【完結・R18】それを愛と呼んだ

とっくり

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リュシアン

正しい家

 フェルディナン家では、当主であるアルマン伯爵の言葉が、すべてだった。

 穏やかで愛情深い祖母だけが、祖父に意見できる存在だったが、ここ数年は持病の悪化により、寝台で過ごす時間が増えていた。

 この家で、当主に逆らう者はいない。
 それは、貴族の家では珍しいことではなかった。

 次期伯爵である僕には、幼い頃から祖父による厳格な後継者教育が施されていた。

「何度言わせる」
「それは、当主の家で許される振る舞いではない」

 低く、強い声が広間に響く。
 感情を隠そうともしない、苛烈な叱責だった。

 使用人たちは一斉に背筋を伸ばし、僕自身も、その声に身体がわずかに強張る。

 だが――
 泣く必要はなかった。

 泣けば、余計に怒りを買う。
 言い訳をすれば、さらに追及される。

 祖父の性質を、僕は早くから理解していた。

 必要なのは、感情ではなく態度であり、
 反発ではなく、理解だった。

「申し訳ありません。次からは気をつけます」

 声を震わせず、視線を逸らさず、過不足のない謝罪を口にする。

 それだけで、祖父の怒りは収まった。

「……うむ。分かっているならよい」

 僕は静かに頭を下げる。

 怒鳴られないために。
 期待を外さないために。
 “”振る舞う。

 それは、この家の後継者として当然のことだった。


 ある日、僕は祖母の部屋に呼ばれた。

 寝台に横たわる祖母は痩せてはいたが、それでも変わらず美しかった。 

 部屋に入った僕を見て、柔らかく微笑み、抱き寄せて髪を撫でる。

「ああ、リュシアン。あなたの顔が見られて嬉しいわ」
「僕も、お祖母様にお会いできて嬉しいです。お加減はいかがですか」
「まあ、心配してくれてありがとう」

 祖母は、ふわりと微笑んだ。

「もうすぐ、あなたの誕生日でしょう?」
「はい」
「ハンカチに、フェルディナン家の紋章と、あなたの名前を刺繍したの」

 差し出されたのは、真っ白なハンカチだった。精緻な紋章と、丁寧に縫われた僕の名があった。

「お祖母様が、刺繍してくださったのですか」

「ええ……昔ほど上手ではないけれど。来月のシルヴァンの誕生日にも、同じものを用意しているのよ」

「ありがとうございます。大切にします」
「ふふ……兄弟でお揃いなんて、恥ずかしいかしら?」

「いいえ。一生の宝物にします」

「そんな、大袈裟ね。でも、喜んでもらえたなら、作った甲斐があったわ」

 ハンカチに込められた祖母の愛情が、はっきりと伝わってきた。
 シルヴァンと同じものを持てることも、素直に嬉しかった。

「……旦那様は、あなたに特別厳しいと聞いているわ。大丈夫?」

「お祖母様。まったく問題ありません。叱責されるのは、僕が至らないからです」

「リュシアン……あなたは、まだ七歳なのよ。そんなに背負わなくていいの」

「いいえ。もう七歳です」

 そう言い切ると、祖母は目を細め、どこか悲しそうに微笑んだ。

「……まだ、甘えたい年頃なのに……ごめんなさいね……」

 祖母の目には涙が浮かんでいた。
 その唇が、かすかに動く。

 ――両親が、ちゃんとしていたら……

 その言葉は、ほとんど音にならなかった。


 後継者教育は、僕にとって苦ではなかった。
 むしろ、分かりやすかった。

 何をすれば怒られ、何をすれば認められるのか。規則は、明確だった。

 ――、いい。

 この頃には、すでに感情を顔に出さなくなっていた。

 泣かない。
 強く欲しがらない。
 戸惑っても、考えてから動く。

 祖父は、それを見て満足そうに頷いた。

「よく見ているな」
「当主に必要なのは、その冷静さだ」

 それは評価であり、同時に期待でもあった。僕は、その期待を正確に受け取った。

 弟のシルヴァンは、違う。

 静かで、自己主張が少なく、祖父の前では影が薄い。怒られることも少ない代わりに、強く評価されることもない。

 僕の影になりがちな弟を守る。
 そう決めたのは、ごく自然なことだった。

 弟が間違えないように。
 祖父の癇癪に触れないように。
 この家に、余計な波風を立てないために。

 自分が前に立つ。

 それは役割だった。長子として与えられた、当然の立場だった。

 夜、寝台に横になると、一日の出来事を思い返す。祖父の声を反芻し、自分の言動を確かめる。

 問題はない。
 今日も、正しかった。

 フェルディナン家は、だ。
 僕は、その中心に立つために育てられている。

 感情を殺すことも、欲を抑えることも、
 すべては――この家のためだ。

 そして、その役割を、僕はきちんと果たしている。

 それでいい。それが、正しい。

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