【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 午後の陽射しが、窓から淡く差し込んでいた。

 シュヴァリエ公爵家の書斎。
 ノエルとアリスは、奨学金財団の今後の運営について資料を広げ、向かい合っていた。

「この候補校については、先方の対応も前向きでした。あとは予算配分ですね」

「……なるほど。けれど、ここの地域は貴族の支援が少ない分、寄附が不安定で……」

 アリスは地図を見ながら首をかしげる。その横顔を、ノエルがそっと見つめていた。

(真剣な顔も、やっぱり……かわいいな)

 そんな想いを口には出さず、ノエルはさらりと声をかける。

「……地図、こちらを」

「あっ、はい……」

 アリスが手を伸ばしたとき、指先がノエルの手の甲にふれて、ぴたりと止まった。

「あ……」

 一瞬の静寂。

 アリスが思わず見上げると、ノエルの瞳がまっすぐ、真剣にこちらを見ていた。

 その距離の近さに、アリスの心臓が跳ねた。

(……近い……)

 こんなふうにまじまじと見つめられたのは、初めてだった。
 深い青の瞳。穏やかなのに、どこか熱を秘めたまなざし。

 気づけば、呼吸が浅くなっていた。

「……すみません、わたし……!」

 あわてて手を引くアリスに、ノエルはふっと微笑んだ。

「……大丈夫。僕の方こそ、驚かせましたね」

 その微笑みが、また心を揺らす。

 こんなふうに優しくて、穏やかで、静かに支えてくれる人だっただろうか――七年前の彼は。

(……ノエル様って、こんな人だった?)

 どこか知らない人のようで、でも懐かしくて、安心できる。
 不思議な感情が胸に広がっていた。


 ***


 帰り際。ノエルはアリスを玄関先まで送ってくれた。

「……今日の議論、さすがでした。あなたがいれば、財団は必ず大きく成長します」

「……そんな、私はただ……自分にできることをと思っているだけです」

 アリスがうつむくと、ノエルはそっと言った。

「……謙遜は、あなたの美徳ですね。でも、僕にはわかっています。あなたがどれだけ、誰かのために動いているのか」

 その言葉に、アリスはまた胸がきゅっとなった。

(……ノエル様……)

 なぜこんなに心が動くのだろう。
 ただの友人だと、言い聞かせているはずなのに。

「気をつけて、お帰りください。次のレッスンも、お待ちしていますからね」

「……ええ。楽しみにしています」

 言葉を交わし、扉が閉まる。

 アリスは小さく息を吐いた。

(……おかしいわ。なんだか、胸がずっと落ち着かない……)

 知らず知らずのうちに、ノエルを目で追っている自分に気づき、アリスはふと頬を押さえた。

 気のせい。きっと、気のせい。
 けれどその“気のせい”が、やけに温かく、長く残っていた。


***


 ある日ーー

 カップに注がれた紅茶から、ほのかな香りが立ちのぼる。

 アリスはシュヴァリエ公爵家の客間の一角に腰を下ろし、膝の上にそっと手を重ねた。
 応接のテーブルには、舞踏会の夜に撮られた写真が、銀の額に収められている。

(……まさか、自分があんな場所に立つなんて)

 ノエルの隣で笑っている自分――それは、自分ではない誰かのように思えた。

「……写真、お気に召しませんでしたか?」

 穏やかな声に、アリスは顔を上げる。
 ノエルがティーポットを手にして、優しく微笑んでいた。

「あ、いえ……とても綺麗に写していただいて。なんだか、照れくさくて」

「ふふ。けれど、あの夜のあなたは、本当に誰よりも輝いていましたよ」

 胸がきゅっと締めつけられたような気がした。それは、かつてクロードがくれた言葉と、どこか似ていた。


(……クロード様・・・)

 そのことに気づいた瞬間、アリスの心に波紋が広がった。

(どうして、こんなに……)

 自分の中から、少しずつクロードとの思い出が遠ざかっている。時間が流れていくことが、これほどまでに怖いとは知らなかった。

 けれど、それと同じくらい――ノエルの隣にいる自分が自然に思えてしまったことも、また怖かった。

「……ノエル様は、どうして……こんなに優しくしてくださるんですか?」

 思わず、問いかけていた。

 ノエルは、しばし目を伏せて、そして答える。

「あなたを、放っておけないからです」

「……わたしを?」

「ええ。頑張っているのを知っていますから。……自分で道を切り拓こうとする人には、少しの支えが必要だと思うんです」

 その声音には、かつての自分を重ねているような響きがあった。

 アリスは何も言えず、ただ彼の言葉を受け止めた。

 やさしい。
 あたたかい。

 だけど、それがただの友情だと思っていいのか、わからない。

(――だめ。私は、恋をするつもりなんて、もう……)

 そう思ったはずだったのに。
 クロードとの想い出を胸に、静かに過ごしていこうと決めていたのに。

 最近の自分は、まるで――

(まるで、ノエル様に……)

 その先を考えることが怖くて、アリスは思考を打ち切った。

「……ありがとうございます。いつも、助けてくださって……」

 小さく、心からの言葉だけを残すと、ノエルが柔らかく笑った。

「……アリス嬢。次の舞踏会の予定が、もう決まりました。また、ご一緒しませんか?」

「えっ……」

「今度は、もっと多くの人にあなたを紹介したいんです。財団の後援者になってくれそうな方も、いらっしゃるはずですから」

「舞踏会、ですね」

「今度は、もう少し長く踊れそうですね。あなたのステップは、もう僕と釣り合うくらいですから」

 アリスは、恥ずかしさに頬を染めつつ、小さく頷いた。

「……でしたら、また練習を……お願いしても、いいですか?」

 ノエルの笑顔が、少しだけ深まった。

「もちろん。何度でも、お付き合いします。友人として――ね」

 その優しい微笑みに、アリスはふと胸がざわめいた。

 彼の友情は、どこまでも行き届いていて、温かくて、手厚い。気づけば、心がその優しさに甘えている自分がいた。

(……こんなふうにされて、また誰かを好きになってしまったら――)

 その“誰か”の顔が、もうはっきりしてしまっていることに、アリスは気づかないふりをした。

「……それでは、よろしくお願いします」

「もちろん」

 ノエルの返事はどこまでも穏やかだった。

 だが、その胸の内では、すでに次の一手が静かに動き始めていた。






 
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