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モンタヴィル家に戻っても、アナベルを待っていたのは、冷たく無慈悲な現実だった。
灰色の空の下、荘厳な石造りの屋敷は、かつては温もりと笑い声に包まれていたはずなのに、今やまるで空虚な墓所のようだった。
廊下には人の気配があるのに、アナベルが通ると、まるで風が通り抜けただけかのように、誰も目を向けなかった。
両親の死をきっかけに、屋敷の空気は一変していた。
当主の座を継いだセラフィナは、父の書斎を自分の部屋へと作り変え、まるで長年その席にいたかのように堂々と振る舞っていた。
執務も使用人の管理も、完璧にこなしていた。表面だけ見れば、理想的な後継者だったのかもしれない。
けれど、その裏で彼女は静かに、確実にアナベルの存在を屋敷から消そうとしていた。
使用人たちもその意図を察し、口をつぐんだ。長年仕えていた者たちでさえ、アナベルの姿を見ると目を逸らし、そそくさとその場を離れていった。温かい声も、労わりの言葉も、もう誰も彼女にかけようとはしなかった。
アナベルは、己が“この家の客以下”の存在となったことを、痛いほど自覚していた。
──けれど。
たった一人だけ、変わらぬ忠誠と優しさを向けてくれる存在がいた。
「……お嬢様、お支度のお手伝いをいたします」
それは、侍女・マリーだった。
学園へ登校する朝、アナベルの部屋にやって来ては、静かに扉を叩くのだった。
寝台の縁に腰を下ろしたままのアナベルは、マリーの姿を見て微かに唇を震わせた。
「……ありがとう、マリー。他のお仕事があるのでは……?」
そう訊ねる声は、どこか申し訳なさと遠慮に満ちていた。
「いいえ。お嬢様のお世話より大切なお仕事なんて、私にはありませんから」
マリーは変わらぬ微笑みを浮かべてそう言った。アナベルを安心させようとするその言葉が、かえって胸に突き刺さる。
その日を境に、アナベルはマリーの気遣いが嬉しい反面、胸の奥が申し訳なさで締めつけられるようになった。
自分のせいで彼女の立場が危うくなるかもしれないと思っていた。
そして──その懸念が、現実となった。
数日後、食堂に集まった使用人たちの前で、セラフィナはわざとらしく声を張った。
「マリー!これ以上、アナベルに肩入れするようなら……あなた、即刻、解雇です」
その言葉は、冷たい刃のように放たれた。
マリーの顔から血の気が引き、肩が小刻みに震えるのが遠くからでも見て取れた。静まり返った空間に、重く沈黙が降りる。
アナベルは、誰にも気づかれぬよう、拳を握り締めた。
(もう……マリーに、迷惑はかけられない)
それ以来、アナベルは自らマリーとの距離を取るようになった。マリーが話しかけようとするたび、そっと目を伏せ、そっと微笑み、けれど言葉を返すことはなかった。
食事も、セラフィナとは完全に別となった。
昼も夜も、アナベルの部屋に運ばれてくるのは、味気ないスープと黒く硬いパン、そして湯通ししただけの野菜の皿。
かつての食卓には並んでいた温かく華やかな料理の記憶が、かえってこの粗末な食事を一層侘しく感じさせた。
だがアナベルは、「食べられるだけありがたい」と自分に言い聞かせながら、無言でそれを口に運んだ。
この家での居場所は、もうどこにもなかった。
それでも、まだアナベルは「家族」の言葉を信じたかった。
***
学園では、かつて自分を囲んで笑ってくれていた友人たちが、まるで見知らぬ他人のように冷たい視線を投げてきた。
すれ違いざまに目を逸らされるたび、アナベルの胸には針のような痛みが刺さる。
誰も正面から言葉を投げつけてはこない。
けれど、背中を向けたままの嘲笑と憐れみの入り混じった視線が、アナベルの心を蝕んでいった。
午後の授業が終わると、校舎の出口で男子学生たちが待ち伏せている。彼女に近づくと、口元に軽い笑みを浮かべて言う。
「こんな時間まで一人って、寂しくない? 家まで送ろうか?」
「俺の屋敷、広いよ。気晴らしになるかも」
言葉は優しくても、視線が彼女の制服越しの身体をなぞっていた。
断っても、無視しても、彼らは面白がるようにまとわりついてくる。その様子を、廊下の端から女子生徒たちが見ていた。
