【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 春は静かに屋敷を包みはじめていた。
 フェルディナン邸の庭には白い花が揺れ、風に乗って淡い香りが漂う。

 けれど、その香りが胸を満たすほどに、セラの心は少しずつ軋んでいった。

 往診の日が重なるにつれ、邸の空気の奥に、言葉にできない“重さ”を感じるようになった。

 誰もが穏やかに微笑んでいるのに、その笑みの下に、長い沈黙が流れている。

 ――この家は、十年も、春を止めたまま生きている。

 そう思うたび、息が苦しくなった。





 その日、セラは夫人の寝室で脈を取っていた。

 フェルディナン夫人は、柔らかな栗色の髪を低く結い、淡いラベンダー色のショールを肩に掛けている。

 穏やかで上品な笑顔。
 けれど、その目の奥には長い時間の影があった。

「昨夜はよく眠れたの。あなたのお薬のおかげね」
「良かったです。そう言っていただけて嬉しいです。胸の重さは、いかがですか?」
「ええ、だいぶ楽になったわ……だけどね、
胸が軽くなるたび、罪悪感を覚えるの」

 セラが顔を上げると、夫人は苦く笑った。
「私が元気になっていく一方で、あの子――ジュールは、まだ娘の寝台のそばで生きているのだから」

 その声に、セラの胸が締めつけられる。
 夫人は窓の方を見つめながら、続けた。

「娘が目を覚まさないことは、もう医師たちも悟っています。
けれどね、ジュールは一度も諦めていないのよ……」

 セラは、何も言えなかった。
 夫人の言葉は、悲しみでも、愚痴でもない。

 それは“彼を想う痛み”と“娘を想う痛み”が絡み合った、静かな苦悩の色だった。

「私ね、時々思うのよ。ジュールは……レアではなく、“祈り”そのものを愛してしまったんじゃないかって」

 セラは、喉の奥で息を呑んだ。
 夫人の声は、微かに震えていた。
「それでも、ジュールは私たちの誇りなの。
娘のために生きる婿など、そうはいない。でもね……母としては、もうあの子を解放してやりたいと思ってしまうのよ」

 セラは薬瓶の蓋を静かに閉めた。
 指先が震える。
 夫人の言葉が、あまりに真っ直ぐに胸に刺さったからだ。

 ――この家の人たちは、誰も間違っていない。それなのに、誰も幸せじゃない。

 十年という年月は、愛を「」に変え、優しさを「」にしてしまった。

 そのとき、扉がノックされた。
「お邪魔するよ、マリアンヌ」
 落ち着いた低い声――フェルディナン伯爵だった。

 白髪まじりの髪を整え、背筋をまっすぐに伸ばしている。 

 財務院で長年務めたというだけあり、身にまとう空気までが秩序を宿しているようだった。

「伯爵閣下、ご機嫌よう」
 セラが立ち上がって頭を下げると、伯爵は穏やかに頷いた。
「おお、君が薬師のレヴェランス嬢か。妻がお世話になっているね」

 低い声は穏やかだが、その奥に“揺らぎ”がなかった。まるで、長年変わらぬ信仰を抱く者のようだった。

 アルマンは、かつて信仰に深く傾く人間ではなかった。

 だがレアが倒れてからの十年で、祈る以外に拠り所を失い、いつの間にか神にすべてを委ねるようになっていた。

 それは信仰というより――祈り続けることで、“娘を救えなかった自分を支える最後の柱”となっていた。

「娘の容体も安定している。ジュールも……よくやっているよ」
 伯爵の口元に、わずかな誇りが滲んだ。

「十年も変わらず、あの子の傍を離れぬ。
それは神が与えた試練を全うする者の姿だ。男として、あれほど立派な生き方はない」

 その言葉に、セラは微かに眉を寄せた。
 穏やかな口調の中に、柔らかくも絶対的な“正しさ”があった。

 そこには同情も悲しみもなく、ただ“義務を果たす美”だけがあった。

 ――この人にとって、ジュールは「婿」ではなく、「信仰の証」なんだ。

 そう思うと、心が冷たくなる。
 彼がレアを愛している限り、誰も彼を責められない。

 でも、もしその愛が“祈り”にすり替わっていたとしても、この家の誰も気づこうとしないのだ。

「話の邪魔をしたようだ。マリアンヌ、ゆっくりと休むように」
 伯爵が退室すると、部屋に沈黙が戻った。

 夫人は疲れたように微笑んだ。
「……ね?あの人はいつだって、ことしか言わないのよ」

 その声には、愛情と諦めが半分ずつ混ざっていた。

「……またお伺いします。お身体を冷やさないように」
 そう言って頭を下げると、夫人は「ありがとう」と小さく頷いた。

 セラは頭を下げ、静かに部屋を辞した。
 廊下に出ると、胸の奥で何かが静かに揺れていた。



 邸を出る頃、空は霞んでいた。
 遠くの回廊を歩く影が目に入る。
 黒の外套、灰金の髪――彼だった。


 声をかけようとして、唇が震えた。
 夫人の言葉が脳裏に響く。
 「あの人は、祈りを愛してしまった」

 その“祈り”の中に、私の居場所はあるのだろうか。そんな問いが、胸の奥で静かに疼いた。

 
 セラは深く頭を下げ、「失礼いたします」とだけ告げた。
 
「ご苦労様。いつもありがとう」
 ジュールから返ってきた声は穏やかで、けれど、あまりに遠かった。

 回廊を出ると、春の風が頬を撫でた。
 庭の白い花々が揺れ、香が淡く流れていく。

 セラはゆっくりと歩きながら、胸の奥がざわめくのを感じていた。

 ――ジュールは、まだ奥方を想っているのだろうか。

 眠る妻への情なのか、
 それとも、かつて愛した人への想いなのか——
 どれも推し量れず、心は苦しくきしんだ。

 幼い日々、丘の上で風に笑っていた少年が、
彼の心のどこかにいると——思いたかった。

 そんな都合のいい希望を、どうしても捨てられなかった。

 それは、祈りに似た、痛いほどの願いだった。
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