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夕刻の診療所。
薬棚に差し込む光が橙色に変わりはじめ、
セラは包帯の在庫を数えながら、ふと窓の外を見上げた。
(……今度はいつ来るかな…)
甘い予感と、静かな期待。
そんな気持ちをごまかしながら手を動かしていると――
「ただいま、戻ったよ」
柔らかな声が診療所に満ちた。
白衣を軽くはためかせて入ってきたのは、院長 アラン・ド・モンルージュ。
育ちの良さが自然と滲む、穏やかで知的な佇まいの人だ。
「フェルディナン邸へ呼ばれてね。
今日は夫人ではなく――レア様の診察だった」
「……レア様、の?」
セラの胸が、きゅっと強く縮む。
「驚くだろうけれど……本当に驚くべきことがあってね」
アランは少し微笑み、診断記録を机に置いた。
「ここ数日……いや、今日が特に顕著だった。呼吸が以前より深く、脈にも“力”があった。医師として軽率な希望は言えないが……」
一度視線を落とし、言葉を慎重に選ぶ。
「――回復の兆しと言えるかもしれない」
薬瓶を持つセラの指が、かすかに震えた。
(……レア様が……?)
「これが続けば……意識が戻る日も、遠くはないだろう」
その言葉は喜ばしいはずなのに、
セラの心に落ちたのは、温かさではなかった。
胸の奥がひどくざわめいた。
祝福すべき出来事なのに。
彼女が回復することは、フェルディナン家にとっても、ジュールにとっても“願いそのもの”なのに。
「僕が確認したあと、夫人は大喜びでね。
“あの子に光が差した”と涙ぐんでいたよ。
長い長い年月だったからね。……娘の回復は、何よりの薬になるだろう」
その光景が目に浮かぶようで、胸が少し締めつけられる。
アランは紙をめくりながら、ぼそりと小さく付け足す。
「夫人の胸の痛みや不眠は、身体の問題だけじゃない。“娘が目覚めない”という長年の不安と悲しみが大きなストレスになっていると思うんだ」
セラが俯き加減に小さく頷く。
「だから、レア様の兆しが続けば……
夫人の往診も、少し間隔をあけられるかもしれないね。もちろん経過を見ながらだが」
それは、医者として当然の判断だった。
だが――
「……そう、ですね……良い……こと、ですよね……」
声が震えたのを、セラ自身が驚いた。
「うん。娘の回復は、家庭全体に明るさを戻すだろう」
アランは気づかぬまま柔らかく頷く。
「それに……レア様のご主人であるジュール様にとっても、大きな喜びになるはずだ。
新婚の時期に事故で妻を失いかけて、十年ものあいだ献身的に支えてきたのだからね……」
セラは手元を見つめたまま、微かに笑ったふりをした。
(喜ぶべきことなのに……)
胸の奥に広がる、名前のつけられない暗い影。
世界が良い方向へ動いているのに、心だけが取り残されるような――そんな居場所のない痛み。
(……わたし……なんて醜いんだろう…)
アランが去ったあとも、セラはしばらく綿布を握ったまま立ち尽くしていた。
***
ーーその頃、ジュールは。
王都北端へ伸びる舗装路は、夏の陽が傾きはじめ、金色の光を長く引いていた。
遠方の領地との文書調整と監査――
本来なら、気を引き締めて臨むべき半月の出立だというのに、今日のジュールは馬車の揺れさえ落ち着いて感じられなかった。
胸の奥で脈打つのは、ひとつの報告。
――レアが、指を動かした。
――目を開ける時も出てきた。
医師は「意識が戻る可能性が高い」と。
何度反芻しても、胸の内が揺れる。
(……レア……)
朝に声をかけ、夜に髪を梳き、十年ものあいだ変わらず寄り添ってきた。
レアの回復は、胸を満たす朗報だった。
十年越しの希望。
ようやく訪れた“光”の気配。
本来なら、喜びだけで胸いっぱいになるはずなのに――その光の影には、鋭い痛みが潜んでいた。
(……戻れば、どうなる……?)
その問いは、毒のように胸を刺した。
目を閉じれば、すぐにセラが浮かぶ。
泣きそうな瞳で縋り、壊れそうになるほど抱きしめ合って、お互いの熱を分け合った。
名前を呼び――離れるたび、胸が軋むほど恋しくなる。
彼女に名前を呼ばれるたび、胸が軋んだ。触れるだけで、離れがたくなった。
(セラ……)
その名を思い浮かべた瞬間、ジュールは無意識に思考を閉ざした。
今は、考えたくなかった。
レアが本当に目覚めるのかもわからない今、その先のことを考えて心を乱す自分が、ひどく卑怯に思えた。
それなのに――
指先がふと震える。
あの夜、セラの肩に触れたときの温もりが蘇った。
(……レアが戻れば……)
そこまで考えて、自分の心が拒むのを感じた。
その先に待つ結末を想像しただけで――
胸の奥に、どうしようもない痛みが走るから。
(……今は仕事だ。考えるのは後でいい……後で……)
そう自分に言い聞かせるように、ジュールは馬車の窓の外へ視線を逃がした。
だが、胸のざわめきは風を受けても静まらなかった。
レアの回復の喜び。
セラに会いたいという渇き。
どちらも消えない。
どちらも、彼の心に確かに根を張っている。
馬車から見上げた空は、澄んだ青のままだった。
十年前と変わらない――
レアが笑い、青春の真ん中にいたあの日の空。
頬をかすめた風は温かいのに、胸の奥だけは、冷たい痛みと熱い渇きが同時に渦を巻く。
レアの春が戻りかけているその瞬間、ジュールの胸の奥では――
どうしようもない二つの想いが、音もなく彼を裂き始めていた。
薬棚に差し込む光が橙色に変わりはじめ、
セラは包帯の在庫を数えながら、ふと窓の外を見上げた。
(……今度はいつ来るかな…)
甘い予感と、静かな期待。
そんな気持ちをごまかしながら手を動かしていると――
「ただいま、戻ったよ」
柔らかな声が診療所に満ちた。
白衣を軽くはためかせて入ってきたのは、院長 アラン・ド・モンルージュ。
育ちの良さが自然と滲む、穏やかで知的な佇まいの人だ。
「フェルディナン邸へ呼ばれてね。
今日は夫人ではなく――レア様の診察だった」
「……レア様、の?」
セラの胸が、きゅっと強く縮む。
「驚くだろうけれど……本当に驚くべきことがあってね」
アランは少し微笑み、診断記録を机に置いた。
「ここ数日……いや、今日が特に顕著だった。呼吸が以前より深く、脈にも“力”があった。医師として軽率な希望は言えないが……」
一度視線を落とし、言葉を慎重に選ぶ。
「――回復の兆しと言えるかもしれない」
薬瓶を持つセラの指が、かすかに震えた。
(……レア様が……?)
