1 / 43
1
しおりを挟む
冷たい朝の空気が、ひび割れた窓枠の隙間から吹き込み、古びた屋敷の石床を撫でていく。
アリスは、冷え切った手を自分の膝にすり寄せながら、黙々と銀器を磨いていた。光沢などとっくに失った古い食器。
それでも母は、「客人に見せるときの“雰囲気”が大切なのよ」と、いつも鼻を鳴らすように言っていた。
子爵家とは名ばかりで、アリスの家はすでに没落していた。父は賭博、母と姉は見栄と虚栄に明け暮れ、家計は火の車。
それでも彼らは貴族然とした態度を崩さず、倹約を主張するアリスを「卑しい」と蔑んだ。
アリスはそんな家族との距離を感じながら、ひとり現実に耐えていた。学園に通う費用など夢のまた夢。友人もいなかった。
唯一の救いは、王都の中央図書館だった。庶民でも出入りできる古い図書館。
そこでアリスは、本に囲まれて静かに過ごす時間に、かすかな安らぎを見いだしていた。
午後になると、学園帰りの華やかな生徒たちが図書館に訪れた。
貴族の子息や娘たち。煌びやかな制服。楽しげな笑い声。アリスは遠巻きにそれを眺めながら、自分とは無縁の世界だと知っていた。
その中に、ひとりの男子学生がいた。
友人たちから「ノエル」と言われていた。
背が高く、明るい茶色の髪に、通った鼻筋。穏やかな瞳に、整いすぎるほどの端正な顔立ちをしていた。
動きに無駄がなく、佇まいにはどこか凛とした気高さがあった。
くすんだ色の制服を着ていても、滲み出るのは育ちの良さと、確かな誇り。誰かに迎合することも、声高に己を誇示することもなく、ただその場にいるだけで“品”を感じさせる人だった。
読書にふけるときは、長い指先で一枚一枚、静かにページをめくる。まなざしは真っ直ぐに本へ向かい、近寄りがたいほどの集中力と静謐さがそこにあった。
けれど、ふと友人たちと談笑する時には、まるで違う人物のように柔らかな笑みを浮かべ、頬には浅くえくぼが浮かぶ。その緩急の妙が、アリスの胸を強く揺らした。
近くにいるのに、決して手の届かないひと。
気高く、静かに光を放つ彼に、アリスはひそやかな憧れを抱き続けていた。
彼の名前だけしか知らなかったが、彼が笑うたびに、アリスの心に小さな火が灯った。それで十分だった。見ているだけで、胸が温かくなった。
ある日、図書館の静寂を破るように、笑い声が響いた。ノエルの友人らしき、上品な身なりの少女がアリスに近づいてきた。
柔らかな金髪を、丁寧にカールされた髪を結い上げ、制服のリボンには白い真珠のブローチが光っている。裾のレースも、靴のつま先も、まるで絵の中の貴族令嬢のように隙がなかった。
笑顔を浮かべていたが、その目元は笑っていなかった。涼しげな灰色の瞳が、アリスを一瞥し、見下ろすように細められる。
「まぁ……あなた、よくここにいらしているのをお見かけするけれど。学園には通われていないのかしら? 誰かの使い? それとも……お勉強?」
少女は柔らかな微笑を浮かべながら、まるで慈善家が施しを与えるような口ぶりでそう言った。けれど、その瞳にはあからさまな軽蔑が宿っていた。
アリスの背筋に、冷たいものが這い上がっていく。言葉が出ない。
胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸すら浅くなる。何も言い返せず、ただ、小さく首を横に振った。
「――やっぱり。通われていないのね?」
その言葉には、もはや問いかけの形すらなかった。断定と見下しがあった。
少女の視線が、アリスの質素なワンピースと擦り減った靴をじっとなぞる。
「まあ、お可哀想に。学園にも通えないなんて……お気の毒だわ。でも、えらいのね。そんな状況でも、お勉強されているなんて。貧しくても、知識は――そう、唯一の財産だものね?」
その“褒め言葉”は、まるで刃だった。声の調子はやさしいのに、刺すような響きがこめられていた。
周囲の子息たちが、くすくすと笑う。
一人が、少女に向けて言葉を発した。
「セリーヌ、もうその辺にしといてあげたら?可哀想よ」
嘲笑というより、無邪気な同調の笑い。
