8 / 55
8
しおりを挟む
その男は、受付カウンターの向こうでじっとしていた。
ボサボサの黒髪は寝癖なのか天パなのか判別不能で、無精ひげが無遠慮に頬を覆い、眉間には人生の疲れを刻んだような深いシワ。
瓶底のような分厚い眼鏡の奥からは、やる気も愛想もまったく見当たらない死んだ魚のような目がのぞく。
机に頬杖をついたまま、まるで“この世のすべてに興味がない”という顔で沈黙していた。
どう見ても「気軽に話しかけてはいけない窓口No.1」──いや、「魂抜けかけてる窓口No.1」と言ってもいい。
その男こそ、後に“アナベルの運命を引っかきまわす張本人”として、彼女の記憶に長く焼きつくことになる、リバー・ウェルズである。
(……よりによって、空いてるのがここだけ……)
リバーはまるで「口が勝手に動いただけ」みたいな表情で、紙にカリカリと何かを書き込みながら、事務的に質問を続けた。
「名前は?」
「アナベル・モンタヴィルです」
「年齢」
「十六歳です」
「学歴」
「……貴族学園中退になります……」
その瞬間、リバーの動きが一瞬止まった。
「貴族?……またややこしそうな」
初めて、ほんの少しだけ感情が浮かんだ。興味というより「面倒な書類、来たな……」という行政マン的センサーが反応したらしい。
「服も上等だな。仕立ても細かい。……何でまた仕事探してんだ?」
「……両親が亡くなって」
「借金?」
「いえ、たぶんありません」
「じゃあ、貧乏?」
「いえ……生活には困っていません」
「……???兄弟は?」
「姉が一人。四つ上で、男爵家を継ぎました」
「だったら、その姉に面倒見てもらえばいいだろ。卒業まで寄宿舎暮らしして、学園で相手でも見つけて貴族らしく──」
「……そういうわけにはいきません!」
言いかけて、声が震えた。
視線を落とすと、手がわずかに震えていた。唇をかみしめても、込み上げてくる感情は止められず──
ぽとん、と、一粒の涙が書類の上に落ちた。
「あーっ!! 所長、また泣かせたーー!」
突然、後ろを通っていた女性職員が叫ぶ。書類束を抱えたまま、声が廊下に響いた。
「ひどーい!今月二回目よ!?何、呪いなの?」
「ち、ちがう! 今回は違う!こやつが勝手に泣いたんだ!」
「うぅ……っ、すびばせん……もう、限界だったんです……っ」
アナベルは嗚咽混じりに言った。
張りつめていた心の糸が、ぷつりと切れた。泣けば弱いと舐められ、下心に晒されてきた。そう思って涙を我慢し続けてきた結果、逆に溢れた涙は止まらなかった。
「……所長、奥の応接室にお通ししましょう」
職員の一人、優しげな中年女性が、すぐにアナベルのもとに駆け寄り、そっと肩を抱いた。
リバーは申し訳なさそうに頭をかきながら、ボサボサの頭をさらに乱した。
「……あー、悪かった……な……仕方ねぇな。もう……」
***
応接室は簡素な部屋だった。
古びた革のソファと、小さな丸テーブル。壁には年季の入った絵画と、観葉植物がぽつん。だが、湯気の立つ温かいお茶と、その香りの柔らかさが、空間に不思議な安らぎを与えていた。
アナベルにお茶を差し出した女性職員は、ふんわりとした笑みを浮かべた。
「所長、悪い人じゃないのよ。ただ、ちょっと口が悪くて、デリカシーに欠ける、無神経そのものなだけで……あれ?悪口しか言ってないかしら?まぁ、人間的には──ギリギリセーフって感じ?」
女性職員は微笑みながら続ける。
「今日はね、急に窓口の担当が休んじゃって、仕方なく代打してたの」
「……こちらこそ、すみません。取り乱してしまって……」
アナベルは俯き、鼻をすすった。
「無理もないわ。十六歳で、親御さんを亡くして、家のことも大変だったんでしょう。辛い気持ち、我慢してきたのね……」
「……うっ……ううぅっ……」
またも、堰を切ったように涙があふれる。温かな言葉が、凍りついていた心に染みこんでいく。
そこへ──
「……また泣いてるのか。お前さんの瞳は水道の蛇口か」
扉の向こうから、リバーのぼそりとした声。
「所長! また泣かせるでしょ!」
「いや、今のは観察だ。悪口じゃない」
背の高いリバーは猫背をさらに丸め、若干しょんぼりしながら部屋に入ってきた。
「……んんっ、えーと……俺はこの職業斡旋所の所長、リバー・ウェルズだ。で、これから、お前さんの就職を……まぁ、なんだ……全力で“やれる範囲で”支援する」
「た、担当してくださるんですか?」
涙目のアナベルに、女性職員がにっこりと補足する。
