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旅の終わりは、突然やってきた。
季節は、春の兆しから初夏へと移ろい始めていた。
けれど、クロードの容体は、目に見えて落ちていった。
帰邸から数日、彼はもう歩くことも、声を張ることもできなくなっていた。
けれど、顔色は穏やかで、どこか満たされたような微笑を絶やさなかった。
ある朝。
アリスがいつものように部屋を訪れると、クロードはベッドの上で目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。
「……アリス、来てくれたのか」
弱々しくも、彼の声は確かだった。
「ええ。今日もお顔を見に来ました」
アリスは椅子を引き寄せ、彼の手を取った。
その手は、骨ばって冷たくなっていたけれど、力を込めると、わずかに握り返してくれた。
「アリス……君と過ごした日々は、私の人生で、最もあたたかい時間だった」
「――それを言うなら、私の方こそ」
アリスはかぶりを振って、涙をこらえた。
「クロード様と過ごす日々が、どれほど大切だったか……言葉にするには、足りなさすぎます」
クロードは、薄く笑った。
「……書斎の机の引き出しに、遺書を入れてある。弁護士にも話をつけてあるよ。君の身の安全も、将来も、私の手の届く限りで守れるようにしたつもりだ」
「――お願いです、そんな話は、今は……」
「聞いてくれ。大事なことなんだ」
クロードの声が、少しだけ強くなった。
「フォワード子爵家の人間が、君に手を出すことはもうできない。私の死後、彼らが接触した時点で、罰せられるよう、法的処置をとった。……あの家に、君を踏みつけにする権利などない」
アリスは、唇を噛みしめて頷いた。
「ありがとうございます、クロード様。でも……私は、あなたが生きていてくれるだけで、十分でした」
「私も、もっと生きたかったよ」
そう言って、クロードはアリスの手を見つめた。
「……君のために、もっと季節をめぐって、もっと笑顔を見たかった」
「だったら、生きてください。まだ、終わらないでください」
アリスの声が震える。
クロードは目を閉じ、かすかに息を吸い込んだ。
けれど、その呼吸は細く、薄れていくようだった。
「……アリス。私はもうすぐ……旅立つ。だけど、君の心の中に、少しでも……私が残っていてくれるなら……それだけで、救われる」
「やめてください、クロード様。そんなふうに言わないでください……!」
アリスの涙が、クロードの手に落ちた。
クロードの呼吸が、わずかに浅くなっていくのを感じながら、アリスはその手を強く握った。
冷たくなりかけている手。けれど、その中にまだ確かな命のぬくもりがあった。
「……クロード様」
呼びかけると、クロードはかすかに目を開けた。
その瞳に、まだアリスの姿が映っている――それが、何よりも嬉しかった。
アリスは、胸の奥から湧き上がる想いを抑えきれずに、静かに言葉を紡いだ。
「……お願いがあります。クロード様。最期に……一度だけ……」
「……なんだい」
「……あなたに、口づけをしてもいいですか?」
クロードは、驚いたように目を瞬かせ、そして、わずかに首を振った。
「……私はもう、こんな姿だ。病に侵された、弱りきった身体だよ。君に触れるには、ふさわしくない」
その言葉に、アリスは首を横に振って、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「違います。クロード様は――私の、愛する人です。
どんな姿でも、どんな時でも……私は、あなたを、心の底から愛しています」
震える声の奥には、確かな決意があった。
涙で濡れたその瞳は、悲しみに沈みながらも、曇りひとつなかった。
クロードの頬に、ほんのりと紅が差す。
「……そんなふうに言われたら……君を抱きしめたくなってしまうじゃないか……病人のくせに、ね」
掠れた冗談に、アリスはそっと首を横に振った。
「いいんです。……今だけでいい。あなたに、私のすべてを伝えさせてください」
言葉を終えると同時に、アリスはそっと身をかがめた。
クロードの枕元に膝をつき、彼の頬に顔を寄せる。
かすかに上下する胸の動き。か細く続く呼吸の気配。
その命がまだ確かにあることに、胸が締めつけられる。
「……愛しています、クロード様。心から、出会えてよかったと……何度も、何度も思いました」
そしてアリスは――震える唇をそっと近づけ、
彼の唇へ、やさしく、祈るような口づけを落とした。
それは、熱や情熱ではない。
けれど、限りない敬意と、深い慈しみ、そして永遠を願う想いを込めた、
静かで、あたたかなキスだった。
クロードの唇には、まだわずかな温もりが残っていた。
アリスは、その体温に、胸がいっぱいになった。
――この瞬間が永遠になればいい。
このぬくもりが、ずっと続けばいい。
その想いだけが、彼女の全身を満たしていた。
ふたりが出会い、重ねた日々のすべてが、
この一瞬のためにあったのだとさえ、思えた。
クロードの目尻に、ひとすじ、静かな涙が伝う。
「……アリス……君を……愛してる……」
それが――彼の、最後の言葉だった。
まぶたが、ゆっくりと閉じられる。
呼吸が、静かに、途切れていく。
アリスは、その手を握りしめたまま、崩れるように泣いた。
その涙は、別れの涙であると同時に、
愛しき人の魂に贈る、最後の祈りでもあった。
――それは、たった一度きりの、永遠の口づけ。
命の境にあってなお、ふたりの心は深く結ばれ、
その愛は、静かに、けれど永く――時の彼方に、残された。
季節は、春の兆しから初夏へと移ろい始めていた。
けれど、クロードの容体は、目に見えて落ちていった。
帰邸から数日、彼はもう歩くことも、声を張ることもできなくなっていた。
けれど、顔色は穏やかで、どこか満たされたような微笑を絶やさなかった。
ある朝。
アリスがいつものように部屋を訪れると、クロードはベッドの上で目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。
「……アリス、来てくれたのか」
弱々しくも、彼の声は確かだった。
「ええ。今日もお顔を見に来ました」
アリスは椅子を引き寄せ、彼の手を取った。
その手は、骨ばって冷たくなっていたけれど、力を込めると、わずかに握り返してくれた。
「アリス……君と過ごした日々は、私の人生で、最もあたたかい時間だった」
「――それを言うなら、私の方こそ」
アリスはかぶりを振って、涙をこらえた。
「クロード様と過ごす日々が、どれほど大切だったか……言葉にするには、足りなさすぎます」
クロードは、薄く笑った。
「……書斎の机の引き出しに、遺書を入れてある。弁護士にも話をつけてあるよ。君の身の安全も、将来も、私の手の届く限りで守れるようにしたつもりだ」
「――お願いです、そんな話は、今は……」
「聞いてくれ。大事なことなんだ」
クロードの声が、少しだけ強くなった。
「フォワード子爵家の人間が、君に手を出すことはもうできない。私の死後、彼らが接触した時点で、罰せられるよう、法的処置をとった。……あの家に、君を踏みつけにする権利などない」
アリスは、唇を噛みしめて頷いた。
「ありがとうございます、クロード様。でも……私は、あなたが生きていてくれるだけで、十分でした」
「私も、もっと生きたかったよ」
そう言って、クロードはアリスの手を見つめた。
「……君のために、もっと季節をめぐって、もっと笑顔を見たかった」
「だったら、生きてください。まだ、終わらないでください」
アリスの声が震える。
クロードは目を閉じ、かすかに息を吸い込んだ。
けれど、その呼吸は細く、薄れていくようだった。
「……アリス。私はもうすぐ……旅立つ。だけど、君の心の中に、少しでも……私が残っていてくれるなら……それだけで、救われる」
「やめてください、クロード様。そんなふうに言わないでください……!」
アリスの涙が、クロードの手に落ちた。
クロードの呼吸が、わずかに浅くなっていくのを感じながら、アリスはその手を強く握った。
冷たくなりかけている手。けれど、その中にまだ確かな命のぬくもりがあった。
「……クロード様」
呼びかけると、クロードはかすかに目を開けた。
その瞳に、まだアリスの姿が映っている――それが、何よりも嬉しかった。
アリスは、胸の奥から湧き上がる想いを抑えきれずに、静かに言葉を紡いだ。
「……お願いがあります。クロード様。最期に……一度だけ……」
「……なんだい」
「……あなたに、口づけをしてもいいですか?」
クロードは、驚いたように目を瞬かせ、そして、わずかに首を振った。
「……私はもう、こんな姿だ。病に侵された、弱りきった身体だよ。君に触れるには、ふさわしくない」
その言葉に、アリスは首を横に振って、彼の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「違います。クロード様は――私の、愛する人です。
どんな姿でも、どんな時でも……私は、あなたを、心の底から愛しています」
震える声の奥には、確かな決意があった。
涙で濡れたその瞳は、悲しみに沈みながらも、曇りひとつなかった。
クロードの頬に、ほんのりと紅が差す。
「……そんなふうに言われたら……君を抱きしめたくなってしまうじゃないか……病人のくせに、ね」
掠れた冗談に、アリスはそっと首を横に振った。
「いいんです。……今だけでいい。あなたに、私のすべてを伝えさせてください」
言葉を終えると同時に、アリスはそっと身をかがめた。
クロードの枕元に膝をつき、彼の頬に顔を寄せる。
かすかに上下する胸の動き。か細く続く呼吸の気配。
その命がまだ確かにあることに、胸が締めつけられる。
「……愛しています、クロード様。心から、出会えてよかったと……何度も、何度も思いました」
そしてアリスは――震える唇をそっと近づけ、
彼の唇へ、やさしく、祈るような口づけを落とした。
それは、熱や情熱ではない。
けれど、限りない敬意と、深い慈しみ、そして永遠を願う想いを込めた、
静かで、あたたかなキスだった。
クロードの唇には、まだわずかな温もりが残っていた。
アリスは、その体温に、胸がいっぱいになった。
――この瞬間が永遠になればいい。
このぬくもりが、ずっと続けばいい。
その想いだけが、彼女の全身を満たしていた。
ふたりが出会い、重ねた日々のすべてが、
この一瞬のためにあったのだとさえ、思えた。
クロードの目尻に、ひとすじ、静かな涙が伝う。
「……アリス……君を……愛してる……」
それが――彼の、最後の言葉だった。
まぶたが、ゆっくりと閉じられる。
呼吸が、静かに、途切れていく。
アリスは、その手を握りしめたまま、崩れるように泣いた。
その涙は、別れの涙であると同時に、
愛しき人の魂に贈る、最後の祈りでもあった。
――それは、たった一度きりの、永遠の口づけ。
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