【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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(ノエル様、公爵夫人と私がご挨拶するのが嫌だったのかしら……)

 その思いが胸の中に落ちてくると同時に、アリスの心は、静かな水面に石を落としたようにざわめきはじめた。

 ノエルの態度――落ち着かない様子、時計を気にする仕草、誰かを警戒するような視線。そのすべてが、いまになって腑に落ちる気がした。彼は、今日このときを必死に避けようとしていたのだ。テレーゼ夫人との「初対面」を。

 けれど、それはどうして?

(私は……“まだその段階じゃない”って、そう思われていたのだろうか)

 不意に、胸の奥がじんわりと苦しくなった。まるで、言葉にできない不安が、そっと心に手をかけてくるような――そんな感覚。

 やはり私は、ノエル様にとってはただの“協力者”で、家族に紹介するほどの存在じゃないのかもしれない。浮かんでは消える考えに、アリスは唇を結び、うつむいた。

 だが、その沈黙を見かねたように、ノエルが小さく身を乗り出した。空気の重さを割るように、彼の低く、静かな声が届いた。

「アリス、すまない……。母には、君の気持ちがまだ定まっていないと思っていた。突然会わせたら、かえってプレッシャーになるかもしれないって……それで……」

 声が少しだけ掠れていた。慎重に言葉を探すように話す彼の瞳には、深い思慮と後悔の色が浮かんでいた。

 アリスは思わず目を見開いた。

 彼が「私のために」そこまで考えていた――その事実に、驚きと温かさがじんわりと胸に広がっていく。

「……大丈夫です。今こうして、お会いできてよかったですから」

 静かに、けれど確かに微笑んでそう言ったアリスの表情は、もう怯えてなどいなかった。むしろ、どこか誇らしげですらあった。

 その言葉に、ノエルは小さく息を吐く。内心で胸を撫で下ろしながらも、彼はアリスの凛とした横顔を横目で見て、思わず視線を逸らした。

(……ああ、なんて強い人だ)

 そう思った。あんなに突然の来訪に動揺しながらも、自分の不安に飲み込まれることなく、彼女は自分の言葉で道を切り拓いていく。

 その姿が、どうしようもなく誇らしくて――同時に、どこか自分が置いていかれそうで、ひそかに胸が痛んだ。

「あら……」

 そんな二人のやりとりを見ていたテレーゼは、しなやかな視線をアリスに向けながら、心の中でひとつの確信を得ていた。

(この子……まっすぐなだけじゃないわ。ノエルに足りなかった“感情”を、こんなにも自然に引き出している)

 自分の息子は、無表情で何を考えているかわからない“氷のような青年”だったはずだ。
 それが今や、相手の心情を慮り、守ろうとし、焦り、言葉に詰まりながらも必死に説明している。
 そのすべてが、目の前の少女――アリスによって変えられていた。

 窓辺から差し込む光が、淡い金色のカーテンを揺らし、部屋の空気に柔らかな温度を与えていた。
 重厚な書棚や、壁に掛けられた財団の紋章入りのタペストリーが、静かにその場の格式を物語っている。

 それでも、この場にある空気は、どこか穏やかだった。

「……ところで、アリスさん」

 テレーゼが再び口を開いた。声は穏やかで、けれど観察者のそれとして、鋭さも含んでいる。

「はい」

 アリスは姿勢を正し、まっすぐに夫人を見た。

「お茶会を開く前に、あなたのお話を少し聞かせてくださる? 財団の理念、活動内容、そして……あなたがどんな思いでそれに取り組んでおられるのかを」

 その瞬間、アリスの中で何かが切り替わった。

 先ほどまでの緊張が、まるで霧が晴れるように退き、瞳には知性と情熱が宿る。

「はい。〈クロード財団〉という名前は、亡き夫の名を借りて、私が立ち上げたものです。

 彼自身がこの構想を語ったことはありません。ただ……彼が誠実に生き抜いたその背中は、私にとって一つの道しるべでした。

 だからこそ、“彼の名”を冠したこの場所には、胸を張れる活動を託したかったんです。貧困層の子どもたちへの教育支援、病弱な子どもたちの医療体制の整備が主な柱です」

 言葉は正確で、過不足がない。けれど、どこか温かく、人の想いを宿していた。

「当初は小さな寄付や地元の協力を頼るしかありませんでした。ですが……ノエル様が力を貸してくださってからは、活動の幅が一気に広がり、支援を受けられる子どもたちの数も倍以上になりました」

 アリスの語る言葉に、数字や実績が自然と織り交ぜられていく。
 ただの“妻”や“関係者”の口ぶりではない。まさしく、財団の実務を担う者の語り口だった。

 テレーゼの瞳が細められる。

(……さっきまであんなに動揺していたとは思えないわ)

「素晴らしいですわ。アリスさん。……ちなみに、ご実家は?」

 ノエルが「その話は……」と止めようとしたが、アリスはすっと首を振り、穏やかに微笑んだ。

「はい。私の実家は、子爵家です。爵位はありましたが、財政は厳しく、学園にも通えず、図書館で独学の日々でした。十八の時にクロード様と結婚し……二十一で彼を病で亡くしました」

 一呼吸置いて、アリスはノエルを見た。

「それからは、静かに暮らしていくつもりでした。でも……ノエル様が、もう一度、私に“社会と関わる意味”を教えてくださったんです。彼の導きがなければ、財団の発展も、私自身の成長もありませんでした。心から感謝しています」

 言葉は静かに、けれど力強く、部屋の空気を満たしていく。

 ノエルは、喉の奥がつまったような気がして、思わず視線を落とす。
 誇らしさと、少しの照れくささと、そしてそれ以上に、彼女の真っ直ぐさに圧倒されていた。

 テレーゼは、ふっと口元を綻ばせる。

(身分なんて、些細なこと。ノエルの隣に立つのは、この子しかいない)

「……アリスさん。私、あなたのことがとても気に入りました。もしよければ、私の交友関係を通じて、財団の活動をさらに広げるお手伝いをさせていただけませんか?」

「えっ……そんな、もったいないお言葉です」

「いいのよ。これは、“未来の娘”への、ちょっとした贈り物ですわ」

「えっ……?」

「“財団支援者”への、ね?」

 テレーゼがウィンクすらしかけるようにして微笑むと、アリスはぽかんとしたあと、頬を真っ赤に染めて、ノエルを見た。

 そのノエルはというと、額に手を当て、ひそかに絶望していた。

「……だから、話が早すぎると……!」

「うふふふふ」

 母子のそんなやり取りを前に、アリスはくすっと笑って、それ以上何も言わず、ただその温かな光景をそっと胸に刻んだ。
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