「これが続けば……意識が戻る日も、遠くはないだろう」
その言葉は喜ばしいはずなのに、
セラの心に落ちたのは、温かさではなかった。
胸の奥がひどくざわめいた。
祝福すべき出来事なのに。
彼女が回復することは、フェルディナン家にとっても、ジュールにとっても“願いそのもの”なのに。
「僕が確認したあと、夫人は大喜びでね。
“あの子に光が差した”と涙ぐんでいたよ。
長い長い年月だったからね。……娘の回復は、何よりの薬になるだろう」
その光景が目に浮かぶようで、胸が少し締めつけられる。
アランは紙をめくりながら、ぼそりと小さく付け足す。
「夫人の胸の痛みや不眠は、身体の問題だけじゃない。“娘が目覚めない”という長年の不安と悲しみが大きなストレスになっていると思うんだ」
セラが俯き加減に小さく頷く。
「だから、レア様の兆しが続けば……
夫人の往診も、少し間隔をあけられるかもしれないね。もちろん経過を見ながらだが」
それは、医者として当然の判断だった。
だが――
「……そう、ですね……良い……こと、ですよね……」
声が震えたのを、セラ自身が驚いた。
「うん。娘の回復は、家庭全体に明るさを戻すだろう」
アランは気づかぬまま柔らかく頷く。
「それに……レア様のご主人であるジュール様にとっても、大きな喜びになるはずだ。
新婚の時期に事故で妻を失いかけて、十年ものあいだ献身的に支えてきたのだからね……」
セラは手元を見つめたまま、微かに笑ったふりをした。
(喜ぶべきことなのに……)
胸の奥に広がる、名前のつけられない暗い影。
世界が良い方向へ動いているのに、心だけが取り残されるような――そんな居場所のない痛み。
(……わたし……なんて醜いんだろう…)
アランが去ったあとも、セラはしばらく綿布を握ったまま立ち尽くしていた。
***
ーーその頃、ジュールは。
王都北端へ伸びる舗装路は、夏の陽が傾きはじめ、金色の光を長く引いていた。
遠方の領地との文書調整と監査――
本来なら、気を引き締めて臨むべき半月の出立だというのに、今日のジュールは馬車の揺れさえ落ち着いて感じられなかった。
胸の奥で脈打つのは、ひとつの報告。
――レアが、指を動かした。
――目を開ける時も出てきた。
医師は「意識が戻る可能性が高い」と。
何度反芻しても、胸の内が揺れる。
(……レア……)
朝に声をかけ、夜に髪を梳き、十年ものあいだ変わらず寄り添ってきた。
レアの回復は、胸を満たす朗報だった。
十年越しの希望。
ようやく訪れた“光”の気配。
本来なら、喜びだけで胸いっぱいになるはずなのに――その光の影には、鋭い痛みが潜んでいた。
(……戻れば、どうなる……?)
その問いは、毒のように胸を刺した。
目を閉じれば、すぐにセラが浮かぶ。
泣きそうな瞳で縋り、壊れそうになるほど抱きしめ合って、お互いの熱を分け合った。
名前を呼び――離れるたび、胸が軋むほど恋しくなる。
彼女に名前を呼ばれるたび、胸が軋んだ。触れるだけで、離れがたくなった。
(セラ……)
その名を思い浮かべた瞬間、ジュールは無意識に思考を閉ざした。
今は、考えたくなかった。
レアが本当に目覚めるのかもわからない今、その先のことを考えて心を乱す自分が、ひどく卑怯に思えた。
それなのに――
指先がふと震える。
あの夜、セラの肩に触れたときの温もりが蘇った。
(……レアが戻れば……)
そこまで考えて、自分の心が拒むのを感じた。
その先に待つ結末を想像しただけで――
胸の奥に、どうしようもない痛みが走るから。
(……今は仕事だ。考えるのは後でいい……後で……)
そう自分に言い聞かせるように、ジュールは馬車の窓の外へ視線を逃がした。
だが、胸のざわめきは風を受けても静まらなかった。
レアの回復の喜び。
セラに会いたいという渇き。
どちらも消えない。
どちらも、彼の心に確かに根を張っている。
馬車から見上げた空は、澄んだ青のままだった。
十年前と変わらない――
レアが笑い、青春の真ん中にいたあの日の空。
頬をかすめた風は温かいのに、胸の奥だけは、冷たい痛みと熱い渇きが同時に渦を巻く。
レアの春が戻りかけているその瞬間、ジュールの胸の奥では――
どうしようもない二つの想いが、音もなく彼を裂き始めていた。
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