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春、まだ朝靄の残る庭に、クロードは杖をついて立っていた。咲き始めた白梅が、風に揺れて香りを運んでくる。傍にはアリスの姿があった。
「もう三年が経つんですね」
クロードの隣で、アリスが微笑んだ。頬にかかる髪を指で払いながら、淡い光の中で彼女の面差しは、かつてよりいっそう穏やかになっていた。
「君のおかげだよ。私がこの三年を生きてこられたのは」
クロードの声は静かで、それでいて深い重みを含んでいた。アリスはその手をそっと握る。春の陽だまりのように、やさしいぬくもりだった。
「お礼なんて……違います。私は今も、これからも、クロード様と一緒に生きていきたいんです」
アリスは瞳に涙が溜まるのを感じたが、
決して溢さないように笑顔をつくる。
クロードは柔らかく微笑み、彼女の手を胸に引き寄せた。薄くなった胸の奥で、それでもまだ確かに、命が鼓動を刻んでいた。
けれど――それが、もう長くないのだと、彼は知っていた。
夜ごとに走る痛み。身体の冷え。目覚めるたびに衰えていく感覚。医師は「再発の兆候がある」と穏やかに告げたが、クロードは悟っていた。
(あと、そう長くはない)
だからこそ――。
「アリス、一つ、わがままを言ってもいいか?」
そう前置きして、クロードは言った。
「最後に……君とふたりで、旅がしたい。少しでいい、私の思い出の場所を、君にも見せたいんだ」
アリスは驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい、行きましょう。旅じゃなくても、何でもいい。あなたと歩く時間が、これからもずっと続いてほしい。私は……そのためなら、どこへでも行きます」
その瞳には、どこまでも強く、優しい光が宿っていた。
***
旅は、ゆっくりとしたものだった。
馬車に揺られ、村から村へ。クロードが幼いころに過ごした湖畔の家、青年時代に剣を学んだ騎士の館跡、初めて任官した町の広場――それぞれに彼の記憶が息づいていた。
どの地でも、クロードは静かに思い出を語った。アリスはただ耳を傾け、笑みを浮かべ、ときに彼の手を握った。言葉の端々に、長い歳月を歩いてきた男の足跡が見えた。
「ここに来るのは、何年ぶりだろうな……湖のそばの家。父がよく言っていた。水面に映る自分の姿に、嘘はつけないって」
小さな村では、クロードが少年の頃に泳いだという湖のほとりで馬車を降りた。彼は膝に少し力を込めて歩きながら、水辺に立った。
「……ここには、前妻とも来たことがあるんだ」
ふと、彼がそう口にしたとき、アリスはその瞳を見た。
「政略結婚だった。お互い、年も近かったし、最初から心を通わせる余裕なんてなかった。ただ、少しずつ、話せるようになって……その矢先に、彼女は病で……」
クロードは微かに首を振った。
「私もまだ若くて、気の利いた言葉も、笑わせることもできなかった。ただ傍にいただけだ。……良い夫じゃなかったと思う」
風が吹き、水面が静かに揺れた。
アリスは黙って頷き、そっと彼の手を握った。彼の過去に、彼女の言葉は必要なかった。ただ、手の温もりを返すことだけが、自分にできることのように思えた。
またある日は、町の宿での昼下がり。
「学生時代のことを話そうか。……私はね、算術だけは誰にも負けなかった。数字は嘘をつかないから、安心できてね。でも、美術はからっきしで……ひどいものだった。りんごを描いたつもりが、先生に『じゃがいもか?』って聞かれたくらい」
アリスがくすりと笑うと、クロードも肩を揺らして笑った。
「歌もだ。聞くのは好きだったが、歌うと音が外れてしまって、学友たちに耳をふさがれたよ。特に朝の聖歌なんて地獄だった」
アリスが思わず吹き出す。
「うそです。そんな、クロード様が」
「……ほんとさ。まあ、君の前では歌わない方がいいかもしれないな。幻滅されてしまう」
そのときのクロードの表情には、どこか少年のような無邪気さが浮かんでいて、アリスの胸の奥がやさしく震えた。
