【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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(十七年前)


 夜のフェルディナン邸は静かだった。

 晩餐を終え、自室の扉を閉めた瞬間ーーレアの胸はふわりと熱を帯びた。

(……ジュール)

 彼の名を心の内で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

 机の上では、燭台の炎が小さく揺れ、その光が白紙の便箋を淡く照らしていた。

 ――こんなに胸が騒ぐのは、生まれて初めてだった。

 レアは椅子に腰を下ろし、そっとペンを取る。だが、筆先が紙に触れたとたん、手がふっと止まった。

(何を書けば……いいの?)

 いつもなら言いたいことを臆さず言えるのに、彼のことになると、胸の奥の言葉がどれも頼りなく震えてしまう。

 それでも、書きたい。
 あの静かな少年に、自分の存在を知ってほしい。

(まずは、私のことを知ってもらいたいわ)

 そう思ったら、勢いのまま、ペンが滑り出した。



―――――――――――
《ジュール・エヴェラール様》

 突然のお手紙を失礼します。
 でも、どうしても書かずにはいられなかったのです。

 わたくし、フェルディナン伯爵家の娘、レア・フェルディナンです。

 あなたとはまだ挨拶程度で、ほとんどお話もできていませんが、それでは“礼儀ある関係”とは言えませんよね?

 ですので、まずは 私のことをたくさん知っていただこうと思いました。

 以下、簡単な自己紹介です。

 好きな食べ物は、蜂蜜のタルト、焼き林檎。
 嫌いな食べ物は、茄子。
 好きな飲み物は、ラベンダーティー。
 好きな花は、白薔薇とラナンキュラス。
 好きな色は、深い紅と薄い金色

 家族構成は、父アルマン、母マリアンヌ、そして私。父は厳しいですが、母はとても優しい人です。

 学園で好きな授業は、歴史学と詩学。それから、礼法の講義も好きです。
討論はまだ得意とは言えませんが、練習中です。
 婚約者の有無は、もちろん、おりません。

 ここまでで、あなたはすでに「私のことを少し知った」わけですが……
 これでは不公平ですよね?

 ですので、今度はあなたについて教えてください。

 ① 好きな食べ物
 ② 嫌いな食べ物
 ③ 好きな色
 ④趣味
 ⑤ 学園で得意な科目と、理由
 ⑥婚約者の有無

 答えられる範囲で構いません。
 でも、どれでもひとつでもいいので、聞かせていただけたら嬉しいです。

 これは押しつけではなく……
 “あなたと知り合いたいと思った証” です。

 それでは、お返事をお待ちしております。

                        
レア・フェルディナン

―――――――――――

 書き終わった瞬間、レアは胸に手をあてた。


(……ちょっと書きすぎたかしら?でも、いいわ。だって本気なんだもの)

 少女らしい高揚と、恋の大胆さ。

 こうして――ジュールへ送られる、まるで履歴書のような恋文 が完成した。



***


 翌朝、フェルディナン家の馬車が学園前に止まると、レアは軽やかに裾を揺らしてAクラスの教室へ向かった。

 扉を開いた瞬間、教室がざわめく。

「レア・フェルディナン嬢だ……」
「またAクラスに……?」

 視線が集中する中、レアの足取りは乱れなかった。胸を張り、迷いなくジュールの席へ向かう。

 灰金の髪が光を吸い、彼は静かに顔を上げた。表情は変わらない。

 だが――耳だけがほんのり赤い。

(……可愛い)

 気づいた瞬間、レアの胸は少し跳ねた。

「ジュール。これ、読んでくださる?」
「……ああ。わかった」

 彼は礼節正しく手紙に触れた。
 騒然とする教室のなかで、その仕草だけが淡く静かだった。 


***


 すぐ返事が来ると思っていた。

 だが――
 二日、三日と過ぎても、沈黙が続いた。


(どういうこと……?無視なんて、あり得ないわ)


 とうとう我慢の限界が来たレアは、昼休み前にAクラスの扉を開けた。

「ジュール。返事、いただけないの?」

 教室内が響めく。
 ジュールは本を閉じ、相変わらず淡々とした表情で言った。

「……考えすぎて書けなくて」
「…………え?」
「質問が多くて……どれから答えたらいいのか、困ってるんだ」

 あまりに真剣な顔で言われ、レアは思わず瞬きをした。


(……そういう理由?)

 力が抜けそうになる。
 だがその瞬間、昼の鐘が鳴り響いた。

「……では、また後でね」
「わかった」

 レアは仕方なく退席した。





 授業が終わり、再びAクラスへ向かうと――扉の向こうに、不穏な声が響いていた。

「田舎の子爵家の次男坊のくせに、伯爵令嬢に惚れられて得意になってるんじゃないのか」
「爵位なしだろ?婿養子にでも入れば安泰だ」
「せいぜいレア嬢の機嫌を損ねないようにな!」

 低く笑う男子たち。
 その中心で、ジュールは静かに立っていた。

 淡い蒼の瞳は揺れない。
 憎悪も反論もない――
 ただ、冷ややかな静けさだけがあった。

 その眼差しに、やっかんでいた男子たちが、かえって怯んだ。

「……っ、たかが子爵家の次男が、生意気なんだよ!」

 と、怒鳴った瞬間――

「生意気なのは、どちらかしら?」

 教室の空気が凍りついた。
 レアが、凛とした声で立っていた。

「陰で人を貶めるなんて、貴族のすることではなくてよ」

 レアは微笑んだ。
 それは社交界で男たちを惑わせる“紅薔薇の微笑”だが、いまは棘がむき出しだった。

「陰で人を貶すしかないなんて、誇り高い貴族のすることかしら?
まるで、勇気も実力もない人間の常套手段じゃなくて?」

「っ……!」

「それとも、あなたたちは――
正面から勝負してもジュールに敵わない、と認めているの?」

 言葉は刃のように鋭く、しかし美しく整っていた。

 教室が、息を呑んだように静まり返る。

「悔しいなら努力なさい。陰口でしか自分を保てないのなら、その程度の家柄なのよ」

 男子の口が開いたが、言葉が出なかった。レアは最後にひとことだけ、淡々と吐き捨てた。

「――うるさいのよ。雑音が」

 その一言で、男子たちは顔を真っ赤にして退散した。

 静寂の中、ジュールが目を瞬いた。

 そして――
 堪えきれない、というように喉がふっと震えた。

「……すごいな、君は」

 思わず漏れた笑いだった。
 レアは頬を赤らめる。

「え、?な、何がかしら?」

 ジュールは涙が滲むほど笑ったあと、すぐ真顔に戻った。

「いや……ほんとに……すごいよ。
君にあんなこと言われたら……もう誰も逆らえないだろうね」

 その声音には、驚きと、抑えきれない好奇心 があった。

 レアの心臓が跳ねる。

(……今、微笑んだわ……本気で……)

 この瞬間、レアの恋は一段と深く、強く燃え上がっていた。

 





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