「追憶に溺れる水面」

平井結

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3章

雨に濡れた幻影

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 夢の中で降る雨には、濡れたはずの感触がある。  皮膚に触れた冷たさも、足元の水たまりのぬかるみも、記憶が生んだ幻想でありながら現実のように鮮明だった。

 その夜、九条礼と朝比奈奏が潜ったのは、とある中年男性の夢だった。依頼内容は「ある少女の幻影に付きまとわれている」というもの。実際の生活に支障をきたすほど、夢の中で少女は現れ、言葉を発するという。

「先生、その……“夢の中の少女”って、本当にただの記憶なんでしょうか」

 ソムニアの接続準備を進めながら奏が問うと、礼はいつものように淡々と答えた。

「夢に現れる存在は、記憶の断片か、あるいは後悔の象徴。だが時に、もっと異質な“思念”が具現化することもある」

 接続が完了する。暗転。雨の音が大きくなり夢が鮮明になる。

 舞台は、古い学校の校庭だった。錆びたジャングルジム、折れかけた鉄棒、濡れた遊具。  そして、その中心に──彼女はいた。

 白いワンピースに黒髪を揺らす少女。傘もささず、ただ雨に打たれながら立ち尽くしている。

「……また、来てくれたのね」

 その声に、礼が凍りついた。

「先生?」

 奏が声をかけると、彼はわずかに震えながら少女に歩み寄った。

「真白……?」

 その名が、空気を震わせた。少女が微笑む。

「わたし、ずっと待ってたの。あのとき、礼が迎えに来てくれるって、信じてたから」

 礼の目に、かすかな光が浮かぶ。その表情に、奏は戸惑いと、奇妙な痛みを覚えた。

 ──知らない名前。けれど、知っているような、胸の奥を抉るような響き。

 そのとき、空間がぐにゃりと歪む。校庭が溶け、視界が暗転したかと思うと、次の瞬間には知らぬ部屋の中だった。

 古びたアパート。カーテンの向こうに雨音。机の上に散らばるノートと薬の瓶。

 そして、ベッドに横たわる女性の姿。

 「……礼、ごめんね……もう、目が覚める気がしないの」

 その声が、奏の胸を撃った。

 夢の中で奏は“誰か”の目線になっていた。  九条の、過去の記憶。

「真白……」

 九条が声を震わせた。

 少女──ユメが振り返り、奏をまっすぐに見つめる。

「あなた、奏くん。だよね」

「……え?」

「礼の夢に入ってきた人。わたし、知ってる」

 ぞっとするほど澄んだ瞳が、奏の奥に何かを見透かすように輝いた。

「あなたの中には、礼の記憶がある。彼が忘れたくなかったもの……全部、まだ消えてない」

 次の瞬間、夢の中の空間が砕けた。

 現実に戻った奏は、椅子の上で息を荒げていた。胸が締めつけられるように痛い。

「……夢の中のあれ……あれは、先生の恋人……?」

 礼は答えなかった。ただ、視線をゆっくりと彼に向けた。

「お前の中に、俺の記憶の“共鳴”が起きている可能性がある」

「どういう……ことですか」

「その体質……お前は、夢を通して他人の“感情”に反応し、それを媒体に記憶の断片を再生する。もしそれが俺の記憶なら──お前の中に、彼女が宿っているかもしれない」

 奏の背筋に、冷たいものが走った。

 恋人の幻影。記憶の残滓。それが自分の中で形を持ち始めている。

 そして、九条の“想い”が、今なおその残滓に縛られている。

 「じゃあ、先生は……僕じゃなくて、僕の中の“彼女”を見てるんですか?」

 初めて、嫉妬という感情が芽生えた。

 だが礼は、その言葉に表情を変えず、ただ静かに言った。

「まだ、断定はできない。だが──もしそれが本当なら、お前は危険だ」

 その言葉は、まるで拒絶だった。けれど、そこに微かに滲んだ声の震えが、礼の“恐れ”を物語っていた。

 失うことの恐怖。  また、誰かを壊してしまう恐怖。

 そしてその恐れは、奏の胸の奥にも、同じように根を下ろし始めていた。

 ──あの少女は、誰?  ──僕は、誰を演じさせられている?

 雨の夜、2人の距離は静かに滲みながら、けれど確かに、踏み出していく音をたてていた。
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