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春が早く訪れた年だった。
丘の上のエヴェラール家には、朝から祝宴のような空気が満ちていた。
王都からの使者が封書を携え、花商が抱える薔薇の香りが廊下を満たす。
白布を掛けた長卓には銀の燭台とワイン、台所では祝い菓子の甘い匂いが漂っていた。
――ジュール坊ちゃまが、ご婚約なさった。
その報せは瞬く間に屋敷中を駆け抜け、やがて港町の隅々にまで広がった。
港の女たちは「ついに王都の令嬢と」と声を弾ませ、商人たちは「旧家と新興伯爵家の理想の結びつきだ」と笑い合った。
酒場では昼から杯が交わされ、波止場では船乗りたちが「時代が動くな」と口笛を吹いた。
「エヴェラールの次男が伯爵家に婿入りとは」「これが新しい世の流れか」――
人々の噂は尽きることなく、潮風に乗って街を巡った。
*
ジュール・エヴェラール十七歳。
その婚約相手、レア・フェルディナンは王都でも名高い美貌の令嬢だった。
フェルディナン伯爵家は、三代前に貿易で台頭した新興の家柄だった。
古い血筋ではないが、海上交易と財務省の要職に繋がりを持ち、その勢いと財力は王都でも一目置かれていた。
人々は彼らを“新時代の象徴”と呼んだ。
娘レアは、まさにその名にふさわしい女性だった。
漆黒に近い栗毛、長い睫毛、白磁のような肌。笑えば花園が明るくなるような微笑みを持ち、社交界では“紅薔薇のレア”と呼ばれていた。
彼女がジュールに恋をしたのは、学園に入学後の春。
討論会で、彼が真っ直ぐに理を語る姿に惹かれたのだ。
大胆に手紙を送り、茶会に誘い、舞踏会で彼の手を取ったのも彼女の方だった。
恋に不器用だったジュールは当初戸惑ったが、その真っ直ぐで情熱的な想いに次第に心をほどかれていった。
レアは美しく、聡明で、どんな場でも人の心を掴む。
その笑顔を見ていると、自分は幸運な男なのだと、ジュールは素直に思えた。
――この人の傍にいたい。
そう思ったのは、恋よりも前に、彼女の世界の眩しさに呑まれたからだった。
彼女といると、まるで自分が誰か別の人間になれそうな気がした。
それが、この春の“祝福”の正体だった。
ただひとり、丘の離れに暮らす少女を除いて。
***
セラは中庭で薬草を摘んでいた。
春の陽射しがやわらかく、風が白花を揺らしている。
母エマが呼びに来たのは、昼下がりのことだった。
「セラ。ジュール坊ちゃま――いえ、ジュール様がお戻りになったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。手にしていた鋏が土に落ち、乾いた音が響いた。
――ジュール様。
もう、そう呼ぶしかない。
昔のように「ジュール」とは言えない。
その距離が、はっきりとした形で突きつけられた気がした。
*
応接室の扉を開けた瞬間、セラは息を詰めた。
ジュールは王都仕立ての上衣を纏い、胸元には金の紋章。
指先には光を受ける細い銀の指輪。その傍らには、母エマが控えていた。
形式上の“ご挨拶”として、離れの者たちにもその場が設けられたのだ。
卓の上には、王都から届いた祝いの花束があった。燃えるような赤い薔薇が花瓶に活けられ、空気まで甘く染めている。
セラはその花を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れた。
「お久しぶりですね、ジュール様」
セラは丁寧に一礼した。
声を出すだけで、喉の奥が熱くなった。
「セラ、元気だったか?」
彼の声は穏やかで、昔と同じだった。
けれどその響きの向こうに、“もう遠い人”の気配があった。
「はい。……おめでとうございます」
それだけを言うので精一杯だった。
「ありがとう」
ジュールは微笑んだ。
その笑みの奥で、ほんの一瞬、言葉にならない躊躇が揺れた。
セラの真っ直ぐな瞳が静かすぎたから。その静けさの奥に、かすかな熱――痛みのような光が潜んでいた。
見つめ返した瞬間、胸の奥がざわついた。
王都のどんな舞踏会でも感じたことのない、奇妙な息苦しさだった。
「ジュール様、旦那様がお呼びです」
エマの声が静かに割り込んだ。
ジュールはわずかに肩をすくめ、頷いた。
そのわずかな間に、視線が交わった。
ほんの一瞬。けれど、記憶の底に沈んでいたものが揺らいだ。
「また、戻ってきたときに」
彼はそう言い残し、軽く頭を下げた。
セラは深く礼を返す。その手を胸の前で重ね、笑みをつくった。
ーーその笑みの裏側で、心が音を立てて沈んでいった。
廊下を歩きながら、ジュールは無意識に振り返った。
扉の向こうに、庭へ向かう少女の後ろ姿が見える。
風が彼女の髪をやわらかく揺らし、陽の光がその髪を亜麻金に染めていた。
その瞬間、胸の奥が不意に詰まった。
――どうして、今、それを美しいと思ってしまったのだろう。
理性が否定するより早く、息を吸い込んでいた。
潮の香りが肺を満たし、喉をかすかに焼く。
十七歳の青年には、まだそれがどんな感情なのか分からなかった。
ただ確かに、“何かが動いた”のを感じていた。
*
その夜。
離れの部屋で、セラは机の上の笛を手に取った。
あの春の日に、彼が削ってくれた笛。風のような音が鳴り、すぐに途切れた。
音が消えたあと、潮の香りが広がった。
――おめでとうございます。
昼間に言ったその言葉が、何度も心の奥で反響した。自分の声なのに、遠くから聞こえるようだった。
泣けば、彼が来てくれたあの頃とは違う。もう、誰も来ない。
