【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

文字の大きさ
14 / 52

14

しおりを挟む
 雨上がりの朝、フェルディナン邸の庭は静まり返っていた。

 夜通し降った雨が白い花弁を散らし、濡れた大理石の回廊が淡く光っている。

 セラは往診を終え、夫人の部屋を出た。
 容態は安定しており、表情にも安堵の色が戻っている。

 けれど、胸の奥に重く残っているのは、昨夜の光景――あの瞬間、ジュールの手が自分の肩に触れた感触だった。

 たった一度。
 それだけのことなのに、心はまだ熱を帯びていた。




 翌日の昼、フェルディナン夫人は一日ぶりに中庭の風に当たった。

 セラは傍らで新しい薬草茶を注ぎ、静かに見守っていた。

 夫人は目を細めて空を見上げた。
「今朝ね、夢を見たの。レアが笑っていたわ」
「……そうでしたか」
「ええ。あの子の笑顔を見たのは、本当に久しぶり」
 そう言って微笑むその顔に、少しだけ涙が光っていた。

「家族団欒で食事をする夢。皆が幸せそうに笑っていたの。そんな当たり前の日常が眩しかったわ」
 夫人は顔を上げ、陽光に視線を向けて言葉を続ける。

「ジュールも笑っていたわ。あの子が倒れてから、もう見たことがない笑顔だった」
 夫人は穏やかに続けた。

「この十年、ジュールは張り詰めたように生きているわ。本人は自覚は無いようだけど……誰にも頼らず、弱音も吐かないわ」

「……十年」
 
「……きっと、あの人も誰かに支えられたいはずだわ。いつも誰かを守ってばかりだから。……誰にも言えないけれどね」

 夫人は、娘婿の孤独を案じていた。長く家族を見守ってきた者の、やさしい溜息のような響きだった。

 セラは息を呑んだ。
 胸の奥に、鈍い痛みが走る。
 
 自分は、彼を支えられる立場ではない。
 けれど、支えたいと願ってしまう――その矛盾が、痛かった。

 


 夕刻になり、夫人の眠りを確認したあと、セラは帰り支度をしていた。

 外は、昼間の晴れ間が夢だったかのように、細かな雨が降り始めていた。

 石畳に滲む光が、静かに滲んでゆく。
 玄関へ向かう途中、長い廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてくる。その音だけで、胸の奥が微かに震えた。

 黒い外套の裾が、雨を受けた風にわずかに揺れる。
 
 歩みの主は、ジュールだった。

「帰りかい?」
 静かな声。
 その響きだけで、胸の奥がざわめいた。

「はい。夫人は落ち着かれています」
「そうか。遅くまでありがとう。昨夜は……助かった」
「お礼を言われるようなことではありません」

 そう言いながら、セラは静かに頭を下げる。視線を合わせたら、心が壊れそうだった。

「君は、いつも雨の日に来るな」
 少し笑うような声。
 彼の笑みは穏やかで、けれどどこか寂しかった。

「雨が好きなんです」
「そうか。私は、苦手だ。……止まない音を聞くと、いつも時間が戻る気がする」

 十年前の、あの事故の日。
 レアの意識がなくなったのも雨の午後だった。

 セラは、何も言えなかった。
 その沈黙の中に、彼の“祈りの疲れ”が滲んでいるのが分かった。

 ジュールはゆっくりと視線を上げた。
 その瞳は深い灰のように静かで、どこまでも澄んでいた。

「セラ」
 名を呼ばれた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
 
「……はい」
「昨夜――君が傍にいてくれたことが忘れられない」
 その言葉に、息が止まった。
 低く、掠れた声。
 誰かを慰めるようでいて、どこか懺悔の響きを帯びていた。

