持ちで言った。 武も自分も野心も邪心もない。 そんなに目障りならば『紫霞宮』などという名前すらいらない。 御園生姓で十分なのだ。 臣籍降下が出来るならば武が背負うものが少なくなる。 それを許しもしないで邪魔者扱いをする。 自分の生命が脅かされる事よりも武の気持ちを、置き去りにして勝手に邪魔者扱いするのが腹立たしい。
「流石にこの前のような直接お生命を狙う事はないと思われます。 ただこちらの情報は筒抜けだとお考えください」
「つまり私の病の事も向こうは掌握してるという訳ですね」
「夕麿…」
「夕麿さま…」
思わず全員が紡ぐ言葉を見失ってしまう。
「私たちは多かれ少なかれ、武さまの伴侶候補になった時点で、徹底的に調査されています。 裸にされて見せ物にされたに久しい…のは確かです。 最も『敵』と考えられる人間に掌握されるのは、少々不愉快で痛いのは確かではあります」
一時、同じ立場に置かれていた雫だけが夕麿に対して言葉を紡げる。 夕麿はそれに対して目を細めて、美しい微笑みで返した。
と、その優しい眼差しが伏せられた。
「彼らには私のような者は、穢れて取るに足らない存在なのでしょうね。 だからこの生命を消す事など、虫を捻り潰すようにしか思えないのでしょう」
「夕麿!」
血相を変えた武の頬に指先で触れ、決意を込めた眼差しで室内の全員を眺めた。
「しかし…私にも意地があります。 誇りもあります。 こうして企てがあると知った限りは、打てる手は打たせていただきます」
凛とした面差しを見て武が笑みを浮かべて言った。
「それでこそ、俺の夕麿だ。 でも無理はするなよ? 俺は夏までロサンゼルスには行けないんだぞ?」
「当たり前です。 私はあなたのように無鉄砲に、火中の栗を拾う真似はしません」
「無鉄砲で悪かったな」
「ええ、もっと自覚を持ってくださいね、武」
膨れて横を向く姿が可愛い。 周囲から忍び笑いが漏れた。
「で具体的にどうなさいますか?」
貴之が居住まいを正して訪ねた。
「目には目を。 歯には歯を。 貴之、慈園院 司の情報網はしばらくは使わないでください。 その上で慈園院 遥と保兄弟及び、朽木 網宏の現状を徹底的に調査してください。
それこそ、重箱の隅をつつくようにして」
作戦や計画を実行する為に指揮を執らせたら夕麿は無敵に等しい。 紫霄の生徒会長時代は、それが絶大なカリスマとして発揮されていた。 潔癖だけだったものが企業人としての巧妙さを得て、今は以前よりも容赦をする気持ちがない。
ロサンゼルスで内部調査と改革をした企業では、不正を行った者を徹底的に排除した。 排除そのものは現総帥である有人の命令であっても、代理として断罪したのは夕麿であった。 相手は自分より経験豊富で遥かに年上の企業人たち。 それぞれに家族や恋人などもいる筈の人々だった。 躊躇ためらえば足元を掬すくわれるのはこちら。
生徒会長ならば正義を貫けば良かった。 だがいずれ企業のトップに座る者として冷酷無情な顔も必要だった。 それが今、武と自分を守る為の盾にも剣にもなる。
相手は魑魅魍魎ちみもうりょうが住むとまで言われる宮中で、既に失われて久しい権力を未だに諦め切れずに貪る者たち。 決して彼らを侮るつもりはない。 こうして話し合っていても、狡猾こうかつな彼らには自分たちはまだまだヨチヨチ歩きの幼児かもしれない。
それでも振り回されるのは嫌だ。
絶対に嫌だ。
夕麿の負けず嫌いが、ムクムクと頭をもたげて来る。 今はまだ力を溜める時だともわかっていた。 武と離れ離れでしかも彼が、紫霄に在校している状態では人質をとられているのと同じだ。
それでも武を中心に人は集まって来ている。 武自身が本来持っている輝きと、身分に決して傲らない誠実さ故に。
必ず反撃に出る。 そしてわからせてやる。 自分たちが何よりも欲しているのが、権力や富ではなく、愛する人々との安寧な日々だけだと。
夕麿は今一度全員を見回してして、決意を表すかのようにしっかりと頷いた。
夕焼けの中を車はゲートに向かって走っていた。 走る車は2台。 前に武と夕麿、雫と高辻が乗る。 後続車には貴之と敦紀、それに周が乗っていた。 夕麿たちは義勝たちより後の便で渡米する。
それぞれが大切な相手を残して再び太平洋を越える。
「あなたが来るのを一日千秋の想いで待っています」
「うん、必ず…必ず行くから。 夕麿、何度も言うけど無茶はしないで」
「危険な真似はしません」
本当は腕の中にいる彼をこのまま連れ去りたい。 いつでも彼を閉じ込められる檻に帰したくなどない。
「電話します。 どうしても時間が取れない時にはメールをします」
「それも無理しなくて良い。 俺は夕麿が元気なら…それで良い」
