【完結・R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 フェルディナン邸の東棟は、この日いつも以上にざわついていた。

 敷地に入った瞬間、職人たちがせわしなく行き交い、使用人たちが脚立や木材を抱えて廊下を横切っていく。

 床に響く道具の音さえ落ち着きがなく、普段は静かな邸に別種の活力が満ちていた。

 西棟の中庭の工事が始まったのだ――誰が告げなくとも、その空気が物語っていた。

 セラは薬箱を抱え直し、少しだけ胸を刺すような違和感を抱えたまま足早に廊下を進む。

 二週間ぶりの往診。
 今日の診察を最後に、次からは月に一度で良いというほど、フェルディナン夫人の体は回復していた。


 応接間に通ると、夫人は柔らかな春色のショールを肩にかけ、以前より血色の良い笑みを浮かべている。

「セラさん、ようこそ。こうして外気の冷たさなんて怖くないわ。ねえ、ほら座って」

 冗談めかして手を振る余裕も、声に宿る明るさも、十年前の長い祈りの日々にはなかったものだ。

 セラは笑顔を返しながら、脈を取り、喉や肌の色を診て体調を確認する。

「本当に安定されています。薬の副作用もないですね。呼吸も、脈も問題ありません。……次回は、一ヶ月後でも大丈夫でしょう」

 夫人は、深く安心の息を吐いた。

「自分でも、少しずつ回復しているのがわかるの。娘が頑張っているのだから……私は母として、背中を向けていられないわ」

 その声音には、忘れかけていた母の強さと愛情が戻っていた。

 その優しさが胸に温かい――そう思った矢先、夫人の視線がふと変わる。

「ここの邸はね、西棟と東棟でまったく印象が違うのよ」

 唐突な話題に顔を上げると、夫人は庭の方へ視線を向けた。

「東棟は華やかな場所。客人を迎え、社交を楽しむ空間。庭園も賑やかでしょう?」

 東棟の庭は色鮮やかで、花の香りが風に踊る。装飾も華美だ。

「一方、西棟は静けさの棟。建物も庭も落ち着いていて……歳を重ねた夫婦が暮らす場所だったの」

 夫人の目は西棟を向いたまま続く。

「本来は私たちが西へ移り、レアとジュールが東棟に暮らすはずだったの。でもね――」

 そこに微かな困惑が浮かぶ。

「ジュールが西棟を気に入ってしまって。とくに庭園をね」

 その言葉で、セラの指先が小さく震えた。薬箱にそっと触れて震えを隠す。

「……庭園を?」

「ええ。ジュールは華やかなものより、静かな景色が好きなようでね。あの静かで慎ましい庭は、どこかジュールに似ているかもしれない」

 胸に淡い痛みが灯る。

(静かな景色……そう、らしい)

 貴族らしい派手さとは違う、慎ましく穏やかな性質。西棟の庭は、きっと――彼の呼吸を整える場所だったのだ。

「でも、もう、変わってしまうの…」

 夫人は少し肩を落としながら言う。

「レアがその庭を華やかにしたいと言い出して、工事が始まるのよ」

「……華やかに」

「ええ。噴水なんて置きたいと。バラも、ガゼボも。ジュールは反対せずに、レアの希望の通りに設計の話を聞いていて……」

 そこで、少しだけ夫人の視線が曇る。

「レアの望みを叶えてくれるのは嬉しいのよ。でもね、あの庭は本来、ジュールの心の拠り所だった気がして……それでいいのかしらって」
 
 セラは丁寧に、穏やかに、微笑んだ。
 心の奥では、胸が濁った水に沈むように、静かに疼いていた。

(ジュールは……レア様の望みを叶えたいのね)

 不思議な話だ。ただ庭が変わるだけ。
 それだけのはずなのに。

 それはまるで、ジュールの居場所がゆっくりと塗り潰されていくみたいだった。

「……素敵なお庭になるといいですね」

 それ以上、何も言えなかった。
 夫人は満足げに笑い、セラの手を握る。

「ええ。そうね…。私も、そう思いたいわ。」

 握られた手の温かさとは裏腹に、セラの胸には冷たい風が吹き抜けた。

 庭が変わる――
 それは、ジュールの未来が変わるということなのだろうか。

 言葉にならない不安が、心の奥底に、静かに根を張り始めた。


***

 フェルディナン邸、西棟の書斎。
 広げられた庭園設計図の上で、色鉛筆の赤い印だけが、妙に目についた。

 噴水、バラ園、ガゼボ。
 華やかな装飾が、簡単な線と数字で庭一面に描かれている。

 その変化は、美しいはずなのに――胸の奥がひどく鈍く軋んだ。

(……これが、レアの望む景色なのだな)

 設計図の端に、小さく書かれた文字が目に入った。

《既存樹は全て撤去》

 その文字を見た瞬間、ジュールの視線が一点に吸い寄せられた。

(……月桂樹も、なくなるのか)

 西棟の庭の片隅に、一本だけまっすぐ根を張っていた月桂樹。
 花も派手に咲かず、実も主張しない。
 ただ、常緑の葉が淡い香りをまとい、冬にも静かに影を落としているだけの木だった。

 気取らず、飾らず、ただ呼吸を落ち着けるための場所として、そこに在った。

(あの木の下で、何度、目を閉じただろう)

 日々の仕事で疲れ切った体を引きずって帰るたび、そこに立ち、呼吸を落ち着かせていた。

 フェルディナン家に婿入りしてから、あの木だけが――彼自身を映すように佇んでいた。

 静かに、淡々と、月桂樹は抵抗することも叫ぶこともなく、ただそこに立っていた。

(……消えるのか)

 ジュールの胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。

 コン、と控えめなノックが響いた。
 ジュールは表情を整え、図面を重ねて伏せた。

「どうぞ」

 執事が姿を見せる。

「レア様が、中庭の改装計画の打ち合わせ日程を決めたいと仰っています。……ご相談を」

「……ああ。私の予定より、レアの都合を優先してほしい」

「畏まりました」

 扉が閉まると、また静寂。
 静けさの中で、図面が息をしているように見えた。

(……変えてほしい、と言える資格は、私にはない)

(レアが望んでいる)

 その事実の前では、何も言えなかった。
 庭が失われてもいい。
 レアが笑うなら、それでいい。

 ただその影で、ジュール自身の居場所が、静かに色を失っていく気がした。

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