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翌週。
診療所の扉を開けた瞬間、セラはいつもと違う── 刺すような空気 を感じた。
助手たちが手を止め、ほんの一秒だけセラを見て、すぐに視線を逸らす。
まるで「見なかったことにしよう」とするようにしている。
「おはようございます」
「………」
セラが挨拶をしても、一瞥しただけだった。
*
午前中の診療。
診療所は最も混み合う時間帯で、受付前の待合室には十数名の婦人たちが座っていた。
受付近くの薬品室にいたセラは、薬棚の前で在庫を確認しながら、今日の患者の流れを見守っていた。
薬草の瓶を抱え、受付の前を通ろうと薬品室から出た、その瞬間。
待合いの空気が、ぴたりと止まった。
婦人たちの視線が──
まるで縫いとめるようにセラへ向けられた。
「……あの薬師さんに当たらないといいわね」
「名前、なんて言ったかしら」
「セラ、とかいう……」
「そうそう、“処方を倍量にする”って噂の……」
薬瓶を持つ指先が、かすかに震えた。
(……え?)
喉がひくりと動き、呼吸が浅くなる。
セラはただ、薬棚から受付の前を歩こうとしていた、それだけなのに──
視線の重さに足が止まってしまう。
そのとき、受付係が声を上げた。
「──次の方、どうぞ。ミネルバ様」
呼ばれた婦人は立ち上がりかけたが、セラの姿を見ると、ピタリと動きを止めた。
そして受付の女性の耳元に、わざと聞こえるような声量で囁く。
「ごめんなさい……その……別の薬師にしていただける? あの方だけは、ちょっと……」
露骨すぎる拒絶だった。
受付の娘が困惑したようにセラを見る。
視線の意味が痛いほどわかる。
セラはかすかに微笑んで、静かに首を振った。
「……大丈夫。イーサンかルネにお願いして」
声を出すだけで苦しかった。
微笑みを作る唇が、わずかに震えた。
婦人は安心したように胸を撫で下ろし、席に戻りながら別の婦人へ囁く。
「ほら……やっぱり何かあったら怖いじゃない」
「診療所なのに、薬で体調崩したら困るものね」
「わかるわ。例の……フェルディナン家の大奥様だって……ねぇ?」
最後の「大奥様」の言葉が鋭く耳に刺さる。
セラが下を向いた瞬間、待合室にいる全員の視線が、一斉に 彼女へ突き刺さった。
そしてすぐ、氷のように冷たく逸らされていった。
セラは薬瓶を胸に抱きしめ、ひとつだけ深く、苦しい息を飲みこんだ。
薬品室から調合室に移動し、薬草を刻んでいると、セラの隣にいた助手がさりげなく距離を置いた。
ほんの数センチだったが、でも、その僅かな距離が、まるで溝のように深く感じた。
「……ここ、手狭だから」
セラの顔を見るでもなく、一言だけ述べられる。理由が上辺だけなのは明白だった。
彼女は、セラの手元を見ないようにしていた。別の助手たちは、セラが近づくたびに声をひそめる。
「ほら、また来た」
「仕事、ちゃんと見たほうがいいんじゃない?」
「院長先生も、さぞ困ってるわよね」
聞こえないふりをしても、耳は鮮明に拾ってしまう。
喉の奥がひりひりした。
*
昼休憩。
診療所の奥――石壁に囲まれた小さな休憩室には、暖炉の火がぱちりと音を立て、
卓上にはそれぞれの持参した簡素な昼食が並んでいた。
セラは持参した革袋から包みを取り出し、冷めかけたスープと黒パンの小さな昼食を静かに広げた。
胸の奥で渦巻く不安が重く、木匙を握る手はわずかに震えていた。
その時、いつもの明るい声が弾む。
「セラ、一緒に食べよ?」
ルネが笑顔で近づき、続いてイーサンも椅子を引いてセラの隣に腰を下ろした。
「今日の午前中は混んでいたわね」
「冬だからな。皆、咳や熱で来るんだ。
診療所も大忙しだ」
二人だけは、周囲の空気に流されず、昔と変わらない距離でいてくれる。
「イーサンは午後、往診でしょ?」
「ああ。この先の商会の会長が寝込んでいてな。アラン先生じゃなく、薬師の調合がいいって希望らしい。だから俺が行くことになった」
