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馬車が止まったことに気づいたのは、御者の声でも、揺れの収まりでもなく――ただ、身体に刺すような冷たい空気が、そっと頬を撫でたからだった。
扉が開かれ、冬の鈍色の空が目に映る。
「……着きました、奥さま」
その呼び名に、アリスの胸は何ひとつ動かなかった。
“誰かの妻”という肩書だけが、自分の輪郭の代わりのように与えられていた。けれど、その響きに自分の名を重ねることは、まだできなかった。
石造りの階段を上がると、重厚な扉の前に数人の使用人が並んでいた。誰ひとり言葉は発さず、ただ儀礼的に頭を下げる。
歓迎でも、敵意でもない。まるで手順のひとつとして、アリスを迎え入れているようだった。
屋敷の中は広く、どこまでも静かだった。
高い天井。閉ざされた重たいカーテン。長いあいだ使われていない暖炉。
灯りは灯っていても、どこか肌寒い――そんな空気が、屋敷全体に染みついていた。
案内されたのは、ひときわ静かな寝室の前だった。
「旦那様は、こちらに」
女中が扉をそっと押し開ける。アリスは無言のまま中へと足を進めた。
部屋の中は、ほの暗かった。閉じられた窓辺から洩れる光はなく、時間の流れさえ止まってしまったかのような空気が支配していた。
その静けさの中心に、ひとつの大きな寝台。
枕元に横たわる男がいた。
白髪の混じる長い髪は、肩まで乱れて落ちている。頬は痩せこけ、深く刻まれた皺が額に寄っていた。
けれどその切れ長の瞳には、昏さよりも――不思議な澄んだ光があった。
アリスが一歩近づいたとき、男はゆっくりと視線を動かした。
「……君が、フォワード子爵家の娘か」
低く掠れた声だった。
弱々しさと、年齢に似合わぬ静かな威厳が、その一言に込められていた。
「……はい。初めまして。アリス・フォワードと申します」
アリスは無感情に名乗った。視線は伏せたまま、形だけの礼を取る。
この部屋に来た理由も、二人の関係も、語るまでもなく理解されている――そんな冷えた距離があった。
「ずいぶん……若いのだな。いくつだ?」
「十八歳です」
アリスの答えに、クロードは眉を動かし、少し目を見開いた。
「フォワード家には、適齢期を過ぎた姉がいただろう」
「……お姉様なら、おります」
「二十五だったか。そちらを寄越すようにと伝えていたのだが」
クロードの言葉に、アリスは一瞬、首を傾げた。
「……?」
男は、小さくため息をつくように口を開いた。
「……すまない。何かの手違いだったようだ。こんな年寄りの枕元に立たせて、すまなかったな」
その一言に、アリスの呼吸が、わずかに止まった。
謝罪――。フォワード家では、誰一人、アリスを気遣い、謝る人間などいなかった。
今回の婚姻でさえ、誰にも労わられることなく送り出された彼女にとって、それはあまりに異質だった。
思わず、アリスはクロードを見た。
病に伏した顔は確かに老いを感じさせたが、その榛色の瞳は、奇妙なほどまっすぐで曇りがなかった。
敵意も、欲も、感じられない。ただ、率直な気遣い――。
こんな相手に、自分は何を警戒していたのだろう。
心の奥の硬く閉じた扉が、ほんの少しだけ、軋んだ音を立てる。
「来てすぐに帰らせるのも気が引けるが…来た馬車で家まで送り届けよう」
その提案に、アリスはすぐには返事ができなかった。
(家……戻れば、きっとまた別の“誰か”に売られる)
思考の隙間に、かすかな覚悟が差し込んだ。
「男爵様、私では……不都合でしょうか。もし許されるのなら、こちらに、居させていただけませんか」
その声は決意というより、疲れ切った懇願だった。
クロードはしばらく黙ってアリスを見つめ――やがて、深く静かなまばたきを一度だけした。
「……君が良いのなら、構わない」
その応えは、まるで重い鎖がそっとほどけたように、ゆるやかだった。
やがて彼は目を閉じ、呼吸だけを残して眠りに落ちた。
アリスは、そばに置かれた椅子にゆっくり腰を下ろした。
いま、自分がここにいることに意味があるのかは、まだわからない。
けれど、クロード男爵は――想像していたよりずっと、静かで、思いやりのある人なのかもしれない。
そのわずかな気づきが、アリスの空っぽだった心に、ほんのひとかけらの温度を落とした。
***
翌朝、屋敷の空気は相変わらず冷たく張り詰めていた。
アリスは女中頭に案内され、再びクロードの寝室を訪れた。
部屋の中には微かに薬草とインクの匂いが漂い、外の曇天とは違う時間が流れているようだった。
