【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 職業斡旋所の奥にある応接室のソファで
 毛布にくるまれ、横になりながら、アナベルは天井を見つめていた。

 今日という日が、人生の何かを終わらせたことを知っていた。

 そして──明日から始まる「新しい生活」に、震えるほどの不安と、小さな希望を抱えていた。 


***

 朝焼けが差し込む応接室。昨夜の嵐のような出来事が夢だったのではと錯覚するほど、空は静かだった。

 毛布の中で目を覚ましたアナベルに、ハンナがそっと温かいミルクと、パンを差し出した。

「大丈夫、ここでは誰も、あなたに変なことしないからね」

「……ありがとう、ございます」

 昨夜、あんな目に遭ってなお、涙は出なかった。それでも、ミルクのぬくもりが喉を通ったとき、胸がふっと緩みそうになった。

 パンをかじるアナベルの前に、リバー所長がやってきた。
 手には、いかにも古びた鍵束と住所が書かれた小さな紙切れ。

「さて、お前さんの寝ぐらの件だが──ちょうど空いてる部屋がある。俺の知り合いでね、信頼は……まあ、できる範囲かな」

「“できる範囲”……?」

 不安が顔に出るアナベルに、リバーは鼻で笑った。

「癖はある。だが悪人じゃない。少なくとも俺が保証する」

「……はい」





 案内されたのは、斡旋所から馬車で15分ほどの、旧市街の片隅にある古い建物だった。

 かつては貴族の別邸だったらしく、屋根の飾りや扉の彫刻には手が込んでいるが、どこかくたびれた印象が拭えない。

 木の階段はギシギシと音を立て、壁紙は時折剥がれていた。だが、花が飾られ、窓にはカーテン。古いけれど、暮らしの匂いがあった。

 そして出迎えたのは──

「──あら? 女の子? リバーの紹介って聞いたから、またオジサンかと思ったのに」

 スモック姿の妙齢のが現れた。

 明らかに広い肩幅を、スモックに縫い付けられた華やかなフリルが余計に強調している。
 袖を捲った腕には無駄のない筋肉がつき、手の甲には鍛え上げられたような浮き出た筋が走っていた。

 それでも顔立ちは艶やかで、丁寧に引かれたアイラインとほんのり紅を差した頬が、どこか舞台役者のような華やぎを感じさせる。
 その美しさと骨太な体格とのギャップが、目を引かずにはいられなかった。

 だがその姿より、まず目を引くのは、その後ろからチラリと覗くフルプレートの鎧。

 ……人の家にあるようなものではない。

「こちら、大家のカロリーヌ・ブランシェットさん。元騎兵隊の大尉だ」

 ハンナが小声で囁く。

(元騎兵隊……?だから鎧!?)

「ま、騎士の道は退いたけど、今は静かに下宿屋。若い女の子? 歓迎よ、ふふ」

 そう言って、カロリーヌはアナベルにウインクしてみせた。

 歓迎の言葉ににこやかにうなずきながら、アナベルは首をかしげた。

(──やさしいけど……この人、なんか……つよそう……?)

「それでは、あなたの部屋を紹介するわね」

 カロリーヌは、軽やかな足取りで二階へ繋がる階段を昇り、アナベルとハンナ、所長は後に続く。

 二階の一室。205号室。質素ながらもベッドと机、椅子、暖炉がある。壁にはカーテン付きの窓。最低限だが、清潔感がある。

「鍵はこの銀のやつね。門限は21時。風呂は薪で沸かしてちょうだい。私も入るから、一緒のタイミングだと助かるわよ?」

「そ、それは……!」

「冗談、冗談。間に受けないでよー!!
ちゃんと時間は分けるわ。……ただし、ここの床板は古いから、夜中に歩くと音が響くわよ。秘密の抜け道は……」

「抜け道?」

「冗談よぉ。ふふ」

 冗談が多すぎて、真に受けられないアナベルは、ただ笑ってごまかすしかなかった。



 その晩、カロリーヌと他の下宿人──
 
 201号 セルジュ(猫を3匹飼っている文筆業)
 202号 メルキオール(植物学者。室内に巨大な鉢植えがある)
 203号 ポール爺(昔は何か偉かったらしいが、現在はチェスと新聞だけが友)

 と食卓を囲むことになった。

「このカボチャ、私が育てたんですよォ」

「ふん、今日の新聞は碌なことが書いておらん」

「人間の怒りって、たぶんクロロフィルと関係があるんじゃないかなって思うんですよね」

 個性が強いどころの話ではない。
 だが、不思議と、アナベルは笑っていた。

(──なんだか、温かい)

 ひどく傷ついた夜の後で、こんな風に、温もりのある食卓があるなんて。

 それだけで、心がじんわりと解けていくのを感じていた。

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