その会話にうんうんと頷きながら、セラはふと休憩室を見渡した。
――同僚たちが、こちらをじっと見ている。
視線が合うと、慌てて逸らされる。
胸の奥がわずかに締めつけられる。
「セラは?午後は往診?」
「……今日は診療所にいるわ」
「私も!じゃあ二人で頑張りましょう」
ルネが明るく話題を振ったその時――
休憩室の隅にいた同僚たちが、手を口元に寄せて、ひそひそと囁き合う声が耳に落ちた。
「見て……またあの薬師と一緒に」
「巻き添えにならないといいけど……」
「ほんと、あの夫婦って空気読めないわ……」
セラの指が、持っていた木匙をわずかに落としそうになった。
イーサンの眉がぴくりと跳ねる。
「おい、聞こえてんだけど?」
怒りを抑えきれず立ち上がりかけた瞬間、ルネが強く腕を引いて制した。
「やめて!……セラが余計にやりづらくなるでしょう」
その一言が、胸に痛く響く。
(……私のせいで……ルネとイーサンまで……)
セラは視線を落とし、黒パンを指でちぎった。だが、口に運んでも味は砂のように乾いていた。
暖炉の火は暖かいのに、心の中だけが、ひどく冷えていく。
イーサンは悔しさを噛みしめるように拳を握り、ルネはそっとセラの手に触れてきた。
「大丈夫よ。……セラは堂々としていれば良いのよ」
ルネのその優しささえ、胸をちくりと刺した。
(二人に迷惑をかけてしまう‥…)
昼休憩は、温かいはずなのに、セラだけが、深い孤独の底に沈んでいくようだった。
***
翌日の診療所。
午前中の診療が始まった途端――受付で患者の声があがった。
「……すみません、今日の調合も別の薬師にお願いできますか」
セラの胸がぎゅっと縮む。
続けざまに、次の患者が続く。
「前回の薬が……その……ちょっと強すぎて。悪いけれど、他の方に」
さらに、三人目が申し出てきた。
「申し訳ないけど、あの薬師さん……最近評判が……ね……」
視線は直接向けられないのに、恐怖と猜疑の気配だけが突き刺さる。
不意に、背後からアラン医師の低い声が落ちた。
「セラ……すまない」
振り向いたアランの表情は、深い困惑と苦しみに歪んでいた。
「噂の出処は掴めない。だが……患者がこれほど不安を抱えている状況では、君を前に出すわけにはいかない」
「……アラン先生…」
「わかっている。私が一番、君を信じている。ただ……診療所の運営上、噂が収まるまで……しばらく休みを取ってほしい」
まるで、地面が抜け落ちたようだった。
「……お休み……ですか……?」
セラの声がかすれる。
返事をしながら、自分の声が自分のものに聞こえなかった。
アランはセラの肩に手を置き、言葉を慎重に重ねた。
「これは懲罰ではない。君を守るためでもある。……どうか、理解してくれ」
「……っ」
セラは肩を落とし、小さく頭を下げた。
「……わかりました。ご迷惑おかけして申し訳ありません…」
セラは顔色をなくしていた。
その言葉を残し、静かに診療所を後にした。
扉の外の冷たい空気が触れた瞬間、胸の奥で何かがぽきりと折れたような気がした。
診療所の扉を開けた瞬間、セラはいつもと違う── 刺すような空気 を感じた。
助手たちが手を止め、ほんの一秒だけセラを見て、すぐに視線を逸らす。
まるで「見なかったことにしよう」とするようにしている。
「おはようございます」
「………」
セラが挨拶をしても、一瞥しただけだった。
*
午前中の診療。
診療所は最も混み合う時間帯で、受付前の待合室には十数名の婦人たちが座っていた。
受付近くの薬品室にいたセラは、薬棚の前で在庫を確認しながら、今日の患者の流れを見守っていた。
薬草の瓶を抱え、受付の前を通ろうと薬品室から出た、その瞬間。
待合いの空気が、ぴたりと止まった。
婦人たちの視線が──
まるで縫いとめるようにセラへ向けられた。
「……あの薬師さんに当たらないといいわね」
「名前、なんて言ったかしら」
「セラ、とかいう……」
「そうそう、“処方を倍量にする”って噂の……」
薬瓶を持つ指先が、かすかに震えた。
(……え?)
