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春が過ぎ、初夏の気配が訪れはじめた頃。
アリスとクロードの暮らしは、穏やかな日々に包まれていた。
朝は一緒にテラスで朝食を摂り、昼には屋敷の書庫や庭園で時を過ごし、夜はランプの灯の下で静かに語り合った。
「君の淹れる茶は、本当に美味しいな」
「それは、茶葉が良くて、お湯加減がちょうど良かったからですよ」
「いや、君が淹れてくれるから美味しいんだ」
「ふふ、クロード様。嬉しいお言葉ですわ」
そんな何気ない会話すら、アリスには宝物のように思えた。
長く誰にも与えられなかった優しさを、今は毎日、この屋敷で受け取っている。
クロードもまた、日々を慈しむように生きていた。
食事をゆっくり味わい、庭の風を愛しみ、アリスの手を何度も握っては微笑んだ。
だが――ある晩。
アリスが就寝前の薬を運び、クロードの部屋の扉を開けると、彼は椅子に座ったまま、静かに額を押さえていた。顔色は青白く、冷や汗をかいていた。
「……クロード様?」
呼びかけると、彼はすぐに顔を上げて優しく微笑んだ。
「……ああ、すまない。少しだけ、目がくらんでしまって」
「具合が……?」
「いや、大したことじゃない。きっと今日は少し陽に当たりすぎたんだ」
そう言って、クロードは薬を飲み、ベッドに身体を横たえた。
けれどアリスの胸には、わずかなざわめきが残っていた。
それから数日後。
クロードは読書中に、ほんの短い間、ページをめくる手を止めて、眉をひそめた。
「……どうかしました?」
「文字が、少し……かすれて見える。老眼だろう、きっと」
そう微笑んだが、その笑みの奥に、ほんの一瞬――何かがよぎったように見えた。
今日のお昼の出来事を思い出す。
一緒に庭園を散歩していた時、クロードが肩を少し震わせて、つぶやいた。
「……今日は、少し風が冷たく感じるな。身体の芯が、冷えてしまっているようだ」
季節はもう夏。アリスは、その言葉に小さく胸を突かれた。
(……何か、違う)
明確な痛みも、咳も、熱もない。ただ、わずかに重なる違和感。
けれどアリスは、すぐにはそれを口に出すことができなかった。
クロードが、日々を慈しむように穏やかに過ごしていることを知っているから、違和感を指摘出来ずにいた。
そして彼自身もまた、どこかでその異変に気づきながら、静かにそれを飲み込もうとしているように思えた。
――どうか、この穏やかな時間が、まだ続いてほしい。
そう祈るような気持ちで、アリスはクロードの傍に寄り添い続けた。
けれど、夕暮れの空にひそやかに混じる翳りのように、
ふたりの平穏に、何かが忍び寄っている気配があった。
***
夏の陽射しが強まり始めたある午後、アリスは屋敷の離れに設けられた客間へ、主治医を静かに招いていた。
クロードには、日課の昼寝を理由に、少しだけ眠っていてもらった。
医師は年配の人物で、クロードが若き頃より仕えている人物だった。
「……症状が、はっきりと出ているわけではありません。ですが、ここのところ、時折、肩で息をしていたり、陽に当たった日には頭痛を訴えることもありました。視界が揺れたり、身体の芯が冷えると……」
アリスは、できる限り冷静に話そうと努めていたが、声の端がどうしても震えてしまう。
「以前より、食欲もほんの少し落ちてきています。何より、クロード様自身が、以前ほど――あまり、笑わなくなっている気がして……」
医師は深く頷いたあと、小さなノートを取り出し、黙って何かを記していった。
「奥様、些細な変化を見逃さずにいらしたのは、見事な観察力です。
今の段階では、断定はできませんが……病の再燃の可能性も、視野に入れなければならないかもしれません」
その言葉に、アリスの指がぎゅっと膝の上で握られた。
「……どうか、お願いです。クロード様に、今は知られないように……」
