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ジュールの告白を聞いたあと、オーランドは深く息を吸い込み、沈痛な面持ちで弟を見つめた。
「……セラが姿を消したのは、二十日以上前なのだな?」
「……休職を言い渡された翌日の夜から…家を出て行ったようなんだ」
その声は自分でもわかるほど掠れていた。
オーランドは眉を寄せ、机の上の地図を広げる。
王都の街区図、周辺の街道、宿場町、山間の道、海沿いの道――生まれ育った家の“領のすべて”が、そこには描かれていた。
「二十日もあれば……相当遠くへ行けるな…」
ジュールの胸が締め付けられる。
オーランドはしかし、静かに続けた。
「だが――二十日で完全に痕跡が消えることはない。人に会えば記憶が残り、宿に泊まれば帳簿が残る。
荒天の日なら馬車は遅れ、体調が悪ければ歩みも止まる。
痕跡は、必ずどこかに落ちている」
ジュールは顔を上げた。
兄の瞳には、当主としての覚悟が宿っていた。
「エヴェラール家は商人の家門だ。商隊、宿場、船乗り、馬車屋、交易商……
我が家の繋がりは王都を超え、周辺諸領にまで及んでいる」
オーランドは地図に印をつけながら言う。
「セラが通った可能性のある街道、宿場町、村々――すべてに非公式の捜索網を敷く。
名前を出さず、静かに、痕跡だけを追う」
弟を守るための采配は、迷いがなかった。ジュールの視界が滲む。
「兄さん……そんなことまで……」
「俺たちは兄弟だ。それで十分だろう?」
オーランドはジュールの肩を掴み、強く言い切る。
「セラを見つけられる可能性は、まだある。二十日で消えるには、王都は広すぎる」
その言葉は、ジュールの暗闇に小さな灯をともした。
「……兄さん。俺は、王都へ戻るよ」
ジュールが言うと、オーランドはゆっくりうなずいた。
「それがいい。焦りすぎるな、だが立ち止まるな。現地でしか掴めない情報もあるだろう」
「……ありがとう。兄さん、本当に……」
オーランドは微笑む。
「ジュール。こちらはこちらで、セラを探す。戻ったら、お前にしか出来ないことをするんだ」
その言葉に、胸の奥が強く震えた。
*
薄曇りの空の下。
馬車の前に立ったジュールの胸には、迷いのない決意が宿っていた。
兄が見送りに現れ、短く言う。
「王都に戻ったら、薬師のルネ殿とも話せ。噂を流した者が近くにいるはずだ」
「……ああ、必ず」
「セラは、どこかできっとお前を待っていると俺は思う」
ジュールは言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
馬車が動き出す。
潮風が背中を押すように吹く。
(セラ……早く君を、この手で見つけるまで……俺は絶対に諦めない)
セラを見つけ出す――
それはもう、願いというより、生きる理由そのものになっていた。
彼女がどこかで震えているかもしれない。
孤独の中で傷ついているかもしれない。
自分を責め、泣いているかもしれない。
その想像だけで、胸が裂けそうだった。
彼女を探し出せなければ、自分は前に進めない。息を吸うことすら、意味を失ってしまう。
それほどまでに、今のジュールにとって、セラの行方は、一点の光だった。
***
セラを脅した、その日の夜。
レアは、まるで何事もなかったかのように優雅に晩餐を摂り、侍女に髪を梳かせ、理想の若奥様として一日を終えた。
だが――
その裏で、すでに手は打ってある。
セラの家には 密かに見張りを配置 した。もちろん、フェルディナン家の使用人には一切知られないよう、レアが個人的に雇った者たちだ。
(あれほど怯えさせたのだもの。逃げるに決まっているわ)
レアは薄く微笑みながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
*
翌朝――
まだ侍女が部屋に入ってくる前の静かな時間。
レアの寝室の扉の下に、白い封筒が滑り込ませてあるのに気づいた。
ミレイユが来る前に、とレアは車椅子に身を移し、ひとりでそっと封筒を拾い上げた。
差出人の名はない。
だが、その印――これは昨夜配置した“見張り”との密約。
レアは音もなく封を切り、便箋を広げた。
=======================
薬師セラは、昨夜遅く荷をまとめ外出。
家を離れ、南の街道へ。
行き先は不明。
追跡の痕跡は残していません。
――以上。
=======================
