【完結】不可解な君に恋して

とっくり

文字の大きさ
30 / 40

30

しおりを挟む
 日没前の一刻。
 王都城下・北塔の裏庭は、石灰と古革の匂いがひんやりと漂っていた。

 書庫棟の影から、一人の老人が現れる。背は曲がっているが、眼だけは猛禽のように鋭い。

(この者が――フロレンツ……?)

 目の前の老人がだとリュミエールは当たりをつけた。

「…あの、名前を伺っても?」
「名は訊くな」

 老人は鼻を鳴らし、腰の鍵束をからりと鳴らす。

「……呼ぶなら“番人”でいい。名は壁に残る。互いの素性は訊くな。俺も訊かん。今は、それがいちばん身のためだ」

(――記録の従者フロレンツ。間違いない)

 リュミエールは胸中だけで名を反芻した。

 フロレンツは鋭い視線をリュミエールに向けたまま、話を続ける。
「目録の行間を読みに来た若造は、お前さんだろう?」

「若造の特権は、訊くことですから」
 リュミエールは、飄々とした口調で碧色の瞳を細めて返した。

「口は軽いが、足は静かだ。……よし、長居はできん。ここでは半刻。要だけ話す」

 二人は保全庫と書庫のあいだの狭い裏廊へ入る。どこかで鷹鈴が、かすかに一度だけ鳴った。

「北塔の控えは見たか」

「はい。修繕目録の欄外、鉛の写し。――私印の“変形”が残っていました」

 フロレンツの眉根がわずかに動く。
「ふむ。あれを“変形”と呼んだのは久しぶりだ。多くは“誤刻”と片付ける」

「誤刻にしては、意志がありましたから」

  フロレンツは短く笑い、鍵束を鳴らす。

「鷹爪の留め具は、一対だ。右半は戻した。左半は……返らなかった」

「返らない先、というのは?」
 問いながら、リュミエールは胸元の小袋に触れる。星涙石がひやりと触れ、微かな温を返した。

 フロレンツの視線が、その仕草に吸い寄せられる。老人の瞳の奥で、過去の影が走った。

「……その小袋、山の石の重みがあるな」

「ただの護符です」
 手を離すと、老人は目を細める。

「護符ね。……その重みと光、星涙石だ。夜明けに紫が差すやつ。――それはどうやって手に入れた?」

「昔、から贈り物でもらっただけです」

、ね」
 フロレンツは言葉の尻を噛み、リュミエールの顔をまっすぐ見た。黄金の髪、澄んだ碧だった。

「……目の色が、春の海に似ておる」
「光が強いせいでしょう」
 リュミエールは笑みを崩さない。

「似ている御方がーー。昔いた。春先、巡見と称して王都を離れた御方だ」
 フロレンツは壁に手をつき、手の甲の古傷を撫でた。

「名は口にせんがな。簡単に言えば、その御方は“生存”のまま表舞台から退いておられる。評議の列にはおらず、告示もない。記録だけが静かに残っている、そんな立場の方だ」


「――それは、良かった。生きているのならば」

「良いかどうかは立場次第だ。……続ける。お前さんが当てた“変形の私印”は、正式記録から省かれる。だが行方は別帳に残る」
 フロレンツは懐から色褪せた青い糸を一本取り出した。

「鷹具の手綱飾りの糸。合図だ。これを“雁の原”の鷹野で掲げておれ。見物人の列のいちばん端、風下だ。――明朝だ」

「ずいぶん急ですね」

「風は待たん。噂もだ」
 老人は口角だけで笑った。

「それとな、若造」
「はい?」

「笑う時、左頬にうすい影が落ちる。あの御方と同じ癖だ。――似とる」

 一拍ののち、リュミエールは目を細めて笑った。

「……褒め言葉として受け取っておきます」

「受け取り方は自由だ。だが、ここから先は自由ではない」
 フロレンツは踵を返す。

 鍵束が最後に一度鳴り、足音は石の冷気の奥へ消えた。

 
(生きている、か。――あの御方)

