【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

文字の大きさ
10 / 43

10

 旅の終わりは、突然やってきた。

 季節は、春の兆しから初夏へと移ろい始めていた。
 けれど、クロードの容体は、目に見えて落ちていった。

 帰邸から数日、彼はもう歩くことも、声を張ることもできなくなっていた。
 けれど、顔色は穏やかで、どこか満たされたような微笑を絶やさなかった。


 ある朝。
 アリスがいつものように部屋を訪れると、クロードはベッドの上で目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。

「……アリス、来てくれたのか」

 弱々しくも、彼の声は確かだった。

「ええ。今日もお顔を見に来ました」

 アリスは椅子を引き寄せ、彼の手を取った。
 その手は、骨ばって冷たくなっていたけれど、力を込めると、わずかに握り返してくれた。

「アリス……君と過ごした日々は、私の人生で、最もあたたかい時間だった」

「――それを言うなら、私の方こそ」

 アリスはかぶりを振って、涙をこらえた。

「クロード様と過ごす日々が、どれほど大切だったか……言葉にするには、足りなさすぎます」

 クロードは、薄く笑った。

「……書斎の机の引き出しに、遺書を入れてある。弁護士にも話をつけてあるよ。君の身の安全も、将来も、私の手の届く限りで守れるようにしたつもりだ」

「――お願いです、そんな話は、今は……」

「聞いてくれ。大事なことなんだ」

 クロードの声が、少しだけ強くなった。

「フォワード子爵家の人間が、君に手を出すことはもうできない。私の死後、彼らが接触した時点で、罰せられるよう、法的処置をとった。……あの家に、君を踏みつけにする権利などない」

 アリスは、唇を噛みしめて頷いた。

「ありがとうございます、クロード様。でも……私は、あなたが生きていてくれるだけで、十分でした」

「私も、もっと生きたかったよ」

 そう言って、クロードはアリスの手を見つめた。

「……君のために、もっと季節をめぐって、もっと笑顔を見たかった」

「だったら、生きてください。まだ、終わらないでください」

 アリスの声が震える。

 クロードは目を閉じ、かすかに息を吸い込んだ。
 けれど、その呼吸は細く、薄れていくようだった。

「……アリス。私はもうすぐ……旅立つ。だけど、君の心の中に、少しでも……私が残っていてくれるなら……それだけで、救われる」

「やめてください、クロード様。そんなふうに言わないでください……!」

 アリスの涙が、クロードの手に落ちた。

 クロードの呼吸が、わずかに浅くなっていくのを感じながら、アリスはその手を強く握った。
 冷たくなりかけている手。けれど、その中にまだ確かな命のぬくもりがあった。

「……クロード様」

 呼びかけると、クロードはかすかに目を開けた。

 その瞳に、まだアリスの姿が映っている――それが、何よりも嬉しかった。

 アリスは、胸の奥から湧き上がる想いを抑えきれずに、静かに言葉を紡いだ。

「……お願いがあります。クロード様。最期に……一度だけ……」

「……なんだい」

「……あなたに、口づけをしてもいいですか?」

 クロードは、驚いたように目を瞬かせ、そして、わずかに首を振った。

「……私はもう、こんな姿だ。病に侵された、弱りきった身体だよ。君に触れるには、ふさわしくない」

 その言葉に、アリスは首を横に振って、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返した。

「違います。クロード様は――私の、愛する人です。
どんな姿でも、どんな時でも……私は、あなたを、心の底から愛しています」

 震える声の奥には、確かな決意があった。
 涙で濡れたその瞳は、悲しみに沈みながらも、曇りひとつなかった。

 クロードの頬に、ほんのりと紅が差す。

「……そんなふうに言われたら……君を抱きしめたくなってしまうじゃないか……病人のくせに、ね」

 掠れた冗談に、アリスはそっと首を横に振った。

「いいんです。……今だけでいい。あなたに、私のすべてを伝えさせてください」

 言葉を終えると同時に、アリスはそっと身をかがめた。
 クロードの枕元に膝をつき、彼の頬に顔を寄せる。

 かすかに上下する胸の動き。か細く続く呼吸の気配。
 その命がまだ確かにあることに、胸が締めつけられる。

「……愛しています、クロード様。心から、出会えてよかったと……何度も、何度も思いました」

 そしてアリスは――震える唇をそっと近づけ、
 彼の唇へ、やさしく、祈るような口づけを落とした。

 それは、熱や情熱ではない。
 けれど、限りない敬意と、深い慈しみ、そして永遠を願う想いを込めた、
 静かで、あたたかなキスだった。

 クロードの唇には、まだわずかな温もりが残っていた。
 アリスは、その体温に、胸がいっぱいになった。

 ――この瞬間が永遠になればいい。
 このぬくもりが、ずっと続けばいい。
 その想いだけが、彼女の全身を満たしていた。

 ふたりが出会い、重ねた日々のすべてが、
 この一瞬のためにあったのだとさえ、思えた。

 クロードの目尻に、ひとすじ、静かな涙が伝う。

「……アリス……君を……愛してる……」

 それが――彼の、最後の言葉だった。

 まぶたが、ゆっくりと閉じられる。
 呼吸が、静かに、途切れていく。

 アリスは、その手を握りしめたまま、崩れるように泣いた。

 その涙は、別れの涙であると同時に、
 愛しき人の魂に贈る、最後の祈りでもあった。

 ――それは、たった一度きりの、永遠の口づけ。

 命の境にあってなお、ふたりの心は深く結ばれ、
 その愛は、静かに、けれど永く――時の彼方に、残された。




 

