31 / 40
31
しおりを挟む
夜明け前。
東の空が薄く解けはじめる刻、リュミエールは馬の鬣を撫でて鞍を確かめた。
胸元の小袋に指を添える。星涙石は、夜の名残を吸ったようにひやりとして――やがて、ほんの気配だけ紫を差す。
(道は、合っている)
海風の匂いが混じりだす頃、灰色の断崖と入江の町――《リネア》が視界にひらけた。
潮が引くたび、浜の市場が露わになり、帆布と木箱が砂の上に生まれては並ぶ。
潮鈴が小さく鳴り、魚の銀と藍染の束が朝日に濡れる。
リュミエールは手綱を預け、軽い身振りで潮の市へ入った。
売り子の少年が鈴を差し出す。
「旅の人、風を呼ぶ鈴だよ」
「じゃあ、ひとつ買おうかな」
気ままに買い、腰袋に結ぶ。
「音が綺麗だね」
「うん!潮が良くなる音だから!」
軽い調子のまま訊ねる。
「馬具の店は?織房でもいい。藍灰で、鞍布を染める匂いのするところ」
少年は鼻先を鳴らし、断崖の影を指した。
「あっちの『デルフィン織房』だよ。古い人がやってる」
*
『デルフィン織房』は、藍と潮と石鹸の匂いで満ちていた。
扉を押すと、年季の入った機が、ひと息おいて沈黙する。
「いらっしゃい」
店の主は背の曲がった老女だった。目だけが若い。
リュミエールは挨拶し、鞄から薄紙を二枚――北塔で採った、鷹爪の留め金の断面拓本と、裏刻みの印影を静かに広げる。
「古いものの照合をお願いしたいのです。藍灰の鞍布に包まれた“なにか”。二十一年前の春、王家の巡見の頃――」
老女の視線が、拓本の爪唐草をなぞる。その指先が、ほんのわずか止まった。
「……その唐草は、王家の私厩(しきゅう)にしか織らせなかった縁取りだね。注文の印が違うんだよ」
彼女は棚から革綴じの薄帳面を取り出し、手早く頁を繰る。
余白の小さな書き込みを、爪で軽く叩いた。
〈春の巡見・私厩〉
〈藍灰 “潮の匂い”仕上げ〉
〈包布一枚・鞍布地 受渡:白衣〉
「“白衣(しろごろも)”?」
「修道院の使いだよ。港の外れに小さな庵があってね。王家の“私事”には、あそこを通すことが多かった」
「受け渡しの行き先は?」
「書いちゃいけない注文だった。ここでの紙は、潮で薄れるから都合がいい」
老女は、冗談のように、でも淡々と言う。リュミエールは表情を変えず、軽く肩をすくめて見せた。
「潮は、秘密にやさしいですね」
「若いのに口がいいねぇ」
ややあって、老女は帳面の背に挟んだ布見本を一枚抜いた。
藍灰の地に、三羽の小さな鷗が縁取られている。鼻先にかすかに潮の匂い。
「これが“潮の匂い”だ。海藻で糊を作ってから藍を煮る。時間が経つと匂いは消えるけど、手の覚えは残る。……あんた、その石、朝に紫を差したろう?」
リュミエールは一瞬、笑みを深くした。「ええ。東の窓で」
「なら、道はこっちだ。修道院《潮見》。崖下の白い壁、潮が満ちると取り残される。行くなら昼前だよ。潮に乗り遅れると、夕まで戻れない」
彼は礼を述べ、布見本の端を目に焼き付ける。三羽の鷗――(記録の余白にあった“潮の匂い”と符丁が、目の前で形になった)
「代金は?」
「話のつり銭に、鈴の音を置いていきな」
店先で鈴を一つ鳴らす。
小さな音が、藍の空間を軽く揺らした。
*
港の角、商人ギルドの出張箱に立ち寄ると、薄い海色の封筒が届いていた。
差し出し名は侍女の姓、封蝋は商人印――けれど開けば、彼女の筆跡。
【北路は順調。東の窓で、同じ朝を見ます。K 】
相変わらずの短い文が彼女らしい。
リュミエールは息を笑いに変え、すぐその場で返事を綴った。
【潮が引くと、市が現れる。君が数字から現象を掬うように、僕は潮から道を掬う。君の朝に、同じ紫が差しますように。 L】
封をして、ギルドの“緑路”へ託す。王都を避ける道筋は、もう二人だけの合図になっている。
*
《潮見》の修道院は、断崖の白い影に沿って、海へ突き出るように建っていた。
石畳が途中で切れ、潮の上に渡した板道を、修道服の男が一人掃いている。
