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診療所の休憩室には、煮出し終えた薬草の匂いがかすかに残っていた。
窓の外では木立が風に軋み、色を失いかけた葉が二、三枚、細い枝にしがみついている。
冬の入り口特有の乾いた冷気が、ガラス越しに指先へと伝わってきた。
アラン医師は、湯気の立つ紅茶を両手で包みながら、穏やかな声で言った。
「フェルディナン家のレア様、ここ数日で起きている時間がかなり増えている。反応も、前よりはっきりしてきたよ」
湯気の向こうで浮かぶ柔らかな表情に合わせるように、セラも小さく頷いた。
「……そうなんですね」
「夫人も、ずいぶん落ち着かれたな。お前の往診も減ってきたんじゃないか?」
「はい。二週間に一度です。前回は、月に一度でもよいかもしれないとお話しされました」
熱いカップを指に絡めながら言うと、アランは深く頷いた。
「それだけ元気になったってことだ。娘さんが目覚めた今、自分は伏せっていられないって仰ってたよ」
医師として、心から喜ぶ笑みだった。
「今日なんか、往診の帰りぎわに俺の手をぎゅっと握って、『娘をよろしくお願いします』って泣かれたんだ。参ったよ」
アランは照れた笑みを浮かべた。
その光景が容易に想像できて、セラはそっとまぶたを伏せた。
「……はい。レア様の回復が、夫人にとって何よりの薬ですから」
それは嘘のない言葉だった。
けれど、喜びの影に、別の痛みが差す。
少しの沈黙のあと、アランは湯呑みの縁をなぞりながら続けた。
「ジュール様も、仕事の合間にずっと付き添っておられるそうだ。まるで、十年分を埋めるみたいに」
ただの世間話。
そのはずなのに、胸の奥に冷たい針が落ちた気がした。
呼吸の仕方が、少しだけわからなくなる。
セラは平静を装い、淡く言葉を返した。
「……夫人もおっしゃっていました。とても仲睦まじく、過ごされていると」
「ああ。十年も見守ってきたんだ。離れられない気持ちは、きっとあるだろうな」
屈託のない微笑み。
温かいはずなのに、痛みと安堵が同時に押し寄せてくる。
(レア様の回復は。喜ばしいことなのに……本当は、それだけでいいはずなのに)
机の端で、乾きかけた薬草が淡く色を褪せていく。香りはいつもと同じはずなのに、今日は胸を締めつけた。
――ジュールが視察から戻った夜。
互いに言葉を封じたまま、明け方に別れた。
それから一ヶ月。
ジュールから届いた手紙は、たった一通だった。
“本当はすぐにでも、セラに会いたい
けれど、今だけはレアを守らなければいけない
必ず時間を作るから、信じて待っていてほしい”
あの文字を指先でなぞった夜の感触は、まだ離れない。
(……会いたいのは、私も)
けれど、声にした瞬間、壊れる。
レアの意識が戻りつつある今、その恐怖は日に日に濃くなっていく。
窓の外では、冷たい風が落葉をさらっ
た。
セラは湯気を肺いっぱいに吸い込みながら、小さく目を伏せる。
(私は――どうすればいいの)
***
その頃、フェルディナン邸の西棟では――
午後の光が、薄曇りの空を透かして柔らかく差し込んでいた。
磨かれた大理石の床は冷たく、白いカーテン越しには冬を呼ぶ風が微かに揺れる。
寝台の上、レアの漆黒の髪が光を吸い込むように艶やかだった。
クッションに支えられ、上半身だけを起こした彼女は、宝石のような瞳でジュールを真正面から見つめていた。
その視線はまっすぐで、迷いがなかった。まるで十七年前の少女のままだった。
「あなた……本当にジュール・エヴェラールよね? Aクラスの」
学園時代の肩書きのまま、彼女は問いかける。ジュールは、何度も繰り返されたその質問に、困ったように目を細め、微笑んだ。
「……ああ。そうだ、レア。だが、君と結婚したから、私はエヴェラール姓ではなくなった。