「私はハンナ。この事務所で事務を担当してるの。あなたくらいの娘がいるのよ。だからね、ちゃんと見守るから、安心して」
アナベルは小さく頷いた。ようやく、心の底にぽつりと希望の火が灯る。
──こうして、アナベルの“まともな生活”をかけた戦いが始まる。
口の悪い所長リバーと、おせっかいなハンナという凸凹コンビに導かれ、アナベルの奇妙で騒がしい就職活動が、静かに、けれど確かに幕を開けたのだった。
ボサボサの黒髪は寝癖なのか天パなのか判別不能で、無精ひげが無遠慮に頬を覆い、眉間には人生の疲れを刻んだような深いシワ。
瓶底のような分厚い眼鏡の奥からは、やる気も愛想もまったく見当たらない死んだ魚のような目がのぞく。
机に頬杖をついたまま、まるで“この世のすべてに興味がない”という顔で沈黙していた。
どう見ても「気軽に話しかけてはいけない窓口No.1」──いや、「魂抜けかけてる窓口No.1」と言ってもいい。
その男こそ、後に“アナベルの運命を引っかきまわす張本人”として、彼女の記憶に長く焼きつくことになる、リバー・ウェルズである。
(……よりによって、空いてるのがここだけ……)
リバーはまるで「口が勝手に動いただけ」みたいな表情で、紙にカリカリと何かを書き込みながら、事務的に質問を続けた。
「名前は?」
「アナベル・モンタヴィルです」
「年齢」
「十六歳です」
「学歴」
「……貴族学園中退になります……」
その瞬間、リバーの動きが一瞬止まった。
「貴族?……またややこしそうな」
初めて、ほんの少しだけ感情が浮かんだ。興味というより「面倒な書類、来たな……」という行政マン的センサーが反応したらしい。
「服も上等だな。仕立ても細かい。……何でまた仕事探してんだ?」
「……両親が亡くなって」
「借金?」
「いえ、たぶんありません」
「じゃあ、貧乏?」
「いえ……生活には困っていません」
「……???兄弟は?」
「姉が一人。四つ上で、男爵家を継ぎました」
「だったら、その姉に面倒見てもらえばいいだろ。卒業まで寄宿舎暮らしして、学園で相手でも見つけて貴族らしく──」
「……そういうわけにはいきません!」
言いかけて、声が震えた。
視線を落とすと、手がわずかに震えていた。唇をかみしめても、込み上げてくる感情は止められず──
ぽとん、と、一粒の涙が書類の上に落ちた。
「あーっ!! 所長、また泣かせたーー!」
突然、後ろを通っていた女性職員が叫ぶ。書類束を抱えたまま、声が廊下に響いた。
「ひどーい!今月二回目よ!?何、呪いなの?」
「ち、ちがう! 今回は違う!こやつが勝手に泣いたんだ!」
「うぅ……っ、すびばせん……もう、限界だったんです……っ」
アナベルは嗚咽混じりに言った。
張りつめていた心の糸が、ぷつりと切れた。泣けば弱いと舐められ、下心に晒されてきた。そう思って涙を我慢し続けてきた結果、逆に溢れた涙は止まらなかった。
「……所長、奥の応接室にお通ししましょう」
職員の一人、優しげな中年女性が、すぐにアナベルのもとに駆け寄り、そっと肩を抱いた。
リバーは申し訳なさそうに頭をかきながら、ボサボサの頭をさらに乱した。
「……あー、悪かった……な……仕方ねぇな。もう……」
***
応接室は簡素な部屋だった。
古びた革のソファと、小さな丸テーブル。壁には年季の入った絵画と、観葉植物がぽつん。だが、湯気の立つ温かいお茶と、その香りの柔らかさが、空間に不思議な安らぎを与えていた。
アナベルにお茶を差し出した女性職員は、ふんわりとした笑みを浮かべた。
「所長、悪い人じゃないのよ。ただ、ちょっと口が悪くて、デリカシーに欠ける、無神経そのものなだけで……あれ?悪口しか言ってないかしら?まぁ、人間的には──ギリギリセーフって感じ?」
女性職員は微笑みながら続ける。
「今日はね、急に窓口の担当が休んじゃって、仕方なく代打してたの」
「……こちらこそ、すみません。取り乱してしまって……」
アナベルは俯き、鼻をすすった。
「無理もないわ。十六歳で、親御さんを亡くして、家のことも大変だったんでしょう。辛い気持ち、我慢してきたのね……」
「……うっ……ううぅっ……」
またも、堰を切ったように涙があふれる。温かな言葉が、凍りついていた心に染みこんでいく。
そこへ──
「……また泣いてるのか。お前さんの瞳は水道の蛇口か」
扉の向こうから、リバーのぼそりとした声。
「所長! また泣かせるでしょ!」
「いや、今のは観察だ。悪口じゃない」
