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その朝は、エベルハルト伯爵邸には特別な予定はなかった。
書類は前日のうちに半分片づけてある。領内からの報告も急ぎはない。午後には商人ギルドに軽く顔を出して、手紙の経路の確認をして――と、カタリナは心の中で段取りを並べていた。
だからこそ、執務室の扉が控えめに叩かれ、アリサが少しだけ息を弾ませて入ってきたとき、すぐには意味が飲み込めなかった。
「カタリナ様。……来客でございます」
「予約はなかったはずだけれど?」
「はい。ですが……お通ししてもよろしいでしょうか」
アリサが横にずれる。開いた扉の向こうから、軽い声がした。
「失礼するよ、カタリナ」
入ってきたのは、旅の風をまだまとったままのリュミエールだった。
外套の裾に細かい砂ぼこり、髪もいつもより少しだけ乱れている。
「……本当に、突然お帰りになるのですね」
「君のところに来る口実が見つかったらすぐ来るよ。今回は“ちゃんと話す”って口実があったからね」
「口実とは便利なものですわね」
カタリナは立ち上がらず、机越しにふわっと目を細めた。視線はしっかり相手を測っている。
「まずはおかえりなさい、が先でしたわ。おかえりなさい、リュミエール」
「ただいま、カタリナ。……『ただいま』って、なんだかくすぐったいな」
「婚姻したら、ここはあなたの家ですわ」
「はは、確かに」
彼は肩の外套を椅子に預け、ようやく旅を終えた人間の顔になる。カタリナもそこでようやく腰をわずかに崩した。
リュミエールは部屋をぐるりと見回す。広い執務机、その背に座る黒髪の女伯爵、壁の地図、並んだ資料。以前来たときより、どこか「当主の部屋」らしい重みが増している。
「すっかり『エベルハルト伯爵』だね。似合ってる」
「そう見えるようにしているだけですわ。……お掛けになって?」
すすめられたソファに腰を下ろす動きが、前より迷いがない。ハバナールへ発つ前の、あの張りつめた“完璧な仮面”とは少し違う。軽いのに、芯がある。
「お茶をお持ちしましょうか?」
「飲みたいけど……淹れる前に話させて。冷めたお茶を前に深刻な話をするのは、絵にならないから」
「深刻なのですね?」
「うん。君の好きな“正確な情報開示”の部類だ」
軽く言ったので、カタリナも同じくらいの軽さで受け取る。
「では先に言っておきますが、私は怒ってはいません。説明がなかったことには、少し困っていましたけれど」
「それ、こっち基準では十分“怒ってる”に入るんだよね……」
「なら、怒っていたことにしてもいいですわ」
「怖いなあ、女伯爵は」
冗談が一往復して、部屋の空気が落ち着く。リュミエールは彼女の表情が柔らいだ瞬間を見計らって、ソファを半歩だけ近づけた。
「……で、本題なんだけど」
「どうぞ」
「失望しないで聞いてくれると助かる」
「失望するようなことをなさってきたのですか?」
「いや、むしろ逆。君に言うには遅くなったけど、僕にとってはいい話だ」
そこで彼は、貼りつけていた笑みをほんの少しだけ引っ込めた。
「君が知っている『シュタイン子爵家のリュミエール』は、育ててくれた家の顔だ。あれは本物だし、あの人たちを本当に父母だと思ってる。……でも僕の生まれ方そのものは、まだ君に言っていなかった」
カタリナはまばたきを一度だけ。さっきまでの軽口は、するりと引き出しにしまわれる。
「承知しました。では、続けてください」
リュミエールは小さく息を吐き、胸元の小袋――あの蒼い石を指でなぞった。窓から射す朝の光で、石はほんのかすかに紫を差す。
「向こうでね、どうしても確かめておきたいことがあった。……時間はかかったけど、ちゃんと“行った意味はあった”ってところまでは辿り着けたよ」
「そう……それなら、良かったですわ」
それは心からの言葉だった。彼が留学と称して発つとき、どこか焦っているような、追われているような気配があった。その曇りが今はない。
だからこそ、カタリナは続きがあると分かっていても、急かさなかった。
「でも、それで終わりじゃないんでしょう?」
「うん。僕が向こうへ行った本当の理由を、まだ君に言っていない」
「伺いますわ」
「今日は……迂回させた手紙じゃなくて、ここで話したかった。君に直接」
その言い方で、カタリナも悟る。これは「また行く前の挨拶」でも「近況報告」でもない。胸の奥に置いていたものを、本当に渡すときの声だ。
「まず、手紙が二年間止まってた件だけど……君が気づいたって分かった瞬間、向こうでも動いてくれた人がいた。だからもう、王都の途中で塞がれることはない。そこは安心してほしい」
「ええ。それだけでも十分ですわ」
「でも、それは前置きの方。僕がどういうふうに生まれて、どういうふうにここに来たのかを、君にだけは隠したままにしたくなかった」
そう言って、彼は布に包んでいた石をそっと解いた。
掌にのったのは、あの日カタリナが学園で見たのと同じ、深い蒼とわずかな紫を宿す鉱石――母が遺したと彼が言っていたものだった。