「周さん、成瀬さん、御厨君、武をお願いします」
「出来る限りの事はさせていただく」
周がしっかりと頷いた。
「武さまを必ず、お守り致します」
高辻に別れを告げた雫が答えた。
「私も後任の生徒会長として、夕麿さまと武さまのご意志を継ぎたいと思います」
敦紀は自分の出来る事を告げ貴之に向かって頷いた。 中と外を隔てる警備ゲートギリギリまで行って、それぞれが愛する人を抱き締めた。 それを見守っていた周も高辻に抱き寄せられる。
「周、雫が浮気をしないようにしっかりと見張っていてください」
「清方~」
高辻の言葉に全員が吹き出した。
「武、身体に気を付けて」
「うん、俺も無茶はしない」
唇を重ねて力いっぱい抱き締め武の華奢きゃしゃな身体を離した。 雫と周と敦紀を従えるようにして、武はゲートを通過した。
それをじっと見つめる。 武は振り返ると今にも泣きそうな顔に無理浮かべた笑顔が、余計に切なさを呼んで夕麿は胸が張り裂けそうだった。
「武!」
名を呼んで笑顔を向けると彼は手を振って踵を返した。 未練を振り切るように。
周が振り返って頷く。 夕麿は彼に頭を下げた。 頼るべくは雫と周。 彼らに縋るしかない。
ゲートの向こう学院の敷地へ出る扉の前で、武はもう一度振り返りそしててその向こうへと姿を消した。
夕麿は名残惜しいと思いながらも踵を返して告げた。
「行きましょう」
武は武の戦いの場所へ戻って行った。 夕麿もまた戦いの場所へ赴く。 全ては武と生きる為に。
大学を終えるとすぐに社へ向かう。 キャンパス用のラフな服装からビジネス・スーツへ、車中で着替えて気分を引き締める。 仕事を終えて帰宅すると今度は、提出しなければならないレポートを書き、明日の授業の下調べを行う。 そんな多忙な毎日がずっと続いていた。
武への電話だけが今の夕麿の安らぎであり気力の源でもあった。
「そうですか、とうとうあなたも白鳳会々長なのですね」
〔制服が届いて去年の事を思い出した。 一年ってこうして振り返ると短い気もするな〕
「そうですね。 過ぎ去った時間と言うのはそういうものかもしれません」
〔明日、離任・着任式だよ。 夕麿からもらった二つの記章を外すの、ちょっと寂しい気がするんだよな〕
「武、もとの私の部屋の机、右の一番上の引き出しを開けてご覧なさい」
〔ん? 夕麿の使ってた机?〕
携帯を通じて物音が聞こえる。 夕麿は11月に寮に滞在した時にこっそりと、この日の為に残して来たものを思い出していた。
〔夕麿…これって…〕
「私の白鳳会の会長記章です。 4ヶ月しか付けませんが、使ってください」
〔ありがとう! 嬉しい…もう…手渡しでくれれば良いのに、何だよ…〕
文句を言う声が涙声になる。
「ふふ、サプライズです」
〔相変わらず変なとこが意地悪だな、夕麿は〕
「私の身代わりのお守りです」
〔うん、ありがとう、夕麿… …そろそろ切るよ。 そっちは良い時間だろう? あんまり無理して電話くれなくても、俺は大丈夫だから〕
「私があなたの声を聞きたいのです。 あなたの声を聞けばぐっすり眠れますから」
〔うん…俺も夕麿の声聞いたら元気が出て来る〕
「武、愛してます」
〔俺も愛してる…んじゃ…おやすみなさい、夕麿〕
「おやすみなさい、武」
通話を切って椅子の背もたれに身を預ける。 最近、身体が重い。 眠れば楽になるが、無理をしている自覚はあった。
ノロノロと身を起こして、ベッドに移動する。 すると絹子が入って来た。
「遅くまでお疲れさまでございます」
絹子は疲れがとれるというハーブティーを、ロサンゼルスに戻ってからいつも淹れて来てくれていた。 彼女が何から何まで献身的に世話をしてくれるので、疲れ果てて動くのが辛い時にも助かっている。
「夕麿さまのお世話をと、宮さまに仰せつかりましたから」
絹子はそう言って下にも置かぬ扱いをする。 それは六条家から紫霄に追いやられずに成長したならば、当たり前に受けていた筈のものだった。
「夕麿さまはもうご自分では何もなさらないでくださりませね。 全てこの絹子が致しますから」
幼い時には当たり前だった事が、今更ながら気恥ずかしく感じたが、それもいつの間にか慣れてしまった。
「さあ、これをお飲みあそばされませ」
心地良い香りのハーブティーに、少量の蜂蜜を入れたものを、いつものようにゆっくりと飲み干した。
「お飲みになられましたね。 ではお鎮まりなされませ」
絹子に促されでベッドに入った。 傍らには武から借りたイルカのぬいぐるみを置く。 程なく強い眠気が訪れて、夕麿は眠りへと落ちて行った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる