【完結】不可解な君に恋して

とっくり

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 夜明け前。
 東の空が薄く解けはじめる刻、リュミエールは馬の鬣を撫でて鞍を確かめた。 

 胸元の小袋に指を添える。星涙石は、夜の名残を吸ったようにひやりとして――やがて、ほんの気配だけ紫を差す。

(道は、合っている)

 海風の匂いが混じりだす頃、灰色の断崖と入江の町――《リネア》が視界にひらけた。

 潮が引くたび、浜の市場が露わになり、帆布と木箱が砂の上に生まれては並ぶ。

潮鈴が小さく鳴り、魚の銀と藍染の束が朝日に濡れる。

 リュミエールは手綱を預け、軽い身振りで潮の市へ入った。

 売り子の少年が鈴を差し出す。

「旅の人、風を呼ぶ鈴だよ」
「じゃあ、ひとつ買おうかな」
 気ままに買い、腰袋に結ぶ。

「音が綺麗だね」
「うん!潮が良くなる音だから!」

 軽い調子のまま訊ねる。
「馬具の店は?織房でもいい。藍灰で、鞍布を染める匂いのするところ」

 少年は鼻先を鳴らし、断崖の影を指した。
「あっちの『デルフィン織房』だよ。古い人がやってる」



 『デルフィン織房』は、藍と潮と石鹸の匂いで満ちていた。

 扉を押すと、年季の入ったはたが、ひと息おいて沈黙する。

「いらっしゃい」

 店の主は背の曲がった老女だった。目だけが若い。

 リュミエールは挨拶し、鞄から薄紙を二枚――北塔で採った、鷹爪の留め金の断面拓本と、裏刻みの印影を静かに広げる。

「古いものの照合をお願いしたいのです。藍灰の鞍布に包まれた“”。二十一年前の春、王家の巡見の頃――」

 老女の視線が、拓本の爪唐草をなぞる。その指先が、ほんのわずか止まった。

「……その唐草は、王家の私厩(しきゅう)にしか織らせなかった縁取りだね。注文の印が違うんだよ」

 彼女は棚から革綴じの薄帳面を取り出し、手早く頁を繰る。

 余白の小さな書き込みを、爪で軽く叩いた。

 〈春の巡見・私厩〉
 〈藍灰 “潮の匂い”仕上げ〉
 〈包布一枚・鞍布地 受渡:白衣しろごろも

「“白衣(しろごろも)”?」

「修道院の使いだよ。港の外れに小さな庵があってね。王家の“私事”には、あそこを通すことが多かった」

「受け渡しの行き先は?」

「書いちゃいけない注文だった。ここでの紙は、潮で薄れるから都合がいい」

 老女は、冗談のように、でも淡々と言う。リュミエールは表情を変えず、軽く肩をすくめて見せた。

「潮は、秘密にやさしいですね」

「若いのに口がいいねぇ」

 ややあって、老女は帳面の背に挟んだ布見本を一枚抜いた。

 藍灰の地に、三羽の小さな鷗が縁取られている。鼻先にかすかに潮の匂い。

「これが“潮の匂い”だ。海藻で糊を作ってから藍を煮る。時間が経つと匂いは消えるけど、手の覚えは残る。……あんた、その石、朝に紫を差したろう?」

 リュミエールは一瞬、笑みを深くした。「ええ。東の窓で」

「なら、道はこっちだ。修道院《潮見しおみ》。崖下の白い壁、潮が満ちると取り残される。行くなら昼前だよ。潮に乗り遅れると、夕まで戻れない」

 彼は礼を述べ、布見本の端を目に焼き付ける。三羽の鷗――(記録の余白にあった“潮の匂い”と符丁が、目の前で形になった)

「代金は?」

「話のつり銭に、鈴の音を置いていきな」

 店先で鈴を一つ鳴らす。
 小さな音が、藍の空間を軽く揺らした。



 港の角、商人ギルドの出張箱に立ち寄ると、薄い海色の封筒が届いていた。

 差し出し名は侍女の姓、封蝋は商人印――けれど開けば、彼女の筆跡。

【北路は順調。東の窓で、同じ朝を見ます。K 】

 相変わらずの短い文が彼女らしい。
 リュミエールは息を笑いに変え、すぐその場で返事を綴った。

【潮が引くと、市が現れる。君が数字から現象を掬うように、僕は潮から道を掬う。君の朝に、同じ紫が差しますように。 L】

 封をして、ギルドの“緑路”へ託す。王都を避ける道筋は、もう二人だけの合図になっている。



 《潮見しおみ》の修道院は、断崖の白い影に沿って、海へ突き出るように建っていた。

 石畳が途中で切れ、潮の上に渡した板道を、修道服の男が一人掃いている。

「礼拝かい?」

「寄り道です。昔の受け渡しの記録を確かめたくて」

 男は箒を止め、リュミエールの顔をまっすぐ見た。断崖の影が瞳に落ちて、色が読めない。

「私事の記録は、紙を置かない代わりに、口を置かない決まりだ」

「紙はいりません。符丁だけでいい。二十一年前の春、“藍灰の包布”を受けた白衣しろごろもが、どこへ向かったか」

 僧はしばし潮の音を聞いてから、板道の奥を顎で示した。

「北へ。北渓ほっけい関。山をひとつ越える。白衣しろごろもはそこで手を離れる。……それ以上は、潮がさらっていった」

「充分です」

 リュミエールは深く礼をとり、板道を戻る。背に、僧の独り言のような声が追ってきた。

「その鈴の音――昔、殿がお持ちだった鈴に似ている」

 振り向かない。鈴が、ひとつ小さく鳴った。

(北渓関。山を越える。……潮が道を開けてくれた) 



 夕刻、断崖の上の小宿に戻ると、主人が指で合図をした。

「旅人さん、もう一通。さっき“緑路”から」

 封を切ると、さらりとした一行。

【舞踏会、踊りました。笑っていました。――仕事です。 K】

 視界の端で、海が紫に沈んでいく。
 リュミエールは窓辺に立ち、星涙石を朝日の当たる場所に置くみたいに、硝子越しの空に掲げてみせた。

「君が笑うなら、僕は歩ける」

 ふわりとした軽さで言って、ひとり苦笑する。

 けれど、笑みの底に――潮のように満ち引きする決意が、はっきりとある。

(左半の留め金。北渓関。……そして、

 鈴が、風にひとつ鳴った。
 夜明けにはまた紫が差す。山の向こうへ出発だ。
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