その夜、彼女の胸の奥に、冷たい氷がひとつ生まれた。
丘の上のエヴェラール家には、朝から祝宴のような空気が満ちていた。
王都からの使者が封書を携え、花商が抱える薔薇の香りが廊下を満たす。
白布を掛けた長卓には銀の燭台とワイン、台所では祝い菓子の甘い匂いが漂っていた。
――ジュール坊ちゃまが、ご婚約なさった。
その報せは瞬く間に屋敷中を駆け抜け、やがて港町の隅々にまで広がった。
港の女たちは「ついに王都の令嬢と」と声を弾ませ、商人たちは「旧家と新興伯爵家の理想の結びつきだ」と笑い合った。
酒場では昼から杯が交わされ、波止場では船乗りたちが「時代が動くな」と口笛を吹いた。
「エヴェラールの次男が伯爵家に婿入りとは」「これが新しい世の流れか」――
人々の噂は尽きることなく、潮風に乗って街を巡った。
*
ジュール・エヴェラール十七歳。
その婚約相手、レア・フェルディナンは王都でも名高い美貌の令嬢だった。
フェルディナン伯爵家は、三代前に貿易で台頭した新興の家柄だった。
古い血筋ではないが、海上交易と財務省の要職に繋がりを持ち、その勢いと財力は王都でも一目置かれていた。
人々は彼らを“新時代の象徴”と呼んだ。
娘レアは、まさにその名にふさわしい女性だった。
漆黒に近い栗毛、長い睫毛、白磁のような肌。笑えば花園が明るくなるような微笑みを持ち、社交界では“紅薔薇のレア”と呼ばれていた。
彼女がジュールに恋をしたのは、学園に入学後の春。
討論会で、彼が真っ直ぐに理を語る姿に惹かれたのだ。
大胆に手紙を送り、茶会に誘い、舞踏会で彼の手を取ったのも彼女の方だった。
恋に不器用だったジュールは当初戸惑ったが、その真っ直ぐで情熱的な想いに次第に心をほどかれていった。
レアは美しく、聡明で、どんな場でも人の心を掴む。
その笑顔を見ていると、自分は幸運な男なのだと、ジュールは素直に思えた。
――この人の傍にいたい。
そう思ったのは、恋よりも前に、彼女の世界の眩しさに呑まれたからだった。
彼女といると、まるで自分が誰か別の人間になれそうな気がした。
それが、この春の“祝福”の正体だった。
ただひとり、丘の離れに暮らす少女を除いて。
***
セラは中庭で薬草を摘んでいた。
春の陽射しがやわらかく、風が白花を揺らしている。
母エマが呼びに来たのは、昼下がりのことだった。
「セラ。ジュール坊ちゃま――いえ、ジュール様がお戻りになったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。手にしていた鋏が土に落ち、乾いた音が響いた。
――ジュール様。
もう、そう呼ぶしかない。
昔のように「ジュール」とは言えない。
その距離が、はっきりとした形で突きつけられた気がした。
*
応接室の扉を開けた瞬間、セラは息を詰めた。
ジュールは王都仕立ての上衣を纏い、胸元には金の紋章。
指先には光を受ける細い銀の指輪。その傍らには、母エマが控えていた。
形式上の“ご挨拶”として、離れの者たちにもその場が設けられたのだ。
卓の上には、王都から届いた祝いの花束があった。燃えるような赤い薔薇が花瓶に活けられ、空気まで甘く染めている。
セラはその花を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れた。
「お久しぶりですね、ジュール様」
セラは丁寧に一礼した。
声を出すだけで、喉の奥が熱くなった。
「セラ、元気だったか?」
彼の声は穏やかで、昔と同じだった。
けれどその響きの向こうに、“もう遠い人”の気配があった。
「はい。……おめでとうございます」
それだけを言うので精一杯だった。
「ありがとう」
ジュールは微笑んだ。
その笑みの奥で、ほんの一瞬、言葉にならない躊躇が揺れた。
セラの真っ直ぐな瞳が静かすぎたから。その静けさの奥に、かすかな熱――痛みのような光が潜んでいた。
見つめ返した瞬間、胸の奥がざわついた。
王都のどんな舞踏会でも感じたことのない、奇妙な息苦しさだった。
「ジュール様、旦那様がお呼びです」
エマの声が静かに割り込んだ。
ジュールはわずかに肩をすくめ、頷いた。
そのわずかな間に、視線が交わった。
ほんの一瞬。けれど、記憶の底に沈んでいたものが揺らいだ。
「また、戻ってきたときに」
彼はそう言い残し、軽く頭を下げた。
セラは深く礼を返す。その手を胸の前で重ね、笑みをつくった。
ーーその笑みの裏側で、心が音を立てて沈んでいった。
廊下を歩きながら、ジュールは無意識に振り返った。
扉の向こうに、庭へ向かう少女の後ろ姿が見える。
風が彼女の髪をやわらかく揺らし、陽の光がその髪を亜麻金に染めていた。
その瞬間、胸の奥が不意に詰まった。
――どうして、今、それを美しいと思ってしまったのだろう。
理性が否定するより早く、息を吸い込んでいた。
潮の香りが肺を満たし、喉をかすかに焼く。
十七歳の青年には、まだそれがどんな感情なのか分からなかった。
ただ確かに、“何かが動いた”のを感じていた。
*
その夜。
離れの部屋で、セラは机の上の笛を手に取った。
あの春の日に、彼が削ってくれた笛。風のような音が鳴り、すぐに途切れた。
音が消えたあと、潮の香りが広がった。
――おめでとうございます。
昼間に言ったその言葉が、何度も心の奥で反響した。自分の声なのに、遠くから聞こえるようだった。
泣けば、彼が来てくれたあの頃とは違う。もう、誰も来ない。
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