書類は前日のうちに半分片づけてある。領内からの報告も急ぎはない。午後には商人ギルドに軽く顔を出して、手紙の経路の確認をして――と、カタリナは心の中で段取りを並べていた。
だからこそ、執務室の扉が控えめに叩かれ、アリサが少しだけ息を弾ませて入ってきたとき、すぐには意味が飲み込めなかった。
「カタリナ様。……来客でございます」
「予約はなかったはずだけれど?」
「はい。ですが……お通ししてもよろしいでしょうか」
アリサが横にずれる。開いた扉の向こうから、軽い声がした。
「失礼するよ、カタリナ」
入ってきたのは、旅の風をまだまとったままのリュミエールだった。
外套の裾に細かい砂ぼこり、髪もいつもより少しだけ乱れている。
「……本当に、突然お帰りになるのですね」
「君のところに来る口実が見つかったらすぐ来るよ。今回は“ちゃんと話す”って口実があったからね」
「口実とは便利なものですわね」
カタリナは立ち上がらず、机越しにふわっと目を細めた。視線はしっかり相手を測っている。
「まずはおかえりなさい、が先でしたわ。おかえりなさい、リュミエール」
「ただいま、カタリナ。……『ただいま』って、なんだかくすぐったいな」
「婚姻したら、ここはあなたの家ですわ」
「はは、確かに」
彼は肩の外套を椅子に預け、ようやく旅を終えた人間の顔になる。カタリナもそこでようやく腰をわずかに崩した。
リュミエールは部屋をぐるりと見回す。広い執務机、その背に座る黒髪の女伯爵、壁の地図、並んだ資料。以前来たときより、どこか「当主の部屋」らしい重みが増している。
「すっかり『エベルハルト伯爵』だね。似合ってる」
「そう見えるようにしているだけですわ。……お掛けになって?」
すすめられたソファに腰を下ろす動きが、前より迷いがない。ハバナールへ発つ前の、あの張りつめた“完璧な仮面”とは少し違う。軽いのに、芯がある。
「お茶をお持ちしましょうか?」
「飲みたいけど……淹れる前に話させて。冷めたお茶を前に深刻な話をするのは、絵にならないから」
「深刻なのですね?」
「うん。君の好きな“正確な情報開示”の部類だ」
軽く言ったので、カタリナも同じくらいの軽さで受け取る。
「では先に言っておきますが、私は怒ってはいません。説明がなかったことには、少し困っていましたけれど」
「それ、こっち基準では十分“怒ってる”に入るんだよね……」
「なら、怒っていたことにしてもいいですわ」
「怖いなあ、女伯爵は」
冗談が一往復して、部屋の空気が落ち着く。リュミエールは彼女の表情が柔らいだ瞬間を見計らって、ソファを半歩だけ近づけた。
「……で、本題なんだけど」
「どうぞ」
「失望しないで聞いてくれると助かる」
「失望するようなことをなさってきたのですか?」
「いや、むしろ逆。君に言うには遅くなったけど、僕にとってはいい話だ」
そこで彼は、貼りつけていた笑みをほんの少しだけ引っ込めた。
「君が知っている『シュタイン子爵家のリュミエール』は、育ててくれた家の顔だ。あれは本物だし、あの人たちを本当に父母だと思ってる。……でも僕の生まれ方そのものは、まだ君に言っていなかった」
カタリナはまばたきを一度だけ。さっきまでの軽口は、するりと引き出しにしまわれる。
「承知しました。では、続けてください」
リュミエールは小さく息を吐き、胸元の小袋――あの蒼い石を指でなぞった。窓から射す朝の光で、石はほんのかすかに紫を差す。
「向こうでね、どうしても確かめておきたいことがあった。……時間はかかったけど、ちゃんと“行った意味はあった”ってところまでは辿り着けたよ」
「そう……それなら、良かったですわ」
それは心からの言葉だった。彼が留学と称して発つとき、どこか焦っているような、追われているような気配があった。その曇りが今はない。
だからこそ、カタリナは続きがあると分かっていても、急かさなかった。
「でも、それで終わりじゃないんでしょう?」
「うん。僕が向こうへ行った本当の理由を、まだ君に言っていない」
「伺いますわ」
「今日は……迂回させた手紙じゃなくて、ここで話したかった。君に直接」
その言い方で、カタリナも悟る。これは「また行く前の挨拶」でも「近況報告」でもない。胸の奥に置いていたものを、本当に渡すときの声だ。
「まず、手紙が二年間止まってた件だけど……君が気づいたって分かった瞬間、向こうでも動いてくれた人がいた。だからもう、王都の途中で塞がれることはない。そこは安心してほしい」
「ええ。それだけでも十分ですわ」
「でも、それは前置きの方。僕がどういうふうに生まれて、どういうふうにここに来たのかを、君にだけは隠したままにしたくなかった」
そう言って、彼は布に包んでいた石をそっと解いた。
掌にのったのは、あの日カタリナが学園で見たのと同じ、深い蒼とわずかな紫を宿す鉱石――母が遺したと彼が言っていたものだった。
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