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両親の葬儀から数日後。アナベルは、姉に呼び出された。
案内されたのは、かつて父が使っていた執務室。今ではセラフィナの部屋となり、書類が几帳面に整頓された机には、家紋入りの重厚な文具が並んでいた。部屋の空気は冷えきっていた。
「今月末まで、学園には通わせてあげるわ。家もそれまで居ていい。荷物の整理は早めに済ませて」
セラフィナは淡々と告げた。
「……せめて、学園を卒業するまでは、居させてほしいの。お願い……」
アナベルは懇願するように言ったが、セラフィナの目に情はなかった。
「ずいぶんと図々しいのね。今すぐ追い出されても文句は言えない立場よ。私は当主。あなたは穀潰し。寄生虫のように居座るつもり?」
アナベルは言葉を失い、ただ唇を震わせながら、深くうつむいた。
***
数日ぶりに登校した学園。
門をくぐった瞬間から、懐かしい景色に胸が締めつけられる。どこか変わってしまったように見えるのは、自分の心が重たく沈んでいるせいだろう。
教室に入ると、仲の良かった友人たちがすぐに駆け寄ってきた。
「アナベル、大丈夫?」
「何かあったらいつでも言ってね」
その優しさに、思わずぽろぽろと涙が零れた。彼女たちは、何も聞かずにそっと肩を抱いてくれた。
放課後、帰り支度をしていたアナベルに、声をかけてきたのはダミアンだった。
「アナベル、ちょっといいかな?」
淡い金髪に碧眼、朗らかで社交的な印象の男子。彼は、伯爵家の嫡男で、アナベルの仲の良い友人グループの一人だった。
「……ダミアン、どうか、したの……?」
声にならないほどのかすれた囁きだった。かろうじて絞り出したその言葉に、ダミアンは優しく微笑んだ。
「アナベル、大変だったね。辛いときは……誰かに話すと、少しだけ楽になるよ」
その言葉に、アナベルは堪えていた感情がほどけていくのを感じた。気づけば、涙がひとすじ、頬を伝っていた。
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
言い訳のように呟きながら、アナベルはぽつりぽつりと胸の内を漏らした。
無理に語ろうとしたわけではなかった。ただ、あまりに苦しくて、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
両親が突然亡くなり、姉に家を追い出されること。居場所も、行き場も、もうどこにもないこと――。
話し終えたとき、アナベルは自分の手が震えているのに気づいた。
ダミアンはしばらく黙っていたが、やがて何かを決めたように、ゆっくりと口を開いた。
「なら、僕の家に来ればいい」
「……え?」
「郊外に使ってない屋敷があるんだ。君が一人で住めるくらいには広い。そこから学園に通えばいい。学費も生活費も全部、僕が出すよ」
アナベルは混乱した。あまりに唐突な申し出に、意味が飲み込めなかった。
「……そんなの、無理。家賃も払えないし、学費だって返せる見込みがないの」
ダミアンは肩をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「まさか、君からお金を取るなんて思ってないよ。僕には金なんて、使い切れないほどある」
ダミアンの生家は代々、国内屈指の規模で事業を手がけており、名うての資産家として知られていた。嫡男である彼もまた、多額の個人資産を有していた。
「じゃあ、なぜ……?」
アナベルが問い返すと、彼はゆっくりと近づき、彼女の顎に指をかけた。
「君は美しくて、純粋で……天真爛漫で魅力的だ。でも、ここまで察しが悪いのは、いただけないな」
アナベルの背筋に、嫌な寒気が走った。
「僕には婚約者がいる。だから、君を妻にはできない。でも……愛人としてなら、面倒は見てあげられる」
「……?!」
「入学してから、ずっと、君のことを好ましく思っていたんだ。悪い話ではないと思う」
「っ・・・!なっ、」
言葉が出なかった。震える唇からようやく絞り出したのは、怒気を含んだ否定の言葉。
「…そんな話、受けないわ!」
叫ぶように言い放ち、教室を飛び出した瞬間──
「──泥棒猫!」
甲高い罵声とともに、頬に鋭い痛みが走った。
何が起きたのか理解する前に、目の前にいた少女が睨みつけてきた。整った顔立ちに精緻な制服を着こなしたその少女――ダミアンの婚約者、エリカだった。