レアは、ふっ……と喉を鳴らして笑った。
「……逃げたのね。やっぱり」
紙を持つ指先がわずかに震えるほどの快感が胸を満たした。
(脅しだけで、家を捨てて逃げるなんて……
本当に、平民らしい”わね)
レアは便箋を指でなぞりながら、ゆっくりと微笑んだ。唇の端が、冷たい愉悦でわずかに震える。
胸の奥に広がるのは、勝利の甘さだった。
怒りも憎しみも、熟れた果実のように滴り落ちるほど満ちていた。
(あの女さえいなければ……ジュールはずっと私だけを見ていたのに)
脳裏に浮かぶのは、セラの顔。
平凡な顔立ちのくせに、妙に印象に残るあの瞳。大した美貌でもないのに、ジュールの視線をさらっていった女。
爪が、肘掛けをきゅっと押しつぶす。
(……消えてほしかったわ)
ほんの少し、喉が震える。
レアはあえて深い呼吸をし、自分に言い聞かせるように微笑んだ。
暴漢どもを差し向け、森の奥でズタズタに犯させることだってできた。
娼館に売り飛ばし、二度と陽の下を歩けない地獄へ叩き落とすことも。
実際、レアは一瞬――本気でそうしようと思った。
(……でも、そこまではしないわ。私の品位が許さないもの)
嗜虐的な想像に胸が熱くなりながらも、レアのプライドが、最後の一線を踏ませなかった。
(とはいえ……あの女、見た目より使えるかもしれないわね)
ふと、セラの姿が脳裏に閃く。
三十を過ぎているはずなのに、歳を感じさせない透明感とあの柔らかな色気。
(年増のくせに……妙に男を惹きつける。
案外、娼館でも需要があるかもしれないわね)
くす、と喉で笑った。
どちらにせよ――
レアが動けば、セラなど簡単に潰せた。
逃げたところで、貴族の網から平民が逃げられるわけがない。
(さて……どこに行くつもりかしら?)
追い詰めた獲物が、どこへ隠れ、どれほど惨めな姿になっているのか。
想像するだけで、胸の奥がゾクゾクと甘く痺れる。
そして、ふと思い出す。
(そろそろ……ジュールが“実家”から戻ってくる頃ね)
エヴェラール家まで行ってセラがいないと知ったとき、ジュールの顔がどれほど蒼白に染まったのだろう。
その瞬間を想像すると――レアの胸は甘美な喜びで満ちていった。
(絶望で崩れ落ちるあなたを……私が慰めてあげなくてはね)
その笑みは、柔らかいのに、底がない。
レアの胸の奥では、ゆっくり、ゆっくり、毒の薔薇が咲き広がっていた。
「……セラが姿を消したのは、二十日以上前なのだな?」
「……休職を言い渡された翌日の夜から…家を出て行ったようなんだ」
その声は自分でもわかるほど掠れていた。
オーランドは眉を寄せ、机の上の地図を広げる。
王都の街区図、周辺の街道、宿場町、山間の道、海沿いの道――生まれ育った家の“領のすべて”が、そこには描かれていた。
「二十日もあれば……相当遠くへ行けるな…」
ジュールの胸が締め付けられる。
オーランドはしかし、静かに続けた。
「だが――二十日で完全に痕跡が消えることはない。人に会えば記憶が残り、宿に泊まれば帳簿が残る。
荒天の日なら馬車は遅れ、体調が悪ければ歩みも止まる。
痕跡は、必ずどこかに落ちている」
ジュールは顔を上げた。
兄の瞳には、当主としての覚悟が宿っていた。
「エヴェラール家は商人の家門だ。商隊、宿場、船乗り、馬車屋、交易商……
我が家の繋がりは王都を超え、周辺諸領にまで及んでいる」
オーランドは地図に印をつけながら言う。
「セラが通った可能性のある街道、宿場町、村々――すべてに非公式の捜索網を敷く。
名前を出さず、静かに、痕跡だけを追う」
弟を守るための采配は、迷いがなかった。ジュールの視界が滲む。
「兄さん……そんなことまで……」
「俺たちは兄弟だ。それで十分だろう?」
オーランドはジュールの肩を掴み、強く言い切る。
「セラを見つけられる可能性は、まだある。二十日で消えるには、王都は広すぎる」
その言葉は、ジュールの暗闇に小さな灯をともした。
「……兄さん。俺は、王都へ戻るよ」
ジュールが言うと、オーランドはゆっくりうなずいた。
「それがいい。焦りすぎるな、だが立ち止まるな。現地でしか掴めない情報もあるだろう」
「……ありがとう。兄さん、本当に……」
オーランドは微笑む。
「ジュール。こちらはこちらで、セラを探す。戻ったら、お前にしか出来ないことをするんだ」
その言葉に、胸の奥が強く震えた。
*
薄曇りの空の下。
馬車の前に立ったジュールの胸には、迷いのない決意が宿っていた。
兄が見送りに現れ、短く言う。
