【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 冷たい朝の空気が、ひび割れた窓枠の隙間から吹き込み、古びた屋敷の石床を撫でていく。

 アリスは、冷え切った手を自分の膝にすり寄せながら、黙々と銀器を磨いていた。光沢などとっくに失った古い食器。
 それでも母は、「客人に見せるときの“雰囲気”が大切なのよ」と、いつも鼻を鳴らすように言っていた。

 子爵家とは名ばかりで、アリスの家はすでに没落していた。父は賭博、母と姉は見栄と虚栄に明け暮れ、家計は火の車。

 それでも彼らは貴族然とした態度を崩さず、倹約を主張するアリスを「卑しい」と蔑んだ。

 アリスはそんな家族との距離を感じながら、ひとり現実に耐えていた。学園に通う費用など夢のまた夢。友人もいなかった。    

 唯一の救いは、王都の中央図書館だった。庶民でも出入りできる古い図書館。

 そこでアリスは、本に囲まれて静かに過ごす時間に、かすかな安らぎを見いだしていた。

 午後になると、学園帰りの華やかな生徒たちが図書館に訪れた。
 貴族の子息や娘たち。煌びやかな制服。楽しげな笑い声。アリスは遠巻きにそれを眺めながら、自分とは無縁の世界だと知っていた。

 その中に、ひとりの男子学生がいた。
友人たちから「ノエル」と言われていた。

 背が高く、明るい茶色の髪に、通った鼻筋。穏やかな瞳に、整いすぎるほどの端正な顔立ちをしていた。
 動きに無駄がなく、佇まいにはどこか凛とした気高さがあった。

 くすんだ色の制服を着ていても、滲み出るのは育ちの良さと、確かな誇り。誰かに迎合することも、声高に己を誇示することもなく、ただその場にいるだけで“品”を感じさせる人だった。

 読書にふけるときは、長い指先で一枚一枚、静かにページをめくる。まなざしは真っ直ぐに本へ向かい、近寄りがたいほどの集中力と静謐さがそこにあった。

 けれど、ふと友人たちと談笑する時には、まるで違う人物のように柔らかな笑みを浮かべ、頬には浅くえくぼが浮かぶ。その緩急の妙が、アリスの胸を強く揺らした。

 近くにいるのに、決して手の届かないひと。

 気高く、静かに光を放つ彼に、アリスはひそやかな憧れを抱き続けていた。

 彼の名前だけしか知らなかったが、彼が笑うたびに、アリスの心に小さな火が灯った。それで十分だった。見ているだけで、胸が温かくなった。

 ある日、図書館の静寂を破るように、笑い声が響いた。ノエルの友人らしき、上品な身なりの少女がアリスに近づいてきた。

 柔らかな金髪を、丁寧にカールされた髪を結い上げ、制服のリボンには白い真珠のブローチが光っている。裾のレースも、靴のつま先も、まるで絵の中の貴族令嬢のように隙がなかった。

 笑顔を浮かべていたが、その目元は笑っていなかった。涼しげな灰色の瞳が、アリスを一瞥し、見下ろすように細められる。

「まぁ……あなた、よくここにいらしているのをお見かけするけれど。学園には通われていないのかしら? 誰かの使い? それとも……お勉強?」

 少女は柔らかな微笑を浮かべながら、まるで慈善家が施しを与えるような口ぶりでそう言った。けれど、その瞳にはあからさまな軽蔑が宿っていた。

 アリスの背筋に、冷たいものが這い上がっていく。言葉が出ない。
 胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸すら浅くなる。何も言い返せず、ただ、小さく首を横に振った。

「――やっぱり。通われていないのね?」

 その言葉には、もはや問いかけの形すらなかった。断定と見下しがあった。
 少女の視線が、アリスの質素なワンピースと擦り減った靴をじっとなぞる。

「まあ、お可哀想に。学園にも通えないなんて……お気の毒だわ。でも、えらいのね。そんな状況でも、お勉強されているなんて。貧しくても、知識は――そう、唯一の財産だものね?」

 その“褒め言葉”は、まるで刃だった。声の調子はやさしいのに、刺すような響きがこめられていた。

 周囲の子息たちが、くすくすと笑う。
一人が、少女に向けて言葉を発した。

「セリーヌ、もうその辺にしといてあげたら?よ」

 嘲笑というより、無邪気な同調の笑い。

 アリスの頬が一気に熱くなり、視界がにじんでいく。けれど、涙はこぼせなかった。俯いたまま、歯を食いしばる。

 そんな中、ただひとり――ノエルだけが、笑っていなかった。

 真っ直ぐにアリスを見つめていた。けれど……何も言わなかった。

 庇うでもなく、話題を逸らすでもなく、ただ、沈黙していた。
 その沈黙こそが、アリスには、何よりも残酷だった。

 心の中で、何かが音を立てて崩れた気がした。
 誰かに踏みにじられたことより、誰にも――守ってもらえなかったことの方が、ずっと、ずっと痛かった。

 しん、と音の消えた空間の中で、誰もアリスに声をかけなかった。

 ただ、さざめく笑いと、遠くで誰かがページをめくる音。

 アリスはゆっくりと立ち上がった。手にしていた本は、そっと机の上に戻した。震える指先で背表紙をなぞると、そこにあった文字すら霞んで見えた。

 歩き出す足は、なぜかしっかりとしていた。けれど、背中には重たいものがのしかかっていた。誰も追いかけてこないことを知りながら、彼女はまっすぐ扉へと向かう。

 ノエルの視線を、背後に感じていた。
 でも、振り返ることはしなかった。

 もし目が合ってしまえば――胸の奥に押し込めた何かが、音を立てて壊れてしまう気がしたから。

 扉を開けると、午後の光が眩しかった。
 冬の空気は冷たく澄んでいて、頬に触れた風が妙に痛かった。

 足早に石畳を歩きながら、アリスはようやく小さく息を吐いた。けれど涙は出なかった。ただ、喉の奥がつんと熱くなって、声にならない叫びが心の底に渦を巻いていた。

 わたしは、ここにいてはいけなかったんだ――。
 気づいていたはずのことを、改めて突きつけられた気がして、アリスは静かに唇を噛んだ。

 あんなにも好きだった場所が、もう、居場所ではなくなっていた。




 
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