「人の婚約者に色目を使うなんて……どこまで浅ましいの? あなたみたいな品のない子、学園にいる価値なんてないわ!」
「ち、違います……私は……」
震える声で否定しようとするアナベルの言葉を遮るように、すっと後ろから腕が回された。
「っ……! エリカ、それは誤解だ!」
慌てたように駆け寄ってきたのは、ダミアンだった。焦りを滲ませた声で、必死に彼女を宥めようとする。
「彼女をからかっただけさ。ただの冗談だった。僕には君だけだ、エリカ」
エリカの顔色が変わった。怒りと不安、そして羞恥が混ざり合い、涙を浮かべながらダミアンの腕にすがるように寄り添った。
「……ほんとう? 私、信じていいのね……?」
「ああ、君だけさ」
そのまま、彼はエリカを抱くようにしながら、アナベルへと目線を向けた。
その瞳には、あの優しさは無く、ただ冷めきった嘲りと、まるで「これは遊びだった」と言い聞かせるような残酷な無関心だけが残っていた。
二人は寄り添って、何事もなかったかのようにその場を離れていく。
アナベルは、打たれた頬を押さえたまま、教室の入り口で呆然と立ち尽くしていた。
***
翌朝、登校すると──まるで空気が変わっていた。
教室に入ると、それまで騒がしかった空間が、凍りついたように静まり返る。
「あれが……」
「男漁りしてるって……」
誰もアナベルに話しかけず、誰も目を合わせようとしなかった。聞こえてくるのは、ささやき声と冷たい視線。
──人の婚約者に色目を使って誘惑した女。
昨日の出来事は、既に学園中に広まっていた。
仲の良かった友人グループを見つけて声を掛けたが、彼女たちはアナベルを無視し、冷ややかな目を向けてこう言い放った。
「他人の婚約者に色目を使う人間とは、友人でいられないの。自分の大切な人まで奪われるかもしれないもの」
「辛いことがあったからって、男に縋るなんて……あなた、プライドはないの?」
刺すようなその言葉に、アナベルの心はぐらりと揺れた。
まるで自分の全てを否定されたような気がして、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
言い返したいのに、声が出ない。ただ、唇をかすかに開いたまま、俯くしかできなかった。
楽しかったはずの学園生活が、一夜にして、地獄のような日々へと変わっていった。
案内されたのは、かつて父が使っていた執務室。今ではセラフィナの部屋となり、書類が几帳面に整頓された机には、家紋入りの重厚な文具が並んでいた。部屋の空気は冷えきっていた。
「今月末まで、学園には通わせてあげるわ。家もそれまで居ていい。荷物の整理は早めに済ませて」
セラフィナは淡々と告げた。
「……せめて、学園を卒業するまでは、居させてほしいの。お願い……」
アナベルは懇願するように言ったが、セラフィナの目に情はなかった。
「ずいぶんと図々しいのね。今すぐ追い出されても文句は言えない立場よ。私は当主。あなたは穀潰し。寄生虫のように居座るつもり?」
アナベルは言葉を失い、ただ唇を震わせながら、深くうつむいた。
***
数日ぶりに登校した学園。
門をくぐった瞬間から、懐かしい景色に胸が締めつけられる。どこか変わってしまったように見えるのは、自分の心が重たく沈んでいるせいだろう。
教室に入ると、仲の良かった友人たちがすぐに駆け寄ってきた。
「アナベル、大丈夫?」
「何かあったらいつでも言ってね」
その優しさに、思わずぽろぽろと涙が零れた。彼女たちは、何も聞かずにそっと肩を抱いてくれた。
放課後、帰り支度をしていたアナベルに、声をかけてきたのはダミアンだった。
「アナベル、ちょっといいかな?」
淡い金髪に碧眼、朗らかで社交的な印象の男子。彼は、伯爵家の嫡男で、アナベルの仲の良い友人グループの一人だった。
「……ダミアン、どうか、したの……?」
声にならないほどのかすれた囁きだった。かろうじて絞り出したその言葉に、ダミアンは優しく微笑んだ。
「アナベル、大変だったね。辛いときは……誰かに話すと、少しだけ楽になるよ」
その言葉に、アナベルは堪えていた感情がほどけていくのを感じた。気づけば、涙がひとすじ、頬を伝っていた。
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
言い訳のように呟きながら、アナベルはぽつりぽつりと胸の内を漏らした。
