【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 夜が深く降りていた。
 昼間の陽気が嘘のように冷えこみ、フェルディナン邸の屋根を細かな雨が叩いている。

 セラは使いの知らせを受け、雨の中を馬車で急いでいた。

「フェルディナン夫人の体調が悪く、あなたを呼んでいる」
 閉院の準備をしていたとき、駆け込んできた使者の声は、雨音にかき消されそうなほどだった。

 窓を打つ雨粒が、幌を伝って流れ落ちる。 
 湿った風が頬を掠め、指先に冷たさが沁みた。薬箱を抱える手に、無意識に力がこもる。

 ――早く、夫人のもとに。

 言葉にならない願いが、胸の奥で波のように揺れた。

 馬車が門をくぐる頃には、雨脚はさらに強くなり、世界の音がすべて水に溶けていた。




 夫人の寝室では、燭台の炎が静かに揺れていた。
 枕元に侍女が付き添い、使用人が慌ただしく湯を替えている。

 セラが駆け寄ると、フェルディナン夫人は胸を押さえながら浅い呼吸をしていた。
 唇が白く、汗が首筋を伝っている。

「寝ようとすると、胸が重苦しくて……」
 セラは夫人の手首に触れて、脈を確かめる。脈のリズムが早かったが、乱れは無かった。ひとまず安堵する。

「すぐに楽になります。深く息をして、はい――」

 セラは薬液を薄め、香草の蒸気を吸わせた。静かに脈を測りながら、心臓の拍動が少しずつ落ち着いていくのを確かめる。

 呼吸が整い、ようやく夫人の顔に赤みが戻った。

 侍女が安堵の息を漏らす。
「もう大丈夫です。今夜は安静にお過ごしください」
 そう告げたとき、背後で静かな足音がした。

 ――ジュールだった。

 黒い外套の裾に、雨が滴っている。
 濡れた髪が額にかかり、いつもの整った姿からは想像できないほど、息を切らしていた。

「……セラ…」
 セラは息を飲んで、ジュールを見つめ頭を下げる。

「……義母上は?」
「落ち着かれました。発作は一過性です。ご心配なく」
 セラの言葉に、ジュールの肩がわずかに下がる。

 その姿を見て、胸が痛んだ。
 ――十年間、どれだけこうして人の命に怯え続けてきたのだろう。

 侍女たちが部屋を下がり、静寂が戻る。
 セラは薬瓶を片づけながら、ふと、彼の指先の震えに気づいた。

「手が……冷えますね」
 思わず漏れた言葉に、ジュールが微かに笑う。
「外に出ていたんだ。雨に、少し打たれてしまった」

 彼の声は穏やかだった。けれどその笑みは、どこか痛々しかった。

「お疲れでしょう。もう戻りください。
こちらは私が見ていますので」
「……いや。今夜は、私もここにいる」

 その言葉の響きが、なぜか胸の奥を震わせた。

 思い出の少年の声ではない。
 祈りを続けてきた男の、静かで強い声。

 セラは小さく頷き、薬箱を閉じた。





 部屋を出ると、回廊の窓に雨が打ちつけていた。
 
 屋敷の灯りがぼんやりと滲んで、光が雨粒に散る。

 廊下の先に、ジュールの影が見えた。
 彼は立ったまま、暗い庭を見つめている。

 セラは足を止めた。
 灯火に照らされた横顔が、あまりに静かで、悲しいほど美しかった。

 背後で扉が軋む音。
 夫人の寝息が遠くに聞こえる。

 この沈黙の屋敷で、動いているのは二人だけだった。

「……雨が、止みませんね」
 セラの声は小さく震えた。
 ジュールは振り向かずに、ただ頷いた。

「遠い昔……こんな雨の日があった。
君が丘の下で転んで、びしょ濡れになって――」
 ジュールの言葉が途切れる。
 自分で止めたのだろう。記憶を掘り起こすような声だった。

「……ふふ、幼い時ですね。あの頃は、よく笑っていました」
 セラの言葉に、ジュールが静かに目を閉じた。

「……今は笑うことを、忘れているのかもしれない」

 短い沈黙。
 雨音がすべての言葉を溶かしていく。

 セラは、胸の奥に熱を感じた。
 理性が「帰りなさい」と囁くのに、足が動かない。

「――あなたが、ずっと祈ってこられたこと。私、知っています」
 声は掠れていた。
 ジュールがゆっくりとこちらを向く。
 その瞳に、深い光が宿った。

「祈り……か。そうだな。祈りのようなものだ」
 彼は微かに笑い、空を仰いだ。

「でも、今夜は、少しだけ……疲れた」

 セラの喉が詰まった。
 彼の声が、あまりにも人間らしくて。
 あの完璧だった男の輪郭が、雨の中で崩れていくのを見た気がした。

 その瞬間、外の稲光が一閃した。
 白い光が廊下を染め、二人の影を重ねる。

 セラの肩に、何かが触れた。
 濡れた指先が、静かに袖を掴む。

 ――ジュールの手だった。

 雨の雫が二人の間を伝って落ち、空気の冷たさの中で、指先の熱だけが残る。

「……寒いでしょう」

 低く抑えた声。
 それだけの言葉なのに、手は離れなかった。

 袖越しに伝わる震え。それは寒さのせいではなく、抑えきれない何かを抱えた者の震えだった。

 セラは、息を吸う。
 胸の奥がきゅうと縮む。
 ――この手を、拒めない。

 そっと、彼の手を包み返した。
 濡れた布ごと指先を重ねる。
 その瞬間、ジュールの指がかすかに動き、彼女の手を握り返した。

 ほんのわずかな圧。
 けれど、その触れ合いが胸の奥を焼く。
 触れたところから、何かが音もなく崩れていく。

 彼の手が、ためらうように彼女の頬へ伸びた。

 指先が髪をかすめる。
 あと少しで、触れる。

 視線が重なった。
 互いの吐息が、同じ空気の中で混ざる。
 このまま抱きしめられたい――
 そう思ってしまった。

 その瞬間。

「……ジュール様!」

 廊下の遠い向こうから声が響いた。

 ふたりの時間が、ぱたりと閉じる。
 ジュールの手が離れ、セラの肩から熱が消えた。触れていた場所に、冷たい風が入り込む。

 彼はわずかに息を乱しながら、まるで夢から覚めたように顔を伏せた。

「……すまない」

 セラは答えられなかった。
 外套の裾が揺れ、濡れた空気の匂いが残る。手のひらにはまだ、彼の震えが宿っていた。

 雨の音だけが、静かに続いていた。 

 ふたりの間の沈黙を、まるで“秘密”として包み込むように。

 ――これ以上、言葉にしてはいけない。
 けれど、その沈黙こそが、言葉より雄弁に二人を結んでいた。




 夫人の容態は翌朝には落ち着いた。
 雨も上がり、空には薄い光が戻っていた。

 帰り際、セラは廊下を歩きながら、濡れた外套の感触を思い出していた。

 昨夜、彼の手を握り返したあの温度。
 そして、離れた瞬間の息苦しさ。

 ――あの温もりを、忘れたくない。
 でも、覚えていてはいけない。

 その矛盾が、心の奥でゆっくりと燃え続けていた。
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