クロードは枕元で目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。
静かな寝息。まるで眠るのも労力がいるのだろうと思わせる、弱い呼吸だった。
「奥様、こちらが朝のお茶と、湿布でございます。まず、額と肩に……」
女中の説明を受けながら、アリスは盆を受け取った。
緊張で手が少しだけ震えたが、指先の力を抜いて落ち着かせた。
彼女にとって「人に仕える」ことは、屋敷の雑務で慣れているはずだった。
けれど――目の前にいる男は、父でも、姉でもない。
彼女を買った人間でありながら、初対面で「すまない」と頭を下げた、あの人だった。
「……失礼します」
そう声をかけると、クロードのまぶたがゆっくりと開いた。
「……おはよう、アリス嬢」
「お加減、いかがでしょうか」
「相変わらず、だな」
かすれた声に、わずかに笑みが混じっていた。
アリスは戸惑いながら、濡らした布を絞り、クロードの額にそっと当てた。
ひどく熱いわけではないが、肌は乾いており、触れると骨の細さを感じた。
彼は目を閉じたまま、されるがままに身を任せていた。
その無抵抗さに、不意に胸の内がざわめく。
(こんなふうに、人に触れるのは――いつぶりだろう)
気がつけば、冷めないようにお茶を整え、肩に貼る湿布の位置を確かめ、毛布の端を直していた。
指先が、誰かのために動くこと。それは、家では命令による“労働”でしかなかったはずなのに。
クロードの体が少しだけ楽になるようにと、枕の位置を調整すると、彼がぼそりと呟いた。
「……手が、やさしいな」
アリスは思わず動きを止めた。
「……そう、でしょうか?」
自分では、無感情に努めていたつもりだった。
けれど、彼の声には確かな安堵が滲んでいて――それが、妙に胸に残った。
「……悪いが、今日一日は、ずっとこうしてくれ。話す気力も、動く力もない」
「はい。わかりました」
アリスは小さくうなずき、椅子を引いて彼の傍に腰掛けた。
彼女が見上げた天井は、昨日と変わらず重たく閉ざされていたが――その下にある寝台のそばだけは、少しだけ空気が和らいでいる気がした。
クロードは再び眠りに落ち、アリスはその寝息を聞きながら、ふと指先を見下ろした。
――この手は、誰かを支えるために使っても、いいのだろうか。
そんな考えがよぎったことに、自分自身が驚いていた。
扉が開かれ、冬の鈍色の空が目に映る。
「……着きました、奥さま」
その呼び名に、アリスの胸は何ひとつ動かなかった。
“誰かの妻”という肩書だけが、自分の輪郭の代わりのように与えられていた。けれど、その響きに自分の名を重ねることは、まだできなかった。
石造りの階段を上がると、重厚な扉の前に数人の使用人が並んでいた。誰ひとり言葉は発さず、ただ儀礼的に頭を下げる。
歓迎でも、敵意でもない。まるで手順のひとつとして、アリスを迎え入れているようだった。
屋敷の中は広く、どこまでも静かだった。
高い天井。閉ざされた重たいカーテン。長いあいだ使われていない暖炉。
灯りは灯っていても、どこか肌寒い――そんな空気が、屋敷全体に染みついていた。
案内されたのは、ひときわ静かな寝室の前だった。
「旦那様は、こちらに」
女中が扉をそっと押し開ける。アリスは無言のまま中へと足を進めた。
部屋の中は、ほの暗かった。閉じられた窓辺から洩れる光はなく、時間の流れさえ止まってしまったかのような空気が支配していた。
その静けさの中心に、ひとつの大きな寝台。
枕元に横たわる男がいた。
白髪の混じる長い髪は、肩まで乱れて落ちている。頬は痩せこけ、深く刻まれた皺が額に寄っていた。
けれどその切れ長の瞳には、昏さよりも――不思議な澄んだ光があった。
アリスが一歩近づいたとき、男はゆっくりと視線を動かした。
「……君が、フォワード子爵家の娘か」
低く掠れた声だった。
弱々しさと、年齢に似合わぬ静かな威厳が、その一言に込められていた。
「……はい。初めまして。アリス・フォワードと申します」
アリスは無感情に名乗った。視線は伏せたまま、形だけの礼を取る。
この部屋に来た理由も、二人の関係も、語るまでもなく理解されている――そんな冷えた距離があった。
「ずいぶん……若いのだな。いくつだ?」
「十八歳です」
アリスの答えに、クロードは眉を動かし、少し目を見開いた。
「フォワード家には、適齢期を過ぎた姉がいただろう」
「……お姉様なら、おります」
「二十五だったか。そちらを寄越すようにと伝えていたのだが」