「礼拝かい?」
「寄り道です。昔の受け渡しの記録を確かめたくて」
男は箒を止め、リュミエールの顔をまっすぐ見た。断崖の影が瞳に落ちて、色が読めない。
「私事の記録は、紙を置かない代わりに、口を置かない決まりだ」
「紙はいりません。符丁だけでいい。二十一年前の春、“藍灰の包布”を受けた白衣が、どこへ向かったか」
僧はしばし潮の音を聞いてから、板道の奥を顎で示した。
「北へ。北渓関。山をひとつ越える。白衣はそこで手を離れる。……それ以上は、潮がさらっていった」
「充分です」
リュミエールは深く礼をとり、板道を戻る。背に、僧の独り言のような声が追ってきた。
「その鈴の音――昔、殿下がお持ちだった鈴に似ている」
振り向かない。鈴が、ひとつ小さく鳴った。
(北渓関。山を越える。……潮が道を開けてくれた)
*
夕刻、断崖の上の小宿に戻ると、主人が指で合図をした。
「旅人さん、もう一通。さっき“緑路”から」
封を切ると、さらりとした一行。
【舞踏会、踊りました。笑っていました。――仕事です。 K】
視界の端で、海が紫に沈んでいく。
リュミエールは窓辺に立ち、星涙石を朝日の当たる場所に置くみたいに、硝子越しの空に掲げてみせた。
「君が笑うなら、僕は歩ける」
ふわりとした軽さで言って、ひとり苦笑する。
けれど、笑みの底に――潮のように満ち引きする決意が、はっきりとある。
(左半の留め金。北渓関。……そして、ラファエル)
鈴が、風にひとつ鳴った。
夜明けにはまた紫が差す。山の向こうへ出発だ。
東の空が薄く解けはじめる刻、リュミエールは馬の鬣を撫でて鞍を確かめた。
胸元の小袋に指を添える。星涙石は、夜の名残を吸ったようにひやりとして――やがて、ほんの気配だけ紫を差す。
(道は、合っている)
海風の匂いが混じりだす頃、灰色の断崖と入江の町――《リネア》が視界にひらけた。
潮が引くたび、浜の市場が露わになり、帆布と木箱が砂の上に生まれては並ぶ。
潮鈴が小さく鳴り、魚の銀と藍染の束が朝日に濡れる。
リュミエールは手綱を預け、軽い身振りで潮の市へ入った。
売り子の少年が鈴を差し出す。
「旅の人、風を呼ぶ鈴だよ」
「じゃあ、ひとつ買おうかな」
気ままに買い、腰袋に結ぶ。
「音が綺麗だね」
「うん!潮が良くなる音だから!」
軽い調子のまま訊ねる。
「馬具の店は?織房でもいい。藍灰で、鞍布を染める匂いのするところ」
少年は鼻先を鳴らし、断崖の影を指した。
「あっちの『デルフィン織房』だよ。古い人がやってる」
*
『デルフィン織房』は、藍と潮と石鹸の匂いで満ちていた。
扉を押すと、年季の入った機が、ひと息おいて沈黙する。
「いらっしゃい」
店の主は背の曲がった老女だった。目だけが若い。
リュミエールは挨拶し、鞄から薄紙を二枚――北塔で採った、鷹爪の留め金の断面拓本と、裏刻みの印影を静かに広げる。
「古いものの照合をお願いしたいのです。藍灰の鞍布に包まれた“なにか”。二十一年前の春、王家の巡見の頃――」
老女の視線が、拓本の爪唐草をなぞる。その指先が、ほんのわずか止まった。
「……その唐草は、王家の私厩(しきゅう)にしか織らせなかった縁取りだね。注文の印が違うんだよ」
彼女は棚から革綴じの薄帳面を取り出し、手早く頁を繰る。
余白の小さな書き込みを、爪で軽く叩いた。
〈春の巡見・私厩〉
〈藍灰 “潮の匂い”仕上げ〉
〈包布一枚・鞍布地 受渡:白衣〉
「“白衣(しろごろも)”?」
「修道院の使いだよ。港の外れに小さな庵があってね。王家の“私事”には、あそこを通すことが多かった」
「受け渡しの行き先は?」
「書いちゃいけない注文だった。ここでの紙は、潮で薄れるから都合がいい」
老女は、冗談のように、でも淡々と言う。リュミエールは表情を変えず、軽く肩をすくめて見せた。
「潮は、秘密にやさしいですね」
「若いのに口がいいねぇ」
