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秋が訪れーー
まだ薄手の上衣が必要な気候ではあったが、庭の草木は小さく芽吹き、花のつぼみもほころび始めている。
クロードの体調も、日を追うごとに目に見えて良くなっていた。
医師の診察も週に一度で足りるようになり、屋敷の中を杖をついて歩く姿も、今では見慣れたものとなっていた。
アリスは、そんな彼の背を自然に追っていた。かつては介護のために、今は――ただ、隣にいたいという想いのために。
ある夕暮れのことだった。
クロードの書斎で、お茶を淹れていたアリスは、ふと机の上に開かれていた一冊の本に目をとめた。
それは、彼が最近よく読んでいた詩集だった。
ページの端には、小さく折り目がついている。
指先でその頁をそっと開くと、そこにはこんな一節が記されていた。
【冬を越えた枝に咲く花は、
たとえ名もなきものであれ、
誰よりも誇らしく、うつくしい】
ふと、胸の奥にあたたかいものが灯る。
アリスは静かに頁を閉じ、そのままクロードの部屋へと足を運んだ。
「おや……アリス」
寝椅子に横たわっていたクロードは、彼女の姿を見ると、微笑んだ。
その微笑みは、あの日よりもいっそう穏やかで、柔らかかった。
「詩集を拝見しました。あの一節……とても、好きになりました」
「……あれか。君のことを思いながら、読んでいたよ」
クロードの言葉に、アリスの胸がすっと波立つ。
「冬を越えた枝……」
「君は、そうだと思った。どんなに冷たく、過酷な風にも折れずに、ちゃんと蕾を守っていた。そんなふうに、私には見えていた」
「……そんな……」
思わず視線を落としたアリスの指先が、小さく震えていた。けれど次の瞬間、そっとその手を取る温もりがあった。
クロードの手だった。
「アリス。今夜、君とゆっくり話がしたい」
その言葉に、アリスは頷いた。
この人の隣で、歩んでいく。
そう決めたのなら、もう逃げない。そう心に言い聞かせていた。
***
その夜。
暖炉に火が灯され、春の夜にしてはやや暖かい部屋の中で、アリスはクロードの隣に腰かけていた。
ふたりの間には、湯気のたつハーブティと、静かな沈黙。
けれど、それは気まずいものではなく、互いに寄り添うための余白のようだった。
「アリス」
クロードが、静かに名を呼ぶ。
「私はもう、孤独ではない。君が居てくれる、それだけで、こうして生きていたいと思える」
「……男爵様」
「男爵様ではなく、クロードと呼んでくれないだろうか」
「……クロードさま・・・」
「いい年齢して照れてしまうが……ありがとう。呼んでくれて、嬉しいよ」
クロードが微笑んだ。病で痩せていた頬は、ほんのりと肉付きが戻り、かつての端正な面差しを取り戻しつつあった。
アリスはしばらく彼を見つめていたが、ふいに恥ずかしくなって、視線を逸らした。
頬が熱を帯びているのを、自分でも感じていた。
そんな彼女の様子を、クロードは静かに受け止め、クロードの手が、そっとアリスの頬に触れる。
その掌はまだ少し骨ばっていたけれど、やさしく、震えるほどに繊細だった。
「……アリス」
その声は、どこかためらいがちで、けれど決意を秘めていた。
アリスは彼の顔を見つめ、そっと頷いた。
その仕草だけで、何か大切なことを話そうとしていると感じ取れた。
「私は……君に隠していることがある。いや、隠していたわけではないが……向き合えずにいた、ことだ」
クロードの指が、静かにシーツを掴む。
揺れる光に照らされた横顔は、どこか影を落としていた。
「病を患って以来……私は、男としての機能を失っている。だから……君と夫婦として、身体を交わすことは、もう叶わないのだ」
アリスは、瞬きもせずにその言葉を受け止めた。
彼の声がかすれるほどに真摯だったから――ただ、それを聞いていた。
「もし君が、子を望むのなら……私では叶えてやれない。君の人生の中で、大きなものを奪っているのかもしれないと、そう思っていた。だから、私が本当の意味で夫になる資格があるのか、ずっと……迷っていたんだ」
それは、悔しさでもあったのだろう。
アリスの手の中で、クロードの言葉が、重く、沈んだ。
しかし彼女は、ゆっくりとその手を包むように、自分の指を重ねた。
「クロード様…」
クロードの目が、驚いたように見開かれる。
「私は……あなたのそばで、あなたと日々を過ごせていることに、幸せを感じています。あなたが生きて、微笑んでいてくれるだけで、私はもう充分なんです」
言葉を選びながら、アリスは慎重に、しかし真っ直ぐに言葉を紡いでいく。
「たしかに、子を授かることは、ひとつの幸せかもしれません。でも、誰かを想い、誰かと寄り添い、生きていくこと――それも、私にとっては、かけがえのないものです」
クロードの瞳が、ゆっくりと揺れた。
その中に浮かぶ光は、感謝と、安堵と、何より深い愛情だった。
「……私と、一緒に生きてくれますか。これからも、肩を並べて。眠るときも、目覚めるときも、隣にいてください。それだけで、私は幸せです」
アリスの言葉に、クロードは目を閉じ、深く、深く頷いた。
そして震える手で、彼女の手をそっと握りしめる。
「……ありがとう、アリス。君の言葉は……何よりも救いだ」
「二人で、幸せに暮らしましょう。ゆっくりで、構わないから」
クロードは微笑んだ。
その笑みは、かつてよりもずっと柔らかく、穏やかで――どこまでも誠実だった。
夜の帳の向こうで、春の風が静かに庭の草木を揺らしていた。
やがて訪れる季節のように、ふたりの時間は、静かに、確かに歩きはじめていた。
