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リュシアン
正しい家
フェルディナン家では、当主であるアルマン伯爵の言葉が、すべてだった。
穏やかで愛情深い祖母だけが、祖父に意見できる存在だったが、ここ数年は持病の悪化により、寝台で過ごす時間が増えていた。
この家で、当主に逆らう者はいない。
それは、貴族の家では珍しいことではなかった。
次期伯爵である僕には、幼い頃から祖父による厳格な後継者教育が施されていた。
「何度言わせる」
「それは、当主の家で許される振る舞いではない」
低く、強い声が広間に響く。
感情を隠そうともしない、苛烈な叱責だった。
使用人たちは一斉に背筋を伸ばし、僕自身も、その声に身体がわずかに強張る。
だが――
泣く必要はなかった。
泣けば、余計に怒りを買う。
言い訳をすれば、さらに追及される。
祖父の性質を、僕は早くから理解していた。
必要なのは、感情ではなく態度であり、
反発ではなく、理解だった。
「申し訳ありません。次からは気をつけます」
声を震わせず、視線を逸らさず、過不足のない謝罪を口にする。
それだけで、祖父の怒りは収まった。
「……うむ。分かっているならよい」
僕は静かに頭を下げる。
怒鳴られないために。
期待を外さないために。
“正しく”振る舞う。
それは、この家の後継者として当然のことだった。
ある日、僕は祖母の部屋に呼ばれた。
寝台に横たわる祖母は痩せてはいたが、それでも変わらず美しかった。
部屋に入った僕を見て、柔らかく微笑み、抱き寄せて髪を撫でる。
「ああ、リュシアン。あなたの顔が見られて嬉しいわ」
「僕も、お祖母様にお会いできて嬉しいです。お加減はいかがですか」
「まあ、心配してくれてありがとう」
祖母は、ふわりと微笑んだ。
「もうすぐ、あなたの誕生日でしょう?」
「はい」
「ハンカチに、フェルディナン家の紋章と、あなたの名前を刺繍したの」
差し出されたのは、真っ白なハンカチだった。精緻な紋章と、丁寧に縫われた僕の名があった。
「お祖母様が、刺繍してくださったのですか」
「ええ……昔ほど上手ではないけれど。来月のシルヴァンの誕生日にも、同じものを用意しているのよ」
「ありがとうございます。大切にします」
「ふふ……兄弟でお揃いなんて、恥ずかしいかしら?」
「いいえ。一生の宝物にします」
「そんな、大袈裟ね。でも、喜んでもらえたなら、作った甲斐があったわ」
ハンカチに込められた祖母の愛情が、はっきりと伝わってきた。
シルヴァンと同じものを持てることも、素直に嬉しかった。
「……旦那様は、あなたに特別厳しいと聞いているわ。大丈夫?」
「お祖母様。まったく問題ありません。叱責されるのは、僕が至らないからです」
「リュシアン……あなたは、まだ七歳なのよ。そんなに背負わなくていいの」
「いいえ。もう七歳です」
そう言い切ると、祖母は目を細め、どこか悲しそうに微笑んだ。
「……まだ、甘えたい年頃なのに……ごめんなさいね……」
祖母の目には涙が浮かんでいた。
その唇が、かすかに動く。
――両親が、ちゃんとしていたら……
その言葉は、ほとんど音にならなかった。
後継者教育は、僕にとって苦ではなかった。
むしろ、分かりやすかった。
何をすれば怒られ、何をすれば認められるのか。規則は、明確だった。
――正しければ、いい。
この頃には、すでに感情を顔に出さなくなっていた。
泣かない。
強く欲しがらない。
戸惑っても、考えてから動く。
祖父は、それを見て満足そうに頷いた。
「よく見ているな」
「当主に必要なのは、その冷静さだ」
それは評価であり、同時に期待でもあった。僕は、その期待を正確に受け取った。
弟のシルヴァンは、違う。
静かで、自己主張が少なく、祖父の前では影が薄い。怒られることも少ない代わりに、強く評価されることもない。
僕の影になりがちな弟を守る。
そう決めたのは、ごく自然なことだった。
弟が間違えないように。
祖父の癇癪に触れないように。
この家に、余計な波風を立てないために。
自分が前に立つ。
それは役割だった。長子として与えられた、当然の立場だった。
夜、寝台に横になると、一日の出来事を思い返す。祖父の声を反芻し、自分の言動を確かめる。
問題はない。
今日も、正しかった。
フェルディナン家は、正しい家だ。
僕は、その中心に立つために育てられている。
感情を殺すことも、欲を抑えることも、
すべては――この家のためだ。
そして、その役割を、僕はきちんと果たしている。
それでいい。それが、正しい。
