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リュシアン
正しさの中の例外
その日、中庭に出たのは、ほんの気まぐれだった。
いつも通りに整えられた石畳。
規則正しく水音を立てる噴水。
刈り込まれ、管理の行き届いた植え込み。
危険はない。
想定外も起きない。
そう判断できる範囲だったから、僕はシルヴァンを連れて外に出た。
「ここ、いつも通るけど、ちゃんと見たことなかったね」
そう口にしながら、内心では周囲を確かめていた。
使用人の視線は届かない。
祖父の気配も、今はない。
――少しだけなら、許される。
中庭の隅に立つ、一本の古い樹に、シルヴァンが目を留めた。
「登れそうだよ、兄様」
枝の位置、幹の太さ、高さ。
子どもの体格なら、問題はない。
「……確かに。少しだけなら、ね」
先に僕が木に登ったのは、危険を確かめるためだった。弟に失敗をさせるわけにはいかない。
「こうだよ。足はここに置いて」
差し出した手を、シルヴァンは迷いなく掴んだ。軽い力。けれど、確かな重みがあった。
弟は、信じることに躊躇がない。
その事実は、僕にとって当然であり、
同時に――守るべきものだった。
枝を渡り、葉の隙間から空を見る。
シルヴァンは笑い、楽しそうだった。
弟の笑顔を見て、胸が温かくなる。
それでいい。問題は起きていない。
そう思った瞬間だった。
「……いたっ」
シルヴァンの短い声だった。
私はすぐに振り向いた。
シルヴァンの指先から、赤い血が滲んでいる。
血の量は少なく、傷も深くはない。致命的ではなかった。
――対処できる。
「大丈夫。少し切っただけだよ」
声は自然に出た。
僕はシルヴァンの手を取り、傷を確かめた。
血を止める必要がある。
僕は迷わず、シルヴァンの指を口に含んだ。
「に、兄様…?」
シルヴァンの戸惑った声が聞こえる。
それには気にも留めなかった。こうするのが、対処として一番早い方法だと判断したからだった。
細く、柔らかな指先の温度。
鉄のような血の味。
それ以上、考える必要はなかった。
シルヴァンが小さく息を詰めたのが分かったが、痛みよりも驚きだろうと判断した。
すぐに口を離し、ポケットからハンカチを取り出す。
祖母がくれたものだ。
同じ刺繍を、シルヴァンも持っている。
だから、迷いはなかった。
ハンカチをシルヴァンの指に巻き、止血をする。
「ほら。これで大丈夫だよ」
「ありがとう……兄様……」
小さな声だった。
わずかに、震えている。
「……兄様のハンカチ、汚しちゃって……ごめんなさい」
琥珀色の瞳が伏せられ、俯く。
弟は、必要のないところで、よく自分を責める。
「気にしなくていいよ。それより、大きな怪我じゃなくて良かった」
それが、正しい答えだった。
「ハンカチ、新しいのを返す。それか……僕の、使う?」
僕は、ほんの少し考えた。
(シルヴァンの……)
汚れたまま返されても問題はない。
洗えば、ある程度の染みは落ちる。
だが――
「いいんだ。そのままで返してくれたら」
理由は、うまく説明できなかった。
「危ないから、もう戻ろう」
僕は、シルヴァンの手を取った。
傷のある方ではない手を選び、歩き出す。
弟は何も言わず、隣を歩いた。
邸に戻ってから、もう一度、指先を確かめる。
「……痛む?」
「ううん。もう大丈夫」
「そう。なら、よかった」
それで、十分だった。
僕は、間違えていない。
適切に判断し、適切に対処した。
弟を守り、余計な騒ぎも起こしていない。
――今日も、正しかった。
夜、寝台に入ったあと、
ポケットに残る感触を確かめる。
ハンカチは、返されたまま、そこにあった。
本来なら、血を吸った布はすぐに洗うべきだ。
そうしなければ、染みは落ちにくくなる。
そう思いながら、なぜか、すぐにそうしようとは思わなかった。
理由は、考えなかった。
考える必要のないことは、考えない。
それが、フェルディナン家で生きるための、