ややあって、老女は帳面の背に挟んだ布見本を一枚抜いた。
藍灰の地に、三羽の小さな鷗が縁取られている。鼻先にかすかに潮の匂い。
「これが“潮の匂い”だ。海藻で糊を作ってから藍を煮る。時間が経つと匂いは消えるけど、手の覚えは残る。……あんた、その石、朝に紫を差したろう?」
リュミエールは一瞬、笑みを深くした。「ええ。東の窓で」
「なら、道はこっちだ。修道院《潮見》。崖下の白い壁、潮が満ちると取り残される。行くなら昼前だよ。潮に乗り遅れると、夕まで戻れない」
彼は礼を述べ、布見本の端を目に焼き付ける。三羽の鷗――(記録の余白にあった“潮の匂い”と符丁が、目の前で形になった)
「代金は?」
「話のつり銭に、鈴の音を置いていきな」
店先で鈴を一つ鳴らす。
小さな音が、藍の空間を軽く揺らした。
*
港の角、商人ギルドの出張箱に立ち寄ると、薄い海色の封筒が届いていた。
差し出し名は侍女の姓、封蝋は商人印――けれど開けば、彼女の筆跡。
【北路は順調。東の窓で、同じ朝を見ます。K 】
相変わらずの短い文が彼女らしい。
リュミエールは息を笑いに変え、すぐその場で返事を綴った。
【潮が引くと、市が現れる。君が数字から現象を掬うように、僕は潮から道を掬う。君の朝に、同じ紫が差しますように。 L】
封をして、ギルドの“緑路”へ託す。王都を避ける道筋は、もう二人だけの合図になっている。
*
《潮見》の修道院は、断崖の白い影に沿って、海へ突き出るように建っていた。
石畳が途中で切れ、潮の上に渡した板道を、修道服の男が一人掃いている。
「礼拝かい?」
「寄り道です。昔の受け渡しの記録を確かめたくて」
男は箒を止め、リュミエールの顔をまっすぐ見た。断崖の影が瞳に落ちて、色が読めない。
「私事の記録は、紙を置かない代わりに、口を置かない決まりだ」
「紙はいりません。符丁だけでいい。二十一年前の春、“藍灰の包布”を受けた白衣が、どこへ向かったか」
僧はしばし潮の音を聞いてから、板道の奥を顎で示した。
「北へ。北渓関。山をひとつ越える。白衣はそこで手を離れる。……それ以上は、潮がさらっていった」
「充分です」
リュミエールは深く礼をとり、板道を戻る。背に、僧の独り言のような声が追ってきた。
「その鈴の音――昔、殿下がお持ちだった鈴に似ている」
振り向かない。鈴が、ひとつ小さく鳴った。
(北渓関。山を越える。……潮が道を開けてくれた)
*
夕刻、断崖の上の小宿に戻ると、主人が指で合図をした。
「旅人さん、もう一通。さっき“緑路”から」
封を切ると、さらりとした一行。
【舞踏会、踊りました。笑っていました。――仕事です。 K】
視界の端で、海が紫に沈んでいく。
リュミエールは窓辺に立ち、星涙石を朝日の当たる場所に置くみたいに、硝子越しの空に掲げてみせた。
「君が笑うなら、僕は歩ける」
ふわりとした軽さで言って、ひとり苦笑する。
けれど、笑みの底に――潮のように満ち引きする決意が、はっきりとある。
(左半の留め金。北渓関。……そして、ラファエル)
鈴が、風にひとつ鳴った。
夜明けにはまた紫が差す。山の向こうへ出発だ。
55
あなたにおすすめの小説
【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない
とっくり
恋愛
美しく素直なだけの“可愛い妹”として愛されてきたアナベル。
だが、姉の婚約者に告白されたことで、家族の歯車は狂い始める。
両親の死、姉からの追放。何も知らないまま飛び出した世界で、
アナベルは初めて「生きること」の意味を知っていく。
初めての仕事、初めての孤独。
そして出会った一人の青年・エリオット。
彼との出会いが、アナベルを“綺麗なだけの私”から変えていく、
恋と成長の物語。
私の孤独と愛と未来
緑谷めい
恋愛
15歳の私は今、王都に向かう寄合い馬車に乗っている。同じく15歳のカイと一緒に……。