「王都に戻ったら、薬師のルネ殿とも話せ。噂を流した者が近くにいるはずだ」
「……ああ、必ず」
「セラは、どこかできっとお前を待っていると俺は思う」
ジュールは言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
馬車が動き出す。
潮風が背中を押すように吹く。
(セラ……早く君を、この手で見つけるまで……俺は絶対に諦めない)
セラを見つけ出す――
それはもう、願いというより、生きる理由そのものになっていた。
彼女がどこかで震えているかもしれない。
孤独の中で傷ついているかもしれない。
自分を責め、泣いているかもしれない。
その想像だけで、胸が裂けそうだった。
彼女を探し出せなければ、自分は前に進めない。息を吸うことすら、意味を失ってしまう。
それほどまでに、今のジュールにとって、セラの行方は、一点の光だった。
***
セラを脅した、その日の夜。
レアは、まるで何事もなかったかのように優雅に晩餐を摂り、侍女に髪を梳かせ、理想の若奥様として一日を終えた。
だが――
その裏で、すでに手は打ってある。
セラの家には 密かに見張りを配置 した。もちろん、フェルディナン家の使用人には一切知られないよう、レアが個人的に雇った者たちだ。
(あれほど怯えさせたのだもの。逃げるに決まっているわ)
レアは薄く微笑みながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
*
翌朝――
まだ侍女が部屋に入ってくる前の静かな時間。
レアの寝室の扉の下に、白い封筒が滑り込ませてあるのに気づいた。
ミレイユが来る前に、とレアは車椅子に身を移し、ひとりでそっと封筒を拾い上げた。
差出人の名はない。
だが、その印――これは昨夜配置した“見張り”との密約。
レアは音もなく封を切り、便箋を広げた。
=======================
薬師セラは、昨夜遅く荷をまとめ外出。
家を離れ、南の街道へ。
行き先は不明。
追跡の痕跡は残していません。
――以上。
=======================
レアは、ふっ……と喉を鳴らして笑った。
「……逃げたのね。やっぱり」
紙を持つ指先がわずかに震えるほどの快感が胸を満たした。
(脅しだけで、家を捨てて逃げるなんて……
本当に、平民らしい”わね)
レアは便箋を指でなぞりながら、ゆっくりと微笑んだ。唇の端が、冷たい愉悦でわずかに震える。
胸の奥に広がるのは、勝利の甘さだった。
怒りも憎しみも、熟れた果実のように滴り落ちるほど満ちていた。
(あの女さえいなければ……ジュールはずっと私だけを見ていたのに)
脳裏に浮かぶのは、セラの顔。
平凡な顔立ちのくせに、妙に印象に残るあの瞳。大した美貌でもないのに、ジュールの視線をさらっていった女。
爪が、肘掛けをきゅっと押しつぶす。
(……消えてほしかったわ)
ほんの少し、喉が震える。
レアはあえて深い呼吸をし、自分に言い聞かせるように微笑んだ。
暴漢どもを差し向け、森の奥でズタズタに犯させることだってできた。
娼館に売り飛ばし、二度と陽の下を歩けない地獄へ叩き落とすことも。
実際、レアは一瞬――本気でそうしようと思った。
(……でも、そこまではしないわ。私の品位が許さないもの)
嗜虐的な想像に胸が熱くなりながらも、レアのプライドが、最後の一線を踏ませなかった。
(とはいえ……あの女、見た目より使えるかもしれないわね)
ふと、セラの姿が脳裏に閃く。
三十を過ぎているはずなのに、歳を感じさせない透明感とあの柔らかな色気。
(年増のくせに……妙に男を惹きつける。
案外、娼館でも需要があるかもしれないわね)
くす、と喉で笑った。
どちらにせよ――
レアが動けば、セラなど簡単に潰せた。
逃げたところで、貴族の網から平民が逃げられるわけがない。
(さて……どこに行くつもりかしら?)
追い詰めた獲物が、どこへ隠れ、どれほど惨めな姿になっているのか。
想像するだけで、胸の奥がゾクゾクと甘く痺れる。
そして、ふと思い出す。
(そろそろ……ジュールが“実家”から戻ってくる頃ね)
エヴェラール家まで行ってセラがいないと知ったとき、ジュールの顔がどれほど蒼白に染まったのだろう。
その瞬間を想像すると――レアの胸は甘美な喜びで満ちていった。
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