そして、旅の終盤。
ふたりは、山あいの古い修道院を訪れた。
石造りの鐘楼と、小さな教会。冬の終わりを告げるような、澄んだ空気が漂っていた。
クロードは、ひとつの窓辺に立ち、しばし外の風景を見つめていた。
アリスも隣に立ち、彼と同じ景色に目をやる。
その横顔を、ふと見つめた。
(なんて、端正な顔立ちなのだろう)
少しこけた頬に、深く刻まれた皺。けれどその輪郭は崩れず、光に照らされたまなざしには、凛とした気高さがあり、美しかった。
(もし、クロード様が病に倒れなければ――今も、美丈夫として、皆に一目置かれていただろう)
若いころは、さぞかし女性にモテただろうと、自然と思った。
そして、その思いがこぼれるように、やわらかな声で口にしてしまった。
「……もし、私がもっと年上で、あなたと歳が近かったなら……クロード様は、私のことなんて、きっと見向きもしなかったのではないかと、思ってしまいます」
どこか寂しげに笑ったアリスに、クロードは驚いたように目を丸くし、それから、少しだけ目を細めた。
「それは、違うと思うな」
「……え?」
「きっと、私は君に恋をしたと思うよ」
その言葉は、あまりにあっさりとしていて、それでいて深く、アリスの胸を貫いた。
「……そんなこと、言ってくださって……」
アリスの声が揺れる。
「いや、本気だよ。君の聡明さ、やさしさ、そして……その眼差しを、私は何より美しいと思っている」
窓の外の光が、鐘楼の影を長く落とす。ふたりの影もまた、静かに並んでいた。
クロードの手が、そっとアリスの指を包む。
「この景色を、君と見ることができてよかった」
「……私は、この命をもってしても、君に出会えたことを、悔いないよ」
その声は、どこまでも静かで、あたたかく――まるで祈りのようだった。
アリスはそっと目を閉じ、その手の温もりを指先に確かめた。
(私は、あなたと出会えたこの時間を……何があっても、決して後悔などしない)
心の奥で、そう強く願いながら、アリスはその手を、そっと、強く握り返した。
「もう三年が経つんですね」
クロードの隣で、アリスが微笑んだ。頬にかかる髪を指で払いながら、淡い光の中で彼女の面差しは、かつてよりいっそう穏やかになっていた。
「君のおかげだよ。私がこの三年を生きてこられたのは」
クロードの声は静かで、それでいて深い重みを含んでいた。アリスはその手をそっと握る。春の陽だまりのように、やさしいぬくもりだった。
「お礼なんて……違います。私は今も、これからも、クロード様と一緒に生きていきたいんです」
アリスは瞳に涙が溜まるのを感じたが、
決して溢さないように笑顔をつくる。
クロードは柔らかく微笑み、彼女の手を胸に引き寄せた。薄くなった胸の奥で、それでもまだ確かに、命が鼓動を刻んでいた。
けれど――それが、もう長くないのだと、彼は知っていた。
夜ごとに走る痛み。身体の冷え。目覚めるたびに衰えていく感覚。医師は「再発の兆候がある」と穏やかに告げたが、クロードは悟っていた。
(あと、そう長くはない)
だからこそ――。
「アリス、一つ、わがままを言ってもいいか?」
そう前置きして、クロードは言った。
「最後に……君とふたりで、旅がしたい。少しでいい、私の思い出の場所を、君にも見せたいんだ」
アリスは驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい、行きましょう。旅じゃなくても、何でもいい。あなたと歩く時間が、これからもずっと続いてほしい。私は……そのためなら、どこへでも行きます」
その瞳には、どこまでも強く、優しい光が宿っていた。
***
旅は、ゆっくりとしたものだった。
馬車に揺られ、村から村へ。クロードが幼いころに過ごした湖畔の家、青年時代に剣を学んだ騎士の館跡、初めて任官した町の広場――それぞれに彼の記憶が息づいていた。
どの地でも、クロードは静かに思い出を語った。アリスはただ耳を傾け、笑みを浮かべ、ときに彼の手を握った。言葉の端々に、長い歳月を歩いてきた男の足跡が見えた。
