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しおりを挟む(ノエル様、公爵夫人と私がご挨拶するのが嫌だったのかしら……)
その思いが胸の中に落ちてくると同時に、アリスの心は、静かな水面に石を落としたようにざわめきはじめた。
ノエルの態度――落ち着かない様子、時計を気にする仕草、誰かを警戒するような視線。そのすべてが、いまになって腑に落ちる気がした。彼は、今日このときを必死に避けようとしていたのだ。テレーゼ夫人との「初対面」を。
けれど、それはどうして?
(私は……“まだその段階じゃない”って、そう思われていたのだろうか)
不意に、胸の奥がじんわりと苦しくなった。まるで、言葉にできない不安が、そっと心に手をかけてくるような――そんな感覚。
やはり私は、ノエル様にとってはただの“協力者”で、家族に紹介するほどの存在じゃないのかもしれない。浮かんでは消える考えに、アリスは唇を結び、うつむいた。
だが、その沈黙を見かねたように、ノエルが小さく身を乗り出した。空気の重さを割るように、彼の低く、静かな声が届いた。
「アリス、すまない……。母には、君の気持ちがまだ定まっていないと思っていた。突然会わせたら、かえってプレッシャーになるかもしれないって……それで……」
声が少しだけ掠れていた。慎重に言葉を探すように話す彼の瞳には、深い思慮と後悔の色が浮かんでいた。
アリスは思わず目を見開いた。
彼が「私のために」そこまで考えていた――その事実に、驚きと温かさがじんわりと胸に広がっていく。
「……大丈夫です。今こうして、お会いできてよかったですから」
静かに、けれど確かに微笑んでそう言ったアリスの表情は、もう怯えてなどいなかった。むしろ、どこか誇らしげですらあった。
その言葉に、ノエルは小さく息を吐く。内心で胸を撫で下ろしながらも、彼はアリスの凛とした横顔を横目で見て、思わず視線を逸らした。
(……ああ、なんて強い人だ)
そう思った。あんなに突然の来訪に動揺しながらも、自分の不安に飲み込まれることなく、彼女は自分の言葉で道を切り拓いていく。
その姿が、どうしようもなく誇らしくて――同時に、どこか自分が置いていかれそうで、ひそかに胸が痛んだ。
「あら……」
そんな二人のやりとりを見ていたテレーゼは、しなやかな視線をアリスに向けながら、心の中でひとつの確信を得ていた。
(この子……まっすぐなだけじゃないわ。ノエルに足りなかった“感情”を、こんなにも自然に引き出している)
自分の息子は、無表情で何を考えているかわからない“氷のような青年”だったはずだ。
それが今や、相手の心情を慮り、守ろうとし、焦り、言葉に詰まりながらも必死に説明している。
そのすべてが、目の前の少女――アリスによって変えられていた。
窓辺から差し込む光が、淡い金色のカーテンを揺らし、部屋の空気に柔らかな温度を与えていた。
重厚な書棚や、壁に掛けられた財団の紋章入りのタペストリーが、静かにその場の格式を物語っている。
それでも、この場にある空気は、どこか穏やかだった。
「……ところで、アリスさん」
テレーゼが再び口を開いた。声は穏やかで、けれど観察者のそれとして、鋭さも含んでいる。
「はい」
アリスは姿勢を正し、まっすぐに夫人を見た。
「お茶会を開く前に、あなたのお話を少し聞かせてくださる? 財団の理念、活動内容、そして……あなたがどんな思いでそれに取り組んでおられるのかを」
その瞬間、アリスの中で何かが切り替わった。
先ほどまでの緊張が、まるで霧が晴れるように退き、瞳には知性と情熱が宿る。
「はい。〈クロード財団〉という名前は、亡き夫の名を借りて、私が立ち上げたものです。
彼自身がこの構想を語ったことはありません。ただ……彼が誠実に生き抜いたその背中は、私にとって一つの道しるべでした。
だからこそ、“彼の名”を冠したこの場所には、胸を張れる活動を託したかったんです。貧困層の子どもたちへの教育支援、病弱な子どもたちの医療体制の整備が主な柱です」
言葉は正確で、過不足がない。けれど、どこか温かく、人の想いを宿していた。
「当初は小さな寄付や地元の協力を頼るしかありませんでした。ですが……ノエル様が力を貸してくださってからは、活動の幅が一気に広がり、支援を受けられる子どもたちの数も倍以上になりました」
アリスの語る言葉に、数字や実績が自然と織り交ぜられていく。
ただの“妻”や“関係者”の口ぶりではない。まさしく、財団の実務を担う者の語り口だった。
テレーゼの瞳が細められる。
(……さっきまであんなに動揺していたとは思えないわ)
「素晴らしいですわ。アリスさん。……ちなみに、ご実家は?」
ノエルが「その話は……」と止めようとしたが、アリスはすっと首を振り、穏やかに微笑んだ。
「はい。私の実家は、子爵家です。爵位はありましたが、財政は厳しく、学園にも通えず、図書館で独学の日々でした。十八の時にクロード様と結婚し……二十一で彼を病で亡くしました」
一呼吸置いて、アリスはノエルを見た。
「それからは、静かに暮らしていくつもりでした。でも……ノエル様が、もう一度、私に“社会と関わる意味”を教えてくださったんです。彼の導きがなければ、財団の発展も、私自身の成長もありませんでした。心から感謝しています」
言葉は静かに、けれど力強く、部屋の空気を満たしていく。
ノエルは、喉の奥がつまったような気がして、思わず視線を落とす。
誇らしさと、少しの照れくささと、そしてそれ以上に、彼女の真っ直ぐさに圧倒されていた。
テレーゼは、ふっと口元を綻ばせる。
(身分なんて、些細なこと。ノエルの隣に立つのは、この子しかいない)
「……アリスさん。私、あなたのことがとても気に入りました。もしよければ、私の交友関係を通じて、財団の活動をさらに広げるお手伝いをさせていただけませんか?」
「えっ……そんな、もったいないお言葉です」
「いいのよ。これは、“未来の娘”への、ちょっとした贈り物ですわ」
「えっ……?」
「“財団支援者”への、ね?」
テレーゼがウィンクすらしかけるようにして微笑むと、アリスはぽかんとしたあと、頬を真っ赤に染めて、ノエルを見た。
そのノエルはというと、額に手を当て、ひそかに絶望していた。
「……だから、話が早すぎると……!」
「うふふふふ」
母子のそんなやり取りを前に、アリスはくすっと笑って、それ以上何も言わず、ただその温かな光景をそっと胸に刻んだ。
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