「かしこまりました。経過を見ながら、静かに診察を重ねてまいりましょう。少しでも変化があれば、すぐに私をお呼びください」
アリスは小さく頭を下げた。礼儀の所作の裏に、胸の奥からにじみ出る恐れと悲しみが滲んでいた。
***
その夜、クロードは一人、書斎の窓辺に座っていた。
本を手に取っても、文字はほとんど目に入っていなかった。脳裏を占めるのは、昼間ふと感じた、左胸の奥に走った鈍い痛み。そして、何気なく立ち上がったときに眩みかけた視界。
(……やはり、か)
誰に聞かせるでもない独り言が、心の底で微かに響いた。
ゆるやかに回復していた日々。
だが、ここしばらくの身体の違和感は、かつて病が始まったころに酷似していた。医者を呼ぶべきか――その考えが頭をよぎるたび、クロードは小さく首を振って否定した。
(今、アリスに不安を与えるわけにはいかない)
彼女はようやく、自らの意思でこの屋敷にとどまり、「夫婦」としての時間を歩き出してくれたばかりなのだ。彼女の笑顔は、嘘偽りなく柔らかく、彼の心を支えていた。
そんな彼女の心に、また影を落とすなど――それだけは、したくなかった。
(どうせ、私の命の灯など、とうに短い。ならば……最後のひとときまで、彼女に幸福を与えたい)
クロードは、膝の上で両手を組んだ。
その手は、わずかに震えていた。
けれど表情は、変わらず穏やかだった。
――真実を隠し通すことが、正しいことではないとわかっている。
だが、今はただ、彼女が穏やかに眠る夜を、一日でも長く保ちたかった。
クロードは静かに立ち上がると、寝室へと足を運んだ。
寝台の上にはすでにアリスが眠っていた。微かに動く胸の鼓動を眺め、クロードはその隣にそっと腰を下ろした。
「……アリス」
眠っている彼女に聞こえぬよう、ただそっとその名を呼ぶ。
(どうか……おまえの春が、長く続いてくれますように)
彼の願いは、切実だった。
そしてその静かな祈りは、夜の帳に紛れるように、誰にも届かぬまま、そっと部屋の空気に溶けていった――。
アリスとクロードの暮らしは、穏やかな日々に包まれていた。
朝は一緒にテラスで朝食を摂り、昼には屋敷の書庫や庭園で時を過ごし、夜はランプの灯の下で静かに語り合った。
「君の淹れる茶は、本当に美味しいな」
「それは、茶葉が良くて、お湯加減がちょうど良かったからですよ」
「いや、君が淹れてくれるから美味しいんだ」
「ふふ、クロード様。嬉しいお言葉ですわ」
そんな何気ない会話すら、アリスには宝物のように思えた。
長く誰にも与えられなかった優しさを、今は毎日、この屋敷で受け取っている。
クロードもまた、日々を慈しむように生きていた。
食事をゆっくり味わい、庭の風を愛しみ、アリスの手を何度も握っては微笑んだ。
だが――ある晩。
アリスが就寝前の薬を運び、クロードの部屋の扉を開けると、彼は椅子に座ったまま、静かに額を押さえていた。顔色は青白く、冷や汗をかいていた。
「……クロード様?」
呼びかけると、彼はすぐに顔を上げて優しく微笑んだ。
「……ああ、すまない。少しだけ、目がくらんでしまって」
「具合が……?」
「いや、大したことじゃない。きっと今日は少し陽に当たりすぎたんだ」
そう言って、クロードは薬を飲み、ベッドに身体を横たえた。
けれどアリスの胸には、わずかなざわめきが残っていた。
それから数日後。
クロードは読書中に、ほんの短い間、ページをめくる手を止めて、眉をひそめた。
「……どうかしました?」
「文字が、少し……かすれて見える。老眼だろう、きっと」
そう微笑んだが、その笑みの奥に、ほんの一瞬――何かがよぎったように見えた。
今日のお昼の出来事を思い出す。
一緒に庭園を散歩していた時、クロードが肩を少し震わせて、つぶやいた。
「……今日は、少し風が冷たく感じるな。身体の芯が、冷えてしまっているようだ」
季節はもう夏。アリスは、その言葉に小さく胸を突かれた。
(……何か、違う)
明確な痛みも、咳も、熱もない。ただ、わずかに重なる違和感。