「ここに来るのは、何年ぶりだろうな……湖のそばの家。父がよく言っていた。水面に映る自分の姿に、嘘はつけないって」
小さな村では、クロードが少年の頃に泳いだという湖のほとりで馬車を降りた。彼は膝に少し力を込めて歩きながら、水辺に立った。
「……ここには、前妻とも来たことがあるんだ」
ふと、彼がそう口にしたとき、アリスはその瞳を見た。
「政略結婚だった。お互い、年も近かったし、最初から心を通わせる余裕なんてなかった。ただ、少しずつ、話せるようになって……その矢先に、彼女は病で……」
クロードは微かに首を振った。
「私もまだ若くて、気の利いた言葉も、笑わせることもできなかった。ただ傍にいただけだ。……良い夫じゃなかったと思う」
風が吹き、水面が静かに揺れた。
アリスは黙って頷き、そっと彼の手を握った。彼の過去に、彼女の言葉は必要なかった。ただ、手の温もりを返すことだけが、自分にできることのように思えた。
またある日は、町の宿での昼下がり。
「学生時代のことを話そうか。……私はね、算術だけは誰にも負けなかった。数字は嘘をつかないから、安心できてね。でも、美術はからっきしで……ひどいものだった。りんごを描いたつもりが、先生に『じゃがいもか?』って聞かれたくらい」
アリスがくすりと笑うと、クロードも肩を揺らして笑った。
「歌もだ。聞くのは好きだったが、歌うと音が外れてしまって、学友たちに耳をふさがれたよ。特に朝の聖歌なんて地獄だった」
アリスが思わず吹き出す。
「うそです。そんな、クロード様が」
「……ほんとさ。まあ、君の前では歌わない方がいいかもしれないな。幻滅されてしまう」
そのときのクロードの表情には、どこか少年のような無邪気さが浮かんでいて、アリスの胸の奥がやさしく震えた。
そして、旅の終盤。
ふたりは、山あいの古い修道院を訪れた。
石造りの鐘楼と、小さな教会。冬の終わりを告げるような、澄んだ空気が漂っていた。
クロードは、ひとつの窓辺に立ち、しばし外の風景を見つめていた。
アリスも隣に立ち、彼と同じ景色に目をやる。
その横顔を、ふと見つめた。
(なんて、端正な顔立ちなのだろう)
少しこけた頬に、深く刻まれた皺。けれどその輪郭は崩れず、光に照らされたまなざしには、凛とした気高さがあり、美しかった。
(もし、クロード様が病に倒れなければ――今も、美丈夫として、皆に一目置かれていただろう)
若いころは、さぞかし女性にモテただろうと、自然と思った。
そして、その思いがこぼれるように、やわらかな声で口にしてしまった。
「……もし、私がもっと年上で、あなたと歳が近かったなら……クロード様は、私のことなんて、きっと見向きもしなかったのではないかと、思ってしまいます」
どこか寂しげに笑ったアリスに、クロードは驚いたように目を丸くし、それから、少しだけ目を細めた。
「それは、違うと思うな」
「……え?」
「きっと、私は君に恋をしたと思うよ」
その言葉は、あまりにあっさりとしていて、それでいて深く、アリスの胸を貫いた。
「……そんなこと、言ってくださって……」
アリスの声が揺れる。
「いや、本気だよ。君の聡明さ、やさしさ、そして……その眼差しを、私は何より美しいと思っている」
窓の外の光が、鐘楼の影を長く落とす。ふたりの影もまた、静かに並んでいた。
クロードの手が、そっとアリスの指を包む。
「この景色を、君と見ることができてよかった」
「……私は、この命をもってしても、君に出会えたことを、悔いないよ」
その声は、どこまでも静かで、あたたかく――まるで祈りのようだった。
アリスはそっと目を閉じ、その手の温もりを指先に確かめた。
(私は、あなたと出会えたこの時間を……何があっても、決して後悔などしない)
心の奥で、そう強く願いながら、アリスはその手を、そっと、強く握り返した。
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