「私は、何かを間違えているのだろうか」
 彼の手が、そっと額に触れた。
 まるで祈るような仕草で、指先が震えていた。

 セラは静かに首を振ることしか出来なかった。 
 けれど、心のどこかが叫んでいた。
 ――その優しさこそが、あなたを縛っている。

 言えなかった。
 言葉にした瞬間、すべてが壊れてしまう気がした。

 ジュールの瞳が揺れた。
 まるで、何かを決意するように。

 次の瞬間、彼の手がセラの頬に触れた。   
 指先が冷たく、震えている。その震えの奥に、どうしようもない熱があった。

「……セラ」
 再び名前を呼ぶ声が、息と一緒にこぼれ落ちる。

 セラの身体がわずかに強張る。
 その手を拒むことは出来なかった。

 彼の手が、頬から髪へ、そしてうなじへと滑っていく。
 
 肌に触れた指先が、迷いながらも確かにそこにある。触れるたび、空気が震えた。

 ――こんなにも近いのに、なぜ抱きしめてくれないの。

 セラは目を閉じた。
 息が交わる。距離は、あと指先ひとつ分だった。

 そのとき、ジュールの指が止まった。
 彼の呼吸が、わずかに乱れ、息を飲んだのがわかった。

 唇が、彼女の唇に触れそうになって―ー止まった。

「……だめだ」
 ジュールの低い声が、喉の奥でかすれた。

 彼は、ゆっくりと手を離した。
 その指先が離れる瞬間、セラの肌が熱を失っていく。

「……申し訳ない」
 ジュールの声は震えていた。
 苦悩と後悔と、押し殺した願いが滲んでいた。

 セラは何も言えず、ただ首を横に振った。涙ではなく、息がこぼれた。

 外では、細かな雨が降り続いていた。
 誰も知らない場所で、たった一度、理性がふたりを引き離した。

 それでも――
 心はもう、戻れない場所にいた。





 邸を出ると、雨がまた強くなっていた。
 馬車を呼ぶまでの間、庇の下で空を見上げる。

 指先に、まだ彼の温もりが残っている。
 たった数秒の触れ合いが、胸の奥で永遠のように燃えていた。

 ――この恋は、祈りの果てに生まれた。だからこそ、罪であり、救いでもある。

 セラは小さく息を吐き、
「……ジュール様」

 誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。

 雨が頬を濡らす。
 それが涙かどうか、もう分からなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!

恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。 誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、 三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。 「キャ...ス...といっしょ?」 キャス……? その名を知るはずのない我が子が、どうして? 胸騒ぎはやがて確信へと変わる。 夫が隠し続けていた“女の影”が、 じわりと家族の中に染み出していた。 だがそれは、いま目の前の裏切りではない。 学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。 その一夜の結果は、静かに、確実に、 フローレンスの家族を壊しはじめていた。 愛しているのに疑ってしまう。 信じたいのに、信じられない。 夫は嘘をつき続け、女は影のように フローレンスの生活に忍び寄る。 ──私は、この結婚を守れるの? ──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの? 秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。 真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!

モラハラ王子の真実を知った時

こことっと
恋愛
私……レーネが事故で両親を亡くしたのは8歳の頃。 父母と仲良しだった国王夫婦は、私を娘として迎えると約束し、そして息子マルクル王太子殿下の妻としてくださいました。 王宮に出入りする多くの方々が愛情を与えて下さいます。 王宮に出入りする多くの幸せを与えて下さいます。 いえ……幸せでした。 王太子マルクル様はこうおっしゃったのです。 「実は、何時までも幼稚で愚かな子供のままの貴方は正室に相応しくないと、側室にするべきではないかと言う話があがっているのです。 理解……できますよね?」

この罰は永遠に

豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」 「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」 「……ふうん」 その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。 なろう様でも公開中です。

友達の肩書き

菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。 私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。 どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。 「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」 近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。

【完結】王命の代行をお引き受けいたします

ユユ
恋愛
白過ぎる結婚。 逃れられない。 隣接する仲の悪い貴族同士の婚姻は王命だった。 相手は一人息子。 姉が嫁ぐはずだったのに式の前夜に事故死。 仕方なく私が花嫁に。 * 作り話です。 * 完結しています。

論破令嬢の政略結婚

ささい
恋愛
政略結婚の初夜、夫ルーファスが「君を愛していないから白い結婚にしたい」と言い出す。しかし妻カレンは、感傷を排し、論理で夫を完全に黙らせる。​​​​​​​ ※小説家になろうにも投稿しております。

【完結】将来有望な若手魔術師が、私に求婚した理由

miniko
恋愛
魔術の名門侯爵家の令嬢で、王宮魔術師でもあるソフィアは、ある日突然同期の有望株の魔術師から求婚される。 密かに彼が好きだったソフィアは困惑する。 彼の目的は何なのか?爵位が目当てか、それとも・・・・・・。 ※「金で買われた婚約者と壊れた魔力の器」の登場人物、ソフィアが主人公の話です。こちらは恋愛に全振りした、軽めのお話です。 本作のみでも、お楽しみ頂けます。 ※感想欄のネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。 本編未読の方はご注意下さい。

【完結】シュゼットのはなし

ここ
恋愛
子猫(獣人)のシュゼットは王子を守るため、かわりに竜の呪いを受けた。 顔に大きな傷ができてしまう。 当然責任をとって妃のひとりになるはずだったのだが‥。

処理中です...