 歩きながら、さらりと便りを一枚。

【市場の桶は、今朝も虹色。明日は少し遠くを見る。L 】

 たったそれだけを、商人ギルドの飛脚箱へ落とす。
 掴みどころのない文面は、しかし確かに、ただ一人のための合図だった。

(明朝、風下)

 星涙石が胸元で、微かに冷たく光った。


***

 翌朝。厩舎の奥は、まだ藁の匂いと鉄の冷たさが濃かった。

 合図の刻より少し早く着くと、石畳の向こうで鍵束が鳴った。

「来たな」

 灰の瞳をした男――フロレンツが、無言で顎をしゃくる。
昨夜、北塔の番が手配した“案内”だ。

「北塔では助かりました。所在は確認、仮封も。今日は――中身の来歴を」

「言われずとも。口で済む話じゃない。紙で見ろ」

 彼は重い扉を押し、厩舎のさらに奥、記録室へ導いた。

 棚に並ぶのは、革で綴じられた《厩録》第三綴と、《随行具録》の薄手の冊子。

 フロレンツは手慣れた動作で頁を繰り、机に二冊を置くと、短く言った。

「拓本と印影を見せろ」

 リュミエールは鞄から、昨夜 北塔で採った鷹爪留め金の断面拓本と、裏刻みの印影を差し出す。

老いた革の上に置かれた薄紙の黒が、記録の素描とぴたりと噛み合った。

「……合うな」

 フロレンツの指先が、素描の余白に記された小さな書き込みを軽く叩く。

〈右半 返納・仮封 北塔修繕庫〉
〈左半 未返 “潮の匂い”、鞍布に包み託す〉

「右半は戻った。昨夜お前が触れたやつだ。左半は返らなかった。
“潮の匂いのする布”に包んで、誰かに託した――ここには、そう残っている」

「……誰に、とは」

「名は書かれていない。書けば紙が燃える時代もある」
 彼は静かな口調で呟き、《随行具録》を閉じた。

 今度は別の薄綴を引き抜いた。
 背表紙に小さく、**〈巡見控 春〉**の文字。

「二十一年前の“春の巡見”。第三王子付きの記録だ。
本記は抜かれているが、抄出の目録が残っている。海沿いの古い宿駅に印がある……灰色の断崖、潮風の村。古名はリネア」

「リネア……」

「紙に地図を描くな。口で済ませろ。――ここから二日半。
潮の市が立つ日に合わせろ。“潮の匂いの布”は嘘をつかん」

 リュミエールは頷き、控えを求める視線を送る。フロレンツは簡素な出納符に、目録番号と旅程の合図だけを書きつけた。

「これは目録の控えだ。現物を動かしたければ、内記局か評議官の書付が要る。
それと、人の名は紙で拾え。口で残すな。今はそのほうが身のためだ」

「心得ます」

 リュミエールが出納符を受け取ると、男は付け足す。

「東の窓を選べ。夜明け前の星涙石は、道に迷わん。
それから――潮の市の日は、懐を軽くして行け。余計なものは、海風が嫌う」

「助言、感謝します」

 リュミエールは軽く礼をとり、控えを革鞄にしまう。
扉の向こうで朝の光が増し、石床の冷たさが一段やわらいだ。

「二日半だ。潮と月が、待ち合わせをしている」

 鍵束の音が遠ざかる。
 リュミエールは胸の小袋を指で押さえ、石の朝の冷たさを確かめた。
――紫へ向かう前の、真っさらな冷え。道標のように、ぶれがない。

(リネア。潮の市。灰の断崖……そして、ラファエル)