喉がひくりと動き、呼吸が浅くなる。
セラはただ、薬棚から受付の前を歩こうとしていた、それだけなのに──
視線の重さに足が止まってしまう。
そのとき、受付係が声を上げた。
「──次の方、どうぞ。ミネルバ様」
呼ばれた婦人は立ち上がりかけたが、セラの姿を見ると、ピタリと動きを止めた。
そして受付の女性の耳元に、わざと聞こえるような声量で囁く。
「ごめんなさい……その……別の薬師にしていただける? あの方だけは、ちょっと……」
露骨すぎる拒絶だった。
受付の娘が困惑したようにセラを見る。
視線の意味が痛いほどわかる。
セラはかすかに微笑んで、静かに首を振った。
「……大丈夫。イーサンかルネにお願いして」
声を出すだけで苦しかった。
微笑みを作る唇が、わずかに震えた。
婦人は安心したように胸を撫で下ろし、席に戻りながら別の婦人へ囁く。
「ほら……やっぱり何かあったら怖いじゃない」
「診療所なのに、薬で体調崩したら困るものね」
「わかるわ。例の……フェルディナン家の大奥様だって……ねぇ?」
最後の「大奥様」の言葉が鋭く耳に刺さる。
セラが下を向いた瞬間、待合室にいる全員の視線が、一斉に 彼女へ突き刺さった。
そしてすぐ、氷のように冷たく逸らされていった。
セラは薬瓶を胸に抱きしめ、ひとつだけ深く、苦しい息を飲みこんだ。
薬品室から調合室に移動し、薬草を刻んでいると、セラの隣にいた助手がさりげなく距離を置いた。
ほんの数センチだったが、でも、その僅かな距離が、まるで溝のように深く感じた。
「……ここ、手狭だから」
セラの顔を見るでもなく、一言だけ述べられる。理由が上辺だけなのは明白だった。
彼女は、セラの手元を見ないようにしていた。別の助手たちは、セラが近づくたびに声をひそめる。
「ほら、また来た」
「仕事、ちゃんと見たほうがいいんじゃない?」
「院長先生も、さぞ困ってるわよね」
聞こえないふりをしても、耳は鮮明に拾ってしまう。
喉の奥がひりひりした。
*
昼休憩。
診療所の奥――石壁に囲まれた小さな休憩室には、暖炉の火がぱちりと音を立て、
卓上にはそれぞれの持参した簡素な昼食が並んでいた。
セラは持参した革袋から包みを取り出し、冷めかけたスープと黒パンの小さな昼食を静かに広げた。
胸の奥で渦巻く不安が重く、木匙を握る手はわずかに震えていた。
その時、いつもの明るい声が弾む。
「セラ、一緒に食べよ?」
ルネが笑顔で近づき、続いてイーサンも椅子を引いてセラの隣に腰を下ろした。
「今日の午前中は混んでいたわね」
「冬だからな。皆、咳や熱で来るんだ。
診療所も大忙しだ」
二人だけは、周囲の空気に流されず、昔と変わらない距離でいてくれる。
「イーサンは午後、往診でしょ?」
「ああ。この先の商会の会長が寝込んでいてな。アラン先生じゃなく、薬師の調合がいいって希望らしい。だから俺が行くことになった」
その会話にうんうんと頷きながら、セラはふと休憩室を見渡した。
――同僚たちが、こちらをじっと見ている。
視線が合うと、慌てて逸らされる。
胸の奥がわずかに締めつけられる。
「セラは?午後は往診?」
「……今日は診療所にいるわ」
「私も!じゃあ二人で頑張りましょう」
ルネが明るく話題を振ったその時――
休憩室の隅にいた同僚たちが、手を口元に寄せて、ひそひそと囁き合う声が耳に落ちた。
「見て……またあの薬師と一緒に」
「巻き添えにならないといいけど……」
「ほんと、あの夫婦って空気読めないわ……」
セラの指が、持っていた木匙をわずかに落としそうになった。
イーサンの眉がぴくりと跳ねる。
「おい、聞こえてんだけど?」
怒りを抑えきれず立ち上がりかけた瞬間、ルネが強く腕を引いて制した。
「やめて!……セラが余計にやりづらくなるでしょう」
その一言が、胸に痛く響く。
(……私のせいで……ルネとイーサンまで……)
セラは視線を落とし、黒パンを指でちぎった。だが、口に運んでも味は砂のように乾いていた。
暖炉の火は暖かいのに、心の中だけが、ひどく冷えていく。
イーサンは悔しさを噛みしめるように拳を握り、ルネはそっとセラの手に触れてきた。
「大丈夫よ。……セラは堂々としていれば良いのよ」
ルネのその優しささえ、胸をちくりと刺した。
(二人に迷惑をかけてしまう‥…)
昼休憩は、温かいはずなのに、セラだけが、深い孤独の底に沈んでいくようだった。
***
翌日の診療所。
午前中の診療が始まった途端――受付で患者の声があがった。
「……すみません、今日の調合も別の薬師にお願いできますか」
セラの胸がぎゅっと縮む。
続けざまに、次の患者が続く。
「前回の薬が……その……ちょっと強すぎて。悪いけれど、他の方に」
さらに、三人目が申し出てきた。
「申し訳ないけど、あの薬師さん……最近評判が……ね……」
視線は直接向けられないのに、恐怖と猜疑の気配だけが突き刺さる。
不意に、背後からアラン医師の低い声が落ちた。
「セラ……すまない」
振り向いたアランの表情は、深い困惑と苦しみに歪んでいた。
「噂の出処は掴めない。だが……患者がこれほど不安を抱えている状況では、君を前に出すわけにはいかない」
「……アラン先生…」
「わかっている。私が一番、君を信じている。ただ……診療所の運営上、噂が収まるまで……しばらく休みを取ってほしい」
まるで、地面が抜け落ちたようだった。
「……お休み……ですか……?」
セラの声がかすれる。
返事をしながら、自分の声が自分のものに聞こえなかった。
アランはセラの肩に手を置き、言葉を慎重に重ねた。
「これは懲罰ではない。君を守るためでもある。……どうか、理解してくれ」
「……っ」
セラは肩を落とし、小さく頭を下げた。
「……わかりました。ご迷惑おかけして申し訳ありません…」
セラは顔色をなくしていた。
その言葉を残し、静かに診療所を後にした。
扉の外の冷たい空気が触れた瞬間、胸の奥で何かがぽきりと折れたような気がした。
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