「やっぱりね、男に媚びて……」
「泣けば許されると思ってるのかしら」
誰も助けてくれない。
教師でさえ、知らぬふりをして通り過ぎていく。
教室に戻れば、アナベルの机の上に、誰かが置いていった花――ではなく、花の形をした紙くずが載っていた。その中には、短い悪意のこもった言葉が記されていた。
「次は誰を誘惑するの?」
アナベルは、机の縁に手を添えて立ったまま、ただ俯いていた。
誰にも見られぬようにそっと震える唇を噛みしめ、何も言わず、それを丸めて鞄の中に押し込むしかなかった。
(あと半月──それだけ耐えれば、ここから出られる)
そう言い聞かせてきたが、ある朝、アナベルは制服を手に取る手が止まり、そのまま鏡の前で、動けなくなった。
鏡に映るのは、誰からも愛されず、信じられず、独りになった自分の姿。
気がつけば、彼女は退学届を手に、学園を後にしていた。
家を出なければならない──だが、行く当てもない。
***
アナベルは、生まれて初めて一人で街へ出た。目指すは、職業斡旋所。
重い足取りで石畳を歩き、建物の扉をくぐると、目に飛び込んできたのは、まるで別世界のような喧噪だった。
窓口はいくつかあった。清潔感のある女性職員の前には、ずらりと人が並び、物腰の柔らかそうな若い男性職員の列も、隣の受付まで続いていた。
その中で──ぽっかりと空いている窓口が、ひとつだけ。
ボサボサ頭に、無精ひげ。眉間にしわを寄せ、仏頂面で机に頬杖をつく中年男。
(あそこだけ……空いてる……?)
一瞬、引き返そうかと迷ったが、後がないアナベルは意を決して、その窓口へ向かった。
「あの……お仕事を探してるんですけど……」
無言のまま顔を上げたその男は、ぶっきらぼうにアナベルを見て言った。
「は? アンタ、ほんとに働く気あんの?」
「……は?」
聞き返したアナベルの声も、何かの冗談のように虚しく響いた。
そう──ここから、アナベルの運命が、少しずつ、でも確実に変わっていく。
そしてその第一歩が、この「人生で一番、信頼できなさそうな窓口担当者」との出会いだった。
灰色の空の下、荘厳な石造りの屋敷は、かつては温もりと笑い声に包まれていたはずなのに、今やまるで空虚な墓所のようだった。
廊下には人の気配があるのに、アナベルが通ると、まるで風が通り抜けただけかのように、誰も目を向けなかった。
両親の死をきっかけに、屋敷の空気は一変していた。
当主の座を継いだセラフィナは、父の書斎を自分の部屋へと作り変え、まるで長年その席にいたかのように堂々と振る舞っていた。
執務も使用人の管理も、完璧にこなしていた。表面だけ見れば、理想的な後継者だったのかもしれない。
けれど、その裏で彼女は静かに、確実にアナベルの存在を屋敷から消そうとしていた。
使用人たちもその意図を察し、口をつぐんだ。長年仕えていた者たちでさえ、アナベルの姿を見ると目を逸らし、そそくさとその場を離れていった。温かい声も、労わりの言葉も、もう誰も彼女にかけようとはしなかった。
アナベルは、己が“この家の客以下”の存在となったことを、痛いほど自覚していた。
──けれど。
たった一人だけ、変わらぬ忠誠と優しさを向けてくれる存在がいた。
「……お嬢様、お支度のお手伝いをいたします」
それは、侍女・マリーだった。
学園へ登校する朝、アナベルの部屋にやって来ては、静かに扉を叩くのだった。
寝台の縁に腰を下ろしたままのアナベルは、マリーの姿を見て微かに唇を震わせた。
「……ありがとう、マリー。他のお仕事があるのでは……?」
そう訊ねる声は、どこか申し訳なさと遠慮に満ちていた。
「いいえ。お嬢様のお世話より大切なお仕事なんて、私にはありませんから」
マリーは変わらぬ微笑みを浮かべてそう言った。アナベルを安心させようとするその言葉が、かえって胸に突き刺さる。
その日を境に、アナベルはマリーの気遣いが嬉しい反面、胸の奥が申し訳なさで締めつけられるようになった。
自分のせいで彼女の立場が危うくなるかもしれないと思っていた。
そして──その懸念が、現実となった。
数日後、食堂に集まった使用人たちの前で、セラフィナはわざとらしく声を張った。
