41 / 52
41
しおりを挟む
(十七年前)
夜のフェルディナン邸は静かだった。
晩餐を終え、自室の扉を閉めた瞬間ーーレアの胸はふわりと熱を帯びた。
(……ジュール)
彼の名を心の内で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
机の上では、燭台の炎が小さく揺れ、その光が白紙の便箋を淡く照らしていた。
――こんなに胸が騒ぐのは、生まれて初めてだった。
レアは椅子に腰を下ろし、そっとペンを取る。だが、筆先が紙に触れたとたん、手がふっと止まった。
(何を書けば……いいの?)
いつもなら言いたいことを臆さず言えるのに、彼のことになると、胸の奥の言葉がどれも頼りなく震えてしまう。
それでも、書きたい。
あの静かな少年に、自分の存在を知ってほしい。
(まずは、私のことを知ってもらいたいわ)
そう思ったら、勢いのまま、ペンが滑り出した。
―――――――――――
《ジュール・エヴェラール様》
突然のお手紙を失礼します。
でも、どうしても書かずにはいられなかったのです。
わたくし、フェルディナン伯爵家の娘、レア・フェルディナンです。
あなたとはまだ挨拶程度で、ほとんどお話もできていませんが、それでは“礼儀ある関係”とは言えませんよね?
ですので、まずは 私のことをたくさん知っていただこうと思いました。
以下、簡単な自己紹介です。
好きな食べ物は、蜂蜜のタルト、焼き林檎。
嫌いな食べ物は、茄子。
好きな飲み物は、ラベンダーティー。
好きな花は、白薔薇とラナンキュラス。
好きな色は、深い紅と薄い金色
家族構成は、父アルマン、母マリアンヌ、そして私。父は厳しいですが、母はとても優しい人です。
学園で好きな授業は、歴史学と詩学。それから、礼法の講義も好きです。
討論はまだ得意とは言えませんが、練習中です。
婚約者の有無は、もちろん、おりません。
ここまでで、あなたはすでに「私のことを少し知った」わけですが……
これでは不公平ですよね?
ですので、今度はあなたについて教えてください。
① 好きな食べ物
② 嫌いな食べ物
③ 好きな色
④趣味
⑤ 学園で得意な科目と、理由
⑥婚約者の有無
答えられる範囲で構いません。
でも、どれでもひとつでもいいので、聞かせていただけたら嬉しいです。
これは押しつけではなく……
“あなたと知り合いたいと思った証” です。
それでは、お返事をお待ちしております。
レア・フェルディナン
―――――――――――
書き終わった瞬間、レアは胸に手をあてた。
(……ちょっと書きすぎたかしら?でも、いいわ。だって本気なんだもの)
少女らしい高揚と、恋の大胆さ。
こうして――ジュールへ送られる、まるで履歴書のような恋文 が完成した。
***
翌朝、フェルディナン家の馬車が学園前に止まると、レアは軽やかに裾を揺らしてAクラスの教室へ向かった。
扉を開いた瞬間、教室がざわめく。
「レア・フェルディナン嬢だ……」
「またAクラスに……?」
視線が集中する中、レアの足取りは乱れなかった。胸を張り、迷いなくジュールの席へ向かう。
灰金の髪が光を吸い、彼は静かに顔を上げた。表情は変わらない。
だが――耳だけがほんのり赤い。
(……可愛い)
気づいた瞬間、レアの胸は少し跳ねた。
「ジュール。これ、読んでくださる?」
「……ああ。わかった」
彼は礼節正しく手紙に触れた。
騒然とする教室のなかで、その仕草だけが淡く静かだった。
***
すぐ返事が来ると思っていた。
だが――
二日、三日と過ぎても、沈黙が続いた。
(どういうこと……?無視なんて、あり得ないわ)
とうとう我慢の限界が来たレアは、昼休み前にAクラスの扉を開けた。
「ジュール。返事、いただけないの?」
教室内が響めく。
ジュールは本を閉じ、相変わらず淡々とした表情で言った。
「……考えすぎて書けなくて」
「…………え?」
「質問が多くて……どれから答えたらいいのか、困ってるんだ」
あまりに真剣な顔で言われ、レアは思わず瞬きをした。
(……そういう理由?)
