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――七年前の春。
今のカタリナにとって、それは遠い昔のようでありながら、鮮やかに胸に蘇る記憶だった。
二十歳となった彼女は今、領地の書類に囲まれている。
時折、窓の外を眺めていると、不意に胸をかすめるのだ。
自分がまだ十三歳で、初めて「婚約者」として彼と同じ場に立った日のことを。
周囲の視線、緊張で固くなった自分の肩、そして――隣にいた少年の、太陽のような笑顔。
忘れられるはずがない。
それが、彼女の学園生活の始まりであった。
*
エルディア王立学園。
貴族子女が集まり、政治・学問・礼儀作法など、国を支える人材を育てる学び舎。
――入学初日。
広々とした講堂にはざわめきが満ち、貴族の子女たちが席を探していた。
カタリナは背筋をすっと伸ばした。
黒髪を乱れなく結い上げ、視線を正面に固定する姿は、まさに伯爵家の令嬢らしい端然さを備えていた。
「ねぇ、見てみて! あの方……なんて素敵なの」
「お名前は何て言うのかしら!?」
令嬢達の視線の先にいたのは、カタリナの隣に座る少年――リュミエール。
切りそろえられた金髪が光をはね返し、さらりと指先で前髪を払う仕草だけで、教室の空気が和らぐようだった。
「カタリナとこうして隣に座るのは初めてだね」
飄々とした声。まるで旧知の友人にでも話しかけるような気安さだった。
「……ええ。これから、よろしくお願いいたしますわ」
「そんなに堅くならなくてもいいんじゃないかな。婚約者なんだから」
軽やかに笑うリュミエールに、カタリナはわずかに眉をひそめた。
「婚約者だからこそ、礼を欠くわけにはまいりません」
一瞬だけ目を細めた彼は、すぐに太陽のような笑みを浮かべた。
「ははは、君らしいね」
そのやり取りに、周囲の令嬢たちの視線が嫉妬と憧れを入り混ぜて突き刺さったが、カタリナは気づかぬふりをした。
入学式が終わり、それぞれのクラスに生徒たちが三々五々集まっていた。
教室内に佇むリュミエールの姿は否応なく目を引いた。
「あの方がシュタイン子爵令息……」
「まあ、なんて綺麗な方……まるで絵画から抜け出したみたい」
令嬢たちが頬を染める一方で、令息たちの一部は冷笑を含ませた声を交わした。
「ふん、子爵家といっても新興だろう?」
「二代前まで平民だったらしいじゃないか。金で爵位を買った卑しい血筋さ」
その言葉が耳に入った瞬間、カタリナは思わず立ち上がった。
伯爵家の令嬢として、婚約者を貶められて黙っているわけにはいかない。
「そこのあなた方。王立学園の生徒として、そのような陰口を叩くのは恥ずかしくないのですか」
「な、なんだと……?」
「お前――」
「お前、ではありません」
毅然とした声が響く。
「私は、エベルハルト伯爵家のカタリナと申します」
ざわめきが一層広がった。
「まあ、エベルハルト伯爵家の……!」
「建国以来の由緒正しい家柄だ」
「王家の信頼も厚いと聞く」
陰口を言っていた令息たちは一瞬たじろいだが、すぐに苛立ちを隠さず叫んだ。
「女のくせに生意気だ!だから平民上がりとしか婚約できないんだ!」
「!!」
カタリナの瞳が大きく見開かれる。感情を乱すことの少ない彼女であっても、その言葉は看過できなかった。言い返そうとした、その瞬間――。
リュミエールが静かに前へ出た。
「確かに、シュタイン家は新興です」
その声は落ち着いていたが、よく通る。
「けれど、違法に爵位を得たわけでは、ありません。正統な手続きを踏み、王家にも認められました。商才によって財を成し、国庫に破格の税を納めてきた。名ばかりの家ではなく、国を支える家です」
彼は微笑を浮かべたまま、相手に視線を向けた。
「ところで……君たちのお名前は?