私はリーゼ。15年前、産まれたての赤子だった私は地方都市にある孤児院の前に捨てられた。底冷えのする真冬の早朝だったそうだ。孤児院の院長が泣き声に気付くのが、あと少し遅ければ私は凍死していた。
15歳になり成人した私は孤児院を出て自立しなくてはならない。私は思い切って王都に行って仕事を探すことにした。そして「兵士になる」と言う同い年のカイも王都に行くことになった。喧嘩っ早くてぶっきらぼうなカイは、皆に敬遠されて孤児院の中で浮いた存在だった。私も、いつも仏頂面であまり喋らないカイが苦手だった。
私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜
日室千種・ちぐ
恋愛
ランドリック・ゼンゲンは将来を約束された上級騎士であり、麗しの貴公子だ。かつて流した浮名は数知れず、だが真の恋の相手は従姉妹で、その結婚を邪魔しようとしたと噂されている。成人前からゼンゲン侯爵家預かりとなっている子爵家の娘ジョゼットは、とある事情でランドリックと親しんでおり、その噂が嘘だと知っている。彼は人の心に鈍感であることに悩みつつも向き合う、真の努力家であり、それでもなお自分に自信が持てないことも、知っていて、密かに心惹かれていた。だが、そのランドリックとの結婚の話を持ちかけられたジョゼットは、彼が自分を女性として見ていないことに、いずれ耐えられなくなるはずと、断る決断をしたのだが――。
(なろう版ではなく、やや大人向け版です)
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
政略結婚だからって愛を育めないとは限りません
稲葉鈴
恋愛
外務大臣であるエドヴァルド・アハマニエミの三女ビルギッタに、国王陛下から結婚の命が下った。
お相手は王太子殿下の側近の一人であるダーヴィド。フィルップラ侯爵子息。
明日(!)からフィルップラ侯爵邸にて住み込みでお見合いを行い、一週間後にお披露目式を執り行う。
これは、その一週間のお話。
小説家になろう、カクヨムでも公開しています。
【完結】あなたの瞳に映るのは
今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。
全てはあなたを手に入れるために。
長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。
★完結保証★
全19話執筆済み。4万字程度です。
前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。
表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。
次期王妃な悪女はひたむかない
三屋城衣智子
恋愛
公爵家の娘であるウルム=シュテールは、幼い時に見初められ王太子の婚約者となる。
王妃による厳しすぎる妃教育、育もうとした王太子との関係性は最初こそ良かったものの、月日と共に狂いだす。
色々なことが積み重なってもなお、彼女はなんとかしようと努力を続けていた。
しかし、学校入学と共に王太子に忍び寄る女の子の影が。
約束だけは違えまいと思いながら過ごす中、学校の図書室である男子生徒と出会い、仲良くなる。
束の間の安息。
けれど、数多の悪意に襲われついにウルムは心が折れてしまい――。
想いはねじれながらすれ違い、交錯する。
異世界四角恋愛ストーリー。
なろうにも投稿しています。
私は彼を愛しておりますので
月山 歩
恋愛
婚約者と行った夜会で、かつての幼馴染と再会する。彼は私を好きだと言うけれど、私は、婚約者と好き合っているつもりだ。でも、そんな二人の間に隙間が生まれてきて…。私達は愛を貫けるだろうか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる