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フェルディナン邸・東棟の小広間。
冬陽がレースのカーテン越しに淡く差し込み、外の冷たい空気とは対照的に、部屋には柔らかなぬくもりが広がっていた。
テーブルを挟んで、フェルディナン夫人と車椅子に座るレアが向かい合っている。
ふたりで過ごすこのひとときは、レアが意識を取り戻して以来、何より大切にしてきた時間だった。
「レア、日に日に元気になってきて……本当に嬉しいわ。体調はどう?」
夫人が優しい声音で問いかけると、
レアは微笑み、そっと母の手を包み込んだ。
「元気よ。まだ歩けないけれど……こうして座っていられるくらいには、筋力が戻ってきているわ」
その声には、穏やかな明るさと、ほんの少しの悔しさが混じっていた。
だが夫人は、娘のその正直さが愛おしいというように、温かく頷いた。
穏やかな午後――
その空気を破るように、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。診療所からの書状が届いております」
侍女が封筒を差し出す。
夫人は不思議そうに眉を寄せ、それを受け取った。
開封した瞬間、
夫人の表情がゆっくりと陰った。
「……担当薬師、変更のお知らせ……?」
レアは少しだけ首を傾げ、心配そうに覗き込む。
「お母様……どうされたの?」
夫人は深い溜息を漏らした。
「セラさんが……担当を外れるそうよ。診療所の判断で。あの方には随分助けられたのに」
その声には、失望よりも“戸惑い”があった。むしろ信頼を手放したくない気持ちがにじむ。
レアは、驚いたふりで小さく息を呑む。
「……お母様は、お優しいから。でも……一度でもあってはならないミスがあったのでしょう?
それに……西棟の使用人の家族も、立て続けに処方ミスがあったと聞いたわ」
「そうなの……?」
レアは、少しだけ俯きながら言葉を続ける。
「評判の良い薬師と伺っていたから……西棟の使用人達に私が薦めたの。
まさか、こんなことになってしまうなんて…私、責任を感じてしまうわ」
夫人は慌ててレアの手を取った。
「レア、あなたが気に病むことではないのよ。でも……本当に、どうしてしまったのかしら……セラさん……」
『セラを信じたい』その想いは夫人の声音から確かに感じ取れる。
だが、レアは柔らかく微笑む。
「お母様……だからこそ、担当は代えていただいた方がよいと思うわ。お身体に関わることですもの」
夫人はしばらく考え込んだ。
窓から差す冬陽に照らされる横顔には、迷いが濃く浮かんでいる。
「……ええ‥そう、ね…。でも……なんだか胸が痛むわ」
夫人はゆっくりと頷いたが、その瞳の奥の陰りは晴れなかった。レアはその横顔を、静かに、深く見つめていた。
その微笑みは優しい。
だが、その奥底で――
燃えているものは、決して慈愛ではなかった。
*
フェルディナン邸・西棟の執務室で、ジュールは机に置いた書簡を見つめたまま動かなかった。
(……セラに会いたい)
最後にセラを抱きしめた日から、すでに二ヶ月が過ぎていた。
「離縁して一緒に暮らしたい」とセラに本心を伝えてから、一度も会えていなかった。
彼女に会えない時間には永遠かのように長く、ジュールを苦しめていた。
ジュールはたまらず一度、セラに手紙を出した。
──だが、返事は、なかった。
それでも――彼は諦めずに、どうにか時間を作り出そうと模索していた。
レアが目覚めてから、ジュールは、彼女の回復を第一に考えた。
フェルディナン家の領地業務は義父と折半していた分を代官へ引き継ぐよう調整し、商務院の仕事も午前で区切り、午後は邸で処理できる書類仕事に切り替えた。
すべては、病み上がりのレアが不安にならないよう、傍で支えられる時間を確保するためだった。
中庭の改装は完成間近で、レアの回復は目ざましかった。
日中は長く車椅子で過ごせるようになり、歩行訓練も近々始まるという。
(……よかった。レアは順調に回復している)
その安堵と同時に、ジュールはゆっくりと、本来の勤務体制へ戻す準備を始めた。
レアが安定してきたなら、自分が邸に縛りつけられる理由も薄れる。
職務を通常に戻せば、外へ出る時間も増える。
(……そうすれば、ほんの少しでも……セラに会えるかもしれない)
その淡い望みを胸に、執事と侍従へ日程調整を伝えた。
しかし――
「若旦那様、奥様が急に胸苦しさを……」
「奥様が熱っぽいと……」
「奥様が、若旦那様に傍にいてほしいと……」
調整を進めようとするたび、必ずレアの体調が崩れた。
最初は偶然だと思った。
病み上がりなのだから、波があるのも当然だと。
だが、回数が重なるにつれ、胸の奥で冷たい感情が膨れ上がっていく。
(……なぜ、こうも繰り返される)
ジュールは、レアを疑いたくはなかった。ただ、邸を離れることができない現実だけが、ひたすら彼の心を締めつける。
夜、書類を前にしても思考が止まり、
視線は無意識に窓の向こう――王都の一角にある、セラの家の方向へ向いてしまう。
(……会いたい)
その願いは、日を追うごとに鋭さを帯びていった。届かぬほど強く、どうしようもなく苦しいほどだった。
(セラに……会えない……)
会えないという現実。
それに加えて返事がないことが、静かな刃となって胸の奥を少しずつ削り続ける。
今、彼女は何を思っているのか。
どこで、どんな顔をして過ごしているのか。寒い夜、ひとり泣いてはいないか。
想像すればするほど、胸が締めつけられた。
(……次の往診で、必ず話をしよう)
たとえ短い刻しかなくとも。
たとえ言葉を交わせるのが一瞬だけでもーー。
彼女の顔を見たい。
声を聞きたい。
想いを伝えたい。
その決意は、静かに――しかし痛いほど強く、ジュールの胸に刻み込まれた。
冬陽がレースのカーテン越しに淡く差し込み、外の冷たい空気とは対照的に、部屋には柔らかなぬくもりが広がっていた。
テーブルを挟んで、フェルディナン夫人と車椅子に座るレアが向かい合っている。
ふたりで過ごすこのひとときは、レアが意識を取り戻して以来、何より大切にしてきた時間だった。
「レア、日に日に元気になってきて……本当に嬉しいわ。体調はどう?」
夫人が優しい声音で問いかけると、
レアは微笑み、そっと母の手を包み込んだ。
「元気よ。まだ歩けないけれど……こうして座っていられるくらいには、筋力が戻ってきているわ」
その声には、穏やかな明るさと、ほんの少しの悔しさが混じっていた。
だが夫人は、娘のその正直さが愛おしいというように、温かく頷いた。
穏やかな午後――
その空気を破るように、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。診療所からの書状が届いております」
侍女が封筒を差し出す。
夫人は不思議そうに眉を寄せ、それを受け取った。
開封した瞬間、
夫人の表情がゆっくりと陰った。
「……担当薬師、変更のお知らせ……?」
レアは少しだけ首を傾げ、心配そうに覗き込む。
「お母様……どうされたの?」
夫人は深い溜息を漏らした。
「セラさんが……担当を外れるそうよ。診療所の判断で。あの方には随分助けられたのに」
その声には、失望よりも“戸惑い”があった。むしろ信頼を手放したくない気持ちがにじむ。
レアは、驚いたふりで小さく息を呑む。
「……お母様は、お優しいから。でも……一度でもあってはならないミスがあったのでしょう?
それに……西棟の使用人の家族も、立て続けに処方ミスがあったと聞いたわ」
「そうなの……?」
レアは、少しだけ俯きながら言葉を続ける。
「評判の良い薬師と伺っていたから……西棟の使用人達に私が薦めたの。
まさか、こんなことになってしまうなんて…私、責任を感じてしまうわ」
夫人は慌ててレアの手を取った。
「レア、あなたが気に病むことではないのよ。でも……本当に、どうしてしまったのかしら……セラさん……」
『セラを信じたい』その想いは夫人の声音から確かに感じ取れる。
だが、レアは柔らかく微笑む。
「お母様……だからこそ、担当は代えていただいた方がよいと思うわ。お身体に関わることですもの」
夫人はしばらく考え込んだ。
窓から差す冬陽に照らされる横顔には、迷いが濃く浮かんでいる。
「……ええ‥そう、ね…。でも……なんだか胸が痛むわ」
夫人はゆっくりと頷いたが、その瞳の奥の陰りは晴れなかった。レアはその横顔を、静かに、深く見つめていた。
その微笑みは優しい。
だが、その奥底で――
燃えているものは、決して慈愛ではなかった。
*
フェルディナン邸・西棟の執務室で、ジュールは机に置いた書簡を見つめたまま動かなかった。
(……セラに会いたい)
最後にセラを抱きしめた日から、すでに二ヶ月が過ぎていた。
「離縁して一緒に暮らしたい」とセラに本心を伝えてから、一度も会えていなかった。
彼女に会えない時間には永遠かのように長く、ジュールを苦しめていた。
ジュールはたまらず一度、セラに手紙を出した。
──だが、返事は、なかった。
それでも――彼は諦めずに、どうにか時間を作り出そうと模索していた。
レアが目覚めてから、ジュールは、彼女の回復を第一に考えた。
フェルディナン家の領地業務は義父と折半していた分を代官へ引き継ぐよう調整し、商務院の仕事も午前で区切り、午後は邸で処理できる書類仕事に切り替えた。
すべては、病み上がりのレアが不安にならないよう、傍で支えられる時間を確保するためだった。
中庭の改装は完成間近で、レアの回復は目ざましかった。
日中は長く車椅子で過ごせるようになり、歩行訓練も近々始まるという。
(……よかった。レアは順調に回復している)
その安堵と同時に、ジュールはゆっくりと、本来の勤務体制へ戻す準備を始めた。
レアが安定してきたなら、自分が邸に縛りつけられる理由も薄れる。
職務を通常に戻せば、外へ出る時間も増える。
(……そうすれば、ほんの少しでも……セラに会えるかもしれない)
その淡い望みを胸に、執事と侍従へ日程調整を伝えた。
しかし――
「若旦那様、奥様が急に胸苦しさを……」
「奥様が熱っぽいと……」
「奥様が、若旦那様に傍にいてほしいと……」
調整を進めようとするたび、必ずレアの体調が崩れた。
最初は偶然だと思った。
病み上がりなのだから、波があるのも当然だと。
だが、回数が重なるにつれ、胸の奥で冷たい感情が膨れ上がっていく。
(……なぜ、こうも繰り返される)
ジュールは、レアを疑いたくはなかった。ただ、邸を離れることができない現実だけが、ひたすら彼の心を締めつける。
夜、書類を前にしても思考が止まり、
視線は無意識に窓の向こう――王都の一角にある、セラの家の方向へ向いてしまう。
(……会いたい)
その願いは、日を追うごとに鋭さを帯びていった。届かぬほど強く、どうしようもなく苦しいほどだった。
(セラに……会えない……)
会えないという現実。
それに加えて返事がないことが、静かな刃となって胸の奥を少しずつ削り続ける。
今、彼女は何を思っているのか。
どこで、どんな顔をして過ごしているのか。寒い夜、ひとり泣いてはいないか。
想像すればするほど、胸が締めつけられた。
(……次の往診で、必ず話をしよう)
たとえ短い刻しかなくとも。
たとえ言葉を交わせるのが一瞬だけでもーー。
彼女の顔を見たい。
声を聞きたい。
想いを伝えたい。
その決意は、静かに――しかし痛いほど強く、ジュールの胸に刻み込まれた。
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