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雨上がりの朝、フェルディナン邸の庭は静まり返っていた。
夜通し降った雨が白い花弁を散らし、濡れた大理石の回廊が淡く光っている。
セラは往診を終え、夫人の部屋を出た。
容態は安定しており、表情にも安堵の色が戻っている。
けれど、胸の奥に重く残っているのは、昨夜の光景――あの瞬間、ジュールの手が自分の肩に触れた感触だった。
たった一度。
それだけのことなのに、心はまだ熱を帯びていた。
*
翌日の昼、フェルディナン夫人は一日ぶりに中庭の風に当たった。
セラは傍らで新しい薬草茶を注ぎ、静かに見守っていた。
夫人は目を細めて空を見上げた。
「今朝ね、夢を見たの。レアが笑っていたわ」
「……そうでしたか」
「ええ。あの子の笑顔を見たのは、本当に久しぶり」
そう言って微笑むその顔に、少しだけ涙が光っていた。
「家族団欒で食事をする夢。皆が幸せそうに笑っていたの。そんな当たり前の日常が眩しかったわ」
夫人は顔を上げ、陽光に視線を向けて言葉を続ける。
「ジュールも笑っていたわ。あの子が倒れてから、もう見たことがない笑顔だった」
夫人は穏やかに続けた。
「この十年、ジュールは張り詰めたように生きているわ。本人は自覚は無いようだけど……誰にも頼らず、弱音も吐かないわ」
「……十年」
「……きっと、あの人も誰かに支えられたいはずだわ。いつも誰かを守ってばかりだから。……誰にも言えないけれどね」
夫人は、娘婿の孤独を案じていた。長く家族を見守ってきた者の、やさしい溜息のような響きだった。
セラは息を呑んだ。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
自分は、彼を支えられる立場ではない。
けれど、支えたいと願ってしまう――その矛盾が、痛かった。
*
夕刻になり、夫人の眠りを確認したあと、セラは帰り支度をしていた。
外は、昼間の晴れ間が夢だったかのように、細かな雨が降り始めていた。
石畳に滲む光が、静かに滲んでゆく。
玄関へ向かう途中、長い廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてくる。その音だけで、胸の奥が微かに震えた。
黒い外套の裾が、雨を受けた風にわずかに揺れる。
歩みの主は、ジュールだった。
「帰りかい?」
静かな声。
その響きだけで、胸の奥がざわめいた。
「はい。夫人は落ち着かれています」
「そうか。遅くまでありがとう。昨夜は……助かった」
「お礼を言われるようなことではありません」
そう言いながら、セラは静かに頭を下げる。視線を合わせたら、心が壊れそうだった。
「君は、いつも雨の日に来るな」
少し笑うような声。
彼の笑みは穏やかで、けれどどこか寂しかった。
「雨が好きなんです」
「そうか。私は、苦手だ。……止まない音を聞くと、いつも時間が戻る気がする」
十年前の、あの事故の日。
レアの意識がなくなったのも雨の午後だった。
セラは、何も言えなかった。
その沈黙の中に、彼の“祈りの疲れ”が滲んでいるのが分かった。
ジュールはゆっくりと視線を上げた。
その瞳は深い灰のように静かで、どこまでも澄んでいた。
「セラ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
「……はい」
「昨夜――君が傍にいてくれたことが忘れられない」
その言葉に、息が止まった。
低く、掠れた声。
誰かを慰めるようでいて、どこか懺悔の響きを帯びていた。
「私は、何かを間違えているのだろうか」
彼の手が、そっと額に触れた。
まるで祈るような仕草で、指先が震えていた。
セラは静かに首を振ることしか出来なかった。
けれど、心のどこかが叫んでいた。
――その優しさこそが、あなたを縛っている。
言えなかった。
言葉にした瞬間、すべてが壊れてしまう気がした。
ジュールの瞳が揺れた。
まるで、何かを決意するように。
次の瞬間、彼の手がセラの頬に触れた。
指先が冷たく、震えている。その震えの奥に、どうしようもない熱があった。
「……セラ」
再び名前を呼ぶ声が、息と一緒にこぼれ落ちる。
セラの身体がわずかに強張る。
その手を拒むことは出来なかった。
彼の手が、頬から髪へ、そしてうなじへと滑っていく。
肌に触れた指先が、迷いながらも確かにそこにある。触れるたび、空気が震えた。
――こんなにも近いのに、なぜ抱きしめてくれないの。
セラは目を閉じた。
息が交わる。距離は、あと指先ひとつ分だった。
そのとき、ジュールの指が止まった。
彼の呼吸が、わずかに乱れ、息を飲んだのがわかった。
唇が、彼女の唇に触れそうになって―ー止まった。
「……だめだ」
ジュールの低い声が、喉の奥でかすれた。
彼は、ゆっくりと手を離した。
その指先が離れる瞬間、セラの肌が熱を失っていく。
「……申し訳ない」
ジュールの声は震えていた。
苦悩と後悔と、押し殺した願いが滲んでいた。
セラは何も言えず、ただ首を横に振った。涙ではなく、息がこぼれた。
外では、細かな雨が降り続いていた。
誰も知らない場所で、たった一度、理性がふたりを引き離した。
それでも――
心はもう、戻れない場所にいた。
*
邸を出ると、雨がまた強くなっていた。
馬車を呼ぶまでの間、庇の下で空を見上げる。
指先に、まだ彼の温もりが残っている。
たった数秒の触れ合いが、胸の奥で永遠のように燃えていた。
――この恋は、祈りの果てに生まれた。だからこそ、罪であり、救いでもある。
セラは小さく息を吐き、
「……ジュール様」
誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。
雨が頬を濡らす。