力が抜けそうになる。
だがその瞬間、昼の鐘が鳴り響いた。
「……では、また後でね」
「わかった」
レアは仕方なく退席した。
*
授業が終わり、再びAクラスへ向かうと――扉の向こうに、不穏な声が響いていた。
「田舎の子爵家の次男坊のくせに、伯爵令嬢に惚れられて得意になってるんじゃないのか」
「爵位なしだろ?婿養子にでも入れば安泰だ」
「せいぜいレア嬢の機嫌を損ねないようにな!」
低く笑う男子たち。
その中心で、ジュールは静かに立っていた。
淡い蒼の瞳は揺れない。
憎悪も反論もない――
ただ、冷ややかな静けさだけがあった。
その眼差しに、やっかんでいた男子たちが、かえって怯んだ。
「……っ、たかが子爵家の次男が、生意気なんだよ!」
と、怒鳴った瞬間――
「生意気なのは、どちらかしら?」
教室の空気が凍りついた。
レアが、凛とした声で立っていた。
「陰で人を貶めるなんて、貴族のすることではなくてよ」
レアは微笑んだ。
それは社交界で男たちを惑わせる“紅薔薇の微笑”だが、いまは棘がむき出しだった。
「陰で人を貶すしかないなんて、誇り高い貴族のすることかしら?
まるで、勇気も実力もない人間の常套手段じゃなくて?」
「っ……!」
「それとも、あなたたちは――
正面から勝負してもジュールに敵わない、と認めているの?」
言葉は刃のように鋭く、しかし美しく整っていた。
教室が、息を呑んだように静まり返る。
「悔しいなら努力なさい。陰口でしか自分を保てないのなら、その程度の家柄なのよ」
男子の口が開いたが、言葉が出なかった。レアは最後にひとことだけ、淡々と吐き捨てた。
「――うるさいのよ。雑音が」
その一言で、男子たちは顔を真っ赤にして退散した。
静寂の中、ジュールが目を瞬いた。
そして――
堪えきれない、というように喉がふっと震えた。
「……すごいな、君は」
思わず漏れた笑いだった。
レアは頬を赤らめる。
「え、?な、何がかしら?」
ジュールは涙が滲むほど笑ったあと、すぐ真顔に戻った。
「いや……ほんとに……すごいよ。
君にあんなこと言われたら……もう誰も逆らえないだろうね」
その声音には、驚きと、抑えきれない好奇心 があった。
レアの心臓が跳ねる。
(……今、微笑んだわ……本気で……)
この瞬間、レアの恋は一段と深く、強く燃え上がっていた。
夜のフェルディナン邸は静かだった。
晩餐を終え、自室の扉を閉めた瞬間ーーレアの胸はふわりと熱を帯びた。
(……ジュール)
彼の名を心の内で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
机の上では、燭台の炎が小さく揺れ、その光が白紙の便箋を淡く照らしていた。
――こんなに胸が騒ぐのは、生まれて初めてだった。
レアは椅子に腰を下ろし、そっとペンを取る。だが、筆先が紙に触れたとたん、手がふっと止まった。
(何を書けば……いいの?)
いつもなら言いたいことを臆さず言えるのに、彼のことになると、胸の奥の言葉がどれも頼りなく震えてしまう。
それでも、書きたい。
あの静かな少年に、自分の存在を知ってほしい。
(まずは、私のことを知ってもらいたいわ)
そう思ったら、勢いのまま、ペンが滑り出した。
―――――――――――
《ジュール・エヴェラール様》
突然のお手紙を失礼します。
でも、どうしても書かずにはいられなかったのです。
わたくし、フェルディナン伯爵家の娘、レア・フェルディナンです。
あなたとはまだ挨拶程度で、ほとんどお話もできていませんが、それでは“礼儀ある関係”とは言えませんよね?