まだ薄手の上衣が必要な気候ではあったが、庭の草木は小さく芽吹き、花のつぼみもほころび始めている。
クロードの体調も、日を追うごとに目に見えて良くなっていた。
医師の診察も週に一度で足りるようになり、屋敷の中を杖をついて歩く姿も、今では見慣れたものとなっていた。
アリスは、そんな彼の背を自然に追っていた。かつては介護のために、今は――ただ、隣にいたいという想いのために。
ある夕暮れのことだった。
クロードの書斎で、お茶を淹れていたアリスは、ふと机の上に開かれていた一冊の本に目をとめた。
それは、彼が最近よく読んでいた詩集だった。
ページの端には、小さく折り目がついている。
指先でその頁をそっと開くと、そこにはこんな一節が記されていた。
【冬を越えた枝に咲く花は、
たとえ名もなきものであれ、
誰よりも誇らしく、うつくしい】
ふと、胸の奥にあたたかいものが灯る。
アリスは静かに頁を閉じ、そのままクロードの部屋へと足を運んだ。
「おや……アリス」
寝椅子に横たわっていたクロードは、彼女の姿を見ると、微笑んだ。
その微笑みは、あの日よりもいっそう穏やかで、柔らかかった。
「詩集を拝見しました。あの一節……とても、好きになりました」
「……あれか。君のことを思いながら、読んでいたよ」
クロードの言葉に、アリスの胸がすっと波立つ。
「冬を越えた枝……」
「君は、そうだと思った。どんなに冷たく、過酷な風にも折れずに、ちゃんと蕾を守っていた。そんなふうに、私には見えていた」
「……そんな……」
思わず視線を落としたアリスの指先が、小さく震えていた。けれど次の瞬間、そっとその手を取る温もりがあった。
クロードの手だった。
「アリス。今夜、君とゆっくり話がしたい」
その言葉に、アリスは頷いた。
この人の隣で、歩んでいく。
そう決めたのなら、もう逃げない。そう心に言い聞かせていた。
***
その夜。
暖炉に火が灯され、春の夜にしてはやや暖かい部屋の中で、アリスはクロードの隣に腰かけていた。
ふたりの間には、湯気のたつハーブティと、静かな沈黙。
けれど、それは気まずいものではなく、互いに寄り添うための余白のようだった。
「アリス」
クロードが、静かに名を呼ぶ。
「私はもう、孤独ではない。君が居てくれる、それだけで、こうして生きていたいと思える」
「……男爵様」
「男爵様ではなく、クロードと呼んでくれないだろうか」
「……クロードさま・・・」
「いい年齢して照れてしまうが……ありがとう。呼んでくれて、嬉しいよ」
クロードが微笑んだ。病で痩せていた頬は、ほんのりと肉付きが戻り、かつての端正な面差しを取り戻しつつあった。
アリスはしばらく彼を見つめていたが、ふいに恥ずかしくなって、視線を逸らした。
頬が熱を帯びているのを、自分でも感じていた。
そんな彼女の様子を、クロードは静かに受け止め、クロードの手が、そっとアリスの頬に触れる。
その掌はまだ少し骨ばっていたけれど、やさしく、震えるほどに繊細だった。
「……アリス」
その声は、どこかためらいがちで、けれど決意を秘めていた。
アリスは彼の顔を見つめ、そっと頷いた。
その仕草だけで、何か大切なことを話そうとしていると感じ取れた。
「私は……君に隠していることがある。いや、隠していたわけではないが……向き合えずにいた、ことだ」
クロードの指が、静かにシーツを掴む。
揺れる光に照らされた横顔は、どこか影を落としていた。
「病を患って以来……私は、男としての機能を失っている。だから……君と夫婦として、身体を交わすことは、もう叶わないのだ」
アリスは、瞬きもせずにその言葉を受け止めた。
彼の声がかすれるほどに真摯だったから――ただ、それを聞いていた。
「もし君が、子を望むのなら……私では叶えてやれない。君の人生の中で、大きなものを奪っているのかもしれないと、そう思っていた。だから、私が本当の意味で夫になる資格があるのか、ずっと……迷っていたんだ」
それは、悔しさでもあったのだろう。
アリスの手の中で、クロードの言葉が、重く、沈んだ。
しかし彼女は、ゆっくりとその手を包むように、自分の指を重ねた。
「クロード様…」
クロードの目が、驚いたように見開かれる。
「私は……あなたのそばで、あなたと日々を過ごせていることに、幸せを感じています。あなたが生きて、微笑んでいてくれるだけで、私はもう充分なんです」
言葉を選びながら、アリスは慎重に、しかし真っ直ぐに言葉を紡いでいく。
「たしかに、子を授かることは、ひとつの幸せかもしれません。でも、誰かを想い、誰かと寄り添い、生きていくこと――それも、私にとっては、かけがえのないものです」
クロードの瞳が、ゆっくりと揺れた。
その中に浮かぶ光は、感謝と、安堵と、何より深い愛情だった。
「……私と、一緒に生きてくれますか。これからも、肩を並べて。眠るときも、目覚めるときも、隣にいてください。それだけで、私は幸せです」
アリスの言葉に、クロードは目を閉じ、深く、深く頷いた。
そして震える手で、彼女の手をそっと握りしめる。
「……ありがとう、アリス。君の言葉は……何よりも救いだ」
「二人で、幸せに暮らしましょう。ゆっくりで、構わないから」
クロードは微笑んだ。
その笑みは、かつてよりもずっと柔らかく、穏やかで――どこまでも誠実だった。
夜の帳の向こうで、春の風が静かに庭の草木を揺らしていた。
やがて訪れる季節のように、ふたりの時間は、静かに、確かに歩きはじめていた。
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