【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 薬学校を卒業したセラは、王都の診療所に勤め始めた。

 薬草の香りが染みついた白衣、
 乾いた陽光が差し込む回廊、
 朝から晩まで続く調剤と記録――

 気づけば、季節の移ろいを感じる暇もなく日々が過ぎていった。

 忙しさに紛れていると、胸の奥で何かが静かに眠っていくようだった。

 それは痛みなのか、名のない空白なのか、自分でももうわからない。

 患者の声を聞き、薬をすり潰しながら、ふと、灰金の髪が陽に光る光景が浮かぶことがあった。

 薬草棚の隙間から射す光が、まるで、あの丘で見た少年の笑みの残像のように見える瞬間がある。

 ――ジュール様。

 その名を心の中で呼ぶたび、どこか遠い場所で、海の音がした気がした。

 でも、振り向いてもそこには波も風もない。ただ、乾いた石畳と、薬の香りだけがあった。

 だからセラは、思考のどこかを閉じることを覚えた。

 考えなければ、痛みも呼ばない。
 感じなければ、記憶も蘇らない。

 そうして、彼女はゆっくりと、心の深い場所に氷を張るようにして生きる術を身につけていった。

 そんな折、両親から届いた手紙が運命を変えた。

 ――縁談の話がある、と手紙には書かれていた。

 相手は、王都の新興商会「ノルド商会」の跡取り、マルク・ノルド。
 薬草を扱う商家として、診療所とも関わりがある家だった。

 最初の顔合わせで、マルクは誠実な笑みを浮かべて言った。

「あなたのような方と、穏やかな家庭を築けたらと願っています」

 その声は低く、よく通った。
 控えめながら確かな自信を感じさせる響きだった。

 栗色の髪は陽を受けて柔らかく光り、琥珀の瞳には穏やかな熱が宿っていた。

 整えられた仕立ての上着の袖口からは、仕事で鍛えられた男の腕がのぞく。
 手の甲には細い傷跡がいくつもあり、彼が実務の現場に身を置くことを物語っていた。

 その姿には、誠実さと生活の匂いが混ざっている。商人らしい機転と、誠実に生きようとする意志。

 彼の微笑には、見る者を安心させる温度があった。

 ――けれど、セラの胸の奥は不思議なほど静かだった。

 言葉の一つひとつが丁寧で、表情に偽りもない。それでも、その温かさが心の奥までは届かなかった。

 まるで、硝子越しの陽だまりを見ているように。心地よい光なのに、触れると痛みが残る。

 そんな距離が、彼女とマルクの始まりだった。

 ――ジュールとの未来がないのなら、
 誰と結婚しても同じ。

 そう思った。
 ならば、望まれて嫁ぐのも悪くない。
 それが“誠実さ”というものだと、自分に言い聞かせた。


***


 顔合わせからほどなくして、ふたりの婚約は決まった。

 マルクが診療所に贈り物を届けに来たのは、それからわずか三度目の訪問のことだった。

 花束ではなく、小さな木箱に詰められた乾燥薬草の束。
「仕事で使えるものの方が、きっと嬉しいでしょう?」
 その言葉に、セラは初めて微笑んだ。

 マルクの誠実さは、彼の一挙手一投足に宿っていた。

 雨の日には屋根付きの馬車で迎えに来て、休みの日には王都の庭園を歩きながら、花や樹木の名を彼女に尋ねた。

「あなたは花の名前をたくさん知っているね」
「好きなんです。僕の話を静かに聞いてくれるから」
 そんな会話が、幾度となく続いた。


 マルクは話すたびに穏やかで、彼女の沈黙すら、やさしく受け止めようとした。

 夕暮れの色が差す茶店の窓辺で、彼が笑うたびに、光が琥珀の瞳に柔らかく揺れる。その温度は確かに心地よかった。

 ――けれど、胸の奥の氷は解けなかった。

 時折、マルクが何かを話していると、セラの意識は遠くへと沈むことがあった。

 彼の声の調子が似ているのだ。
 十年前、海辺で「笛が鳴った」と笑った少年の声に。

 その記憶が浮かぶたび、胸の中でひとつ、呼吸が乱れた。それを悟られぬよう、セラはそっと笑っていた。

 マルクはそんな彼女を“奥ゆかしい”と評し、日ごとに惹かれていった。


 婚約が正式に結ばれた夜。
 マルクは真新しい指輪をセラの指に滑らせながら、穏やかに言った。

「あなたを幸せにできるよう努力します」

 その声は真摯で、胸の奥に柔らかく届いた。
 セラは「ありがとう」と答えた。唇は微かに笑みを描いていたが、その笑顔の奥には、誰にも届かない静寂があった。


***


 婚約の報せが王都から海沿いの町に届くと、エヴェラール家の離れでは、セラの両親が顔を見合わせた。

 母エマは手にしていた針仕事を胸に当て
「ようやくあの子も、幸せを掴めるのね」と目を潤ませた。

 父オスカーも静かに頷きながら、
 「良い人を見つけたな。きっとあの子の心も落ち着くだろう」と言った。

 ふたりは知らなかった。
 その“落ち着き”が、凍りつくような静けさであることをーー。


***

 婚約後、ふたりは何度も出かけるようになった。

 王都の庭園、書店、そして人通りの少ない川沿いの道。

 マルクは仕事の合間を縫って、丁寧に時間を作ってくれた。

 その日、陽の傾く頃、川沿いのベンチで風を避けながら、マルクがふと切り出した。

「診療所の仕事……結婚しても、続けたいですか?」

 セラは少し驚いたように彼を見た。
 彼の琥珀色の瞳は、まっすぐだった。

「あなたが望むなら、もちろん続けていい。
僕は、あなたが自分の場所を持っていることを尊重したいんです」

 そう言って、マルクは穏やかに笑った。
 その笑顔は、まるで日向に置かれた茶の湯気のように柔らかかった。

「……ありがとうございます。
仕事は、そうですね……どちらでも。
続けられるなら、それでいいと思います」

 セラの声は、波打つことのない穏やかさで満ちていた。

 彼女にとって“働く”ことは、生きるための習慣でしかなく、夢でも誇りでもなかった。

 けれどマルクの目には、その静けさが“慎ましさ”に映った。

 彼はその手を優しく包み込みながら言った。
「あなたのような人と出会えたのは、僕の人生の幸運です」

 その言葉を聞いた瞬間、セラは何も感じなかった。

 ただ――心の奥の氷が、ほんの少し音を立てた気がした。
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