確か、領地経営で赤字を抱えているご一族の……」
「なっ……!」
令息の顔が青ざめる。まさしくその弱点を突かれたのだ。
「ふんっ、平民上がりのくせに!」
捨て台詞を吐き、彼らは教室を飛び出していった。
残された静けさの中で、リュミエールはふとカタリナに目を向けた。
「カタリナ、すまなかったね」
「いいえ……むしろ私こそ、出過ぎた真似をしましたわ」
「君が感情的になるのは珍しい」
「……そうですわね。自分でも驚いております」
二人は席へ戻り、何事もなかったかのように腰を下ろした。
その横顔を見ながら、カタリナの胸には不思議な余韻が残っていた。
自分の感情がここまで揺さぶられたのは、これまでなかったことだ。
隣の少年――リュミエールは、ただ微笑んでいる。
だが、その裏にどれほどの思いを抱えているのか、カタリナにはまだ分からなかった。
「やあ、ここだったのか」
突然、快活な声が教室に響いた。
振り向くと、栗色の髪を持つ少年が扉口に立っていた。
長身で姿勢正しく、整った顔立ちに朗らかな笑みをたたえるその姿は、場の空気を穏やかに変えていった。
「アイザック!」
数人の令息たちが声を上げる。
「君もこのクラスか!」
「これから同じクラスだな!」
令息達とにこやかに会話を交わしたアイザックは、カタリナとリュミエールの方へ歩み寄った。
「おや? 先ほどの騒ぎは何だったんだい?」
悪びれもなくそう言い、机に片手を置いて二人を見下ろす。
カタリナは立ち上がり、礼を示した。
「カタリナ・エベルハルトと申します。……先ほどは少々、耳を疑うような言葉が飛び交っていたのです」
その説明に、アイザックは「なるほど」
と頷き、ちらりとリュミエールに視線を移す。
「噂のシュタイン子爵令息、君だね。初めまして。僕はアイザック・シトラール。伯爵家の生まれだ」
リュミエールは軽やかに笑みを返した。
「初めまして。君の名はよく耳にしていたよ。武に秀で、学業も優秀だとか」
「やめてくれ、噂はいつも大げさだからね」
アイザックは大きな手を振り、にっと笑う。
「でも正直、君の登場には驚かされたよ。教室の空気が一瞬で変わった。……それに、君の弁舌、なかなか痛快だったな」
先ほどの令息たちへの反論を思い出したのだろう。
リュミエールは肩をすくめ、飄々とした調子で答える。
「ただ事実を述べただけだよ。彼らもいずれ、数字の前では虚勢を張れなくなる」
その冷静さに、アイザックは一瞬だけ目を見張り――やがて興味深げに笑った。
――これが、後に彼ら三人を巡る数奇な運命の始まりであることを、この時のカタリナはまだ知らなかった。
今のカタリナにとって、それは遠い昔のようでありながら、鮮やかに胸に蘇る記憶だった。
二十歳となった彼女は今、領地の書類に囲まれている。
時折、窓の外を眺めていると、不意に胸をかすめるのだ。
自分がまだ十三歳で、初めて「婚約者」として彼と同じ場に立った日のことを。
周囲の視線、緊張で固くなった自分の肩、そして――隣にいた少年の、太陽のような笑顔。
忘れられるはずがない。
それが、彼女の学園生活の始まりであった。
*
エルディア王立学園。
貴族子女が集まり、政治・学問・礼儀作法など、国を支える人材を育てる学び舎。
――入学初日。
広々とした講堂にはざわめきが満ち、貴族の子女たちが席を探していた。
カタリナは背筋をすっと伸ばした。
黒髪を乱れなく結い上げ、視線を正面に固定する姿は、まさに伯爵家の令嬢らしい端然さを備えていた。
「ねぇ、見てみて! あの方……なんて素敵なの」
「お名前は何て言うのかしら!?」
令嬢達の視線の先にいたのは、カタリナの隣に座る少年――リュミエール。
切りそろえられた金髪が光をはね返し、さらりと指先で前髪を払う仕草だけで、教室の空気が和らぐようだった。
「カタリナとこうして隣に座るのは初めてだね」
飄々とした声。まるで旧知の友人にでも話しかけるような気安さだった。
「……ええ。これから、よろしくお願いいたしますわ」
「そんなに堅くならなくてもいいんじゃないかな。婚約者なんだから」
軽やかに笑うリュミエールに、カタリナはわずかに眉をひそめた。
「婚約者だからこそ、礼を欠くわけにはまいりません」
一瞬だけ目を細めた彼は、すぐに太陽のような笑みを浮かべた。
「ははは、君らしいね」
そのやり取りに、周囲の令嬢たちの視線が嫉妬と憧れを入り混ぜて突き刺さったが、カタリナは気づかぬふりをした。