 鷹の留め金の右半は北塔に眠り、左半は潮風のどこかへ。

 外へ出た彼の歩は、もう東へ向いていた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり
恋愛
 美しく素直なだけの“可愛い妹”として愛されてきたアナベル。 だが、姉の婚約者に告白されたことで、家族の歯車は狂い始める。 両親の死、姉からの追放。何も知らないまま飛び出した世界で、 アナベルは初めて「生きること」の意味を知っていく。  初めての仕事、初めての孤独。 そして出会った一人の青年・エリオット。 彼との出会いが、アナベルを“綺麗なだけの私”から変えていく、 恋と成長の物語。

私の孤独と愛と未来

緑谷めい
恋愛
 15歳の私は今、王都に向かう寄合い馬車に乗っている。同じく15歳のカイと一緒に……。  私はリーゼ。15年前、産まれたての赤子だった私は地方都市にある孤児院の前に捨てられた。底冷えのする真冬の早朝だったそうだ。孤児院の院長が泣き声に気付くのが、あと少し遅ければ私は凍死していた。  15歳になり成人した私は孤児院を出て自立しなくてはならない。私は思い切って王都に行って仕事を探すことにした。そして「兵士になる」と言う同い年のカイも王都に行くことになった。喧嘩っ早くてぶっきらぼうなカイは、皆に敬遠されて孤児院の中で浮いた存在だった。私も、いつも仏頂面であまり喋らないカイが苦手だった。

私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜

日室千種・ちぐ
恋愛
ランドリック・ゼンゲンは将来を約束された上級騎士であり、麗しの貴公子だ。かつて流した浮名は数知れず、だが真の恋の相手は従姉妹で、その結婚を邪魔しようとしたと噂されている。成人前からゼンゲン侯爵家預かりとなっている子爵家の娘ジョゼットは、とある事情でランドリックと親しんでおり、その噂が嘘だと知っている。彼は人の心に鈍感であることに悩みつつも向き合う、真の努力家であり、それでもなお自分に自信が持てないことも、知っていて、密かに心惹かれていた。だが、そのランドリックとの結婚の話を持ちかけられたジョゼットは、彼が自分を女性として見ていないことに、いずれ耐えられなくなるはずと、断る決断をしたのだが――。 (なろう版ではなく、やや大人向け版です)

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

政略結婚だからって愛を育めないとは限りません

稲葉鈴
恋愛
外務大臣であるエドヴァルド・アハマニエミの三女ビルギッタに、国王陛下から結婚の命が下った。 お相手は王太子殿下の側近の一人であるダーヴィド。フィルップラ侯爵子息。 明日(!)からフィルップラ侯爵邸にて住み込みでお見合いを行い、一週間後にお披露目式を執り行う。 これは、その一週間のお話。 小説家になろう、カクヨムでも公開しています。

【完結】あなたの瞳に映るのは

今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。 全てはあなたを手に入れるために。 長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。 ★完結保証★ 全19話執筆済み。4万字程度です。 前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。 表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。

次期王妃な悪女はひたむかない

三屋城衣智子
恋愛
 公爵家の娘であるウルム=シュテールは、幼い時に見初められ王太子の婚約者となる。  王妃による厳しすぎる妃教育、育もうとした王太子との関係性は最初こそ良かったものの、月日と共に狂いだす。  色々なことが積み重なってもなお、彼女はなんとかしようと努力を続けていた。  しかし、学校入学と共に王太子に忍び寄る女の子の影が。  約束だけは違えまいと思いながら過ごす中、学校の図書室である男子生徒と出会い、仲良くなる。  束の間の安息。  けれど、数多の悪意に襲われついにウルムは心が折れてしまい――。    想いはねじれながらすれ違い、交錯する。  異世界四角恋愛ストーリー。  なろうにも投稿しています。

私は彼を愛しておりますので

月山 歩
恋愛
婚約者と行った夜会で、かつての幼馴染と再会する。彼は私を好きだと言うけれど、私は、婚約者と好き合っているつもりだ。でも、そんな二人の間に隙間が生まれてきて…。私達は愛を貫けるだろうか?

処理中です...