アリスの頬が一気に熱くなり、視界がにじんでいく。けれど、涙はこぼせなかった。俯いたまま、歯を食いしばる。
そんな中、ただひとり――ノエルだけが、笑っていなかった。
真っ直ぐにアリスを見つめていた。けれど……何も言わなかった。
庇うでもなく、話題を逸らすでもなく、ただ、沈黙していた。
その沈黙こそが、アリスには、何よりも残酷だった。
心の中で、何かが音を立てて崩れた気がした。
誰かに踏みにじられたことより、誰にも――守ってもらえなかったことの方が、ずっと、ずっと痛かった。
しん、と音の消えた空間の中で、誰もアリスに声をかけなかった。
ただ、さざめく笑いと、遠くで誰かがページをめくる音。
アリスはゆっくりと立ち上がった。手にしていた本は、そっと机の上に戻した。震える指先で背表紙をなぞると、そこにあった文字すら霞んで見えた。
歩き出す足は、なぜかしっかりとしていた。けれど、背中には重たいものがのしかかっていた。誰も追いかけてこないことを知りながら、彼女はまっすぐ扉へと向かう。
ノエルの視線を、背後に感じていた。
でも、振り返ることはしなかった。
もし目が合ってしまえば――胸の奥に押し込めた何かが、音を立てて壊れてしまう気がしたから。
扉を開けると、午後の光が眩しかった。
冬の空気は冷たく澄んでいて、頬に触れた風が妙に痛かった。
足早に石畳を歩きながら、アリスはようやく小さく息を吐いた。けれど涙は出なかった。ただ、喉の奥がつんと熱くなって、声にならない叫びが心の底に渦を巻いていた。
わたしは、ここにいてはいけなかったんだ――。
気づいていたはずのことを、改めて突きつけられた気がして、アリスは静かに唇を噛んだ。
あんなにも好きだった場所が、もう、居場所ではなくなっていた。
アリスは、冷え切った手を自分の膝にすり寄せながら、黙々と銀器を磨いていた。光沢などとっくに失った古い食器。
それでも母は、「客人に見せるときの“雰囲気”が大切なのよ」と、いつも鼻を鳴らすように言っていた。
子爵家とは名ばかりで、アリスの家はすでに没落していた。父は賭博、母と姉は見栄と虚栄に明け暮れ、家計は火の車。
それでも彼らは貴族然とした態度を崩さず、倹約を主張するアリスを「卑しい」と蔑んだ。
アリスはそんな家族との距離を感じながら、ひとり現実に耐えていた。学園に通う費用など夢のまた夢。友人もいなかった。
唯一の救いは、王都の中央図書館だった。庶民でも出入りできる古い図書館。
そこでアリスは、本に囲まれて静かに過ごす時間に、かすかな安らぎを見いだしていた。
午後になると、学園帰りの華やかな生徒たちが図書館に訪れた。
貴族の子息や娘たち。煌びやかな制服。楽しげな笑い声。アリスは遠巻きにそれを眺めながら、自分とは無縁の世界だと知っていた。
その中に、ひとりの男子学生がいた。
友人たちから「ノエル」と言われていた。
背が高く、明るい茶色の髪に、通った鼻筋。穏やかな瞳に、整いすぎるほどの端正な顔立ちをしていた。
動きに無駄がなく、佇まいにはどこか凛とした気高さがあった。
くすんだ色の制服を着ていても、滲み出るのは育ちの良さと、確かな誇り。誰かに迎合することも、声高に己を誇示することもなく、ただその場にいるだけで“品”を感じさせる人だった。
読書にふけるときは、長い指先で一枚一枚、静かにページをめくる。まなざしは真っ直ぐに本へ向かい、近寄りがたいほどの集中力と静謐さがそこにあった。
けれど、ふと友人たちと談笑する時には、まるで違う人物のように柔らかな笑みを浮かべ、頬には浅くえくぼが浮かぶ。その緩急の妙が、アリスの胸を強く揺らした。
近くにいるのに、決して手の届かないひと。
気高く、静かに光を放つ彼に、アリスはひそやかな憧れを抱き続けていた。
彼の名前だけしか知らなかったが、彼が笑うたびに、アリスの心に小さな火が灯った。それで十分だった。見ているだけで、胸が温かくなった。
ある日、図書館の静寂を破るように、笑い声が響いた。ノエルの友人らしき、上品な身なりの少女がアリスに近づいてきた。