ですので、まずは 私のことをたくさん知っていただこうと思いました。
以下、簡単な自己紹介です。
好きな食べ物は、蜂蜜のタルト、焼き林檎。
嫌いな食べ物は、茄子。
好きな飲み物は、ラベンダーティー。
好きな花は、白薔薇とラナンキュラス。
好きな色は、深い紅と薄い金色
家族構成は、父アルマン、母マリアンヌ、そして私。父は厳しいですが、母はとても優しい人です。
学園で好きな授業は、歴史学と詩学。それから、礼法の講義も好きです。
討論はまだ得意とは言えませんが、練習中です。
婚約者の有無は、もちろん、おりません。
ここまでで、あなたはすでに「私のことを少し知った」わけですが……
これでは不公平ですよね?
ですので、今度はあなたについて教えてください。
① 好きな食べ物
② 嫌いな食べ物
③ 好きな色
④趣味
⑤ 学園で得意な科目と、理由
⑥婚約者の有無
答えられる範囲で構いません。
でも、どれでもひとつでもいいので、聞かせていただけたら嬉しいです。
これは押しつけではなく……
“あなたと知り合いたいと思った証” です。
それでは、お返事をお待ちしております。
レア・フェルディナン
―――――――――――
書き終わった瞬間、レアは胸に手をあてた。
(……ちょっと書きすぎたかしら?でも、いいわ。だって本気なんだもの)
少女らしい高揚と、恋の大胆さ。
こうして――ジュールへ送られる、まるで履歴書のような恋文 が完成した。
***
翌朝、フェルディナン家の馬車が学園前に止まると、レアは軽やかに裾を揺らしてAクラスの教室へ向かった。
扉を開いた瞬間、教室がざわめく。
「レア・フェルディナン嬢だ……」
「またAクラスに……?」
視線が集中する中、レアの足取りは乱れなかった。胸を張り、迷いなくジュールの席へ向かう。
灰金の髪が光を吸い、彼は静かに顔を上げた。表情は変わらない。
だが――耳だけがほんのり赤い。
(……可愛い)
気づいた瞬間、レアの胸は少し跳ねた。
「ジュール。これ、読んでくださる?」
「……ああ。わかった」
彼は礼節正しく手紙に触れた。
騒然とする教室のなかで、その仕草だけが淡く静かだった。
***
すぐ返事が来ると思っていた。
だが――
二日、三日と過ぎても、沈黙が続いた。
(どういうこと……?無視なんて、あり得ないわ)
とうとう我慢の限界が来たレアは、昼休み前にAクラスの扉を開けた。
「ジュール。返事、いただけないの?」
教室内が響めく。
ジュールは本を閉じ、相変わらず淡々とした表情で言った。
「……考えすぎて書けなくて」
「…………え?」
「質問が多くて……どれから答えたらいいのか、困ってるんだ」
あまりに真剣な顔で言われ、レアは思わず瞬きをした。
(……そういう理由?)
力が抜けそうになる。
だがその瞬間、昼の鐘が鳴り響いた。
「……では、また後でね」
「わかった」
レアは仕方なく退席した。
*
授業が終わり、再びAクラスへ向かうと――扉の向こうに、不穏な声が響いていた。
「田舎の子爵家の次男坊のくせに、伯爵令嬢に惚れられて得意になってるんじゃないのか」
「爵位なしだろ?婿養子にでも入れば安泰だ」
「せいぜいレア嬢の機嫌を損ねないようにな!」
低く笑う男子たち。
その中心で、ジュールは静かに立っていた。
淡い蒼の瞳は揺れない。
憎悪も反論もない――
ただ、冷ややかな静けさだけがあった。
その眼差しに、やっかんでいた男子たちが、かえって怯んだ。
「……っ、たかが子爵家の次男が、生意気なんだよ!」
と、怒鳴った瞬間――
「生意気なのは、どちらかしら?」
教室の空気が凍りついた。
レアが、凛とした声で立っていた。
「陰で人を貶めるなんて、貴族のすることではなくてよ」
レアは微笑んだ。
それは社交界で男たちを惑わせる“紅薔薇の微笑”だが、いまは棘がむき出しだった。
「陰で人を貶すしかないなんて、誇り高い貴族のすることかしら?