穏やかで愛情深い祖母だけが、祖父に意見できる存在だったが、ここ数年は持病の悪化により、寝台で過ごす時間が増えていた。
この家で、当主に逆らう者はいない。
それは、貴族の家では珍しいことではなかった。
次期伯爵である僕には、幼い頃から祖父による厳格な後継者教育が施されていた。
「何度言わせる」
「それは、当主の家で許される振る舞いではない」
低く、強い声が広間に響く。
感情を隠そうともしない、苛烈な叱責だった。
使用人たちは一斉に背筋を伸ばし、僕自身も、その声に身体がわずかに強張る。
だが――
泣く必要はなかった。
泣けば、余計に怒りを買う。
言い訳をすれば、さらに追及される。
祖父の性質を、僕は早くから理解していた。
必要なのは、感情ではなく態度であり、
反発ではなく、理解だった。
「申し訳ありません。次からは気をつけます」
声を震わせず、視線を逸らさず、過不足のない謝罪を口にする。
それだけで、祖父の怒りは収まった。
「……うむ。分かっているならよい」
僕は静かに頭を下げる。
怒鳴られないために。
期待を外さないために。
“正しく”振る舞う。
それは、この家の後継者として当然のことだった。
ある日、僕は祖母の部屋に呼ばれた。
寝台に横たわる祖母は痩せてはいたが、それでも変わらず美しかった。
部屋に入った僕を見て、柔らかく微笑み、抱き寄せて髪を撫でる。
「ああ、リュシアン。あなたの顔が見られて嬉しいわ」
「僕も、お祖母様にお会いできて嬉しいです。お加減はいかがですか」
「まあ、心配してくれてありがとう」
祖母は、ふわりと微笑んだ。
「もうすぐ、あなたの誕生日でしょう?」
「はい」
「ハンカチに、フェルディナン家の紋章と、あなたの名前を刺繍したの」
差し出されたのは、真っ白なハンカチだった。精緻な紋章と、丁寧に縫われた僕の名があった。
「お祖母様が、刺繍してくださったのですか」
「ええ……昔ほど上手ではないけれど。来月のシルヴァンの誕生日にも、同じものを用意しているのよ」
「ありがとうございます。大切にします」
「ふふ……兄弟でお揃いなんて、恥ずかしいかしら?」
「いいえ。一生の宝物にします」
「そんな、大袈裟ね。でも、喜んでもらえたなら、作った甲斐があったわ」
ハンカチに込められた祖母の愛情が、はっきりと伝わってきた。
シルヴァンと同じものを持てることも、素直に嬉しかった。
「……旦那様は、あなたに特別厳しいと聞いているわ。大丈夫?」
「お祖母様。まったく問題ありません。叱責されるのは、僕が至らないからです」
「リュシアン……あなたは、まだ七歳なのよ。そんなに背負わなくていいの」
「いいえ。もう七歳です」
そう言い切ると、祖母は目を細め、どこか悲しそうに微笑んだ。
「……まだ、甘えたい年頃なのに……ごめんなさいね……」
祖母の目には涙が浮かんでいた。
その唇が、かすかに動く。
――両親が、ちゃんとしていたら……
その言葉は、ほとんど音にならなかった。
後継者教育は、僕にとって苦ではなかった。
むしろ、分かりやすかった。
何をすれば怒られ、何をすれば認められるのか。規則は、明確だった。
――正しければ、いい。
この頃には、すでに感情を顔に出さなくなっていた。
泣かない。
強く欲しがらない。
戸惑っても、考えてから動く。
祖父は、それを見て満足そうに頷いた。
「よく見ているな」
「当主に必要なのは、その冷静さだ」
それは評価であり、同時に期待でもあった。僕は、その期待を正確に受け取った。
弟のシルヴァンは、違う。
静かで、自己主張が少なく、祖父の前では影が薄い。怒られることも少ない代わりに、強く評価されることもない。
僕の影になりがちな弟を守る。
そう決めたのは、ごく自然なことだった。
弟が間違えないように。
祖父の癇癪に触れないように。
この家に、余計な波風を立てないために。
自分が前に立つ。
それは役割だった。長子として与えられた、当然の立場だった。
夜、寝台に横になると、一日の出来事を思い返す。祖父の声を反芻し、自分の言動を確かめる。
問題はない。
今日も、正しかった。
フェルディナン家は、正しい家だ。
僕は、その中心に立つために育てられている。
感情を殺すことも、欲を抑えることも、
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そして、その役割を、僕はきちんと果たしている。
それでいい。それが、正しい。
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