あなたにおすすめの小説

異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない

木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。 生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。 ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。 その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。

【完結】もう辛い片想いは卒業して結婚相手を探そうと思います

ユユ
恋愛
【 お知らせ 】 先日、近況ボードにも お知らせしました通り 2026年4月に 完結済みのお話の多数を 一旦closeいたします。 誤字脱字などを修正して 再掲載をするつもりですが 再掲載しない作品もあります。 再掲載の時期は決まっておりません。 表現の変更などもあり得ます。 他の作品も同様です。 ご了承いただけますようお願いいたします。 ユユ 【 お話の内容紹介 】 大家族で大富豪の伯爵家に産まれた令嬢には 好きな人がいた。 彼からすれば誰にでも向ける微笑みだったが 令嬢はそれで恋に落ちてしまった。 だけど彼は私を利用するだけで 振り向いてはくれない。 ある日、薬の過剰摂取をして 彼から離れようとした令嬢の話。 * 完結保証付き * 3万文字未満 * 暇つぶしにご利用下さい

【完結】王命の代行をお引き受けいたします

ユユ
恋愛
【 お知らせ 】 先日、近況ボードにも お知らせしました通り 2026年4月に 完結済みのお話の多数を 一旦closeいたします。 誤字脱字などを修正して 再掲載をするつもりですが 再掲載しない作品もあります。 再掲載の時期は決まっておりません。 表現の変更などもあり得ます。 他の作品も同様です。 ご了承いただけますようお願いいたします。 ユユ 【 お話の内容紹介 】 白過ぎる結婚。 逃れられない。 隣接する仲の悪い貴族同士の婚姻は王命だった。 相手は一人息子。 姉が嫁ぐはずだったのに式の前夜に事故死。 仕方なく私が花嫁に。 * 作り話です。 * 完結しています。

【完結】初恋の彼に 身代わりの妻に選ばれました

ユユ
恋愛
【 お知らせ 】 先日、近況ボードにも お知らせしました通り 2026年4月に 完結済みのお話の多数を 一旦closeいたします。 誤字脱字などを修正して 再掲載をするつもりですが 再掲載しない作品もあります。 再掲載の時期は決まっておりません。 表現の変更などもあり得ます。 他の作品も同様です。 ご了承いただけますようお願いいたします。 ユユ 【 お話の内容紹介 】 婚姻4年。夫が他界した。 夫は婚約前から病弱だった。 王妃様は、愛する息子である第三王子の婚約者に 私を指名した。 本当は私にはお慕いする人がいた。 だけど平凡な子爵家の令嬢の私にとって 彼は高嶺の花。 しかも王家からの打診を断る自由などなかった。 実家に戻ると、高嶺の花の彼の妻にと縁談が…。 * 作り話です。 * 完結保証つき。 * R18

報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を

さくたろう
恋愛
 その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。  少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。 20話です。小説家になろう様でも公開中です。

【完結】絶縁してでも愛を選んだのに、祭壇の前で夫が豹変しました。

ユユ
恋愛
愛情たっぷり注がれて育った。 その全てを捨てて愛する人を選んだ。 だけど祭壇の前で愛を誓うはずが 隣にいたのは豹変した夫だった。 彼の愛の囁きが全て嘘だったと知った。 * 作り話です。 * 暇つぶしにどうぞ。

メイウッド家の双子の姉妹

柴咲もも
恋愛
シャノンは双子の姉ヴァイオレットと共にこの春社交界にデビューした。美しい姉と違って地味で目立たないシャノンは結婚するつもりなどなかった。それなのに、ある夜、訪れた夜会で見知らぬ男にキスされてしまって…? ※19世紀英国風の世界が舞台のヒストリカル風ロマンス小説(のつもり)です。

【完結】体目的でもいいですか?

ユユ
恋愛
【 お知らせ 】 先日、近況ボードにも お知らせしました通り 2026年4月に 完結済みのお話の多数を 一旦closeいたします。 誤字脱字などを修正して 再掲載をするつもりですが 再掲載しない作品もあります。 再掲載の時期は決まっておりません。 表現の変更などもあり得ます。 他の作品も同様です。 ご了承いただけますようお願いいたします。 ユユ 【 お話の内容紹介 】 王太子殿下の婚約者候補だったルーナは 冤罪をかけられて断罪された。 顔に火傷を負った狂乱の戦士に 嫁がされることになった。 ルーナは内向的な令嬢だった。 冤罪という声も届かず罪人のように嫁ぎ先へ。 だが、護送中に巨大な熊に襲われ 馬車が暴走。 ルーナは瀕死の重症を負った。 というか一度死んだ。 神の悪戯か、日本で死んだ私がルーナとなって蘇った。 * 作り話です * 完結保証付きです * R18