無理に語ろうとしたわけではなかった。ただ、あまりに苦しくて、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
両親が突然亡くなり、姉に家を追い出されること。居場所も、行き場も、もうどこにもないこと――。
話し終えたとき、アナベルは自分の手が震えているのに気づいた。
ダミアンはしばらく黙っていたが、やがて何かを決めたように、ゆっくりと口を開いた。
「なら、僕の家に来ればいい」
「……え?」
「郊外に使ってない屋敷があるんだ。君が一人で住めるくらいには広い。そこから学園に通えばいい。学費も生活費も全部、僕が出すよ」
アナベルは混乱した。あまりに唐突な申し出に、意味が飲み込めなかった。
「……そんなの、無理。家賃も払えないし、学費だって返せる見込みがないの」
ダミアンは肩をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「まさか、君からお金を取るなんて思ってないよ。僕には金なんて、使い切れないほどある」
ダミアンの生家は代々、国内屈指の規模で事業を手がけており、名うての資産家として知られていた。嫡男である彼もまた、多額の個人資産を有していた。
「じゃあ、なぜ……?」
アナベルが問い返すと、彼はゆっくりと近づき、彼女の顎に指をかけた。
「君は美しくて、純粋で……天真爛漫で魅力的だ。でも、ここまで察しが悪いのは、いただけないな」
アナベルの背筋に、嫌な寒気が走った。
「僕には婚約者がいる。だから、君を妻にはできない。でも……愛人としてなら、面倒は見てあげられる」
「……?!」
「入学してから、ずっと、君のことを好ましく思っていたんだ。悪い話ではないと思う」
「っ・・・!なっ、」
言葉が出なかった。震える唇からようやく絞り出したのは、怒気を含んだ否定の言葉。
「…そんな話、受けないわ!」
叫ぶように言い放ち、教室を飛び出した瞬間──
「──泥棒猫!」
甲高い罵声とともに、頬に鋭い痛みが走った。
何が起きたのか理解する前に、目の前にいた少女が睨みつけてきた。整った顔立ちに精緻な制服を着こなしたその少女――ダミアンの婚約者、エリカだった。
「人の婚約者に色目を使うなんて……どこまで浅ましいの? あなたみたいな品のない子、学園にいる価値なんてないわ!」
「ち、違います……私は……」
震える声で否定しようとするアナベルの言葉を遮るように、すっと後ろから腕が回された。
「っ……! エリカ、それは誤解だ!」
慌てたように駆け寄ってきたのは、ダミアンだった。焦りを滲ませた声で、必死に彼女を宥めようとする。
「彼女をからかっただけさ。ただの冗談だった。僕には君だけだ、エリカ」
エリカの顔色が変わった。怒りと不安、そして羞恥が混ざり合い、涙を浮かべながらダミアンの腕にすがるように寄り添った。
「……ほんとう? 私、信じていいのね……?」
「ああ、君だけさ」
そのまま、彼はエリカを抱くようにしながら、アナベルへと目線を向けた。
その瞳には、あの優しさは無く、ただ冷めきった嘲りと、まるで「これは遊びだった」と言い聞かせるような残酷な無関心だけが残っていた。
二人は寄り添って、何事もなかったかのようにその場を離れていく。
アナベルは、打たれた頬を押さえたまま、教室の入り口で呆然と立ち尽くしていた。
***
翌朝、登校すると──まるで空気が変わっていた。
教室に入ると、それまで騒がしかった空間が、凍りついたように静まり返る。
「あれが……」
「男漁りしてるって……」
誰もアナベルに話しかけず、誰も目を合わせようとしなかった。聞こえてくるのは、ささやき声と冷たい視線。
──人の婚約者に色目を使って誘惑した女。
昨日の出来事は、既に学園中に広まっていた。
仲の良かった友人グループを見つけて声を掛けたが、彼女たちはアナベルを無視し、冷ややかな目を向けてこう言い放った。
「他人の婚約者に色目を使う人間とは、友人でいられないの。自分の大切な人まで奪われるかもしれないもの」
「辛いことがあったからって、男に縋るなんて……あなた、プライドはないの?」
刺すようなその言葉に、アナベルの心はぐらりと揺れた。
まるで自分の全てを否定されたような気がして、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
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