柔らかな金髪を、丁寧にカールされた髪を結い上げ、制服のリボンには白い真珠のブローチが光っている。裾のレースも、靴のつま先も、まるで絵の中の貴族令嬢のように隙がなかった。
笑顔を浮かべていたが、その目元は笑っていなかった。涼しげな灰色の瞳が、アリスを一瞥し、見下ろすように細められる。
「まぁ……あなた、よくここにいらしているのをお見かけするけれど。学園には通われていないのかしら? 誰かの使い? それとも……お勉強?」
少女は柔らかな微笑を浮かべながら、まるで慈善家が施しを与えるような口ぶりでそう言った。けれど、その瞳にはあからさまな軽蔑が宿っていた。
アリスの背筋に、冷たいものが這い上がっていく。言葉が出ない。
胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸すら浅くなる。何も言い返せず、ただ、小さく首を横に振った。
「――やっぱり。通われていないのね?」
その言葉には、もはや問いかけの形すらなかった。断定と見下しがあった。
少女の視線が、アリスの質素なワンピースと擦り減った靴をじっとなぞる。
「まあ、お可哀想に。学園にも通えないなんて……お気の毒だわ。でも、えらいのね。そんな状況でも、お勉強されているなんて。貧しくても、知識は――そう、唯一の財産だものね?」
その“褒め言葉”は、まるで刃だった。声の調子はやさしいのに、刺すような響きがこめられていた。
周囲の子息たちが、くすくすと笑う。
一人が、少女に向けて言葉を発した。
「セリーヌ、もうその辺にしといてあげたら?可哀想よ」
嘲笑というより、無邪気な同調の笑い。
アリスの頬が一気に熱くなり、視界がにじんでいく。けれど、涙はこぼせなかった。俯いたまま、歯を食いしばる。
そんな中、ただひとり――ノエルだけが、笑っていなかった。
真っ直ぐにアリスを見つめていた。けれど……何も言わなかった。
庇うでもなく、話題を逸らすでもなく、ただ、沈黙していた。
その沈黙こそが、アリスには、何よりも残酷だった。
心の中で、何かが音を立てて崩れた気がした。
誰かに踏みにじられたことより、誰にも――守ってもらえなかったことの方が、ずっと、ずっと痛かった。
しん、と音の消えた空間の中で、誰もアリスに声をかけなかった。
ただ、さざめく笑いと、遠くで誰かがページをめくる音。
アリスはゆっくりと立ち上がった。手にしていた本は、そっと机の上に戻した。震える指先で背表紙をなぞると、そこにあった文字すら霞んで見えた。
歩き出す足は、なぜかしっかりとしていた。けれど、背中には重たいものがのしかかっていた。誰も追いかけてこないことを知りながら、彼女はまっすぐ扉へと向かう。
ノエルの視線を、背後に感じていた。
でも、振り返ることはしなかった。
もし目が合ってしまえば――胸の奥に押し込めた何かが、音を立てて壊れてしまう気がしたから。
扉を開けると、午後の光が眩しかった。
冬の空気は冷たく澄んでいて、頬に触れた風が妙に痛かった。
足早に石畳を歩きながら、アリスはようやく小さく息を吐いた。けれど涙は出なかった。ただ、喉の奥がつんと熱くなって、声にならない叫びが心の底に渦を巻いていた。
わたしは、ここにいてはいけなかったんだ――。
気づいていたはずのことを、改めて突きつけられた気がして、アリスは静かに唇を噛んだ。
あんなにも好きだった場所が、もう、居場所ではなくなっていた。
158
あなたにおすすめの小説
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ
月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。
泣くのも違う。怒るのも違う。
ただ静かに消えよう。
そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。
画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。
相手に気付かれた? 見られた?
