【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 アリスがシュヴァリエ公爵家の門をくぐったのは、午後の陽が傾き始める頃だった。

 格式ある石造りの館と、手入れの行き届いた庭園に、自然と背筋が伸びる。

 (まさか……自分がこんな場所に招かれる日が来るなんて)

 貧しい子爵家の出であるアリスには、どこか場違いな気すらして、玄関で靴音が響くたびに落ち着かない。

「ようこそ、アリス嬢。お待ちしておりました」

 玄関ホールで待っていたノエルが微笑む。その声に、アリスの緊張がわずかにほぐれる。

「本日は“の務め”として、しっかりレッスンをさせていただきますので、覚悟をお願いします」

「……あ、あの、やっぱり今からでも辞退は――」

「ダメです」

 即答されて、アリスは八の字に眉を下げた。そんな表情すら愛おしいと思いながら、ノエルはそっと手を差し伸べた。

「では、ご案内します。舞踏室へ」

 案内された舞踏室は、光の降り注ぐ広間だった。窓からの陽光が、白い床に柔らかく広がっている。

「ここで、母も昔レッスンを受けていたんです。家族の中でも、僕が一番ダンスが得意なんですよ」

「まぁ、ノエル様は、ダンスがお得意なんて、王子様みたいですね」

「王子様とは光栄です」

「私ったら・・・」

 アリスは無邪気に言った自分の言葉に顔を赤らめてしまう。そんな可愛い様子のアリスを見て、ノエルは抱きしめたい衝動にかられたが、ぐっと我慢をする。

 余裕を装いながら、ノエルはアリスの手をそっと取った。

「それではまず、構えだけ……はい、こちらの手はここに」

「こ、こうですか?」

「もう少しだけ近く。……そう、そのくらい」

 近づく距離に、アリスの頬がうっすらと紅く染まった。だが彼女は“友人の教え”と信じて疑わず、なんとか心を平静に保とうとする。

(ノエル様、こんなに真剣に教えてくださるわ・・・)

 一方ノエルは、手の中の温もりに神経を集中させながら、外見上は冷静そのものだった。

「舞踏会は、ただの華やかな集まりではありません。顔と名前を売り、人脈を広げ、活動の理解者を得る機会です。貴族社会では、ダンスが交渉の第一歩になることもあるんです」

「交渉……踊りで、ですか?」

「ええ。踊りながら、自分の考えや価値を伝えるのです。“あなたに興味がある”という意思表示にもなりますし、会話の雰囲気から相手の人柄も測れる」

「……わたし、踊れなかったら、何も伝えられませんね」

 不安げな呟きに、ノエルは微笑んだ。

「大丈夫。僕がいます。最初の一歩は、いつだって誰かの支えが必要なんです。だから、まずは僕と――踊ってみてください」

「……はい」

 手と手が触れ、足と足が合わせられ、二人はゆっくりと旋回を始めた。

 まだぎこちないステップ。アリスの足がノエルの靴に何度か当たったが、そのたびにノエルは笑って「大丈夫」と声をかけてくれた。

「ノエル様って、本当に……お優しいですね。だから、たくさんの方に慕われるんでしょうね」

 その言葉に、ノエルは片眉を上げ、わずかに笑みを深めた。

「そうですね。ありがたいことに、“友人”は多いです」

(ただ――僕が望んでいるのは、君一人なんだけどね)

 その本音を、アリスが察するはずもなく。

「じゃあ、私もその“友人”の一人に入れてもらえて、光栄です」

 笑顔でそう言うアリスを見つめながら、ノエルは思った。

(今はまだ“友人”でいい。君の心に、僕の存在が少しずつ馴染んでいけば、それで)

 音楽のない舞踏室。二人きりの、ささやかなレッスン。

 その距離は確かに縮まっていた――けれど、アリスはまだ、それに気づいていない。


***


「……すごいですよ、アリス嬢。本当に初めてとは思えません」

 ノエルの言葉に、アリスは照れくさそうに視線をそらした。

「いえ……あの、ノエル様の教え方がとても丁寧で、だから……」

 舞踏室の空気がやわらかく熱を帯びていた。窓の外は夕暮れが近く、オレンジ色の光が床に斜めの影を落としている。

 何度も踏んだステップ。何度も繰り返した旋回。最初こそ固かったアリスの動きも、いまやすっかり滑らかになっていた。

(アリス嬢は物覚えもよくて、運動神経もよいな)

 ノエルはそんなことを思いながら、ふと一歩踏み出した。

「では、少しだけ難しい振りを取り入れてみましょうか」

「難しい……?」

「はい。回転を多めにして、テンポも上げます。……あと、手の位置も少し変えます」

 そう言って、ノエルはアリスの腰のあたりに手を添えた。通常より、ほんの少し――いや、確かに“近い”。

「――っ」

 アリスの肩が、ぴくりと震えた。

「この踊りは、ステップのタイミングを身体の重心で伝え合うので、少しだけ距離が……縮まります」

「……これ、すごく……近いです、ね……」

「ええ。社交界では、親しい者同士が踊る振りとして知られています」

「そ、そんなの……わたし……見知らぬ方とは……無理です……!」

 顔を真っ赤にしてうつむいたアリスを見て、ノエルはこっそり唇を引き結んだ。笑いを堪えるのに必死だ。

(か、可愛すぎる……)

「それならちょうどいいですね」

 さりげなく言いながら、ノエルはアリスの手を握った。

「この振りは、当面――私とだけ、練習してください。他の人と無理に合わせるのは危険ですし、慣れも必要ですから」

「えっ……あ、はい、もちろん。そ、そんな……他の方とは絶対に……」

 条件反射のように即答した自分に、アリスは数秒後にようやく「あれ?」となる。

(……??、まって、いまのって……?)

 ほんのり首を傾げたアリスの様子に、ノエルは「天然すぎて心配になる」と心の中で思いながら、澄ました顔で踊りの続きを提案した。

「それでは、もう一度いきましょう。今度は少しテンポを上げて」

「……あ、……はい……!」

 再び始まるレッスン。
 だがアリスの集中は、先ほどから散り散りだった。

 近い距離。
 熱い掌。
 すぐそばで聞こえるノエルの呼吸。
 耳元で優しく囁く声。
 ひとつひとつが、理性を曇らせる。

(これ……本当に、友人同士のレッスン……?)

 舞踏室の中、ひときわ高く回ったスカートの裾と、そっと支えるノエルの手。

「上手くなりましたね、アリス嬢」

「……そ、そうでしょうか……?」

「はい。僕としては、誇らしい教え子です」

 そのときのノエルの笑みは、どこまでも優しく、どこか甘やかすようだった。

 アリスはもう、何が照れていて、何が普通なのか分からなくなり始めていた。

 けれど――その不思議な心地よさから、逃れたいとは思わなかった。

(これって……変?ですよね。でも……)

 まだ答えの出ないその感情は、ゆっくりと――恋へと、かたちを変え始めていた。

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