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冬の冷たい風が、石造りの館の壁を唸るように叩いていた。
この屋敷は広く、どこまでも静かだった。人の気配は乏しく、使われていない部屋には白布がかけられ、廊下には薄く埃が積もっている。
アリスの一日は、いつもクロード男爵の寝室から始まった。
まだ夜の余韻が残るうちに目を覚まし、湯を沸かし、濡らした布で彼の身体を静かに拭う。
枕元には朝の薬と、香りだけでも和らげばと思って用意するハーブティー。
食事は、柔らかく煮た粥に、すり潰した野菜を添えた。
クロードは、最初の頃はあまり口をきかなかった。必要なことだけを、短く低く告げるだけ。眉間の深い皺が、彼の過ごしてきた歳月と、病に伏した苦しみを物語っていた。
「……茶が、ぬるい」
そんなふうに、無愛想に言われることも少なくなかった。
けれどアリスは、言い返すことも、表情を変えることもなかった。ただ黙って湯を温め直し、また静かに差し出す。
何かを感じる余裕などなかった。
ただ、「やるべきことをやる」。
それだけが、今の自分に許された存在理由のように思えた。
* * *
ある日、クロードが咳き込み、寝台の端で苦しそうにうずくまった。
アリスは即座に水を差し出し、背中をやさしくさすった。クロードは、意外そうに彼女を見上げた。
「……悪いな」
掠れた声に、申し訳なさと、どこか人間らしい温もりが滲んでいた。
アリスは、無言のまま首を横に振った。
「気にしていない」と言葉にする代わりに、静かな仕草でそれを伝えた。
彼の少ない言葉の端々には、いつもどこか、彼女を気遣う温かさがにじんでいた。
それはアリスにとって、これまでの人生で誰からも向けられたことのない、優しさだった。
それから数日後。
彼女は寝台の脇の椅子で、黙々と編み物に取り組んでいた。使い慣れた針の動きに、心を沈めるようにして。
ふと、寝台から声がした。
「……それは何を?」
アリスは顔を上げて、編みかけの布を見せた。
「膝掛けです。男爵様の足元が、いつも冷えていらっしゃるようでしたから」
クロードは小さく息をついた。
ため息にも似ていたが、どこか微かな感嘆が混じっていた。
翌朝、アリスが膝掛けを彼の足元にそっとかけたとき、クロードはほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。
その微かな変化が、アリスの胸に小さな灯のように残った。ふたりのあいだに、沈黙以外のものが、ゆっくりと流れはじめたような気がした。
* * *
「君は……本が好きなのか」
ある日の午後。クロードが突然そう問いかけてきた。それは、彼が初めて口にした他愛のない話題だった。
アリスは少し驚きながらも、やがて静かにうなずいた。
「はい。図書館によく通っていました。読んでいると、現実を忘れられるので……」
「……わかるな。わたしも、若い頃はそうだった」
クロードの目が、少し遠くを見た。
その瞳には、失った過去への郷愁と、若かりし頃の面影が滲んでいた。
その日から、アリスは寝室の隅に置かれた古びた本棚を見つけ、埃を払い、何冊かの本を彼の枕元へ置くようになった。
クロードは静かにその一冊を手に取り、指先で頁をなぞりながら、薄く微笑んだ。
「……ありがとう。私の好みを知っているとは、さすがだな」
その言葉に、アリスは驚き、そしてくすりと笑った。
「たまたまです。偶然ですわ」
けれど心の奥で、何かがゆっくりと解けていくのを感じた。
それは、自分でも気づかなかったほど深く凍っていた感情の一部だったのかもしれない。
屋敷に来てから、一ヶ月ほどが過ぎたころには、クロードは自然に彼女を「アリス嬢」ではなく、「アリス」と呼ぶようになっていた。
アリスもまた、彼が起き上がろうとする時、手を取って支えることに
もう、ためらいを感じてはいなかった。
不器用で、無口で、どこか影のある人だけれど――
彼は誠実で、知的で、静かな優しさを持っている人だった。
アリスの目に映るクロードの姿は、徐々に淡い色を帯びていった。
信頼。感謝。そして、言葉にできない何か。それはまだ恋と呼ぶには遠いものだったかもしれない。
けれど確かに、クロードの存在は、少しずつ、アリスの心の隙間を埋めていた。
***
春の兆しが、かすかに空気の中に混じり始めていた。
雪解け水の音が遠くで聞こえ、冷たかった館の石壁にも、どこかぬくもりが宿りはじめる。
クロードの容体は、冬の終わりとともに、目に見えて安定していた。
長らく寝たきりだった彼は、日中だけは無理のない範囲で起きて過ごすようになっていた。
「今日も少し、陽の光を浴びるか」
そう声をかけたのは、クロードのほうだった。
小さな応接間の窓を開け放つと、柔らかな日差しと、外の空気が流れ込む。アリスはクロードに肩を貸しながら、ゆっくりとそこへ導いた。
「……眩しいな。……けれど、悪くない」
椅子に腰を下ろしたクロードが、細めた目で空を見上げた。その横顔を見ながら、アリスも静かに微笑む。
「春の匂いですね」
「君は匂いで季節を感じ取るのか?」
「ええ。花の咲く前、風の音が変わる少し前。……ふわっと空気がやわらかくなるんです」
クロードは「なるほどな」と呟き、窓の外へ目をやった。その指先が、ふとアリスの手に触れた。ほんのかすかな触れあいだったのに、アリスの心臓が一瞬だけ跳ねた。
けれど、彼はすぐに手を引っ込めるでもなく、申し訳なさそうに目を伏せるでもなかった。それは、自然なことのように、ただそこにあった。
ふたりの間には、長い沈黙が流れた。
だがそれは、気まずさではない。