今はフェルディナンなんだ。ジュール・フェルディナン」
彼女の世界は、まだ学園の途中だ。
だから、彼の左手の指輪も、落ち着いた声色も、成熟した雰囲気も、理解できない。
「何だか……信じられないの」
レアは頬をほんのり染めながら、少年だったジュールの面影を探すように、まじまじと見つめた。
「私が知っているジュールは…まだ少年のようで、とても美しかったわ」
「レア、それは随分な言い草だね。私は今は、美しくない、と?」
ジュールが大げさに眉を下げてみせると、少女のままのレアは、慌てて首を振った
「ち、違うわ! 今のあなたは……大人の、洗練された雰囲気があって……その、すごく素敵だもの」
その無邪気な一言は、矢のようにジュールの胸に突き刺さった。
「私……夢みたい。あなたと結婚できたなんて」
ジュールを見つめるレアの瞳には、純粋な愛しかなかった。
「ねえ、ジュール?正直に答えて。
私が眠っている間に……たくさんの女性に言い寄られたでしょう?」
レアは、少女の好奇心と女の鋭さ、両方でその返答を待っていた。
「……いや、そんなに無かった」
「うそ。だって、こんなに魅力的なんだもの、絶対にたくさんあったでしょう」
レアの瞳は真っ直ぐジュールを見つめ、確信めいた言葉だった。
レアは目を細める。
冗談めかし、けれど探るように――
「……未亡人や、貴族夫人、未婚の年若い令嬢…社交クラブの給仕をしている婦人だったり…そんなところかしら?」
ジュールは目を見開き、驚く。
図星だった。レアの口元が、微笑の形を保ったまま鋭くなる。
「まさか……乗ったり、してないわよね?」
沈黙が落ちる。
ジュールはほんの一拍遅れて、静かに首を振った。
「……乗ったことは、ない」
ただし、一人、――セラを除いては。
だが、それは声に出せる言葉ではない。
レアの微笑みは、安堵に見えた。
けれど、その奥に小さな影が揺れたことにジュールは気づかなかった。
窓の外では木立が風に軋み、色を失いかけた葉が二、三枚、細い枝にしがみついている。
冬の入り口特有の乾いた冷気が、ガラス越しに指先へと伝わってきた。
アラン医師は、湯気の立つ紅茶を両手で包みながら、穏やかな声で言った。
「フェルディナン家のレア様、ここ数日で起きている時間がかなり増えている。反応も、前よりはっきりしてきたよ」
湯気の向こうで浮かぶ柔らかな表情に合わせるように、セラも小さく頷いた。
「……そうなんですね」
「夫人も、ずいぶん落ち着かれたな。お前の往診も減ってきたんじゃないか?」
「はい。二週間に一度です。前回は、月に一度でもよいかもしれないとお話しされました」
熱いカップを指に絡めながら言うと、アランは深く頷いた。
「それだけ元気になったってことだ。娘さんが目覚めた今、自分は伏せっていられないって仰ってたよ」
医師として、心から喜ぶ笑みだった。
「今日なんか、往診の帰りぎわに俺の手をぎゅっと握って、『娘をよろしくお願いします』って泣かれたんだ。参ったよ」
アランは照れた笑みを浮かべた。
その光景が容易に想像できて、セラはそっとまぶたを伏せた。
「……はい。レア様の回復が、夫人にとって何よりの薬ですから」
それは嘘のない言葉だった。
けれど、喜びの影に、別の痛みが差す。
少しの沈黙のあと、アランは湯呑みの縁をなぞりながら続けた。
「ジュール様も、仕事の合間にずっと付き添っておられるそうだ。まるで、十年分を埋めるみたいに」
ただの世間話。
そのはずなのに、胸の奥に冷たい針が落ちた気がした。
呼吸の仕方が、少しだけわからなくなる。
セラは平静を装い、淡く言葉を返した。
「……夫人もおっしゃっていました。とても仲睦まじく、過ごされていると」
「ああ。十年も見守ってきたんだ。離れられない気持ちは、きっとあるだろうな」
屈託のない微笑み。
