【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 春が早く訪れた年だった。
 丘の上のエヴェラール家には、朝から祝宴のような空気が満ちていた。

 王都からの使者が封書を携え、花商が抱える薔薇の香りが廊下を満たす。

 白布を掛けた長卓には銀の燭台とワイン、台所では祝い菓子の甘い匂いが漂っていた。

  ――ジュール坊ちゃまが、ご婚約なさった。

 その報せは瞬く間に屋敷中を駆け抜け、やがて港町の隅々にまで広がった。

 港の女たちは「ついに王都の令嬢と」と声を弾ませ、商人たちは「旧家と新興伯爵家の理想の結びつきだ」と笑い合った。

 酒場では昼から杯が交わされ、波止場では船乗りたちが「時代が動くな」と口笛を吹いた。

 「エヴェラールの次男が伯爵家に婿入りとは」「これが新しい世の流れか」――
 人々の噂は尽きることなく、潮風に乗って街を巡った。




 ジュール・エヴェラール十七歳。
 その婚約相手、レア・フェルディナンは王都でも名高い美貌の令嬢だった。

 フェルディナン伯爵家は、三代前に貿易で台頭した新興の家柄だった。

 古い血筋ではないが、海上交易と財務省の要職に繋がりを持ち、その勢いと財力は王都でも一目置かれていた。

 人々は彼らを“新時代の象徴”と呼んだ。
 娘レアは、まさにその名にふさわしい女性だった。

 漆黒に近い栗毛、長い睫毛、白磁のような肌。笑えば花園が明るくなるような微笑みを持ち、社交界では“紅薔薇のレア”と呼ばれていた。

 彼女がジュールに恋をしたのは、学園に入学後の春。

 討論会で、彼が真っ直ぐに理を語る姿に惹かれたのだ。

 大胆に手紙を送り、茶会に誘い、舞踏会で彼の手を取ったのも彼女の方だった。

 恋に不器用だったジュールは当初戸惑ったが、その真っ直ぐで情熱的な想いに次第に心をほどかれていった。

 レアは美しく、聡明で、どんな場でも人の心を掴む。

 その笑顔を見ていると、自分は幸運な男なのだと、ジュールは素直に思えた。

――この人の傍にいたい。

 そう思ったのは、恋よりも前に、彼女の世界の眩しさに呑まれたからだった。
 彼女といると、まるで自分が誰か別の人間になれそうな気がした。

 それが、この春の“祝福”の正体だった。
 ただひとり、丘の離れに暮らす少女を除いて。

***

 セラは中庭で薬草を摘んでいた。
 春の陽射しがやわらかく、風が白花を揺らしている。 

 母エマが呼びに来たのは、昼下がりのことだった。

「セラ。ジュール坊ちゃま――いえ、ジュール様がお戻りになったのよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。手にしていた鋏が土に落ち、乾いた音が響いた。

 ――ジュール様。
 もう、そう呼ぶしかない。
 昔のように「ジュール」とは言えない。
 その距離が、はっきりとした形で突きつけられた気がした。




 
 応接室の扉を開けた瞬間、セラは息を詰めた。

 ジュールは王都仕立ての上衣を纏い、胸元には金の紋章。

 指先には光を受ける細い銀の指輪。その傍らには、母エマが控えていた。

 形式上の“ご挨拶”として、離れの者たちにもその場が設けられたのだ。

 卓の上には、王都から届いた祝いの花束があった。燃えるような赤い薔薇が花瓶に活けられ、空気まで甘く染めている。

 セラはその花を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れた。

「お久しぶりですね、ジュール様」
 セラは丁寧に一礼した。
 声を出すだけで、喉の奥が熱くなった。

「セラ、元気だったか?」
 彼の声は穏やかで、昔と同じだった。
 けれどその響きの向こうに、“もう遠い人”の気配があった。

「はい。……おめでとうございます」
 それだけを言うので精一杯だった。

「ありがとう」
 ジュールは微笑んだ。
 その笑みの奥で、ほんの一瞬、言葉にならない躊躇が揺れた。

 セラの真っ直ぐな瞳が静かすぎたから。その静けさの奥に、かすかな熱――痛みのような光が潜んでいた。

 見つめ返した瞬間、胸の奥がざわついた。

 王都のどんな舞踏会でも感じたことのない、奇妙な息苦しさだった。

「ジュール様、旦那様がお呼びです」
 エマの声が静かに割り込んだ。
 ジュールはわずかに肩をすくめ、頷いた。

 そのわずかな間に、視線が交わった。

 ほんの一瞬。けれど、記憶の底に沈んでいたものが揺らいだ。

「また、戻ってきたときに」
 彼はそう言い残し、軽く頭を下げた。

 セラは深く礼を返す。その手を胸の前で重ね、笑みをつくった。

 ーーその笑みの裏側で、心が音を立てて沈んでいった。


 廊下を歩きながら、ジュールは無意識に振り返った。

 扉の向こうに、庭へ向かう少女の後ろ姿が見える。

 風が彼女の髪をやわらかく揺らし、陽の光がその髪を亜麻金に染めていた。

 その瞬間、胸の奥が不意に詰まった。

 ――どうして、今、それを美しいと思ってしまったのだろう。

 理性が否定するより早く、息を吸い込んでいた。

 潮の香りが肺を満たし、喉をかすかに焼く。
 十七歳の青年には、まだそれがどんな感情なのか分からなかった。

 ただ確かに、“何かが動いた”のを感じていた。



 その夜。
 離れの部屋で、セラは机の上の笛を手に取った。

 あの春の日に、彼が削ってくれた笛。風のような音が鳴り、すぐに途切れた。

 音が消えたあと、潮の香りが広がった。

 ――おめでとうございます。

 昼間に言ったその言葉が、何度も心の奥で反響した。自分の声なのに、遠くから聞こえるようだった。

 泣けば、彼が来てくれたあの頃とは違う。もう、誰も来ない。

 その夜、彼女の胸の奥に、冷たい氷がひとつ生まれた。
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