まるで、勇気も実力もない人間の常套手段じゃなくて?」
「っ……!」
「それとも、あなたたちは――
正面から勝負してもジュールに敵わない、と認めているの?」
言葉は刃のように鋭く、しかし美しく整っていた。
教室が、息を呑んだように静まり返る。
「悔しいなら努力なさい。陰口でしか自分を保てないのなら、その程度の家柄なのよ」
男子の口が開いたが、言葉が出なかった。レアは最後にひとことだけ、淡々と吐き捨てた。
「――うるさいのよ。雑音が」
その一言で、男子たちは顔を真っ赤にして退散した。
静寂の中、ジュールが目を瞬いた。
そして――
堪えきれない、というように喉がふっと震えた。
「……すごいな、君は」
思わず漏れた笑いだった。
レアは頬を赤らめる。
「え、?な、何がかしら?」
ジュールは涙が滲むほど笑ったあと、すぐ真顔に戻った。
「いや……ほんとに……すごいよ。
君にあんなこと言われたら……もう誰も逆らえないだろうね」
その声音には、驚きと、抑えきれない好奇心 があった。
レアの心臓が跳ねる。
(……今、微笑んだわ……本気で……)
この瞬間、レアの恋は一段と深く、強く燃え上がっていた。
16
あなたにおすすめの小説
旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!
恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。
誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、
三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。
「キャ...ス...といっしょ?」
キャス……?
その名を知るはずのない我が子が、どうして?
胸騒ぎはやがて確信へと変わる。
夫が隠し続けていた“女の影”が、
じわりと家族の中に染み出していた。
だがそれは、いま目の前の裏切りではない。
学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。
その一夜の結果は、静かに、確実に、
フローレンスの家族を壊しはじめていた。
愛しているのに疑ってしまう。
信じたいのに、信じられない。
夫は嘘をつき続け、女は影のように
フローレンスの生活に忍び寄る。
──私は、この結婚を守れるの?
──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの?
秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。
真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!
この罰は永遠に
豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」
「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」
「……ふうん」
その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。
なろう様でも公開中です。
【完結】王命の代行をお引き受けいたします
ユユ
恋愛
白過ぎる結婚。
逃れられない。
隣接する仲の悪い貴族同士の婚姻は王命だった。
相手は一人息子。
姉が嫁ぐはずだったのに式の前夜に事故死。
仕方なく私が花嫁に。
* 作り話です。
* 完結しています。
心許せる幼なじみと兄の恋路を邪魔したと思っていたら、幸せになるために必要だと思っていることをしている人が、私の周りには大勢いたようです
珠宮さくら
恋愛
チェチーリア・ジェノヴァは、あることがきっかけとなって部屋に引きこもっていた。でも、心許せる幼なじみと兄と侍女と一緒にいると不安が和らいだ。
そんな、ある日、幼なじみがいつの間にか婚約をしていて、その人物に会うために留学すると突然聞かされることになったチェチーリアは、自分が兄と幼なじみの恋路を邪魔していると思うようになって、一念発起するのだが、勘違いとすれ違いの中から抜け出すことはない人生を送ることになるとは夢にも思わなかった。
友達の肩書き
菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。
私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。
どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。
「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」
近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。
【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう
冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」
セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。
少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。
※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。
さくさく進みます。
論破令嬢の政略結婚
ささい
恋愛
政略結婚の初夜、夫ルーファスが「君を愛していないから白い結婚にしたい」と言い出す。しかし妻カレンは、感傷を排し、論理で夫を完全に黙らせる。
※小説家になろうにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる