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舞踏会を目前に控えたある日。
アリスは再びシュヴァリエ公爵家を訪れていた。舞踏会に着ていくドレスの相談のためだ。
「このあたりが、アリス嬢のお顔立ちにいちばん映えるかと――」
使用人が広げた数着のドレスは、いずれも一流の仕立てによる品だった。
やわらかな生成り色に、淡い青の刺繍が施された一着。
そしてもう一つは、深い青のベルベットに、胸元だけ軽く透けるような素材があしらわれた、大人びた一着。
「……これは、いけません。こんな豪華なもの、わたしには――」
アリスは慌てて首を振った。だがノエルは穏やかな笑みで言う。
「私が差し上げるわけではありません。公爵家が“貸し出す”だけです。舞踏会は社交の場、そしてあなたが今後活動の輪を広げていくための出会いの場ですから――準備は整えて当然です」
その口調はどこまでも理知的で、どこにも“下心”など感じさせない。それだけに、アリスは少しだけ申し訳なさを抱えつつも、素直に頷くしかなかった。
(これが、貴族の世界……)
最初の頃のような警戒心は、もはやアリスの中にはなかった。ノエルの支えでステラ侯爵夫人との縁ができ、そこから輪が少しずつ広がっていく実感が、彼への信頼となって根づいていた。
「では、この生成りのドレスを……」
「はい、よくお似合いになると思います」
ノエルは静かに微笑んだが――その胸中では、別の思惑が確かに芽吹いていた。
(この夜を、彼女にとって“特別な思い出”にする)
舞踏会は名目上「社交」の場だが、ノエルにとってはアリスと並び立つ「初の公の場」でもあった。
ここで少しでも自分との関係を他者に印象づけておきたい。――それが、彼の本心だった。
***
舞踏会当日。
煌びやかな会場には貴族たちの談笑が響き渡っていた。
アリスが到着すると、周囲から驚きの視線が注がれる。
「――あれは……クロード奨学金財団の理事夫人?」
「なんて上品な方……公爵家が支援しているという話は本当なのね」
アリスはその視線に戸惑いながらも、毅然とした表情を崩さなかった。背筋を伸ばして、静かにノエルの隣に立つ。
「……緊張していますか?」
ノエルがそっと尋ねると、アリスは小さく笑った。
「はい。でも……ノエル様のおかげで、少しだけ、誇らしい気持ちもあります」
その言葉に、ノエルは思わず胸が熱くなる。
(この場所に、彼女を連れてこれてよかった)
だが――その瞬間だった。
「失礼。ダンスを一曲、お相手しても?」
穏やかな青年の声が割って入る。若い伯爵家の子息、誠実そうな笑みを浮かべていた。
アリスは驚いたようにノエルを見た。
「えっ……、私……」
ノエルは、一瞬、言葉を失った。
(……来たか)
わかってはいた。アリスの美しさと知性、そして“公爵家とのつながり”。どれもが貴族の青年たちにとっては、興味を引かずにはいられない魅力だ。
「彼女は、まだダンスの練習中でして。お怪我をされては困りますから、今回は失礼させてください」
ノエルの口調は礼儀正しく、けれど明確な拒絶だった。
「……そうでしたか。残念ですが、またの機会に」
青年が去ったあと、アリスは小さく口を開いた。
「……あの、ノエル様……わたし……踊れる気はしています……」
「ええ。でも、あなたの初舞踏は、まだ早いです。もっと馴染んでからでいい。今日はまず、雰囲気に慣れることを優先にしましょう」
それは紛れもなく建前だった。
アリスは、ノエルの意図にまったく気づかず、真面目に頷いた。
「……確かに。そうですね。無理は、よくないですものね」
(ふぅ……。危なかった)
ノエルは内心で胸を撫で下ろしながら、アリスの手を取った。
「せめて、一曲だけ、僕と」
「……はい。よろしくお願いします」
やわらかく手を重ねるアリスの笑顔は、愛おしいほどに無防備だった。
それでも――ノエルにとって、この夜は確かに前進の一歩だった。
“公に並び立つ関係”という最初の布石。
気づかぬふりでアリスの周囲を囲い込み、慎重に、けれど確実に距離を詰めていく。
――すべては、彼女の心を、確かに手に入れるその日のために。
***
翌朝、舞踏会の喧騒はまるで夢のように過ぎ去っていた。
アリスは、静かな屋敷の書斎で、昨夜の記憶をそっと思い返していた。胸元に手を当てると、微かに鼓動が速まるのがわかる。
(……まるで、おとぎ話みたいだったわ)
煌めくシャンデリアの下、手を取ってくれたノエルの姿。
優雅な音楽に包まれて、ふたりきりの世界にいるようだったあの一瞬――
(あの方は、友人として私のことを支えてくださっている・・・)
アリスは頬を指で押さえた。熱が、少しだけ残っている気がした。
その日の午後。
ノエルから屋敷に花が届けられた。白いバラを束ねたブーケ。そこには、丁寧な筆跡で一言だけ――
「昨夜は、あなたが一番美しかった」
アリスは思わず目を見開いた。
「……まあ……」
そっと花に頬を寄せたその仕草に、侍女が驚いたように目を見張る。
「奥様、シェヴァリエ公爵令息様は
……とても、優しくしてくださいますね」
「ええ……。公爵家の方ですし、きっと、どなたにでもお優しいのよ」
そう言いながらも、アリスの声にはわずかな照れがにじんでいた。
アリスはまだ気づかない。
自分がどれほどノエルの掌の上にいるのかも、彼がどれほど真剣に彼女だけを見ているのかも――
けれど確かに、二人の距離は静かに、確実に縮まっていた。
