【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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(十七年前)


 あの日の騒動以来、ジュールの態度はわずかに変わった。

 休み時間、レアが話しかければ――
 以前より自然に、言葉を返してくれるようになった。

「その本、好きなの?」
「……うん。面白いよ。古代史のほうが好きだけどね」

 そんな、他愛のない会話でも、レアの胸はひそかに弾んだ。

(少し……心を開いてくれてる)

 だが、昼休みだけは話が別だった。
レアが学園の食堂で一緒に食事をしようと誘っても

「ごめん。先生に呼ばれていて」
「ちょっと、授業の準備があるから」

 ジュールは柔らかく笑い、けれど必ずはぐらかされた。

 そして、昼休みにAクラスへ行っても──
 いつも、ジュールの席は空のままだった。友人であるウィリアムに尋ねても

「ねぇ、ジュールはどこに?」
「さぁ? いつも気づいたらいなくなるんだ。あいつ、昼休みだけは早いんだよね」

(……おかしいわね?)


***


 そう思い続けた三日目。
ーーレアはついに決心していた。

(……追いかけるしかないわ)

 昼休みの鐘が鳴った瞬間、レアは教室を飛び出した。廊下の先に、灰金の髪が揺れる。

(いた……!)

 レアは足音を忍ばせ、石畳の回廊をそっと追う。

 ジュールは人の気配に敏いのか、途中で何度か立ち止まり、周囲を振り返った。

 そのたびに柱の陰へ身を隠しながら、胸の高鳴りをどうにか抑える。

 やがて——
 ジュールは学園の奥に立つ古い図書塔へと消えていった。

 塔の内部はひんやりと静まり、高窓から射し込む光がほこりを金色に浮かばせている。

 そして階段を上りきった最上階。
 風に揺れる大窓の前に、彼は立っていた。

 端正な横顔は、遠くの街並みに向けられ、灰金の髪が風にほどけるように揺れていた。

 教室で見るときよりもずっと繊細で、触れれば消えてしまいそうなほど――儚く、美しかった。


(……どうして、ここに…)

 胸の奥がじんわり熱くなる。
 その光景は、誰にも見せていない“ジュールだけの世界”のようで。

 レアは息を飲み、そっと足を踏み出した。

「ジュール……?」

 振り返った彼の蒼い瞳に、レアの姿が静かに映り込んだ。

 ジュールは、レアの姿を見ると小さく瞬きをした。驚きというより、想像もしていなかった者を見たときの静かな反応だった。

「……レア嬢」

 その声に、レアの胸がくすぐったく震えた。
 どうして自分の名前を呼ぶだけで、こんなに世界が明るくなるのだろう。

「いつも、ここに来てるの?」

 レアはできるだけ自然に笑おうとした。けれど、胸の奥の高鳴りは隠せない。

「さっき、あなたを探していたの。昼休みになるといなくなるから、気になって」

 ジュールは一瞬だけ視線を外し、塔の窓の外—遠くの街並みへと目を向けた。

「……ここの景色が好きなんだ」

「景色?」

「うん。ここから見える景色が、故郷の港を思い出してね。風の匂いとか、光の感じとか……似ている気がして」

 淡い声で語られるその言葉には、学園で見せる凛とした姿とは別の、少年の影があった。

(こんな表情……初めて見る)

 胸がじんと熱くなる。

「故郷が恋しいの?」

「……そうなのかもしれない。時々、屋敷の人たちのことを思い出すから」

 レアは言葉を探しながら、そっと近づいた。

「……会いたい人が…いるの?」

 ジュールは、ほんのわずかに目を丸くした。問いの意味を測りかねるように。

「そうだな…会いたい、というか、この景色を見せたい人はいる」
「見せたい人…」
「……故郷のこんな景色を、よく一緒にみた子で」

 レアの心臓がドキリとする。
 言葉が詰まりそうになるのを誤魔化しながら口を開く。

「もしかして、婚約者?」
 ジュールの瞳はわずかに細められ、首を振る。

「僕は次男だし、まだ婚約者はいないんだ」
「……そう。…だったら、好きな人は?」
 “婚約者はいない”の言葉に安堵し、質問を重ねる。

「好きな人……よくわからないな…」
「わからないの?
「うん。好きかどうかって……どう判断すればいいのか、よくわからないんだ」

 あまりに真っ直ぐで、嘘のない声。
 その無垢さに、レアの胸が痛いほど鳴った。

(……この人、なんて真面目で、なんて可愛いの)

「好きって……、その人のことを考えると胸がキュンとするのよ」
「“胸がキュン?”……?」
「ええ。キュンとしたり苦しくなったりするのよ」
 レアは自身の感じるままを伝える。
 ジュールは首を傾げながら、小さく呟いた。

「キュンではなくて…ザワザワする子はいる」

 レアは一瞬息を呑んだ。
 胸がひやりと縮む。

「え、それは……どんな子?」
「幼馴染で。……妹みたいな子だよ。この景色を見せたい子」

……?妹みたいな……?)

 レアの胸に、不意の冷たいものが流れる。だが、負けるつもりなんてなかった。

「……その幼馴染は貴族?」

「違う。乳母の娘だ」

 瞬間、胸の氷が少し溶けた。

なのね。なら……よかった)

「そういう感情なら……恋じゃないわね。ザワザワなんて、好きな気持ちじゃないわ」

 迷いなく言い切るレアの声は、芯が強かった。ジュールが静かに目を瞬く。

「……そうなのかな?」

「そうよ。あなたは恋をまだ知らないだけ。……その、幼馴染のことは、家族みたいな感情なのよ」

 ジュールは、レアの自信に満ちた瞳を見て、ほんのわずかに口元をほころばせた。

「レア嬢は物知りなんだな。よく人の気持ちがわかるね」

「ええ、そうね。よく言われるわ」

 レアの唇からこぼれた言葉は、自信に満ちたものだった。

「それで……今日は、どうしてここへ?」

 やっと聞かれ、レアは微笑を深めた。

「あなたに……会いたかったのよ」

 塔の高窓から差し込む光が、レアの栗毛をふわりと照らした。

 その一言は、嘘偽りなく、まっすぐで――
 ジュールは返答に困ったように視線を揺らし、それから、小さく息を吐いて微笑んだ。

 その微笑みは、ほんの少しだけレアだけのものに近づいていた。
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