背の高いリバーは猫背をさらに丸め、若干しょんぼりしながら部屋に入ってきた。
「……んんっ、えーと……俺はこの職業斡旋所の所長、リバー・ウェルズだ。で、これから、お前さんの就職を……まぁ、なんだ……全力で“やれる範囲で”支援する」
「た、担当してくださるんですか?」
涙目のアナベルに、女性職員がにっこりと補足する。
「私はハンナ。この事務所で事務を担当してるの。あなたくらいの娘がいるのよ。だからね、ちゃんと見守るから、安心して」
アナベルは小さく頷いた。ようやく、心の底にぽつりと希望の火が灯る。
──こうして、アナベルの“まともな生活”をかけた戦いが始まる。
口の悪い所長リバーと、おせっかいなハンナという凸凹コンビに導かれ、アナベルの奇妙で騒がしい就職活動が、静かに、けれど確かに幕を開けたのだった。
21
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
いきなり結婚しろと言われても、相手は7才の王子だなんて冗談はよしてください
シンさん
恋愛
金貸しから追われる、靴職人のドロシー。
ある日突然、7才のアイザック王子にプロポーズされたんだけど、本当は20才の王太子様…。
こんな事になったのは、王家に伝わる魔術の7つ道具の1つ『子供に戻る靴』を履いてしまったから。
…何でそんな靴を履いたのか、本人でさえわからない。けど王太子が靴を履いた事には理由があった。
子供になってしまった20才の王太子と、靴職人ドロシーの恋愛ストーリー
ストーリーは完結していますので、毎日更新です。
表紙はぷりりん様に描いていただきました(゜▽゜*)
【完結】あなたの瞳に映るのは
今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。
全てはあなたを手に入れるために。
長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。
★完結保証★
全19話執筆済み。4万字程度です。
前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。
表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~
marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」
「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」
私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。
暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。
彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。
それなのに……。
やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
ローザリンデの第二の人生
梨丸
恋愛
伯爵令嬢、ローザリンデの夫はいつも彼女より仕事を優先させ、彼女を無碍にしている。
彼には今はもういない想い人がいた。
私と結婚したことにいい思いをしていないことは知っていた。
けれど、私の命が懸かっていた時でさえも、彼の精神は変わらなかった。
あなたが愛してくれないのなら、私は勝手に幸せになります。
吹っ切れたローザリンデは自分自身の幸せのために動くことにした。
※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)
1/10 HOTランキング1位、小説、恋愛3位ありがとうございます。
【完結】大好きなあなたのために…?
月樹《つき》
恋愛
私には子供の頃から仲の良い大好きな幼馴染がいた。
2人でよく読んだ冒険のお話の中では、最後に魔物を倒し立派な騎士となった男の子と、それを支えてきた聖女の女の子が結ばれる。
『俺もこの物語の主人公みたいに立派な騎士になるから』と言って、真っ赤な顔で花畑で摘んだ花束をくれた彼。あの時から彼を信じて支えてきたのに…
いつの間にか彼の隣には、お姫様のように可憐な女の子がいた…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる