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アリスがシュヴァリエ公爵家の門をくぐったのは、午後の陽が傾き始める頃だった。
格式ある石造りの館と、手入れの行き届いた庭園に、自然と背筋が伸びる。
(まさか……自分がこんな場所に招かれる日が来るなんて)
貧しい子爵家の出であるアリスには、どこか場違いな気すらして、玄関で靴音が響くたびに落ち着かない。
「ようこそ、アリス嬢。お待ちしておりました」
玄関ホールで待っていたノエルが微笑む。その声に、アリスの緊張がわずかにほぐれる。
「本日は“友人の務め”として、しっかりレッスンをさせていただきますので、覚悟をお願いします」
「……あ、あの、やっぱり今からでも辞退は――」
「ダメです」
即答されて、アリスは八の字に眉を下げた。そんな表情すら愛おしいと思いながら、ノエルはそっと手を差し伸べた。
「では、ご案内します。舞踏室へ」
案内された舞踏室は、光の降り注ぐ広間だった。窓からの陽光が、白い床に柔らかく広がっている。
「ここで、母も昔レッスンを受けていたんです。家族の中でも、僕が一番ダンスが得意なんですよ」
「まぁ、ノエル様は、ダンスがお得意なんて、王子様みたいですね」
「王子様とは光栄です」
「私ったら・・・」
アリスは無邪気に言った自分の言葉に顔を赤らめてしまう。そんな可愛い様子のアリスを見て、ノエルは抱きしめたい衝動にかられたが、ぐっと我慢をする。
余裕を装いながら、ノエルはアリスの手をそっと取った。
「それではまず、構えだけ……はい、こちらの手はここに」
「こ、こうですか?」
「もう少しだけ近く。……そう、そのくらい」
近づく距離に、アリスの頬がうっすらと紅く染まった。だが彼女は“友人の教え”と信じて疑わず、なんとか心を平静に保とうとする。
(ノエル様、こんなに真剣に教えてくださるわ・・・)
一方ノエルは、手の中の温もりに神経を集中させながら、外見上は冷静そのものだった。
「舞踏会は、ただの華やかな集まりではありません。顔と名前を売り、人脈を広げ、活動の理解者を得る機会です。貴族社会では、ダンスが交渉の第一歩になることもあるんです」
「交渉……踊りで、ですか?」
「ええ。踊りながら、自分の考えや価値を伝えるのです。“あなたに興味がある”という意思表示にもなりますし、会話の雰囲気から相手の人柄も測れる」
「……わたし、踊れなかったら、何も伝えられませんね」
不安げな呟きに、ノエルは微笑んだ。
「大丈夫。僕がいます。最初の一歩は、いつだって誰かの支えが必要なんです。だから、まずは僕と――踊ってみてください」
「……はい」
手と手が触れ、足と足が合わせられ、二人はゆっくりと旋回を始めた。
まだぎこちないステップ。アリスの足がノエルの靴に何度か当たったが、そのたびにノエルは笑って「大丈夫」と声をかけてくれた。
「ノエル様って、本当に……お優しいですね。だから、たくさんの方に慕われるんでしょうね」
その言葉に、ノエルは片眉を上げ、わずかに笑みを深めた。
「そうですね。ありがたいことに、“友人”は多いです」
(ただ――僕が望んでいるのは、君一人なんだけどね)
その本音を、アリスが察するはずもなく。
「じゃあ、私もその“友人”の一人に入れてもらえて、光栄です」
笑顔でそう言うアリスを見つめながら、ノエルは思った。
(今はまだ“友人”でいい。君の心に、僕の存在が少しずつ馴染んでいけば、それで)
音楽のない舞踏室。二人きりの、ささやかなレッスン。
その距離は確かに縮まっていた――けれど、アリスはまだ、それに気づいていない。
***
「……すごいですよ、アリス嬢。本当に初めてとは思えません」
ノエルの言葉に、アリスは照れくさそうに視線をそらした。
「いえ……あの、ノエル様の教え方がとても丁寧で、だから……」
舞踏室の空気がやわらかく熱を帯びていた。窓の外は夕暮れが近く、オレンジ色の光が床に斜めの影を落としている。
何度も踏んだステップ。何度も繰り返した旋回。最初こそ固かったアリスの動きも、いまやすっかり滑らかになっていた。
(アリス嬢は物覚えもよくて、運動神経もよいな)
ノエルはそんなことを思いながら、ふと一歩踏み出した。
「では、少しだけ難しい振りを取り入れてみましょうか」
「難しい……?」
「はい。回転を多めにして、テンポも上げます。……あと、手の位置も少し変えます」
そう言って、ノエルはアリスの腰のあたりに手を添えた。通常より、ほんの少し――いや、確かに“近い”。
「――っ」
アリスの肩が、ぴくりと震えた。
「この踊りは、ステップのタイミングを身体の重心で伝え合うので、少しだけ距離が……縮まります」
「……これ、すごく……近いです、ね……」
「ええ。社交界では、親しい者同士が踊る振りとして知られています」
「そ、そんなの……わたし……見知らぬ方とは……無理です……!」
顔を真っ赤にしてうつむいたアリスを見て、ノエルはこっそり唇を引き結んだ。笑いを堪えるのに必死だ。
(か、可愛すぎる……)
「それならちょうどいいですね」
さりげなく言いながら、ノエルはアリスの手を握った。
「この振りは、当面――私とだけ、練習してください。他の人と無理に合わせるのは危険ですし、慣れも必要ですから」
「えっ……あ、はい、もちろん。そ、そんな……他の方とは絶対に……」
条件反射のように即答した自分に、アリスは数秒後にようやく「あれ?」となる。
(……??、まって、いまのって……?)
ほんのり首を傾げたアリスの様子に、ノエルは「天然すぎて心配になる」と心の中で思いながら、澄ました顔で踊りの続きを提案した。
「それでは、もう一度いきましょう。今度は少しテンポを上げて」
「……あ、……はい……!」
再び始まるレッスン。
だがアリスの集中は、先ほどから散り散りだった。
近い距離。
熱い掌。
すぐそばで聞こえるノエルの呼吸。
耳元で優しく囁く声。
ひとつひとつが、理性を曇らせる。
(これ……本当に、友人同士のレッスン……?)
舞踏室の中、ひときわ高く回ったスカートの裾と、そっと支えるノエルの手。
「上手くなりましたね、アリス嬢」
「……そ、そうでしょうか……?」
「はい。僕としては、誇らしい教え子です」
そのときのノエルの笑みは、どこまでも優しく、どこか甘やかすようだった。
アリスはもう、何が照れていて、何が普通なのか分からなくなり始めていた。
けれど――その不思議な心地よさから、逃れたいとは思わなかった。
(これって……変?ですよね。でも……)
まだ答えの出ないその感情は、ゆっくりと――恋へと、かたちを変え始めていた。
格式ある石造りの館と、手入れの行き届いた庭園に、自然と背筋が伸びる。
(まさか……自分がこんな場所に招かれる日が来るなんて)
貧しい子爵家の出であるアリスには、どこか場違いな気すらして、玄関で靴音が響くたびに落ち着かない。
「ようこそ、アリス嬢。お待ちしておりました」
玄関ホールで待っていたノエルが微笑む。その声に、アリスの緊張がわずかにほぐれる。
「本日は“友人の務め”として、しっかりレッスンをさせていただきますので、覚悟をお願いします」
「……あ、あの、やっぱり今からでも辞退は――」
「ダメです」
即答されて、アリスは八の字に眉を下げた。そんな表情すら愛おしいと思いながら、ノエルはそっと手を差し伸べた。
「では、ご案内します。舞踏室へ」
案内された舞踏室は、光の降り注ぐ広間だった。窓からの陽光が、白い床に柔らかく広がっている。
「ここで、母も昔レッスンを受けていたんです。家族の中でも、僕が一番ダンスが得意なんですよ」
「まぁ、ノエル様は、ダンスがお得意なんて、王子様みたいですね」
「王子様とは光栄です」
「私ったら・・・」
アリスは無邪気に言った自分の言葉に顔を赤らめてしまう。そんな可愛い様子のアリスを見て、ノエルは抱きしめたい衝動にかられたが、ぐっと我慢をする。
余裕を装いながら、ノエルはアリスの手をそっと取った。
「それではまず、構えだけ……はい、こちらの手はここに」
「こ、こうですか?」
「もう少しだけ近く。……そう、そのくらい」
近づく距離に、アリスの頬がうっすらと紅く染まった。だが彼女は“友人の教え”と信じて疑わず、なんとか心を平静に保とうとする。
(ノエル様、こんなに真剣に教えてくださるわ・・・)
一方ノエルは、手の中の温もりに神経を集中させながら、外見上は冷静そのものだった。
「舞踏会は、ただの華やかな集まりではありません。顔と名前を売り、人脈を広げ、活動の理解者を得る機会です。貴族社会では、ダンスが交渉の第一歩になることもあるんです」
「交渉……踊りで、ですか?」
「ええ。踊りながら、自分の考えや価値を伝えるのです。“あなたに興味がある”という意思表示にもなりますし、会話の雰囲気から相手の人柄も測れる」
「……わたし、踊れなかったら、何も伝えられませんね」
不安げな呟きに、ノエルは微笑んだ。
「大丈夫。僕がいます。最初の一歩は、いつだって誰かの支えが必要なんです。だから、まずは僕と――踊ってみてください」
「……はい」
手と手が触れ、足と足が合わせられ、二人はゆっくりと旋回を始めた。
まだぎこちないステップ。アリスの足がノエルの靴に何度か当たったが、そのたびにノエルは笑って「大丈夫」と声をかけてくれた。
「ノエル様って、本当に……お優しいですね。だから、たくさんの方に慕われるんでしょうね」
その言葉に、ノエルは片眉を上げ、わずかに笑みを深めた。
「そうですね。ありがたいことに、“友人”は多いです」
(ただ――僕が望んでいるのは、君一人なんだけどね)
その本音を、アリスが察するはずもなく。
「じゃあ、私もその“友人”の一人に入れてもらえて、光栄です」
笑顔でそう言うアリスを見つめながら、ノエルは思った。
(今はまだ“友人”でいい。君の心に、僕の存在が少しずつ馴染んでいけば、それで)
音楽のない舞踏室。二人きりの、ささやかなレッスン。
その距離は確かに縮まっていた――けれど、アリスはまだ、それに気づいていない。
***
「……すごいですよ、アリス嬢。本当に初めてとは思えません」
ノエルの言葉に、アリスは照れくさそうに視線をそらした。
「いえ……あの、ノエル様の教え方がとても丁寧で、だから……」
舞踏室の空気がやわらかく熱を帯びていた。窓の外は夕暮れが近く、オレンジ色の光が床に斜めの影を落としている。
何度も踏んだステップ。何度も繰り返した旋回。最初こそ固かったアリスの動きも、いまやすっかり滑らかになっていた。
(アリス嬢は物覚えもよくて、運動神経もよいな)
ノエルはそんなことを思いながら、ふと一歩踏み出した。
「では、少しだけ難しい振りを取り入れてみましょうか」
「難しい……?」
「はい。回転を多めにして、テンポも上げます。……あと、手の位置も少し変えます」
そう言って、ノエルはアリスの腰のあたりに手を添えた。通常より、ほんの少し――いや、確かに“近い”。
「――っ」
アリスの肩が、ぴくりと震えた。
「この踊りは、ステップのタイミングを身体の重心で伝え合うので、少しだけ距離が……縮まります」
「……これ、すごく……近いです、ね……」
「ええ。社交界では、親しい者同士が踊る振りとして知られています」
「そ、そんなの……わたし……見知らぬ方とは……無理です……!」
顔を真っ赤にしてうつむいたアリスを見て、ノエルはこっそり唇を引き結んだ。笑いを堪えるのに必死だ。
(か、可愛すぎる……)
「それならちょうどいいですね」
さりげなく言いながら、ノエルはアリスの手を握った。
「この振りは、当面――私とだけ、練習してください。他の人と無理に合わせるのは危険ですし、慣れも必要ですから」
「えっ……あ、はい、もちろん。そ、そんな……他の方とは絶対に……」
条件反射のように即答した自分に、アリスは数秒後にようやく「あれ?」となる。
(……??、まって、いまのって……?)
ほんのり首を傾げたアリスの様子に、ノエルは「天然すぎて心配になる」と心の中で思いながら、澄ました顔で踊りの続きを提案した。
「それでは、もう一度いきましょう。今度は少しテンポを上げて」
「……あ、……はい……!」
再び始まるレッスン。
だがアリスの集中は、先ほどから散り散りだった。
近い距離。
熱い掌。
すぐそばで聞こえるノエルの呼吸。
耳元で優しく囁く声。
ひとつひとつが、理性を曇らせる。
(これ……本当に、友人同士のレッスン……?)
舞踏室の中、ひときわ高く回ったスカートの裾と、そっと支えるノエルの手。
「上手くなりましたね、アリス嬢」
「……そ、そうでしょうか……?」
「はい。僕としては、誇らしい教え子です」
そのときのノエルの笑みは、どこまでも優しく、どこか甘やかすようだった。
アリスはもう、何が照れていて、何が普通なのか分からなくなり始めていた。
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