穏やかで、どこか満ち足りた沈黙だった。
この屋敷は広く、どこまでも静かだった。人の気配は乏しく、使われていない部屋には白布がかけられ、廊下には薄く埃が積もっている。
アリスの一日は、いつもクロード男爵の寝室から始まった。
まだ夜の余韻が残るうちに目を覚まし、湯を沸かし、濡らした布で彼の身体を静かに拭う。
枕元には朝の薬と、香りだけでも和らげばと思って用意するハーブティー。
食事は、柔らかく煮た粥に、すり潰した野菜を添えた。
クロードは、最初の頃はあまり口をきかなかった。必要なことだけを、短く低く告げるだけ。眉間の深い皺が、彼の過ごしてきた歳月と、病に伏した苦しみを物語っていた。
「……茶が、ぬるい」
そんなふうに、無愛想に言われることも少なくなかった。
けれどアリスは、言い返すことも、表情を変えることもなかった。ただ黙って湯を温め直し、また静かに差し出す。
何かを感じる余裕などなかった。
ただ、「やるべきことをやる」。
それだけが、今の自分に許された存在理由のように思えた。
* * *
ある日、クロードが咳き込み、寝台の端で苦しそうにうずくまった。
アリスは即座に水を差し出し、背中をやさしくさすった。クロードは、意外そうに彼女を見上げた。
「……悪いな」
掠れた声に、申し訳なさと、どこか人間らしい温もりが滲んでいた。
アリスは、無言のまま首を横に振った。
「気にしていない」と言葉にする代わりに、静かな仕草でそれを伝えた。
彼の少ない言葉の端々には、いつもどこか、彼女を気遣う温かさがにじんでいた。
それはアリスにとって、これまでの人生で誰からも向けられたことのない、優しさだった。
それから数日後。
彼女は寝台の脇の椅子で、黙々と編み物に取り組んでいた。使い慣れた針の動きに、心を沈めるようにして。
ふと、寝台から声がした。
「……それは何を?」
アリスは顔を上げて、編みかけの布を見せた。
「膝掛けです。男爵様の足元が、いつも冷えていらっしゃるようでしたから」
クロードは小さく息をついた。
ため息にも似ていたが、どこか微かな感嘆が混じっていた。
翌朝、アリスが膝掛けを彼の足元にそっとかけたとき、クロードはほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。
その微かな変化が、アリスの胸に小さな灯のように残った。ふたりのあいだに、沈黙以外のものが、ゆっくりと流れはじめたような気がした。
* * *
「君は……本が好きなのか」
ある日の午後。クロードが突然そう問いかけてきた。それは、彼が初めて口にした他愛のない話題だった。
アリスは少し驚きながらも、やがて静かにうなずいた。
「はい。図書館によく通っていました。読んでいると、現実を忘れられるので……」
「……わかるな。わたしも、若い頃はそうだった」
クロードの目が、少し遠くを見た。
その瞳には、失った過去への郷愁と、若かりし頃の面影が滲んでいた。
その日から、アリスは寝室の隅に置かれた古びた本棚を見つけ、埃を払い、何冊かの本を彼の枕元へ置くようになった。
クロードは静かにその一冊を手に取り、指先で頁をなぞりながら、薄く微笑んだ。
「……ありがとう。私の好みを知っているとは、さすがだな」
その言葉に、アリスは驚き、そしてくすりと笑った。
「たまたまです。偶然ですわ」
けれど心の奥で、何かがゆっくりと解けていくのを感じた。
それは、自分でも気づかなかったほど深く凍っていた感情の一部だったのかもしれない。
屋敷に来てから、一ヶ月ほどが過ぎたころには、クロードは自然に彼女を「アリス嬢」ではなく、「アリス」と呼ぶようになっていた。
アリスもまた、彼が起き上がろうとする時、手を取って支えることに
もう、ためらいを感じてはいなかった。
不器用で、無口で、どこか影のある人だけれど――
彼は誠実で、知的で、静かな優しさを持っている人だった。
アリスの目に映るクロードの姿は、徐々に淡い色を帯びていった。
信頼。感謝。そして、言葉にできない何か。それはまだ恋と呼ぶには遠いものだったかもしれない。
けれど確かに、クロードの存在は、少しずつ、アリスの心の隙間を埋めていた。
***
春の兆しが、かすかに空気の中に混じり始めていた。
雪解け水の音が遠くで聞こえ、冷たかった館の石壁にも、どこかぬくもりが宿りはじめる。
クロードの容体は、冬の終わりとともに、目に見えて安定していた。
長らく寝たきりだった彼は、日中だけは無理のない範囲で起きて過ごすようになっていた。
「今日も少し、陽の光を浴びるか」
そう声をかけたのは、クロードのほうだった。
小さな応接間の窓を開け放つと、柔らかな日差しと、外の空気が流れ込む。アリスはクロードに肩を貸しながら、ゆっくりとそこへ導いた。
「……眩しいな。……けれど、悪くない」
椅子に腰を下ろしたクロードが、細めた目で空を見上げた。その横顔を見ながら、アリスも静かに微笑む。
「春の匂いですね」
「君は匂いで季節を感じ取るのか?」
「ええ。花の咲く前、風の音が変わる少し前。……ふわっと空気がやわらかくなるんです」
クロードは「なるほどな」と呟き、窓の外へ目をやった。その指先が、ふとアリスの手に触れた。ほんのかすかな触れあいだったのに、アリスの心臓が一瞬だけ跳ねた。
けれど、彼はすぐに手を引っ込めるでもなく、申し訳なさそうに目を伏せるでもなかった。それは、自然なことのように、ただそこにあった。
ふたりの間には、長い沈黙が流れた。
だがそれは、気まずさではない。
穏やかで、どこか満ち足りた沈黙だった。
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