正しいやり方だった。
いつも通りに整えられた石畳。
規則正しく水音を立てる噴水。
刈り込まれ、管理の行き届いた植え込み。
危険はない。
想定外も起きない。
そう判断できる範囲だったから、僕はシルヴァンを連れて外に出た。
「ここ、いつも通るけど、ちゃんと見たことなかったね」
そう口にしながら、内心では周囲を確かめていた。
使用人の視線は届かない。
祖父の気配も、今はない。
――少しだけなら、許される。
中庭の隅に立つ、一本の古い樹に、シルヴァンが目を留めた。
「登れそうだよ、兄様」
枝の位置、幹の太さ、高さ。
子どもの体格なら、問題はない。
「……確かに。少しだけなら、ね」
先に僕が木に登ったのは、危険を確かめるためだった。弟に失敗をさせるわけにはいかない。
「こうだよ。足はここに置いて」
差し出した手を、シルヴァンは迷いなく掴んだ。軽い力。けれど、確かな重みがあった。
弟は、信じることに躊躇がない。
その事実は、僕にとって当然であり、
同時に――守るべきものだった。
枝を渡り、葉の隙間から空を見る。
シルヴァンは笑い、楽しそうだった。
弟の笑顔を見て、胸が温かくなる。
それでいい。問題は起きていない。
そう思った瞬間だった。
「……いたっ」
シルヴァンの短い声だった。
私はすぐに振り向いた。
シルヴァンの指先から、赤い血が滲んでいる。
血の量は少なく、傷も深くはない。致命的ではなかった。
――対処できる。
「大丈夫。少し切っただけだよ」
声は自然に出た。
僕はシルヴァンの手を取り、傷を確かめた。
血を止める必要がある。
僕は迷わず、シルヴァンの指を口に含んだ。
「に、兄様…?」
シルヴァンの戸惑った声が聞こえる。
それには気にも留めなかった。こうするのが、対処として一番早い方法だと判断したからだった。
細く、柔らかな指先の温度。
鉄のような血の味。
それ以上、考える必要はなかった。
シルヴァンが小さく息を詰めたのが分かったが、痛みよりも驚きだろうと判断した。
すぐに口を離し、ポケットからハンカチを取り出す。
祖母がくれたものだ。
同じ刺繍を、シルヴァンも持っている。
だから、迷いはなかった。
ハンカチをシルヴァンの指に巻き、止血をする。
「ほら。これで大丈夫だよ」
「ありがとう……兄様……」
小さな声だった。
わずかに、震えている。
「……兄様のハンカチ、汚しちゃって……ごめんなさい」
琥珀色の瞳が伏せられ、俯く。
弟は、必要のないところで、よく自分を責める。
「気にしなくていいよ。それより、大きな怪我じゃなくて良かった」
それが、正しい答えだった。
「ハンカチ、新しいのを返す。それか……僕の、使う?」
僕は、ほんの少し考えた。
(シルヴァンの……)
汚れたまま返されても問題はない。
洗えば、ある程度の染みは落ちる。
だが――
「いいんだ。そのままで返してくれたら」
理由は、うまく説明できなかった。
「危ないから、もう戻ろう」
僕は、シルヴァンの手を取った。
傷のある方ではない手を選び、歩き出す。
弟は何も言わず、隣を歩いた。
邸に戻ってから、もう一度、指先を確かめる。
「……痛む?」
「ううん。もう大丈夫」
「そう。なら、よかった」
それで、十分だった。
僕は、間違えていない。
適切に判断し、適切に対処した。
弟を守り、余計な騒ぎも起こしていない。
――今日も、正しかった。
夜、寝台に入ったあと、
ポケットに残る感触を確かめる。
ハンカチは、返されたまま、そこにあった。
本来なら、血を吸った布はすぐに洗うべきだ。
そうしなければ、染みは落ちにくくなる。
そう思いながら、なぜか、すぐにそうしようとは思わなかった。
理由は、考えなかった。
考える必要のないことは、考えない。
それが、フェルディナン家で生きるための、
正しいやり方だった。
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