それが涙かどうか、もう分からなかった。
夜通し降った雨が白い花弁を散らし、濡れた大理石の回廊が淡く光っている。
セラは往診を終え、夫人の部屋を出た。
容態は安定しており、表情にも安堵の色が戻っている。
けれど、胸の奥に重く残っているのは、昨夜の光景――あの瞬間、ジュールの手が自分の肩に触れた感触だった。
たった一度。
それだけのことなのに、心はまだ熱を帯びていた。
*
翌日の昼、フェルディナン夫人は一日ぶりに中庭の風に当たった。
セラは傍らで新しい薬草茶を注ぎ、静かに見守っていた。
夫人は目を細めて空を見上げた。
「今朝ね、夢を見たの。レアが笑っていたわ」
「……そうでしたか」
「ええ。あの子の笑顔を見たのは、本当に久しぶり」
そう言って微笑むその顔に、少しだけ涙が光っていた。
「家族団欒で食事をする夢。皆が幸せそうに笑っていたの。そんな当たり前の日常が眩しかったわ」
夫人は顔を上げ、陽光に視線を向けて言葉を続ける。
「ジュールも笑っていたわ。あの子が倒れてから、もう見たことがない笑顔だった」
夫人は穏やかに続けた。
「この十年、ジュールは張り詰めたように生きているわ。本人は自覚は無いようだけど……誰にも頼らず、弱音も吐かないわ」
「……十年」
「……きっと、あの人も誰かに支えられたいはずだわ。いつも誰かを守ってばかりだから。……誰にも言えないけれどね」
夫人は、娘婿の孤独を案じていた。長く家族を見守ってきた者の、やさしい溜息のような響きだった。
セラは息を呑んだ。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
自分は、彼を支えられる立場ではない。
けれど、支えたいと願ってしまう――その矛盾が、痛かった。
*
夕刻になり、夫人の眠りを確認したあと、セラは帰り支度をしていた。
外は、昼間の晴れ間が夢だったかのように、細かな雨が降り始めていた。
石畳に滲む光が、静かに滲んでゆく。
玄関へ向かう途中、長い廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてくる。その音だけで、胸の奥が微かに震えた。
黒い外套の裾が、雨を受けた風にわずかに揺れる。
歩みの主は、ジュールだった。
「帰りかい?」
静かな声。
その響きだけで、胸の奥がざわめいた。
「はい。夫人は落ち着かれています」
「そうか。遅くまでありがとう。昨夜は……助かった」
「お礼を言われるようなことではありません」
そう言いながら、セラは静かに頭を下げる。視線を合わせたら、心が壊れそうだった。
「君は、いつも雨の日に来るな」
少し笑うような声。
彼の笑みは穏やかで、けれどどこか寂しかった。
「雨が好きなんです」
「そうか。私は、苦手だ。……止まない音を聞くと、いつも時間が戻る気がする」
十年前の、あの事故の日。
レアの意識がなくなったのも雨の午後だった。
セラは、何も言えなかった。
その沈黙の中に、彼の“祈りの疲れ”が滲んでいるのが分かった。
ジュールはゆっくりと視線を上げた。
その瞳は深い灰のように静かで、どこまでも澄んでいた。
「セラ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
「……はい」
「昨夜――君が傍にいてくれたことが忘れられない」
その言葉に、息が止まった。
低く、掠れた声。
誰かを慰めるようでいて、どこか懺悔の響きを帯びていた。
「私は、何かを間違えているのだろうか」
彼の手が、そっと額に触れた。
まるで祈るような仕草で、指先が震えていた。
セラは静かに首を振ることしか出来なかった。
けれど、心のどこかが叫んでいた。
――その優しさこそが、あなたを縛っている。
言えなかった。
言葉にした瞬間、すべてが壊れてしまう気がした。
ジュールの瞳が揺れた。
まるで、何かを決意するように。
次の瞬間、彼の手がセラの頬に触れた。
指先が冷たく、震えている。その震えの奥に、どうしようもない熱があった。
「……セラ」
再び名前を呼ぶ声が、息と一緒にこぼれ落ちる。
セラの身体がわずかに強張る。
その手を拒むことは出来なかった。
彼の手が、頬から髪へ、そしてうなじへと滑っていく。
肌に触れた指先が、迷いながらも確かにそこにある。触れるたび、空気が震えた。
――こんなにも近いのに、なぜ抱きしめてくれないの。
セラは目を閉じた。
息が交わる。距離は、あと指先ひとつ分だった。
そのとき、ジュールの指が止まった。
彼の呼吸が、わずかに乱れ、息を飲んだのがわかった。
唇が、彼女の唇に触れそうになって―ー止まった。
「……だめだ」
ジュールの低い声が、喉の奥でかすれた。
彼は、ゆっくりと手を離した。
その指先が離れる瞬間、セラの肌が熱を失っていく。
「……申し訳ない」
ジュールの声は震えていた。
苦悩と後悔と、押し殺した願いが滲んでいた。
セラは何も言えず、ただ首を横に振った。涙ではなく、息がこぼれた。
外では、細かな雨が降り続いていた。
誰も知らない場所で、たった一度、理性がふたりを引き離した。
それでも――
心はもう、戻れない場所にいた。
*
邸を出ると、雨がまた強くなっていた。
馬車を呼ぶまでの間、庇の下で空を見上げる。
指先に、まだ彼の温もりが残っている。
たった数秒の触れ合いが、胸の奥で永遠のように燃えていた。
――この恋は、祈りの果てに生まれた。だからこそ、罪であり、救いでもある。
セラは小さく息を吐き、
「……ジュール様」
誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。
雨が頬を濡らす。
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