【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 その男は、受付カウンターの向こうでじっとしていた。

 ボサボサの黒髪は寝癖なのか天パなのか判別不能で、無精ひげが無遠慮に頬を覆い、眉間には人生の疲れを刻んだような深いシワ。
 瓶底のような分厚い眼鏡の奥からは、やる気も愛想もまったく見当たらない死んだ魚のような目がのぞく。

 机に頬杖をついたまま、まるで“この世のすべてに興味がない”という顔で沈黙していた。

 どう見ても「気軽に話しかけてはいけない窓口No.1」──いや、「魂抜けかけてる窓口No.1」と言ってもいい。

 その男こそ、後に“アナベルの運命を引っかきまわす張本人”として、彼女の記憶に長く焼きつくことになる、リバー・ウェルズである。

(……よりによって、空いてるのがここだけ……)

 リバーはまるで「口が勝手に動いただけ」みたいな表情で、紙にカリカリと何かを書き込みながら、事務的に質問を続けた。

「名前は?」

「アナベル・モンタヴィルです」

「年齢」

「十六歳です」

「学歴」

「……貴族学園中退になります……」

 その瞬間、リバーの動きが一瞬止まった。

「貴族?……またややこしそうな」

 初めて、ほんの少しだけ感情が浮かんだ。興味というより「面倒な書類、来たな……」という行政マン的センサーが反応したらしい。

「服も上等だな。仕立ても細かい。……何でまた仕事探してんだ?」

「……両親が亡くなって」

「借金?」

「いえ、たぶんありません」

「じゃあ、貧乏?」

「いえ……生活には困っていません」

「……???兄弟は?」

「姉が一人。四つ上で、男爵家を継ぎました」

「だったら、その姉に面倒見てもらえばいいだろ。卒業まで寄宿舎暮らしして、学園で相手でも見つけて貴族らしく──」

「……そういうわけにはいきません!」

 言いかけて、声が震えた。

 視線を落とすと、手がわずかに震えていた。唇をかみしめても、込み上げてくる感情は止められず──

 ぽとん、と、一粒の涙が書類の上に落ちた。

「あーっ!! 所長、また泣かせたーー!」

 突然、後ろを通っていた女性職員が叫ぶ。書類束を抱えたまま、声が廊下に響いた。

「ひどーい!今月二回目よ!?何、呪いなの?」

「ち、ちがう! 今回は違う!こやつが勝手に泣いたんだ!」

「うぅ……っ、すびばせん……もう、限界だったんです……っ」

 アナベルは嗚咽混じりに言った。
 張りつめていた心の糸が、ぷつりと切れた。泣けば弱いと舐められ、下心に晒されてきた。そう思って涙を我慢し続けてきた結果、逆に溢れた涙は止まらなかった。

「……所長、奥の応接室にお通ししましょう」

 職員の一人、優しげな中年女性が、すぐにアナベルのもとに駆け寄り、そっと肩を抱いた。

 リバーは申し訳なさそうに頭をかきながら、ボサボサの頭をさらに乱した。

「……あー、悪かった……な……仕方ねぇな。もう……」
 

***
 

 応接室は簡素な部屋だった。

 古びた革のソファと、小さな丸テーブル。壁には年季の入った絵画と、観葉植物がぽつん。だが、湯気の立つ温かいお茶と、その香りの柔らかさが、空間に不思議な安らぎを与えていた。

 アナベルにお茶を差し出した女性職員は、ふんわりとした笑みを浮かべた。

「所長、悪い人じゃないのよ。ただ、ちょっと口が悪くて、デリカシーに欠ける、無神経そのものなだけで……あれ?悪口しか言ってないかしら?まぁ、人間的には──ギリギリセーフって感じ?」

 女性職員は微笑みながら続ける。

「今日はね、急に窓口の担当が休んじゃって、仕方なく代打してたの」

「……こちらこそ、すみません。取り乱してしまって……」

 アナベルは俯き、鼻をすすった。

「無理もないわ。十六歳で、親御さんを亡くして、家のことも大変だったんでしょう。辛い気持ち、我慢してきたのね……」

「……うっ……ううぅっ……」

 またも、堰を切ったように涙があふれる。温かな言葉が、凍りついていた心に染みこんでいく。

 そこへ──

「……また泣いてるのか。お前さんの瞳は水道の蛇口か」

 扉の向こうから、リバーのぼそりとした声。

「所長! また泣かせるでしょ!」

「いや、今のは観察だ。悪口じゃない」

 背の高いリバーは猫背をさらに丸め、若干しょんぼりしながら部屋に入ってきた。

「……んんっ、えーと……俺はこの職業斡旋所の所長、リバー・ウェルズだ。で、これから、お前さんの就職を……まぁ、なんだ……全力で“やれる範囲で”支援する」

「た、担当してくださるんですか?」

 涙目のアナベルに、女性職員がにっこりと補足する。

「私はハンナ。この事務所で事務を担当してるの。あなたくらいの娘がいるのよ。だからね、ちゃんと見守るから、安心して」

 アナベルは小さく頷いた。ようやく、心の底にぽつりと希望の火が灯る。

 ──こうして、アナベルの“まともな生活”をかけた戦いが始まる。

 口の悪い所長リバーと、おせっかいなハンナという凸凹コンビに導かれ、アナベルの奇妙で騒がしい就職活動が、静かに、けれど確かに幕を開けたのだった。
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