アリスは再びシュヴァリエ公爵家を訪れていた。舞踏会に着ていくドレスの相談のためだ。
「このあたりが、アリス嬢のお顔立ちにいちばん映えるかと――」
使用人が広げた数着のドレスは、いずれも一流の仕立てによる品だった。
やわらかな生成り色に、淡い青の刺繍が施された一着。
そしてもう一つは、深い青のベルベットに、胸元だけ軽く透けるような素材があしらわれた、大人びた一着。
「……これは、いけません。こんな豪華なもの、わたしには――」
アリスは慌てて首を振った。だがノエルは穏やかな笑みで言う。
「私が差し上げるわけではありません。公爵家が“貸し出す”だけです。舞踏会は社交の場、そしてあなたが今後活動の輪を広げていくための出会いの場ですから――準備は整えて当然です」
その口調はどこまでも理知的で、どこにも“下心”など感じさせない。それだけに、アリスは少しだけ申し訳なさを抱えつつも、素直に頷くしかなかった。
(これが、貴族の世界……)
最初の頃のような警戒心は、もはやアリスの中にはなかった。ノエルの支えでステラ侯爵夫人との縁ができ、そこから輪が少しずつ広がっていく実感が、彼への信頼となって根づいていた。
「では、この生成りのドレスを……」
「はい、よくお似合いになると思います」
ノエルは静かに微笑んだが――その胸中では、別の思惑が確かに芽吹いていた。
(この夜を、彼女にとって“特別な思い出”にする)
舞踏会は名目上「社交」の場だが、ノエルにとってはアリスと並び立つ「初の公の場」でもあった。
ここで少しでも自分との関係を他者に印象づけておきたい。――それが、彼の本心だった。
***
舞踏会当日。
煌びやかな会場には貴族たちの談笑が響き渡っていた。
アリスが到着すると、周囲から驚きの視線が注がれる。
「――あれは……クロード奨学金財団の理事夫人?」
「なんて上品な方……公爵家が支援しているという話は本当なのね」
アリスはその視線に戸惑いながらも、毅然とした表情を崩さなかった。背筋を伸ばして、静かにノエルの隣に立つ。
「……緊張していますか?」
ノエルがそっと尋ねると、アリスは小さく笑った。
「はい。でも……ノエル様のおかげで、少しだけ、誇らしい気持ちもあります」
その言葉に、ノエルは思わず胸が熱くなる。
(この場所に、彼女を連れてこれてよかった)
だが――その瞬間だった。
「失礼。ダンスを一曲、お相手しても?」
穏やかな青年の声が割って入る。若い伯爵家の子息、誠実そうな笑みを浮かべていた。
アリスは驚いたようにノエルを見た。
「えっ……、私……」
ノエルは、一瞬、言葉を失った。
(……来たか)
わかってはいた。アリスの美しさと知性、そして“公爵家とのつながり”。どれもが貴族の青年たちにとっては、興味を引かずにはいられない魅力だ。
「彼女は、まだダンスの練習中でして。お怪我をされては困りますから、今回は失礼させてください」
ノエルの口調は礼儀正しく、けれど明確な拒絶だった。
「……そうでしたか。残念ですが、またの機会に」
青年が去ったあと、アリスは小さく口を開いた。
「……あの、ノエル様……わたし……踊れる気はしています……」
「ええ。でも、あなたの初舞踏は、まだ早いです。もっと馴染んでからでいい。今日はまず、雰囲気に慣れることを優先にしましょう」
それは紛れもなく建前だった。
アリスは、ノエルの意図にまったく気づかず、真面目に頷いた。
「……確かに。そうですね。無理は、よくないですものね」
(ふぅ……。危なかった)
ノエルは内心で胸を撫で下ろしながら、アリスの手を取った。
「せめて、一曲だけ、僕と」
「……はい。よろしくお願いします」
やわらかく手を重ねるアリスの笑顔は、愛おしいほどに無防備だった。
それでも――ノエルにとって、この夜は確かに前進の一歩だった。
“公に並び立つ関係”という最初の布石。
気づかぬふりでアリスの周囲を囲い込み、慎重に、けれど確実に距離を詰めていく。
――すべては、彼女の心を、確かに手に入れるその日のために。
***
翌朝、舞踏会の喧騒はまるで夢のように過ぎ去っていた。
アリスは、静かな屋敷の書斎で、昨夜の記憶をそっと思い返していた。胸元に手を当てると、微かに鼓動が速まるのがわかる。
(……まるで、おとぎ話みたいだったわ)
煌めくシャンデリアの下、手を取ってくれたノエルの姿。
優雅な音楽に包まれて、ふたりきりの世界にいるようだったあの一瞬――
(あの方は、友人として私のことを支えてくださっている・・・)
アリスは頬を指で押さえた。熱が、少しだけ残っている気がした。
その日の午後。
ノエルから屋敷に花が届けられた。白いバラを束ねたブーケ。そこには、丁寧な筆跡で一言だけ――
「昨夜は、あなたが一番美しかった」
アリスは思わず目を見開いた。
「……まあ……」
そっと花に頬を寄せたその仕草に、侍女が驚いたように目を見張る。
「奥様、シェヴァリエ公爵令息様は
……とても、優しくしてくださいますね」
「ええ……。公爵家の方ですし、きっと、どなたにでもお優しいのよ」
そう言いながらも、アリスの声にはわずかな照れがにじんでいた。
アリスはまだ気づかない。
自分がどれほどノエルの掌の上にいるのかも、彼がどれほど真剣に彼女だけを見ているのかも――
けれど確かに、二人の距離は静かに、確実に縮まっていた。
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