けれどアリスは、すぐにはそれを口に出すことができなかった。
クロードが、日々を慈しむように穏やかに過ごしていることを知っているから、違和感を指摘出来ずにいた。
そして彼自身もまた、どこかでその異変に気づきながら、静かにそれを飲み込もうとしているように思えた。
――どうか、この穏やかな時間が、まだ続いてほしい。
そう祈るような気持ちで、アリスはクロードの傍に寄り添い続けた。
けれど、夕暮れの空にひそやかに混じる翳りのように、
ふたりの平穏に、何かが忍び寄っている気配があった。
***
夏の陽射しが強まり始めたある午後、アリスは屋敷の離れに設けられた客間へ、主治医を静かに招いていた。
クロードには、日課の昼寝を理由に、少しだけ眠っていてもらった。
医師は年配の人物で、クロードが若き頃より仕えている人物だった。
「……症状が、はっきりと出ているわけではありません。ですが、ここのところ、時折、肩で息をしていたり、陽に当たった日には頭痛を訴えることもありました。視界が揺れたり、身体の芯が冷えると……」
アリスは、できる限り冷静に話そうと努めていたが、声の端がどうしても震えてしまう。
「以前より、食欲もほんの少し落ちてきています。何より、クロード様自身が、以前ほど――あまり、笑わなくなっている気がして……」
医師は深く頷いたあと、小さなノートを取り出し、黙って何かを記していった。
「奥様、些細な変化を見逃さずにいらしたのは、見事な観察力です。
今の段階では、断定はできませんが……病の再燃の可能性も、視野に入れなければならないかもしれません」
その言葉に、アリスの指がぎゅっと膝の上で握られた。
「……どうか、お願いです。クロード様に、今は知られないように……」
「かしこまりました。経過を見ながら、静かに診察を重ねてまいりましょう。少しでも変化があれば、すぐに私をお呼びください」
アリスは小さく頭を下げた。礼儀の所作の裏に、胸の奥からにじみ出る恐れと悲しみが滲んでいた。
***
その夜、クロードは一人、書斎の窓辺に座っていた。
本を手に取っても、文字はほとんど目に入っていなかった。脳裏を占めるのは、昼間ふと感じた、左胸の奥に走った鈍い痛み。そして、何気なく立ち上がったときに眩みかけた視界。
(……やはり、か)
誰に聞かせるでもない独り言が、心の底で微かに響いた。
ゆるやかに回復していた日々。
だが、ここしばらくの身体の違和感は、かつて病が始まったころに酷似していた。医者を呼ぶべきか――その考えが頭をよぎるたび、クロードは小さく首を振って否定した。
(今、アリスに不安を与えるわけにはいかない)
彼女はようやく、自らの意思でこの屋敷にとどまり、「夫婦」としての時間を歩き出してくれたばかりなのだ。彼女の笑顔は、嘘偽りなく柔らかく、彼の心を支えていた。
そんな彼女の心に、また影を落とすなど――それだけは、したくなかった。
(どうせ、私の命の灯など、とうに短い。ならば……最後のひとときまで、彼女に幸福を与えたい)
クロードは、膝の上で両手を組んだ。
その手は、わずかに震えていた。
けれど表情は、変わらず穏やかだった。
――真実を隠し通すことが、正しいことではないとわかっている。
だが、今はただ、彼女が穏やかに眠る夜を、一日でも長く保ちたかった。
クロードは静かに立ち上がると、寝室へと足を運んだ。
寝台の上にはすでにアリスが眠っていた。微かに動く胸の鼓動を眺め、クロードはその隣にそっと腰を下ろした。
「……アリス」
眠っている彼女に聞こえぬよう、ただそっとその名を呼ぶ。
(どうか……おまえの春が、長く続いてくれますように)
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そしてその静かな祈りは、夜の帳に紛れるように、誰にも届かぬまま、そっと部屋の空気に溶けていった――。
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