入学式が終わり、それぞれのクラスに生徒たちが三々五々集まっていた。
教室内に佇むリュミエールの姿は否応なく目を引いた。
「あの方がシュタイン子爵令息……」
「まあ、なんて綺麗な方……まるで絵画から抜け出したみたい」
令嬢たちが頬を染める一方で、令息たちの一部は冷笑を含ませた声を交わした。
「ふん、子爵家といっても新興だろう?」
「二代前まで平民だったらしいじゃないか。金で爵位を買った卑しい血筋さ」
その言葉が耳に入った瞬間、カタリナは思わず立ち上がった。
伯爵家の令嬢として、婚約者を貶められて黙っているわけにはいかない。
「そこのあなた方。王立学園の生徒として、そのような陰口を叩くのは恥ずかしくないのですか」
「な、なんだと……?」
「お前――」
「お前、ではありません」
毅然とした声が響く。
「私は、エベルハルト伯爵家のカタリナと申します」
ざわめきが一層広がった。
「まあ、エベルハルト伯爵家の……!」
「建国以来の由緒正しい家柄だ」
「王家の信頼も厚いと聞く」
陰口を言っていた令息たちは一瞬たじろいだが、すぐに苛立ちを隠さず叫んだ。
「女のくせに生意気だ!だから平民上がりとしか婚約できないんだ!」
「!!」
カタリナの瞳が大きく見開かれる。感情を乱すことの少ない彼女であっても、その言葉は看過できなかった。言い返そうとした、その瞬間――。
リュミエールが静かに前へ出た。
「確かに、シュタイン家は新興です」
その声は落ち着いていたが、よく通る。
「けれど、違法に爵位を得たわけでは、ありません。正統な手続きを踏み、王家にも認められました。商才によって財を成し、国庫に破格の税を納めてきた。名ばかりの家ではなく、国を支える家です」
彼は微笑を浮かべたまま、相手に視線を向けた。
「ところで……君たちのお名前は?
確か、領地経営で赤字を抱えているご一族の……」
「なっ……!」
令息の顔が青ざめる。まさしくその弱点を突かれたのだ。
「ふんっ、平民上がりのくせに!」
捨て台詞を吐き、彼らは教室を飛び出していった。
残された静けさの中で、リュミエールはふとカタリナに目を向けた。
「カタリナ、すまなかったね」
「いいえ……むしろ私こそ、出過ぎた真似をしましたわ」
「君が感情的になるのは珍しい」
「……そうですわね。自分でも驚いております」
二人は席へ戻り、何事もなかったかのように腰を下ろした。
その横顔を見ながら、カタリナの胸には不思議な余韻が残っていた。
自分の感情がここまで揺さぶられたのは、これまでなかったことだ。
隣の少年――リュミエールは、ただ微笑んでいる。
だが、その裏にどれほどの思いを抱えているのか、カタリナにはまだ分からなかった。
「やあ、ここだったのか」
突然、快活な声が教室に響いた。
振り向くと、栗色の髪を持つ少年が扉口に立っていた。
長身で姿勢正しく、整った顔立ちに朗らかな笑みをたたえるその姿は、場の空気を穏やかに変えていった。
「アイザック!」
数人の令息たちが声を上げる。
「君もこのクラスか!」
「これから同じクラスだな!」
令息達とにこやかに会話を交わしたアイザックは、カタリナとリュミエールの方へ歩み寄った。
「おや? 先ほどの騒ぎは何だったんだい?」
悪びれもなくそう言い、机に片手を置いて二人を見下ろす。
カタリナは立ち上がり、礼を示した。
「カタリナ・エベルハルトと申します。……先ほどは少々、耳を疑うような言葉が飛び交っていたのです」
その説明に、アイザックは「なるほど」
と頷き、ちらりとリュミエールに視線を移す。
「噂のシュタイン子爵令息、君だね。初めまして。僕はアイザック・シトラール。伯爵家の生まれだ」
リュミエールは軽やかに笑みを返した。
「初めまして。君の名はよく耳にしていたよ。武に秀で、学業も優秀だとか」
「やめてくれ、噂はいつも大げさだからね」
アイザックは大きな手を振り、にっと笑う。
「でも正直、君の登場には驚かされたよ。教室の空気が一瞬で変わった。……それに、君の弁舌、なかなか痛快だったな」
先ほどの令息たちへの反論を思い出したのだろう。
リュミエールは肩をすくめ、飄々とした調子で答える。
「ただ事実を述べただけだよ。彼らもいずれ、数字の前では虚勢を張れなくなる」
その冷静さに、アイザックは一瞬だけ目を見張り――やがて興味深げに笑った。
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