「マリー!これ以上、アナベルに肩入れするようなら……あなた、即刻、解雇です」
その言葉は、冷たい刃のように放たれた。
マリーの顔から血の気が引き、肩が小刻みに震えるのが遠くからでも見て取れた。静まり返った空間に、重く沈黙が降りる。
アナベルは、誰にも気づかれぬよう、拳を握り締めた。
(もう……マリーに、迷惑はかけられない)
それ以来、アナベルは自らマリーとの距離を取るようになった。マリーが話しかけようとするたび、そっと目を伏せ、そっと微笑み、けれど言葉を返すことはなかった。
食事も、セラフィナとは完全に別となった。
昼も夜も、アナベルの部屋に運ばれてくるのは、味気ないスープと黒く硬いパン、そして湯通ししただけの野菜の皿。
かつての食卓には並んでいた温かく華やかな料理の記憶が、かえってこの粗末な食事を一層侘しく感じさせた。
だがアナベルは、「食べられるだけありがたい」と自分に言い聞かせながら、無言でそれを口に運んだ。
この家での居場所は、もうどこにもなかった。
それでも、まだアナベルは「家族」の言葉を信じたかった。
***
学園では、かつて自分を囲んで笑ってくれていた友人たちが、まるで見知らぬ他人のように冷たい視線を投げてきた。
すれ違いざまに目を逸らされるたび、アナベルの胸には針のような痛みが刺さる。
誰も正面から言葉を投げつけてはこない。
けれど、背中を向けたままの嘲笑と憐れみの入り混じった視線が、アナベルの心を蝕んでいった。
午後の授業が終わると、校舎の出口で男子学生たちが待ち伏せている。彼女に近づくと、口元に軽い笑みを浮かべて言う。
「こんな時間まで一人って、寂しくない? 家まで送ろうか?」
「俺の屋敷、広いよ。気晴らしになるかも」
言葉は優しくても、視線が彼女の制服越しの身体をなぞっていた。
断っても、無視しても、彼らは面白がるようにまとわりついてくる。その様子を、廊下の端から女子生徒たちが見ていた。
「やっぱりね、男に媚びて……」
「泣けば許されると思ってるのかしら」
誰も助けてくれない。
教師でさえ、知らぬふりをして通り過ぎていく。
教室に戻れば、アナベルの机の上に、誰かが置いていった花――ではなく、花の形をした紙くずが載っていた。その中には、短い悪意のこもった言葉が記されていた。
「次は誰を誘惑するの?」
アナベルは、机の縁に手を添えて立ったまま、ただ俯いていた。
誰にも見られぬようにそっと震える唇を噛みしめ、何も言わず、それを丸めて鞄の中に押し込むしかなかった。
(あと半月──それだけ耐えれば、ここから出られる)
そう言い聞かせてきたが、ある朝、アナベルは制服を手に取る手が止まり、そのまま鏡の前で、動けなくなった。
鏡に映るのは、誰からも愛されず、信じられず、独りになった自分の姿。
気がつけば、彼女は退学届を手に、学園を後にしていた。
家を出なければならない──だが、行く当てもない。
***
アナベルは、生まれて初めて一人で街へ出た。目指すは、職業斡旋所。
重い足取りで石畳を歩き、建物の扉をくぐると、目に飛び込んできたのは、まるで別世界のような喧噪だった。
窓口はいくつかあった。清潔感のある女性職員の前には、ずらりと人が並び、物腰の柔らかそうな若い男性職員の列も、隣の受付まで続いていた。
その中で──ぽっかりと空いている窓口が、ひとつだけ。
ボサボサ頭に、無精ひげ。眉間にしわを寄せ、仏頂面で机に頬杖をつく中年男。
(あそこだけ……空いてる……?)
一瞬、引き返そうかと迷ったが、後がないアナベルは意を決して、その窓口へ向かった。
「あの……お仕事を探してるんですけど……」
無言のまま顔を上げたその男は、ぶっきらぼうにアナベルを見て言った。
「は? アンタ、ほんとに働く気あんの?」
「……は?」
聞き返したアナベルの声も、何かの冗談のように虚しく響いた。
そう──ここから、アナベルの運命が、少しずつ、でも確実に変わっていく。
そしてその第一歩が、この「人生で一番、信頼できなさそうな窓口担当者」との出会いだった。
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