「未練ある」って思われる!?
恐怖でブロックボタンを連打した夜。
カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。
秘密の恋人は、兄の婚約者を想っていた――伯爵令嬢メルローズの初恋
恋せよ恋
恋愛
メルローズは、恋に不器用な伯爵令嬢。
初めて想いを告げた相手は、遊び人と噂される侯爵令息アデルだった。
「他の女の子とも遊ぶけど、いいよね?」
そんな条件付きでも、彼女は頷いてしまう。
代わりに選んだのは、“秘密の恋人”という立場。
誰にも知られないまま重ねた時間と、触れ合う身体。
けれど、彼の心はいつもどこか遠かった。
彼の本命が、兄の婚約者だと知っても、恋は終わらなかった。
卒業とともに初恋を手放した――そう思ったのに。
秘密の恋が辿り着く、甘く歪な結末とは――。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
【完結】初恋の彼に 身代わりの妻に選ばれました
ユユ
恋愛
婚姻4年。夫が他界した。
夫は婚約前から病弱だった。
王妃様は、愛する息子である第三王子の婚約者に
私を指名した。
本当は私にはお慕いする人がいた。
だけど平凡な子爵家の令嬢の私にとって
彼は高嶺の花。
しかも王家からの打診を断る自由などなかった。
実家に戻ると、高嶺の花の彼の妻にと縁談が…。
* 作り話です。
* 完結保証つき。
* R18
【完結】体目的でもいいですか?
ユユ
恋愛
王太子殿下の婚約者候補だったルーナは
冤罪をかけられて断罪された。
顔に火傷を負った狂乱の戦士に
嫁がされることになった。
ルーナは内向的な令嬢だった。
冤罪という声も届かず罪人のように嫁ぎ先へ。
だが、護送中に巨大な熊に襲われ 馬車が暴走。
ルーナは瀕死の重症を負った。
というか一度死んだ。
神の悪戯か、日本で死んだ私がルーナとなって蘇った。
* 作り話です
* 完結保証付きです
* R18
グリモワールの塔の公爵様【18歳Ver】
屋月 トム伽
恋愛
18歳になり、結婚が近いと思われたプリムローズは、久しぶりに王都の邸にいる婚約者に会いに行っていた。
だけど、義姉クレアと婚約者ジャンのベッドインを目撃してしまい、婚約破棄されてしまったプリムローズ。
プレスコット伯爵家から追い出すための名目で、金持ちの子爵様に売られるも同然の後妻に入ることになったプリムローズ。
そんなある日、夜会で出会ったクライド・レイヴンクロフト次期公爵様から結婚をもうしこまれる。
しかし、クライドにはすでに親の決めた婚約者がおり、第2夫人でいいなら……と、言われる。
後妻に入るよりは、第2夫人のほうがマシかもとか思っていると、約束だ、と頬にキスをされた。
「必ず迎え入れる」と約束をしたのだ。
でも、クライドとのデートの日にプリムローズは来なかった。
約束をすっぽかされたと思ったクライドは、その日から一向にプリムローズと会うことはなかった。
時折出す手紙のやり取り。プリムローズがどうしたいのかわからないクライドは困惑していた。
そして、プレスコット家での現状を知り、クライドはプリムローズをプレスコット伯爵邸から連れ出し、グリモワールの塔に連れて行き……。
最初は、形だけの結婚のつもりかと思っていたのに、公爵様はひどく甘く、独占欲の固まりだった。
※以前投稿してました作品を【18歳Ver】に書き直したものです。
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる