【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 石畳の道に、午後の柔らかな陽射しが降り注いでいた。

 通り沿いの喫茶店。そのテラス席の一隅に、ノエルとアリスは向かい合って腰を下ろしていた。街路樹の葉が優しく揺れ、吹き抜ける風がパラソルの端をそっと撫でていく。

 涼やかな氷の音が、グラスの中で小さく響いた。

「……ここ、学園時代の帰りによく立ち寄ったんです。授業が早く終わった日なんかは、決まってここに」

 ノエルがどこか照れたように笑みを浮かべると、アリスも小さく頷いた。

「ええ、昔からあるお店でしたね。私は……よくお店の前を通っていました。今日はこうして中に入れて、嬉しいです」

 アリスが静かに微笑んだ。その穏やかな表情に、ノエルは思わず息を呑みそうになったが、それを悟られぬよう咳払いをひとつして、話を切り出す。

「アリス嬢は、今、何をなさっているのですか?」

「……夫が遺した事業と、あとは慈善活動を少し」

 その言葉に、ノエルの胸がわずかに沈む。

(夫……そうだ、彼女は、もう……)

 けれどすぐに表情を整え、口元を持ち上げて話題を繋ぐ。

「それは……とても立派なことだと思います。慈善活動とおっしゃいましたが、具体的には?」

「奨学金の財団を設立したんです。貧しい家庭の子どもたちにも、学ぶ機会を持ってもらえるように。それから、教会や孤児院にも通っています。ほんの手伝い程度ですけれど」

「……アリス嬢ご自身が?」

 ノエルの目が見開かれる。アリスは頷いた。

「はい。家事には慣れていますから。……実家は名ばかりの子爵家で、使用人もほとんどおりませんでした。私が家事をこなしていたんです」

 ノエルの脳裏に、あの頃のアリスの指先が蘇った。紙をめくる手に、細かい傷や荒れがあったことを、彼は今さらのように思い出した。

(ああ……あれは、そういうことだったんだ)

「ご自身の手で……それは本当に、頭が下がります。私も見習わないといけませんね」

「ふふっ。ノエル様が、ですか?」

 アリスが楽しげに笑い、彼の名を口にした瞬間、ノエルの胸が高鳴る。

(名前を……呼んでくれた)

 何気ない一言が、七年越しの願いだったことを、彼自身が改めて痛感する。

 

 それから二人は、いくつか他愛のない話を交わした。過去の学園のこと、授業の思い出、図書館での静かな空気。懐かしさが互いの表情をほころばせる一方で、胸の奥にはまだ、言葉にできない何かが潜んでいた。

 やがて、ふとした沈黙の中で、ノエルが切り出した。

「……覚えていますか? あの頃、私がやたらと図書館に通っていたこと」

 アリスはグラスを持ち上げたまま、ゆっくりと頷いた。

「はい。よくお見かけしました」

「……あれは、君に会いたかったからなんです」

アリスの手が、ぴたりと止まった。

「……わたしに?」

「ええ。けれど、話しかける勇気はどうしても出なかった。君を目で追ってばかりで……本を読んでいるふりをしていたけど、本の内容なんて全く頭に入っていませんでした」

 言葉を続けるノエルの声には、苦笑と悔いが滲んでいた。

「セリーヌが……酷いことを言ったとき、私は何も言えなかった。君が苦しそうな顔をしていたのに、ただ黙って見ているだけだった。あのときの自分を、今でも許せないでいます」

 アリスは静かに顔を上げた。瞳の奥に、少し戸惑いと、淡い光が揺れていた。

「……そんなふうに思ってくださっていたなんて」

「君のことが好きだって、皆に知られたような気がして、私は完全に取り乱しました。恥ずかしい話ですが……パニックでした」

 ノエルはまっすぐにアリスを見つめた。

「君が初恋でした。……姿を見かけただけで、胸が高鳴って、その日はずっと幸せで。君の名前を呼びたくて、でも怖くて……何もできなかった」

 アリスの表情がわずかに揺れ、そっと目を伏せた。

「……そんなこと、思いもよりませんでした」

「……」

「でも……」 

 アリスは紅茶に目を落としながら、小さく笑みを浮かべた。

「わたしも、ノエル様のことをお慕いしていました」

 ノエルは、思わず息を呑む。

「え……!」

「私も、ノエル様が初恋でした。お姿を見かけただけで、心が浮き立って……その日はずっと、何もかもが輝いて見えました」

 その言葉に、ノエルのまなざしが変わった。真剣な眼差しをアリスに向け、言葉を探すように唇を動かす。

「それは……もう、の話ですか?」

 アリスの微笑みが、すっと消えた。

 目を伏せるその仕草は、断ち切るための決意に見えた。

「……はい。それは、もうのことです」

 その言葉に、ノエルの表情が一瞬だけ曇る。けれど、すぐに穏やかな笑みに戻り、静かに頷いた。

「……そう、ですか。なら……せめて、友人として。これから、君の傍にいさせてはもらえませんか?」

「友人……ですか?」

「私は公爵家の人間です。……君が今手掛けている事業や慈善活動に、少しは役立てるかもしれません。貴族社会でのつながりを活かして、君の支えになりたい」

 アリスは驚いたようにまばたきをした。

(――そんなふうに申し出てくれるなんて)

 確かに、彼女の活動には貴族の後ろ盾が乏しく、資金面でも人脈面でも限界があった。それでも彼女は、他人の力を頼らず、ここまで進んできた。

 けれど、今のノエルの言葉には、上からの庇護でもなく、打算でもなかった。そこには、ただ「今の自分を支えたい」と願う真摯さがあった。

「……なら、友人として――仲良くさせていただけますか」

 その返答に、ノエルは安堵の笑みを浮かべる。アリスの表情も、どこか柔らかく緩んでいた。

 午後の陽射しが、ふたりのテーブルに優しく差し込んでいた。

 初恋は、たしかに過去のものだった。

 その記憶が紡いだ絆が、いま静かに、新たな関係のはじまりを告げていた。
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