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レアが眠ったあと、寝室から廊下に出た瞬間、ジュールはそっと息を吐いた。
静かに扉を閉めたはずなのに――胸の奥では、何かが激しく音を立てていた。
(……息苦しい)
手には、まだレアの体温が残っている。
少女のままの妻の――無垢で、恐ろしく純粋なぬくもり。
(私は……何をしている)
十年守ってきた想い。
十年捧げてきた祈り。
そのすべてが、ひとつの嘘に覆われている。セラを抱いた身体で、レアの手を取った。
その罪が、冷たく胸へ沈み、じわじわと馴染んでいく。
***
足音を忍ばせ、自室へ戻る。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
まるで、静寂という棺の蓋が降りてきたように。
部屋の中央に置かれた椅子の前で立ち止まる。背もたれは硬く、無駄のない造り――ただの“道具”のはずだった。
だが今は、そこだけが逃げ場のように見えた。
ジュールは、指先だけで椅子の背を掴む。
そっと腰を落とす。
静かに沈む、ではなく――崩れ落ちるように。
背中がぐったりと預けられ、視線は机と天井の間を虚ろに彷徨う。
(この部屋ですら……息が詰まる)
どこにいても、罪は追いかけてくる。
(レアは、私を夫として信じている)
信じて、安堵し、安心して――十七年前の少女のまま、私へ恋を向けている。
その瞳に映る私は、“彼女だけを愛し続けた男”だ。
確かに――レアを愛していた。
それを否定できない。
ただ、その愛は。
(……それは、男女の愛ではなかったのかもしれない…)
ようやくその可能性に、真正面から向き合う。
レアに向けていたのは、守りたい、支えたいと願う温かい情。家族を思うような、寄り添い合う安心の愛。
それを恋だと信じてきた。
信じれば、正しい道だと胸を張れたから。
そうすれば――あの気持ちに名前をつけずに済んだ。
(私は……レアに逃げていた)
逃げ場所にしたのは、彼女の優しさだった。
“妹みたいな存在”と押し込められたセラへの想いから、目を逸らすために。
皮肉な話だった。
あの頃――レアの何気ない言葉が、ジュールの恋をねじ曲げたのだ。
『その子は妹よ。だからザワザワなんて恋じゃないわ』
少年の心は、それを真っ直ぐに信じた。
だが今なら理解できる。
(違った。あれは……妹への情じゃなかった)
喉が焼けるほど呼びたかった名。
抱き寄せたい衝動。
欲しくてたまらず震えた執着。
それは恋より鋭く、愛より深く――ほとんど呪いに近い感情だった。
(セラ……)
苦しそうに身を寄せた腕の震え。
唇を求める声にならない息。
壊れそうな温度のまま、縋ってきた夜。
守るために抱いたのではない。
欲しくて、抱いた。
罪ではなく――欲望だった。
慈悲ではなく――愛だった。
(あの夜、私は……選んだ)
十年間、レアだけを守る未来ではなく。
セラと堕ちていく未来を。
その選択を、もう取り消せない。
ーー取り消そうとも、思わない。
なのに今、妻の手を握ってしまった。
その温もりに、彼女が生きていることに安心してしまった自分が、何より醜かった。
(何を……守っているつもりだ)
拳をゆっくり強く握る。
指先に力を込めるほど、胸の痛みだけが浮き上がる。
レアの手は柔らかかった。
十四年の絆に嘘はない。
ただ――そこに燃える熱はない。
(支えたい。救いたい……それが、私の“愛”だった)
確かに愛だった。
けれど――家族を守るような愛。
喉が焼けるほど叫びたい欲望。
息が奪われ、触れずにはいられない執着。
――それは、レアではなかった。
(セラ……)
名を思い浮かべただけで、胸の奥が疼き、喉が熱を帯びた。
思い出す——
肌が触れあった瞬間に走る、あの鋭い快楽。
触れただけで震えるくせに、抱き寄せると指を掴んで離さなかった細い腕。
唇を塞いだ瞬間の、喉の奥で溶けるような声。爪が背に沈み、身体が跳ね、許しも理性も、すべて快楽に呑まれた。
初めて一線を越えた夜——
世界に二人しかいないかのように、互いをむさぼった。
息も、涙も、声も、身体の奥の熱もすべてが混ざって、お互いの境界が消えた。
思い出すだけで、今も指先が疼く。
肌に染み付いた熱が、消えない。
——あんな夜を知ってしまって。どうして、戻れると思えるだろう。
(忘れられる……わけが、ない)
足を組んだ腿の奥が疼き、体温がゆっくり上がり、喉が渇く。
——思い出しただけで、身体が熱く反応していた。
十年レアを守り続けた愛は、静かだった。穏やかで、温かく、正しいものだと信じていた。
だが、セラは違う。
理性を剥がし、呼吸を奪い、抱けば、全てが壊れるほど、狂わせてくる。
(セラ……)
椅子の肘を掴む指に力がこもる。
それでも、疼きは止まらない。
(罪でもいい。……彼女が欲しい)
そんな願いを抱いてしまう自分が、いま最も憎く、そして——生きていると感じた。
その事実は、レアの傍に寄り添うほど、鋭く刺さる。
自室の静寂に、ひとりの男の呼吸だけが響いた。
(……私は、もう裏切っている)
その事実は、とっくに越えていた線を、
今さら指でなぞるだけの意味しか持たなかった。
(だから、もう戻れない)
言葉にすれば苦しいのに、それでも胸の奥では別の音が鳴る。
(もう一度……あの温度に触れたい)
それは赦しでも慰めでもない。
願いというより、渇きだった。
罪を知ったまま求める温度。
それを欲してしまう時点で——男は、妻よりも愛を選んでいた。
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