【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 馬車が止まったことに気づいたのは、御者の声でも、揺れの収まりでもなく――ただ、身体に刺すような冷たい空気が、そっと頬を撫でたからだった。

 扉が開かれ、冬の鈍色の空が目に映る。

「……着きました、奥さま」

 その呼び名に、アリスの胸は何ひとつ動かなかった。
 “誰かの妻”という肩書だけが、自分の輪郭の代わりのように与えられていた。けれど、その響きに自分の名を重ねることは、まだできなかった。

 石造りの階段を上がると、重厚な扉の前に数人の使用人が並んでいた。誰ひとり言葉は発さず、ただ儀礼的に頭を下げる。
 歓迎でも、敵意でもない。まるで手順のひとつとして、アリスを迎え入れているようだった。

 屋敷の中は広く、どこまでも静かだった。
 高い天井。閉ざされた重たいカーテン。長いあいだ使われていない暖炉。
 灯りは灯っていても、どこか肌寒い――そんな空気が、屋敷全体に染みついていた。

 案内されたのは、ひときわ静かな寝室の前だった。

「旦那様は、こちらに」

 女中が扉をそっと押し開ける。アリスは無言のまま中へと足を進めた。

 部屋の中は、ほの暗かった。閉じられた窓辺から洩れる光はなく、時間の流れさえ止まってしまったかのような空気が支配していた。

 その静けさの中心に、ひとつの大きな寝台。
 枕元に横たわる男がいた。

 白髪の混じる長い髪は、肩まで乱れて落ちている。頬は痩せこけ、深く刻まれた皺が額に寄っていた。
 けれどその切れ長の瞳には、昏さよりも――不思議な澄んだ光があった。

 アリスが一歩近づいたとき、男はゆっくりと視線を動かした。

「……君が、フォワード子爵家の娘か」

 低く掠れた声だった。
 弱々しさと、年齢に似合わぬ静かな威厳が、その一言に込められていた。

「……はい。初めまして。アリス・フォワードと申します」

 アリスは無感情に名乗った。視線は伏せたまま、形だけの礼を取る。
 この部屋に来た理由も、二人の関係も、語るまでもなく理解されている――そんな冷えた距離があった。

「ずいぶん……若いのだな。いくつだ?」

「十八歳です」

 アリスの答えに、クロードは眉を動かし、少し目を見開いた。

「フォワード家には、適齢期を過ぎた姉がいただろう」

「……お姉様なら、おります」

「二十五だったか。そちらを寄越すようにと伝えていたのだが」

 クロードの言葉に、アリスは一瞬、首を傾げた。

「……?」

 男は、小さくため息をつくように口を開いた。

「……すまない。何かの手違いだったようだ。こんな年寄りの枕元に立たせて、すまなかったな」

 その一言に、アリスの呼吸が、わずかに止まった。

 謝罪――。フォワード家では、誰一人、アリスを気遣い、謝る人間などいなかった。
 今回の婚姻でさえ、誰にも労わられることなく送り出された彼女にとって、それはあまりに異質だった。

 思わず、アリスはクロードを見た。
 病に伏した顔は確かに老いを感じさせたが、その榛色の瞳は、奇妙なほどまっすぐで曇りがなかった。

 敵意も、欲も、感じられない。ただ、率直な気遣い――。

 こんな相手に、自分は何を警戒していたのだろう。
 心の奥の硬く閉じた扉が、ほんの少しだけ、軋んだ音を立てる。

「来てすぐに帰らせるのも気が引けるが…来た馬車で家まで送り届けよう」

 その提案に、アリスはすぐには返事ができなかった。

(家……戻れば、きっとまた別の“誰か”に売られる)

 思考の隙間に、かすかな覚悟が差し込んだ。

「男爵様、私では……不都合でしょうか。もし許されるのなら、こちらに、居させていただけませんか」

 その声は決意というより、疲れ切った懇願だった。
 クロードはしばらく黙ってアリスを見つめ――やがて、深く静かなまばたきを一度だけした。

「……君が良いのなら、構わない」

 その応えは、まるで重い鎖がそっとほどけたように、ゆるやかだった。

 やがて彼は目を閉じ、呼吸だけを残して眠りに落ちた。

 アリスは、そばに置かれた椅子にゆっくり腰を下ろした。
 いま、自分がここにいることに意味があるのかは、まだわからない。
 けれど、クロード男爵は――想像していたよりずっと、静かで、思いやりのある人なのかもしれない。

 そのわずかな気づきが、アリスの空っぽだった心に、ほんのひとかけらの温度を落とした。


 ***


 翌朝、屋敷の空気は相変わらず冷たく張り詰めていた。

 アリスは女中頭に案内され、再びクロードの寝室を訪れた。
 部屋の中には微かに薬草とインクの匂いが漂い、外の曇天とは違う時間が流れているようだった。

 クロードは枕元で目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。
 静かな寝息。まるで眠るのも労力がいるのだろうと思わせる、弱い呼吸だった。

「奥様、こちらが朝のお茶と、湿布でございます。まず、額と肩に……」

 女中の説明を受けながら、アリスは盆を受け取った。
 緊張で手が少しだけ震えたが、指先の力を抜いて落ち着かせた。

 彼女にとって「人に仕える」ことは、屋敷の雑務で慣れているはずだった。
 けれど――目の前にいる男は、父でも、姉でもない。

 彼女を買った人間でありながら、初対面で「すまない」と頭を下げた、あの人だった。

「……失礼します」

 そう声をかけると、クロードのまぶたがゆっくりと開いた。

「……おはよう、アリス嬢」

「お加減、いかがでしょうか」

「相変わらず、だな」

 かすれた声に、わずかに笑みが混じっていた。
 アリスは戸惑いながら、濡らした布を絞り、クロードの額にそっと当てた。

 ひどく熱いわけではないが、肌は乾いており、触れると骨の細さを感じた。
 彼は目を閉じたまま、されるがままに身を任せていた。

 その無抵抗さに、不意に胸の内がざわめく。

(こんなふうに、人に触れるのは――いつぶりだろう)

 気がつけば、冷めないようにお茶を整え、肩に貼る湿布の位置を確かめ、毛布の端を直していた。
 指先が、誰かのために動くこと。それは、家では命令による“労働”でしかなかったはずなのに。

 クロードの体が少しだけ楽になるようにと、枕の位置を調整すると、彼がぼそりと呟いた。

「……手が、やさしいな」

 アリスは思わず動きを止めた。

「……そう、でしょうか?」

 自分では、無感情に努めていたつもりだった。
 けれど、彼の声には確かな安堵が滲んでいて――それが、妙に胸に残った。

「……悪いが、今日一日は、ずっとこうしてくれ。話す気力も、動く力もない」

「はい。わかりました」

 アリスは小さくうなずき、椅子を引いて彼の傍に腰掛けた。
 彼女が見上げた天井は、昨日と変わらず重たく閉ざされていたが――その下にある寝台のそばだけは、少しだけ空気が和らいでいる気がした。

 クロードは再び眠りに落ち、アリスはその寝息を聞きながら、ふと指先を見下ろした。

 ――この手は、誰かを支えるために使っても、いいのだろうか。

 そんな考えがよぎったことに、自分自身が驚いていた。

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