クロードの言葉に、アリスは一瞬、首を傾げた。
「……?」
男は、小さくため息をつくように口を開いた。
「……すまない。何かの手違いだったようだ。こんな年寄りの枕元に立たせて、すまなかったな」
その一言に、アリスの呼吸が、わずかに止まった。
謝罪――。フォワード家では、誰一人、アリスを気遣い、謝る人間などいなかった。
今回の婚姻でさえ、誰にも労わられることなく送り出された彼女にとって、それはあまりに異質だった。
思わず、アリスはクロードを見た。
病に伏した顔は確かに老いを感じさせたが、その榛色の瞳は、奇妙なほどまっすぐで曇りがなかった。
敵意も、欲も、感じられない。ただ、率直な気遣い――。
こんな相手に、自分は何を警戒していたのだろう。
心の奥の硬く閉じた扉が、ほんの少しだけ、軋んだ音を立てる。
「来てすぐに帰らせるのも気が引けるが…来た馬車で家まで送り届けよう」
その提案に、アリスはすぐには返事ができなかった。
(家……戻れば、きっとまた別の“誰か”に売られる)
思考の隙間に、かすかな覚悟が差し込んだ。
「男爵様、私では……不都合でしょうか。もし許されるのなら、こちらに、居させていただけませんか」
その声は決意というより、疲れ切った懇願だった。
クロードはしばらく黙ってアリスを見つめ――やがて、深く静かなまばたきを一度だけした。
「……君が良いのなら、構わない」
その応えは、まるで重い鎖がそっとほどけたように、ゆるやかだった。
やがて彼は目を閉じ、呼吸だけを残して眠りに落ちた。
アリスは、そばに置かれた椅子にゆっくり腰を下ろした。
いま、自分がここにいることに意味があるのかは、まだわからない。
けれど、クロード男爵は――想像していたよりずっと、静かで、思いやりのある人なのかもしれない。
そのわずかな気づきが、アリスの空っぽだった心に、ほんのひとかけらの温度を落とした。
***
翌朝、屋敷の空気は相変わらず冷たく張り詰めていた。
アリスは女中頭に案内され、再びクロードの寝室を訪れた。
部屋の中には微かに薬草とインクの匂いが漂い、外の曇天とは違う時間が流れているようだった。
クロードは枕元で目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。
静かな寝息。まるで眠るのも労力がいるのだろうと思わせる、弱い呼吸だった。
「奥様、こちらが朝のお茶と、湿布でございます。まず、額と肩に……」
女中の説明を受けながら、アリスは盆を受け取った。
緊張で手が少しだけ震えたが、指先の力を抜いて落ち着かせた。
彼女にとって「人に仕える」ことは、屋敷の雑務で慣れているはずだった。
けれど――目の前にいる男は、父でも、姉でもない。
彼女を買った人間でありながら、初対面で「すまない」と頭を下げた、あの人だった。
「……失礼します」
そう声をかけると、クロードのまぶたがゆっくりと開いた。
「……おはよう、アリス嬢」
「お加減、いかがでしょうか」
「相変わらず、だな」
かすれた声に、わずかに笑みが混じっていた。
アリスは戸惑いながら、濡らした布を絞り、クロードの額にそっと当てた。
ひどく熱いわけではないが、肌は乾いており、触れると骨の細さを感じた。
彼は目を閉じたまま、されるがままに身を任せていた。
その無抵抗さに、不意に胸の内がざわめく。
(こんなふうに、人に触れるのは――いつぶりだろう)
気がつけば、冷めないようにお茶を整え、肩に貼る湿布の位置を確かめ、毛布の端を直していた。
指先が、誰かのために動くこと。それは、家では命令による“労働”でしかなかったはずなのに。
クロードの体が少しだけ楽になるようにと、枕の位置を調整すると、彼がぼそりと呟いた。
「……手が、やさしいな」
アリスは思わず動きを止めた。
「……そう、でしょうか?」
自分では、無感情に努めていたつもりだった。
けれど、彼の声には確かな安堵が滲んでいて――それが、妙に胸に残った。
「……悪いが、今日一日は、ずっとこうしてくれ。話す気力も、動く力もない」
「はい。わかりました」
アリスは小さくうなずき、椅子を引いて彼の傍に腰掛けた。
彼女が見上げた天井は、昨日と変わらず重たく閉ざされていたが――その下にある寝台のそばだけは、少しだけ空気が和らいでいる気がした。
クロードは再び眠りに落ち、アリスはその寝息を聞きながら、ふと指先を見下ろした。
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