砕けた光の向こうに

とっくり

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 曇り空が重く垂れ込め、鉛色の雲が空一面を覆っていた。 

 冬の冷たい風が、ザルド地帯の険しい尾根を容赦なく吹き抜ける。
 まるでこの地そのものが、これから始まる戦の気配に身を固くしているかのようだった。

 グランゼル王国との国境に位置するこの一帯は、幾度となく戦火にさらされてきた要衝だ。
 かつての戦役でも多くの血が流れ、いまもなお、土に染みついた怨念が立ちのぼるような空気が漂っていた。

 その静謐な緊張の中、パルマ王国の諜報・先遣部隊が、高台の尾根に慎重に布陣していた。

 雪を踏む音すら躊躇われる沈黙。白霧が視界を覆い、遠くにいるはずの敵の姿は、まだその輪郭すら掴めない。

 レオノーラ・イーグレット少将は、高台に立ち、霧の中を望遠筒で凝視していた。

 頬を刺すような冷気に晒されながらも、その瞳には一片の揺らぎもない。
 彼女の指先はかじかんでいたが、剣の柄にかけた手には緩みがなかった。

「……異様に静かだな」

 背後から低くかけられた声。副官のダリオだった。普段は冷静な彼の声音にも、わずかな張りが含まれている。

 レオノーラは返事をせず、霧の奥を睨み続けた。風が木々を揺らす音だけが耳に残る。
 鳥のさえずりも、獣の足音も、この地には存在しない。生き物たちですら、この静けさを恐れて息を潜めている。

 ――戦場に、嵐の前の静寂が訪れる。それを、彼女は何度も体感してきた。

「偵察斥候はまだ戻らないのか」

「北東斜面からの報告は途絶えています。残りの二組が捜索中ですが……」

 ダリオの声が、ほんのわずかに曇る。

(おそらく、もう……)

 レオノーラは無言で頷いた。敵が動き出しているとすれば、既に接触があった可能性は高い。もはや待つだけでは、こちらが狩られる。

 ──その時だった。

 空気が震えた。刹那、地の底から唸るような轟音が谷を揺らした。

「砲撃……! 来るぞッ!」

 怒号と共に、雪原が弾けた。大気を裂く爆音が、斜面全体に響き渡る。霧を突き破って飛来した砲弾が、地面をえぐり、泥と雪を巻き上げた。

「伏せろ!」

 レオノーラの指示に、兵たちは訓練通りに即座に伏せる。爆風が尾根を越えて吹きつけ、土と岩が飛散する中、白煙の向こうにいくつもの影が現れた。大地を踏みしめる重装歩兵の足音、遠方で再装填される砲の鈍い音――。

「敵襲! 南よりグランゼル軍、接近中!」

 叫びながら戻ってきた斥候の姿は、見るも無惨だった。片肩から血が滲み、衣服は煤と雪にまみれている。

「数は?」

「……百は超えます。重装の前衛、その後ろに砲撃隊。斜面の裏手には伏兵も確認……!」

 息も絶え絶えに伝えたその報告に、ダリオが歯を食いしばる。

「狙い撃ちされた……」

「全軍、第二陣地に後退!」

 レオノーラの声が、風と爆音を裂いて響く。

「稜線を盾にし、防御陣形を展開! ダリオ、左翼を支援。弓兵は高台に移動させ、狙撃態勢を整えよ!」

 号令は明快で、迷いはない。その指示を聞いた兵たちは、即座に雪を蹴って動き出す。雪に足を取られながらも、各自の任務を遂行するために。

(戦争が始まった……)

 レオノーラは喉の奥でその言葉を反芻した。

 これは偶発ではない。奇襲を装いながら、敵は最初からこちらを叩く意志で動いていた。これは、「侵略」だ。

 ほんの一瞬、彼女の脳裏に王都の白い城壁が浮かぶ。そこで、この状況をどんな思いで知るだろうか。

 ──アレクシス。

 あの夜、食事を断ったときの、寂しげな微笑み。あの目に、心は確かに動いた。
けれど――応えることはできなかった。
 私の立場では、彼の隣に立つことなど許されない。だからこの想いは、剣とともに握りしめ、彼の信と責任を、その身に背負う。

(これは個人の戦いではない。私は、王家の剣として、国と民の未来をこの地で繋ぐ。たとえこの身が朽ちようとも──その旗を倒さぬために)



 静かに剣を抜いた。刃は白い雪の中に冷たく光る。

「……前線を維持する。敵をここで食い止める。王都への伝令は?」

「三手に分けて走らせました!」

「よし」

 もう、迷いはなかった。

 レオノーラは前線へ向かって歩み出る。丘の向こうで揺れるのは、グランゼルの軍旗。赤黒いその意匠は、血と鉄の意志を象徴していた。

 風が吠える。

 雪が舞う。

 白き戦場の只中、彼女の声が響いた。

「全軍、構えッ!」

 その瞬間、ザルド地帯に戦の幕が落ちた。冬の嵐のような戦が、いま、始まったのだ。
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