温かいはずなのに、痛みと安堵が同時に押し寄せてくる。
(レア様の回復は。喜ばしいことなのに……本当は、それだけでいいはずなのに)
机の端で、乾きかけた薬草が淡く色を褪せていく。香りはいつもと同じはずなのに、今日は胸を締めつけた。
――ジュールが視察から戻った夜。
互いに言葉を封じたまま、明け方に別れた。
それから一ヶ月。
ジュールから届いた手紙は、たった一通だった。
“本当はすぐにでも、セラに会いたい
けれど、今だけはレアを守らなければいけない
必ず時間を作るから、信じて待っていてほしい”
あの文字を指先でなぞった夜の感触は、まだ離れない。
(……会いたいのは、私も)
けれど、声にした瞬間、壊れる。
レアの意識が戻りつつある今、その恐怖は日に日に濃くなっていく。
窓の外では、冷たい風が落葉をさらっ
た。
セラは湯気を肺いっぱいに吸い込みながら、小さく目を伏せる。
(私は――どうすればいいの)
***
その頃、フェルディナン邸の西棟では――
午後の光が、薄曇りの空を透かして柔らかく差し込んでいた。
磨かれた大理石の床は冷たく、白いカーテン越しには冬を呼ぶ風が微かに揺れる。
寝台の上、レアの漆黒の髪が光を吸い込むように艶やかだった。
クッションに支えられ、上半身だけを起こした彼女は、宝石のような瞳でジュールを真正面から見つめていた。
その視線はまっすぐで、迷いがなかった。まるで十七年前の少女のままだった。
「あなた……本当にジュール・エヴェラールよね? Aクラスの」
学園時代の肩書きのまま、彼女は問いかける。ジュールは、何度も繰り返されたその質問に、困ったように目を細め、微笑んだ。
「……ああ。そうだ、レア。だが、君と結婚したから、私はエヴェラール姓ではなくなった。
今はフェルディナンなんだ。ジュール・フェルディナン」
彼女の世界は、まだ学園の途中だ。
だから、彼の左手の指輪も、落ち着いた声色も、成熟した雰囲気も、理解できない。
「何だか……信じられないの」
レアは頬をほんのり染めながら、少年だったジュールの面影を探すように、まじまじと見つめた。
「私が知っているジュールは…まだ少年のようで、とても美しかったわ」
「レア、それは随分な言い草だね。私は今は、美しくない、と?」
ジュールが大げさに眉を下げてみせると、少女のままのレアは、慌てて首を振った
「ち、違うわ! 今のあなたは……大人の、洗練された雰囲気があって……その、すごく素敵だもの」
その無邪気な一言は、矢のようにジュールの胸に突き刺さった。
「私……夢みたい。あなたと結婚できたなんて」
ジュールを見つめるレアの瞳には、純粋な愛しかなかった。
「ねえ、ジュール?正直に答えて。
私が眠っている間に……たくさんの女性に言い寄られたでしょう?」
レアは、少女の好奇心と女の鋭さ、両方でその返答を待っていた。
「……いや、そんなに無かった」
「うそ。だって、こんなに魅力的なんだもの、絶対にたくさんあったでしょう」
レアの瞳は真っ直ぐジュールを見つめ、確信めいた言葉だった。
レアは目を細める。
冗談めかし、けれど探るように――
「……未亡人や、貴族夫人、未婚の年若い令嬢…社交クラブの給仕をしている婦人だったり…そんなところかしら?」
ジュールは目を見開き、驚く。
図星だった。レアの口元が、微笑の形を保ったまま鋭くなる。
「まさか……乗ったり、してないわよね?」
沈黙が落ちる。
ジュールはほんの一拍遅れて、静かに首を振った。
「……乗ったことは、ない」
ただし、一人、――セラを除いては。
だが、それは声に出せる言葉ではない。
レアの微笑みは、安堵に見えた。
けれど、その奥に小さな影が揺れたことにジュールは気づかなかった。
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